Ryukyuan Birial
沖縄の明治・大正期ごろの埋葬は共同墓による風葬(ふうそう)が一般的であった。風葬(ふうそう)とは、死体を埋葬せず外気 に触れさせて腐敗させ、数年後に 洗骨をほどこした後に、風化した骨を甕や棺の中に収納する埋葬方式である。沖縄の伝統的な葬制については伊波普猷「をなり神の島」の中にある節である「南 島古代の葬制」が系統だってまとまった記述がある(末尾の文献を参照)。
風葬の様式は、明治期以降の中央政府の南西諸島民に対する文化的慣習の取り締まりのために、禁止されたり公的に批判されたりした。ウィキペディ ア「風葬」の項目には、鹿児島県庁が沖永良部島民に対して風葬の習慣を嫌悪 した通達(「論逹」)を紹介している。
「 鹿児島県庁が発した沖永良部島への諭達など。『沖永良部諸改正令達摘要録』には「爾来地葬すべきは当然に候処或る所は其棺を墓所に送り、モヤと唱ふる小屋 内に備置き、親子兄弟等此モヤに到、其棺を開き見る数回、終に数日を経屍の腐敗するも臭気も不厭赴に相聞、右は人情の厚きに似たれども、其臭気を嗅ぐもの は甚だ健康を害し候は勿論、近傍通行の者いへども、其臭気に触るれば病を伝染し、或は一種の病気を醸すものに有之、衛生上甚だ不宜事に付、自今右様之弊習 は此度相改め云々」と記されている」出典「風葬」)。
現在の琉球や奄美地方では、葬制は土葬あるいは火葬が一般的にであるが、これは、本土でも1980年には火葬の比率が9割を超え、2005年に は99.8%となっていることからも、火葬が一般的になったとみてよい(『日本葬制史』)。伝統的な風葬の習慣はウィキペディアの同名の項目に詳しい。再掲すると以下のようにな る。
「古琉球では、風葬において遺体はまず崖(パンタ)や洞窟 (ガマ)に置かれて自然の腐敗を待ち、3年後・5年後・7年後など適当な時期を見て洗骨して納骨する。琉球弧において崖(パンタ)や洞窟(ガマ)は古来、 現世と後生グソーの境界の世界とされ、聖域であると同時に忌むものとされてきた。祖霊を崇める一方で、「死」はあくまで「穢れ」と捉えられていた。後述の 亀甲墓等の建て墓は主に琉球王国時代以降のものである。/風葬には大きく分けて二通りの方法があった。一つは特定の洞窟や山林(「後生(グソー)」と呼ば れる不浄の聖域)に遺体を安置してそのまま共同の墓所とする原始的な方法と、亀甲墓や破風墓の中に棺を一定期間安置し、風化して白骨化した後に親族が洗骨 を行い、改めて厨子甕に納める方法である。琉球王朝時代は王族や士族以外の者が墓を持つことは原則として禁じられていたため、大多数の庶民は前者の方式で 弔われていたが、明治以降は士族に倣った亀甲墓が一般にも広がり、後者の葬制が主流となった。/(沖縄本島南部から見て東の)太陽が昇る方向にあることか ら「神の島」とも呼ばれる久高島では、1960年代まで前者の風葬が残っていた。風葬の行われる場所を「ティラバンタ(葬所)」といい、「ティラ」は 「ティダ」と同義で太陽の事、「バンタ」は断崖絶壁という意味である」ウィキペディ ア「風葬」)。
ウィキペディア「風葬」には、このような埋葬における宇宙観や来 世観がみられるとして、葬送の歌が紹介されている。
この中で、戦前に調査をした河村只雄(1893-1941)の沖 縄の葬制に対する思いは複雑である。『続南方文化の探究:薩南・琉球の島々』のなかの「洗骨の問題」や「琉球における埋葬の痕跡」において、洗骨は沖縄の 人が愛する慣習ではあるが、河村の地質歴史的推測から、もともと土葬であったものが洗骨風葬に変わったので、先祖代々の「古来」の土葬に回帰するのがよ い、あえて断言するとまで言い切っている。そのような葬制のなかで、すでに戦争において、荼毘に付されて遺骨として帰郷する兵士も多いので、火葬がもっと もふさわしいと、沖縄の葬制の近代化に、(現代人の我々からみた時に)奇矯な要求を沖縄の人たちにおこなう。
「琉球といえば何人も直ちに連想することはあの独特な墓と「洗骨」の奇習であろう。棺を
洞窟の墓の中に入れておいて、肉が腐れ落ちたとき、適当の日を選び棺を取出し遺骨を泡盛
で鄭重に洗ってこれを壺の中に収めて墓の内部に安置するのである。洗骨は死者に対する最
高のそして最後のつとめである。親の遺骨を洗うことは亡き親に対する「最後のそして最高
の孝行である」と琉球の島人は教えられている。そしてそれが琉球の島人がだけが守っている
「孝行の最高形式」であって、琉球以外の一道三府四十二県のものは彼等から言うならば甚
だしぃ「親不孝」をあえてしていることを知らないのである。/
私はこの奇習は親の遺骨を大事にするという高尚な動機から近世になって発達した、起原
的には比較的新しいものであると考える(八六頁以下参照)。琉球の墓の形式や洗骨の文化
は南支那地方の影響によるものであると主張するものもある。おそらくそうではないかと思
われる。地層の浅い、そして洞窟の到るところに見出される隆起珊瑚礁地帯においては、か
かる洞窟を利用して風葬が行われ、国頭地方や伊平屋群島のような古生層ないし第三紀層地
帯では埋葬が自然の形式として採用されていたものに違いないとは私の推測であった。しか
しながら私はまだそれを立証すべき資料を見出し得なかった。ところがはからずも私は地層
的に古いそして伊平屋群島中でも特に神話・伝説に富んでいる伊是名島で琉球における埋葬
の痕跡を見出した。/
伊是名の島人の話によると、部落で畑の開墾や屋敷の地ならしなどの際、しばしば人骨が
沢山地中から発掘されることがあるという。そしてそれは正しく昔の埋葬地のあとであると
考えられる。すなわち伊平屋においては「洗骨文化」の移植されなかった以前には埋葬が行
われていたものであることを物語るものである。伊是名島のような地質の古い、土壌の深い
所では埋葬が最も自然の形式である。今日の伊平屋における洗骨の文化はかかる自然の形式
が、首里・那覇の文化によってこわされたものに外ならぬと私は考える。琉球民族発祥の地
として知られている沖縄本島の知念・玉城地方にもまた私は埋葬の痕跡を見出した。玉城の
海岸に「奥武」という小島がある。かつては無人島であったが今は長さ六十メートルばかり
の橋梁によって本土と連絡せしめられており、漁村部落が発達している。この島はもとこの
地方一帯の埋葬地であったもののごとく、屋敷の地ならしをすると到るところから人骨が出
て来るという。島にはそれ等の骨を集めて埋めた拝所が作られている。こうした事実から考
えて、琉球においても埋葬が最初の葬式の形式であったと断定してよいように考える。そし
て、この洗骨の風習はたとえ過去においてはどのような重要な役割を果していたにせよ、昭
和の今日においては断然清算さるべきものであると私はあえて言いたい。/
どのような風習でもこれを確立せしむるには骨の折れるものであるが、一度、確立される
やそれを改むるはさらにむずかしいものである。ことにそうした困難を私は琉球の洗骨の風
習において見出す。私は琉球の島人に訴えた。/
「私は諸君に単に祖先代々守って来た慣習をやめろというのではない。諸君の大祖先達の守
っていた慣習に帰れというのである。諸君の大祖先達が夢にも考えなかった洗骨の奇習をや
めろというのである」/
若い連中は洗骨廃止に共鳴する。しかしながら、年寄の連中は火葬を「二度死の苦悩をな
めさせるもの」として極端に嫌っている。もっとも最近では護国の英霊が皆火葬されて無言
の凱旋をしているので、火葬に対する島人の態度も著しく変化しつつあるのは事実である。
しかし今直ちにこれを実行せしむることは設備の上から言ってもまた島人の情緒の上からい
っても、なお多分に支障があるとしても、埋葬には納得の可能性があるように思われる。と
にかく洗骨の奇習を廃止せしめて、少なくとも彼等の大先祖達の葬式の慣習であった埋葬を
復活せしめることが何よりの急務であることを痛感した」(講談社文庫版『南方文化の探究』Pp.444-447)。
また、宮古島地方では、風葬のための巨石墓(ミャーカ)が紹介されている。
「宮古島地方では、沖縄本島から伝わる以前から巨石墓(ミャーカ)というのがあり、風葬の代表的な例とされている。屋根のない石囲いの中に 遺体を葬るものであったが、後世、風葬を嫌う考えが起こって屋根をかぶせるようになったという。仲宗根豊見親の墓のように、本島の横穴墓形式との折衷も見 られる。島尻、狩俣、大神島にも風葬があり、昭和時代には洞窟などから遺骨が多数発見されたことがある[16]。また、島尻集落のほぼ中央部には巨大な崖 下墓があり、以前から「長墓(ながぱか)」として知られている。研究報告によると、長墓は3つの廓に分かれ、60 - 70体分の遺骨が乱雑に置かれていた。廓の前にはグスク様に囲いがあり、遺骨を以前収めていたと思われる容器も発見された。岩陰の内外で見つかった土器・ 陶磁器、キセルからこの墓域の年代は17世紀から18世紀頃と推定される[17]。」ウィキペディア「風 葬」)。
このように風葬から土葬さらには火葬への変化した沖縄の葬送の習慣であるが、お墓の形式は、本土のものとは異なり独特の形式をもっている。お墓 の紹介サイトである「お墓さがし」や「沖縄のお墓」サイトでは、沖縄の墓の特徴を以下のよう にまと めている。
亀甲墓(カーミヌクーバカ) |
お 墓の屋根が亀の甲羅のようになっているもの。傾斜地に建っていて周囲を石垣で囲い、その前に宴会ができるスペースが確保されている。亀甲墓は母体を型取 り、墓そのものは女性の子宮を 象徴するものだという解釈があり、お墓の入り口は産道であり、生と死が繰り返されるという思想が表現されるとされると言われている。破風墓よりも後代に登 場する。画像はすべて「沖縄のお墓」サイト(http://41148.jp/haka1.html)より | |
破風墓(ファーフーバカ) |
「現在、沖縄で一番よく見られる形であ る。これまでは、コンクリート造であったが、近年は御影石によるものが多い」。お墓の屋根が家のような形のものが破風墓であるが、しかし、琉球王朝の 時代には王家以外の平民には許されていなかった。琉球処分の時代以降に、破風墓が一般庶民もつくれるようになったという。墓のサイズも、庶民の墓は36坪 まで、士族は144坪までと制限されていた。 | |
掘込墓(フィンチャー) |
白色凝灰岩をくり抜いた形の簡易なもの で、沖縄では「フィンチャー」と 呼ぶ。「全島的に分布している。写真は本島中部の砂岩層(方言名:ニービ)に多く見られる」 | |
平葺墓(ヒラフチバー) |
「亀甲墓とよく似た構造だが、屋根が平
らでマユが直線である。また両脇にウーシがない。 |
琉球の墓のサイズが、本土のものに比べて大きいのは、風葬により収容しなければならない人骨のサイズが大きくなり、墓のサイズも大きなもので あるということが特徴づけられる。また、沖縄の強い風雨に晒されることにことが多いために、現在の沖縄の墓はコンクリート製の立派なものが多いのも特徴で ある。
また、沖縄の葬制での特色は、納骨後に親族集団(門中)が集まりお墓の前で宴会をすることが多く、そこで、一族の紐帯を確認するためであると言 われている。 お墓まいりには、納骨時をふくめて4つのイベントがある(「お墓さがし」サ イトより)。
門中墓(ムンチューバカ) |
これは墓の形態のことではなく、墓に入 る親族の集団(門中)のことを指します。「門中(もんちゅう、琉球語ムンチュー)は、 沖縄県における、始祖を同じくする父系の血縁集団(clan)のことである。門中は、17世紀後半以降、士族の家譜編纂を機に沖縄本島中南部を中心に発達 し、のちには本島北部や離島にも拡がった。その活動形態や組織結合の度合いは、地域によって大きく異なる。門中に類似の血縁集団の概念は、日本の同族、中 国の宗族、朝鮮半島の本貫、ベトナムのゾンボ等、東アジアにみられる」ウィキペディアの項目を一部加筆改変した)。「門中は、17世紀後半、琉球王府によ る士族の家譜編纂の開始以降、士族階層を中心に沖縄本島中南部で発達してきた。本島南部では「ハラ」ともいう。琉球王国時代、士族は、門中ごとに共通の姓 (唐名の姓)、また大和名の名乗頭(名の最初の一字)を持もっていた。例えば、向象賢、羽地按司朝秀の場合、「向」は第二尚氏の按司以下の親族の姓、 「朝」は名乗頭である。」「門中で共同の墓(門中墓、いわゆる亀甲墓あるいは破風墓)をもち、かつては同一の墓に入った。門中の結束は固く奨学金を出し 合ったり、託児所を作ったりもする。女性の側から見れば、女性が門中を継げないなど、現在の一部の視点から見れば、差別的な制度とも考えられる。現在は、 門中意識は次第に薄まってきている。」門中)。「構成員を明確に特定でき、 少なくとも明治時代にさかのぼれる慣行により代表・事務員の選出方法が確定しており、祖先により寄付された財産を有して収益を祭祀等の行事や相互扶助事業 にあてるなどの実態を有する門中について、権利能力なき社団(人格なき社団)にあたると認定した最高裁の判決がある(最高裁判例 昭和55年02月08日)。」※写真は3枚とも:幸地腹・赤比儀腹両門中墓(こうちばら・あかひぎばらりょうむんちゅうばか) | |
幸地腹・赤比儀腹両門中墓(こうちばら・あかひぎばらりょうむんちゅう
ばか) |
門中墓の一例「日本最大の墓といわれている、「幸地腹(こうちばら)門
中の墓」(糸満市)である。当門中の一族は、平成24年現在3436人(門中名簿登録者)を擁しており、一族のほぼ全員の共同墓となっている。17世紀の
半ばには、それまでの墓が狭くなっていたことから、1684年に現在地に築造された。当初は亀甲墓であったが、昭和10年に琉球石灰岩を積み上げて造った
現在の破風墓となった。墓地の面積は5400平方メートルで、中央に本墓、前に四つの仮墓、東側に子供墓が配置されている。本墓内部は、右側奥部が当門中
の納骨エリア(池と呼ばれている)となっており、左側が当初長女の嫁ぎ先門中(赤比儀腹門中)の池となっている。現代的にいえば[納骨堂]だが、碑名その
他はない。/本墓(ト-シー)と仮墓(シルヒラシ)があるのは、死去するとまず仮墓に葬られ、3年後に洗骨をして本墓内に安置するからである。80歳以上
のものや、門中に功労のあったものは、直接本墓に葬られる。現在、幸地腹門中だけで毎年30-35体程が納骨されており、これまで5000体弱が納骨され
ていると推算される。」 |
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門中墓の一例「門中墓の運営管理は宗家と役員が中心になって行うが、そ の費用は構成員家族の人数割分担金と家族単位の行事分担金によって賄われる。一家族あたりの負担金は年間5千円程度で、構成員は一門の伝統行事、正月、お 盆、清明祭(シーミー)などに参加できる。構成員であれば宗教宗派にはとらわれない。/「ある古老の口癖は『お前たち、世の中に恥じるようなことをすれ ば、お墓に入ってからご先祖様にしかられるぞ』というが、門中の人たちの素朴な死生観を示していて興味深い。」(日経マスターズクラブ・上原盛毅通信員 2005.07.14)というように、同じ墓に入る仲間意識は強固なものがある。/18世紀末から19世紀初頭に、ヨーロッパ人が初めて琉球に着いたと き、「武器のない国」「礼節を守る国」以外にもっとも彼らに深い印象を与えたのは住んでいる家よりも綺麗な「琉球の白い墓」だった。」 |
納骨時 |
納骨時に一族が集まりお墓の前で宴会をすることが多く、そ こで、一族の紐帯を確認するためである。お参りは「宴会」。沖縄のお墓は祖霊がこの世に還ってくる場所。お墓参りをするということは、その祖霊を酒食でも てなすことになるので、一族そろってお墓の前で宴会を行うことが通例である。 |
十六日(ジュウルクニチー) |
旧暦の1月16日に行われる沖縄のお墓参り。新暦では2月12日。 |
清明祭(シーミー) |
旧暦の「清明」に当たる2月後半から3月前半、新暦では4月から5月前
半に行われるのが清明祭(シーミー)。清明祭は「春分」から、降水量が増えて稲が生育する「穀雨」の季節の間である「清明」の節気に豊穣を祈って行われ
る、お祝いの意味合いがあると言われる。 |
七夕(タナバタ) |
旧暦の7月7日のことで、あの世からこの世に祖霊が戻ってくるお盆のこ
と。戻ってきた祖霊をもてなすためにお墓の前で宴会をおこなう。七夕は神の眼がこの世まで届かない「日無し」だとされている。沖縄ではお墓を開いてもよい
日が限られているが、そのうちの1つがこの日無しである。日無しに当たる七夕に、改葬や墓じまい、あるいは埋葬するためお墓の前で法要が行われる。 |
お 墓まいりの6つの必須アイテム(「お墓さがし」サイトの完全コピペで す!!!)。
法要のセット「ビンシー」 |
「ビンシーとは御願(ウガン)、すなわち拝礼をするための道具が入れら
れた木箱のことです。
ビンシーは大きさ22cm前後の木箱で、仏具店へ行くと必ず売っています。
内部は中央に盃を入れる場所、その両側にお酒を入れる場所があり、木で仕切られています。
そしてその前には洗ってあるお米と洗っていないお米を分けて入れるための仕切りが3つあります。
ビンシーは「あの世とこの世をつなげる実印」でもあり、ほかの家のものを借りることができません。ですからお墓参りにビンシーは用意できない場合は、同じ
内容のものをそろえた「仮ビンシー」で対応する必要があります。
」 |
あの世のお金「ウチカビ」 |
「ウチカビとは漢字で書くと「打ち紙」のことで、先ほど挙げた法要の時
期には、スーパーマーケットに行くと目立つところに積まれて販売されています。
どのようなものかというと、茶色い紙に丸い印が刻印され、それが束になっています。
ウチカビはあの世で使えるお金のことで、法要時にはこれを燃やして煙にし、あの世に届けるのです。
それによってあの世で祖霊が不自由なく暮らせるようにするわけです。」 |
ウチカビを燃やす「カニバーキ」 |
「ウチカビはお金なので、燃やすのは多ければ多いほど良いと言われてい
ます。
紙を大量に燃やすのは地面の上では危ないので、専用の容器が用意されます。それがカニバーキです。
カニバーキは金属製のボールで、底に網を敷き、その上でウチカビを燃やします。
このウチカビに火箸も一緒に合わせた「ウチカビセット」がホームセンターなどで購入できます。
」 |
沖縄の線香「ヒラウコー」 |
「ウチカビと同様に必須の御願用具がヒラウコーです。
ヒラウコーは漢字で書くと「平御香」のことで、本土では線香の役割を果たすアイテムのことです。
線香というと棒のようなものを思い出しますが、ヒラウコーは本土の線香とは異なり、平たい形状になっています。つまり数本の線香を並べてくっ付けたような
板の形です。この板のようなヒラウコーを6本セットで扱い、それを「一平(ヒトヒラ)」と数えます。
ただしヒラウコーの焚き方は6本一緒ではなく、1人当たり半分の3本を焚きます。これは3が沖縄では調和を表した数字として重視されているからです。
また特に御願法要での進行役は二平に当たる12本を燃やします。これはヒラウコー12本で、12ヶ月の1年を指しています。」 |
沖縄の法要ご飯「ウサンミ」 |
「ウサンミとは法要の際に食べる料理のことです。
発祥は中国で「天、地、海」の食材を使った料理を正方形の重箱に詰めるのが基本です。
内容はカステラかまぼこ、紅白かまぼこ、揚げ豆腐、天ぷら、田芋、昆布、ごぼう、こんにゃく、皮付きの三枚肉の9品が必ず入ります。かまぼこの代わりに大
根の煮つけや、白身魚の昆布巻き入れる場合もあります。
言ってみればウサンミは沖縄のお節料理に当たるもので、法要の季節にはスーパーマーケットに惣菜売り場などでも販売されています。」 |
お墓に鎮座する伝統神「ヒジャイガミ」 |
「ヒジャイガミはアイテムではありません。ヒジャイガミとは「左の神」
のことで、土地神の1つです。
沖縄のお墓には、必ず中にヒジャイガミがいます。
法要の際には祖霊を祀る前に、墓の左側にいるヒジャイガミにお供えをして御願するのが作法です。
お参りをする場合は、参拝する側にとっては向かって右側になります。
ウサンミも祖霊に供えますが、まずその前にヒジャイガミに対して供え、祖霊にはそこから二切れずつ取り分けてお墓の中央に供えます。
ウサンミから二切れ取り分けると、その分が空いてしまいますが、その補充になるおかずも必ず持参します。これを「ウチジヘイジ」と言います。」 |
墓式 | 平墓 |
土壙墓(どこうばか)、配石墓 |
列石墓、置石墓、覆石墓、盛土墓 |
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石棺墓、土器棺墓 |
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洞穴・岩陰墓 |
洞穴墓・岩陰墓 |
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出典 |
宜野湾市史編集委員会(1994) |
『沖縄県史』各論編2考古(2003:127) |
Bone collecting
(Cantonese Jyutping: Zap1 gwat1; Traditional Chinese: 拾骨, literally "to
collect the bones") is a burial ritual practiced in certain parts of
East Asia. Peoples known to adopt some forms of this custom include
Cantonese, Hoklo, Taiwanese, Ryukyuan, and Zhuang.[1][2] Most of these
groups are related to Baiyue, and indeed ancient Han Chinese had
literature that documented such customs being practiced by various
Baiyue tribes. |
骨集め(広東語 Jyutping:
繁体字中国語では「拾骨」)とは、東アジアの一部の地域で行われている埋葬儀礼である。広東語、北方語、台湾語、琉球語、チワン族などがこの風習を取り入
れた民族として知られている[1][2]。これらの民族のほとんどは白岳族と関係があり、実際、古代の漢民族には白岳族がこのような風習を行っていたこと
を記録した文献がある。 |
Among Cantonese, the standard
practice of bone collecting involves first unearthing a coffin with a
dead body that has been buried for at least five years (thus can be
expected to have largely decomposed), and then leaving the coffin
partly open in order to let out the stench of decay. As the stench
became bearable, the dead person's offspring would, using Cantonese,
formally asked the dead person to "wake up" (Jyutping: Hei2 san1 laa3;
Traditional Chinese: 起身喇). After some rituals, the "bone collector", a
person specifically trained to do this ritual, would respectfully and
carefully collect the bones from the coffin (hence the name "bone
collecting"). The next step involves cleaning and drying the bones,
which usually takes at least four to five days. The final part of the
ritual depends on the offspring's will: They may want to grind the
bones into ashes, or put them into containers called "golden towers"
(Jyutping: Gam1 taap3; Traditional Chinese: 金塔, literally "golden
tower"). These containers will then be put in the countryside or
cemetery for a peaceful rest.[3] In Cantonese customs, choices of where
to put the golden towers may be dependent on Feng shui. In Hong Kong and Macau, it is legally mandated that bone collecting must be conducted after 6 to 7 years of burial on land. |
広東人の間では、遺骨収集の標準的な習慣として、まず、少なくとも5年
間埋葬されていた(したがって、大部分が腐敗していると予想される)死体の入った棺を発掘し、腐敗臭を出すために棺の一部を開けたままにする。悪臭に耐え
られるようになると、死者の子孫は広東語を使って死者に正式に「目を覚ましてください」(Jyutping: Hei2 san1 laa3;
繁体字:
起身喇)と頼む。いくつかの儀式の後、この儀式を行うために特別に訓練された人である「集骨師」が、敬意を持って慎重に棺から骨を集める(これが「集骨」
という名前の由来である)。次に骨を洗浄し乾燥させるが、通常少なくとも4~5日かかる。儀式の最後の部分は、子孫の意志による:
骨を灰にすることもあれば、「金塔」と呼ばれる容器に入れることもある。広東の風習では、金塔をどこに置くかは風水に左右されることがある[3]。 香港とマカオでは、土地に埋葬してから6~7年後に収骨を行うことが法的に義務付けられている。 |
https://en.wikipedia.org/wiki/Bone_collecting |
文献
その他の情報
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