はじめに よんでください

私のパウロ

A mi don Paulo

Marco y Paulo by Albrecht Dürer

池田光穂

ダマスカスに行く途上でユダヤ人サウロはキリストからの天啓を受ける.3日間の盲目の後で目が見えるようになったサウロはペテロと名前と人格(=回心)が変わる.

紀元一世紀はじめ タルソスで生まれる。ディアスポラのユダヤ人(ファリサイ派か)※以下年代は比定。

ウィキペディアよりトロクメ先生からみたパウロを→「ルター以来パウロはユダヤ教からイエスによって解放されたとする見解が主流であったが、トロクメによると彼自身の意識ではユダヤの思想家であり、意識としてはユダヤ教内部の論争に関わっていたつもりであったとされる[2004, p. 130]。またトロクメは歴史家たちがパウロを「キリスト教の創始者」と考える傾向にあるこ とを批判し、この考えがイエスを「ユダヤ教の改革者」という誤った位置づけに貶めるものだという。トロクメはパウロの思想がアウグスティヌス以前は正確に 理解されているとは必ずしも言えないこと、中世の神学者たちも彼をあまり重視していないことを挙げ、パウロにキリスト教における中心的な地位を与えたのは ルネサンスと宗教改革であると述べている[2004, pp. 165-166.]」パウロ

ウィキペディアはパウロの労働観についても興味ふかいことを指摘している→「パウロは「自分の手で働くこと」を推奨している[そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい(テ サロニケの信徒への手紙一 4:11)]が、これは古典古代の労働観に反する[とトロクメ先生はいう,2004, pp. 151-152]。古典古代においては労働は奴隷がするもので、自由人は閑暇(スコレー σχολη)にあることを誇りとしていた。アリストテレスは「幸福は閑暇(スコレー)に存すると考えられる。」[ニコマコス(下)?:175]と述べてお り、ハンナ・アーレントによれば、アリストテレスは全体として必要に従属しているヒト属(=奴隷のこと?引用者)を人間と呼ぶことを認めなかった[人間の 条件、速水訳、pp. 137-138.]。」

n.d.  エルサレムで教育を受ける。また、ローマの市民権があったのではないかと推定。

30年 ナザレのイエス処刑。

30-32年 キリスト教「ヘレニスト」への迫害に参加。ステファノの石打刑に参加。

ケルン大聖堂のステンドグラス「聖ステファノの殉教」

32 ダマスコへの途上で復活のイエスを体験し、キリスト教に改宗(「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って(使徒行伝 9:1)……9:4-8 彼は地に倒れたが、その時『サウロ(パウロのユダヤ名)、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。そこで彼は『主よ、あなたは、どなたですか』と尋ねた。すると答があった、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう』。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。」)。その後、ダマスコならびにアラビアを訪問する。

「道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天か ら光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あ なたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」使徒行伝9:3-5. 「サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。彼は三日間、目が見えず、また 食べることも飲むこともしなかった。……そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る 途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。するとたちどこ ろに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった」使徒行伝9:8-18.

Conversion on the Way to Damascus (1601), by Caravaggio

34-35 エルサレムにおもむき、ペトロおよびヤコブ (ゼベダイの子)に会う。2週間ほどでタルソスに戻る。

43 アンティオキアに来ていたバルナバ(慰めの子—キプロス出身のレヴィ・ユダヤ)により、アンティオキア教会の指導者のひとりとなる。

44 パウロとバルナバ、エルサレムに訪問か。この頃、ヘロデ・アグリッパ1世によって捕らえられ、ヤコブが殉教。

45-48 パウロとバルナバの伝道旅行。クレタ島、ガラテア地方など(パウロの第一回伝道)

バルナバは「パウロの第一回の宣教旅行の同行者となってキプロスから小アジア(現トルコ)をめぐったが、第二回宣教旅行にあたってマルコとよばれたヨハネの同行の是非をめぐって、パウロと議論になり、袂をわかってキプロスへ赴いた[使徒行伝15:36-40]」

ルカの 著述になると言われる『使徒言行録』には、パウロの幾度かの布教旅行に「わたしたち」とする記述が有り、ルカが著者であれば、ルカはパウロの最初のマケド ニア宣教及びマケドニアからエルサレムへの旅行、またエルサレムからローマへの護送に付き添っていたことになる。またこの記述からは、ルカは小アジアのト ロアスと何かしら深い関係が有った様である」ウィキ「ルカ」)

Luke, Marco, and Paul

福音書家「ヨハネ(マルコ)は パウロの最初の宣教旅行にバルナバと同行したが、パンフィリア州から一人エルサレムへ帰ってしまった。そのため第二回宣教旅行ではパウロがマルコの同行を 拒否してバルナバと別行動をとることになる。マルコは結局バルナバと共にキプロス島へ向かった。これは西暦50年頃のことと推定される。使徒行伝ではマル コについての記述はここで終わっている。/一方、『フィレモンへの手紙』[3]では協力者の一人としてパウロはマルコの名前をあげている。獄中書簡である 『フィレモン』の成立時期は一般に上述の事件より後と考えられており、ある説では、決別とフィレモンへの手紙の間に、パウロとマルコが和解したと考える。 また、パウロの書簡かどうか説が分かれている『コロサイ人への手紙』[4]では、「バルナバのいとこ」マルコがパウロの協力者として挙げられている [5]。/またマルコは伝承によればアレクサンドリアの教会の創建者であり、正教会(ギリシャ正教)とコプト正教会(非カルケドン派)の両派で初代アレク サンドリア総主教とされている」マルコ (福音記者)

48 エルサレムでも会合の際に、アンティオキア教会教徒団の一員として参加。帰途の際に、ペトロもアンティオキアを訪問。ヤコブがエルサレムから訪問し、パウロはアンティオキア教会とは決別。パウロは独立独歩となる。

48-49 アンティオキア出発(パウロの第二回伝道旅行)52年まで。

バルナバは「第二回宣教旅行にあたってマルコとよばれたヨハネの同行の是非をめぐって、パウロと議論になり、袂をわかってキプロスへ赴いた[使徒行伝15:36-40]」

49-52 シリア・キリキア地方、ガラテア、トロアス、マケドニア、フィリピ、テサロニケ、ベレア、アテネ

50-51 コリント滞在し、18ヶ月過ごす

52 カイサリアからエルサレムへ。アンティオキアに戻る。

52-57 パウロの第三回伝道旅行。ガラテア・フリギア地方、エフェソ。56年まで、トロアス、マケドニア、コリント

57 エルサレム。ヤコブを訪問、その後、神殿で逮捕。

57-59 カイサリアの牢獄に投獄される。総督アントニウス・フェリクス(タキトゥス『年代記』12.54;使徒24:24-26

「24数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のド ルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。25しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、 フェリクスは恐ろしくなり、『今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする』と言った。26だが、パウロから金をもらおうとする下心 もあったので、度々呼び出しては話し合っていた。」使徒24:24-26)

59 総督フェストゥス着任

59-60 ローマに護送中、船が難破し、マルタ島に三ヶ月逗留

60-62 ローマに軟禁

62-68 ローマで殉教

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