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沖縄の葬制と墓の形 態

Ryukyuan Birial

池田光穂

亀甲墓(カーミヌクーバカ)
お 墓の屋根が亀の甲羅のようになっているもの。傾斜地に建っていて周囲を石垣で囲い、その前に宴会ができるスペースが確保されている。亀甲墓は母体を型取 り、墓そのものは女性の子宮を 象徴するものだという解釈があり、お墓の入り口は産道であり、生と死が繰り返されるという思想が表現されるとされると言われている。破風墓よりも後代に登 場する。画像はすべて「沖縄のお墓」サイト(http://41148.jp/haka1.html)より
破風墓(ファーフーバカ)
「現在、沖縄で一番よく見られる形であ る。これまでは、コンクリート造であったが、近年は御影石によるものが多い」。お墓の屋根が家のような形のものが破風墓であるが、しかし、琉球王朝の 時代には王家以外の平民には許されていなかった。琉球処分の時代以降に、破風墓が一般庶民もつくれるようになったという。墓のサイズも、庶民の墓は36坪 まで、士族は144坪までと制限されていた。
掘込墓(フィンチャー)
白色凝灰岩をくり抜いた形の簡易なもの で、沖縄では「フィンチャー」と 呼ぶ。「全島的に分布している。写真は本島中部の砂岩層(方言名:ニービ)に多く見られる」
平葺墓(ヒラフチバー)
「亀甲墓とよく似た構造だが、屋根が平 らでマユが直線である。また両脇にウーシがない。
門中墓(ムンチューバカ)

これは墓の形態のことではなく、墓に入 る親族の集団(門中)のことを指します。「門中(もんちゅう、琉球語ムンチュー)は、 沖縄県における、始祖を同じくする父系の血縁集団(clan)のことである。門中は、17世紀後半以降、士族の家譜編纂を機に沖縄本島中南部を中心に発達 し、のちには本島北部や離島にも拡がった。その活動形態や組織結合の度合いは、地域によって大きく異なる。門中に類似の血縁集団の概念は、日本の同族、中 国の宗族、朝鮮半島の本貫、ベトナムのゾンボ等、東アジアにみられる」ウィキペディアの項目を一部加筆改変した)。「門中は、17世紀後半、琉球王府によ る士族の家譜編纂の開始以降、士族階層を中心に沖縄本島中南部で発達してきた。本島南部では「ハラ」ともいう。琉球王国時代、士族は、門中ごとに共通の姓 (唐名の姓)、また大和名の名乗頭(名の最初の一字)を持もっていた。例えば、向象賢、羽地按司朝秀の場合、「向」は第二尚氏の按司以下の親族の姓、 「朝」は名乗頭である。」「門中で共同の墓(門中墓、いわゆる亀甲墓あるいは破風墓)をもち、かつては同一の墓に入った。門中の結束は固く奨学金を出し 合ったり、託児所を作ったりもする。女性の側から見れば、女性が門中を継げないなど、現在の一部の視点から見れば、差別的な制度とも考えられる。現在は、 門中意識は次第に薄まってきている。」門中)。「構成員を明確に特定でき、 少なくとも明治時代にさかのぼれる慣行により代表・事務員の選出方法が確定しており、祖先により寄付された財産を有して収益を祭祀等の行事や相互扶助事業 にあてるなどの実態を有する門中について、権利能力なき社団(人格なき社団)にあたると認定した最高裁の判決がある(最高裁判例 昭和55年02月08日)。」※写真は3枚とも:幸地腹・赤比儀腹両門中墓(こうちばら・あかひぎばらりょうむんちゅうばか)
幸地腹・赤比儀腹両門中墓(こうちばら・あかひぎばらりょうむんちゅう ばか)

門中墓の一例「日本最大の墓といわれている、「幸地腹(こうちばら)門 中の墓」(糸満市)である。当門中の一族は、平成24年現在3436人(門中名簿登録者)を擁しており、一族のほぼ全員の共同墓となっている。17世紀の 半ばには、それまでの墓が狭くなっていたことから、1684年に現在地に築造された。当初は亀甲墓であったが、昭和10年に琉球石灰岩を積み上げて造った 現在の破風墓となった。墓地の面積は5400平方メートルで、中央に本墓、前に四つの仮墓、東側に子供墓が配置されている。本墓内部は、右側奥部が当門中 の納骨エリア(池と呼ばれている)となっており、左側が当初長女の嫁ぎ先門中(赤比儀腹門中)の池となっている。現代的にいえば[納骨堂]だが、碑名その 他はない。/本墓(ト-シー)と仮墓(シルヒラシ)があるのは、死去するとまず仮墓に葬られ、3年後に洗骨をして本墓内に安置するからである。80歳以上 のものや、門中に功労のあったものは、直接本墓に葬られる。現在、幸地腹門中だけで毎年30-35体程が納骨されており、これまで5000体弱が納骨され ていると推算される。」


門中墓の一例「門中墓の運営管理は宗家と役員が中心になって行うが、そ の費用は構成員家族の人数割分担金と家族単位の行事分担金によって賄われる。一家族あたりの負担金は年間5千円程度で、構成員は一門の伝統行事、正月、お 盆、清明祭(シーミー)などに参加できる。構成員であれば宗教宗派にはとらわれない。/「ある古老の口癖は『お前たち、世の中に恥じるようなことをすれ ば、お墓に入ってからご先祖様にしかられるぞ』というが、門中の人たちの素朴な死生観を示していて興味深い。」(日経マスターズクラブ・上原盛毅通信員 2005.07.14)というように、同じ墓に入る仲間意識は強固なものがある。/18世紀末から19世紀初頭に、ヨーロッパ人が初めて琉球に着いたと き、「武器のない国」「礼節を守る国」以外にもっとも彼らに深い印象を与えたのは住んでいる家よりも綺麗な「琉球の白い墓」だった。」


納骨時
納骨時に一族が集まりお墓の前で宴会をすることが多く、そ こで、一族の紐帯を確認するためである。お参りは「宴会」。沖縄のお墓は祖霊がこの世に還ってくる場所。お墓参りをするということは、その祖霊を酒食でも てなすことになるので、一族そろってお墓の前で宴会を行うことが通例である。
十六日(ジュウルクニチー)
旧暦の1月16日に行われる沖縄のお墓参り。新暦では2月12日。
清明祭(シーミー)
旧暦の「清明」に当たる2月後半から3月前半、新暦では4月から5月前 半に行われるのが清明祭(シーミー)。清明祭は「春分」から、降水量が増えて稲が生育する「穀雨」の季節の間である「清明」の節気に豊穣を祈って行われ る、お祝いの意味合いがあると言われる。
七夕(タナバタ)
旧暦の7月7日のことで、あの世からこの世に祖霊が戻ってくるお盆のこ と。戻ってきた祖霊をもてなすためにお墓の前で宴会をおこなう。七夕は神の眼がこの世まで届かない「日無し」だとされている。沖縄ではお墓を開いてもよい 日が限られているが、そのうちの1つがこの日無しである。日無しに当たる七夕に、改葬や墓じまい、あるいは埋葬するためお墓の前で法要が行われる。

お 墓まいりの6つの必須アイテム(「お墓さがし」サイトの完全コピペで す!!!)。

法要のセット「ビンシー」
「ビンシーとは御願(ウガン)、すなわち拝礼をするための道具が入れら れた木箱のことです。 ビンシーは大きさ22cm前後の木箱で、仏具店へ行くと必ず売っています。 内部は中央に盃を入れる場所、その両側にお酒を入れる場所があり、木で仕切られています。 そしてその前には洗ってあるお米と洗っていないお米を分けて入れるための仕切りが3つあります。 ビンシーは「あの世とこの世をつなげる実印」でもあり、ほかの家のものを借りることができません。ですからお墓参りにビンシーは用意できない場合は、同じ 内容のものをそろえた「仮ビンシー」で対応する必要があります。 」
あの世のお金「ウチカビ」
「ウチカビとは漢字で書くと「打ち紙」のことで、先ほど挙げた法要の時 期には、スーパーマーケットに行くと目立つところに積まれて販売されています。 どのようなものかというと、茶色い紙に丸い印が刻印され、それが束になっています。 ウチカビはあの世で使えるお金のことで、法要時にはこれを燃やして煙にし、あの世に届けるのです。 それによってあの世で祖霊が不自由なく暮らせるようにするわけです。」
ウチカビを燃やす「カニバーキ」
「ウチカビはお金なので、燃やすのは多ければ多いほど良いと言われてい ます。 紙を大量に燃やすのは地面の上では危ないので、専用の容器が用意されます。それがカニバーキです。 カニバーキは金属製のボールで、底に網を敷き、その上でウチカビを燃やします。 このウチカビに火箸も一緒に合わせた「ウチカビセット」がホームセンターなどで購入できます。 」

沖縄の線香「ヒラウコー」
「ウチカビと同様に必須の御願用具がヒラウコーです。 ヒラウコーは漢字で書くと「平御香」のことで、本土では線香の役割を果たすアイテムのことです。 線香というと棒のようなものを思い出しますが、ヒラウコーは本土の線香とは異なり、平たい形状になっています。つまり数本の線香を並べてくっ付けたような 板の形です。この板のようなヒラウコーを6本セットで扱い、それを「一平(ヒトヒラ)」と数えます。 ただしヒラウコーの焚き方は6本一緒ではなく、1人当たり半分の3本を焚きます。これは3が沖縄では調和を表した数字として重視されているからです。 また特に御願法要での進行役は二平に当たる12本を燃やします。これはヒラウコー12本で、12ヶ月の1年を指しています。」
沖縄の法要ご飯「ウサンミ」
「ウサンミとは法要の際に食べる料理のことです。 発祥は中国で「天、地、海」の食材を使った料理を正方形の重箱に詰めるのが基本です。 内容はカステラかまぼこ、紅白かまぼこ、揚げ豆腐、天ぷら、田芋、昆布、ごぼう、こんにゃく、皮付きの三枚肉の9品が必ず入ります。かまぼこの代わりに大 根の煮つけや、白身魚の昆布巻き入れる場合もあります。 言ってみればウサンミは沖縄のお節料理に当たるもので、法要の季節にはスーパーマーケットに惣菜売り場などでも販売されています。」
お墓に鎮座する伝統神「ヒジャイガミ」
「ヒジャイガミはアイテムではありません。ヒジャイガミとは「左の神」 のことで、土地神の1つです。 沖縄のお墓には、必ず中にヒジャイガミがいます。 法要の際には祖霊を祀る前に、墓の左側にいるヒジャイガミにお供えをして御願するのが作法です。 お参りをする場合は、参拝する側にとっては向かって右側になります。 ウサンミも祖霊に供えますが、まずその前にヒジャイガミに対して供え、祖霊にはそこから二切れずつ取り分けてお墓の中央に供えます。 ウサンミから二切れ取り分けると、その分が空いてしまいますが、その補充になるおかずも必ず持参します。これを「ウチジヘイジ」と言います。」
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以 上のように、埋葬のやり方が著しく変化しても、お墓の形態や、祖先を敬う形式のなかに、沖縄の独自の祖先観や親族観が投影され、その伝統的な文化の継承形 態は容易には変化しにくいものであると考えられる。
●縄文時代〜平安時代における沖縄 の墓制——『沖縄県史』各論編2考古(2003:127)より

墓式 平墓
土壙墓(どこうばか)、配石墓


列石墓、置石墓、覆石墓、盛土墓


石棺墓、土器棺墓

洞穴・岩陰墓
洞穴墓・岩陰墓
出典
宜野湾市史編集委員会(1994)
『沖縄県史』各論編2考古(2003:127)

洗骨(ウィキペディア日本語よ り)


「洗骨(せんこつ)は、一度土葬あ るいは風葬などを行った後に、死者の骨を海水や酒などで洗い、再度埋葬(二次葬(英語版)、複葬)する葬制である。かかる風習は、東南アジアの一部に現存 し、また日本では南西諸島(琉球諸島、奄美群島)において行われていた。現在、古代以前を除いた日本における風葬や洗骨の北限は奄美大島笠利町の城間トフ ル墓群とされている。沖縄諸島では「シンクチ(洗骨)」といい、奄美群島では「カイソウ(改葬)」と称する。かつての沖縄などでは、よく見られる葬制であった。琉球王国の王室は、戦前まで洗骨を経て納骨されていたことが、記録に残っている。 沖縄における洗骨の意味は、洗骨されないうちは死者は穢れていて、神仏の前に出られないという信仰があるからとされる[1]。 洗骨という儀式において、実際に骨を洗うという行為は親族の女性、特に長男の嫁がす べきものとされた。しかし衛生的に問題があるうえ、肉親の遺体を洗うという過酷な風習であるがゆえに、沖縄県の女性解放運動の一環として火葬場での火葬が 推奨され、また保健所の指導により、沖縄本島では戦後消滅したとされる。 それでも一部の離島ではまだ現存しており、戦前に生まれた世代の島民の中にはこうした形での葬儀を望む人も多いといわれる。NHK鹿児島放送局は、与論島 で行われたある家族の洗骨儀式の模様を密着取材し、2010年(平成22年)6月25日に『九州沖縄スペシャル』で放送した。この番組は洗骨儀式そのもの が今日ほとんど見られなくなっていることに加え、NHKによると洗骨儀式は身内以外には決して公開されないだけに、貴重な記録映像となっている。 番組によると、与論島で洗骨儀式が始まったのは明治に入ってからで、それまでは共同墓における風葬があたり前とされた。しかし明治に入り、鹿児島県が風葬 を禁じ、死体遺棄罪に問うとしたことから、止むなく始められたのが、いったん土葬を経た後の洗骨という形式であったという。番組は、洗骨そのものに限ら ず、そこに至るまでの様々な過程と関わる家族の思いについても記録した。また、風葬による祖先の骨が多数みられる崖下墓の映像もあった。- https://x.gd/Fzvoi.

Bone collecting (Cantonese Jyutping: Zap1 gwat1; Traditional Chinese: 拾骨, literally "to collect the bones") is a burial ritual practiced in certain parts of East Asia. Peoples known to adopt some forms of this custom include Cantonese, Hoklo, Taiwanese, Ryukyuan, and Zhuang.[1][2] Most of these groups are related to Baiyue, and indeed ancient Han Chinese had literature that documented such customs being practiced by various Baiyue tribes.
骨集め(広東語 Jyutping: 繁体字中国語では「拾骨」)とは、東アジアの一部の地域で行われている埋葬儀礼である。広東語、北方語、台湾語、琉球語、チワン族などがこの風習を取り入 れた民族として知られている[1][2]。これらの民族のほとんどは白岳族と関係があり、実際、古代の漢民族には白岳族がこのような風習を行っていたこと を記録した文献がある。
Among Cantonese, the standard practice of bone collecting involves first unearthing a coffin with a dead body that has been buried for at least five years (thus can be expected to have largely decomposed), and then leaving the coffin partly open in order to let out the stench of decay. As the stench became bearable, the dead person's offspring would, using Cantonese, formally asked the dead person to "wake up" (Jyutping: Hei2 san1 laa3; Traditional Chinese: 起身喇). After some rituals, the "bone collector", a person specifically trained to do this ritual, would respectfully and carefully collect the bones from the coffin (hence the name "bone collecting"). The next step involves cleaning and drying the bones, which usually takes at least four to five days. The final part of the ritual depends on the offspring's will: They may want to grind the bones into ashes, or put them into containers called "golden towers" (Jyutping: Gam1 taap3; Traditional Chinese: 金塔, literally "golden tower"). These containers will then be put in the countryside or cemetery for a peaceful rest.[3] In Cantonese customs, choices of where to put the golden towers may be dependent on Feng shui.

In Hong Kong and Macau, it is legally mandated that bone collecting must be conducted after 6 to 7 years of burial on land.
広東人の間では、遺骨収集の標準的な習慣として、まず、少なくとも5年 間埋葬されていた(したがって、大部分が腐敗していると予想される)死体の入った棺を発掘し、腐敗臭を出すために棺の一部を開けたままにする。悪臭に耐え られるようになると、死者の子孫は広東語を使って死者に正式に「目を覚ましてください」(Jyutping: Hei2 san1 laa3; 繁体字: 起身喇)と頼む。いくつかの儀式の後、この儀式を行うために特別に訓練された人である「集骨師」が、敬意を持って慎重に棺から骨を集める(これが「集骨」 という名前の由来である)。次に骨を洗浄し乾燥させるが、通常少なくとも4~5日かかる。儀式の最後の部分は、子孫の意志による: 骨を灰にすることもあれば、「金塔」と呼ばれる容器に入れることもある。広東の風習では、金塔をどこに置くかは風水に左右されることがある[3]。

香港とマカオでは、土地に埋葬してから6~7年後に収骨を行うことが法的に義務付けられている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bone_collecting


●ローベル・エルツ(2001)の業績

1)ある民族は、埋葬儀礼のほかに、(それに関連する)他の儀礼をおこなう
2)遺体を二度葬ることがあること

●リンク
  • ウィキペディア「風葬」︎▶「お墓さがし」サイト:琉球編︎▶︎︎門中金関丈夫と琉球の人骨︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎
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  • 文献

  • 勝田至 編『日本葬制史』吉川弘文館, 2012年
  • 伊波普猷「南島古代の葬制」pdf_with_password 「をなり神の島」『伊波普猷全集 第5巻』など、平凡社、1974年
  • 柳田 國男「葬制の沿革について」人類学雑誌、1929 年 44 巻 6 号 p. 295-318. https://doi.org/10.1537/ase1911.44.6_295.
  • 堀一郎『民間信仰』岩波書店、 1951年
  • 内堀基光・山下晋司『死の人類学』弘文 堂、1986年/講談社、2006年
  • 比嘉康雄『日本人の魂の原郷・沖縄久高 島』集英社、2000年
  • 末成道男編『中原と周辺 人類学的 フィールドからの視点』(風響社、1999年)
  • 吉原和男・鈴木正崇・末成道男編『〈血 縁〉の再構築 東アジアにおける父系出自と同姓結合』(風響社、2000年)
  • 宮里朝光監修、那覇出版社編『沖縄門中 大事典』(那覇出版社、1998年)
  • 赤田光男「洗骨習俗と風水信仰 : 伊是名島の葬墓制と祖先信仰」窪徳忠編『沖縄の風水』平河出版社, 1990年
  • 名嘉真宣勝「沖縄の洗骨習俗」大藤時彦, 小川徹編『民俗編』(沖繩文化論叢, 第2-3巻)平凡社、1971年
  • エルツ,ローベル(2001)「死の宗教社会学:死の集合表象研究への寄与」『右手の優越』吉田禎吾・内藤完爾・板橋作美訳,Pp.37-138,東京: 筑摩書房.
  • その他の情報


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