黒木 為楨(くろき・ためもと)1844-1923
Count Kuroki Tamemoto GCMG (黒木 為楨, 3 May 1844 – 3 February 1923) was a Japanese general in the Imperial Japanese Army. He was the head of the Japanese First Army during the Russo-Japanese War; and his forces enjoyed a series of successes during the Manchurian fighting at the Battle of Yalu River, the Battle of Liaoyang, the Battle of Shaho and the Battle of Mukden.
1844 天保15年3月16日(1844年5月3日)、薩摩藩士・帖佐為右衛門の三男として薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路(下加治屋 町方限)に生まれる。のち、黒木万左衛門為善の養子となり黒木姓を名乗る
1868-1869 戊辰戦争に4番隊半隊長として従軍。鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩の小銃隊を指揮して幕府歩兵を集中射撃により敗走させ、 宇都宮城攻防戦では城壁に突進して取り付くなど奮戦し、勝利の契機をつくった。明治2年(1869年)2月、1番大隊小隊長となる。
1871 明治4年(1871年)4月に上京し、同年7月、陸軍大尉任官、御親兵1番大隊に配属。
1972 明治5年(1872年)8月、陸軍少佐に昇進し近衛歩兵第1大隊長に就任。近衛歩兵第2大隊長を経て
1875 1875年(明治8年)2月、陸軍中佐に進級し広島鎮台歩兵第12連隊長
1877 (明治10年)3月、西南戦争に出征し、同年10月まで従軍。
1877 11月、陸軍大佐に昇進
1879 1月、近衛歩兵第2連隊長に転じ、中部監軍部参謀、参謀本部管東局長を歴任
1885 11月、陸軍中将に進み第6師団長に就任
1895 1月、日清戦争に出征し威海衛の攻撃に参加。同年8月、軍功により男爵を叙爵し華族となる。
1896 (明治29年)10月、近衛師団長に親補され、西部都督に転じた
1903 陸軍大将
1904 1月、軍事参議官に就任。同年2月、第1軍司令官となり、翌月、日露戦争開戦に伴い出征。鴨緑江から奉天会戦まで連戦し、ロシア軍か らは、「クロキンスキー」と恐れられた。
1906 (明治39年)1月、再び軍事参議官
1907 (明治40年)4月から6月までアメリカに出張。同年9月、軍功により伯爵を叙爵
1907 (明治42年)3月、後備役に編入
1914 (大正3年)4月1日に退役
1917 (大正6年)4月から1923年(大正12年)2月まで枢密顧問官を務めた。
1923 2月3日午後10時、肺炎のため東京市青山の自邸で死去、78歳。
黒木大将および英国の観戦武官イアン・ハミルトン、沙河会戦時。 |
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黒木大将および第一軍参謀長藤井茂太、遼陽会戦時;Japanese General Kuroki and his Chief of Staff Shigeta Fujii during the Battle of Liaoyang. |
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Western
military attachés and war correspondents with the Japanese forces after
the Battle of Shaho: 1. Robert Collins; 2. David Fraser; 3. Capt.
Francois Dhani; 4. Capt. James Jardine; 5. Frederick McKenzie; 6.
Edward Knight; 7. Charles Victor-Thomas; 8. Oscar Davis; 9. William
Maxwell; 10. Robert MacHugh; 11. William Dinwiddie; 12. Frederick
Palmer; 13. Capt. Berkeley Vincent; 14. John Bass; 15. Martin Donohoe;
16. Capt. ____; 17. Capt. Carl von Hoffman; 18. ____; 19. ____; 20.
____; 21. Gen. Sir Ian Hamilton; 22. ____; 23. ____; 24. ____; 25. ____. |
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Commander-in-chief
Tamemoto Kuroki on the battlefield in the Russo-Japanese War, Topeka
State Journal - The Topeka state journal. [volume], July 27, 1904, Last
Edition, Page 3 |
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James H. Hare |
◎大江志乃夫『日露戦争の軍事史的研究』岩波書店、1976年
露戦争:「日露戦争は、1904年2月から1905年9月にかけて大日本帝国と南下政策を 行うロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となったほ か、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた」ウィキペディア「日露戦争」「ファシズム体制下におけるインテリジェンスと人類学・民族学」)
「ドイツ国防軍は、参謀本部を頂点としてワイマール 共和制の国防省を含む行政府 と対抗関係にたったため、共和制の機構のなかで、実体はともあれ、形式的合法性を保持しつつ政権を獲得すること を困難にしたのであった。これにたいし、日本の軍部は、行政府の長官であり内閣の一員たる国務大臣でもある陸軍 大臣を軍部の政治的代表者として閣内に送りこんでいただけでなく、他のすべての国務大臣に優越した権限、閣議や 総理大臣を経由しないで単独上奏をおこなう権限をこの陸軍大臣に付与したのであった。こうした点に、ドイツ国防 軍の総帥ゼークトが軍事クーデターによる政権掌握の道しか探すことができず失脚し、むき出しの暴力を国家主義的 大衆運動の糖衣にくるんだ形式的合法性による政権奪取に成功したヒトラーにドイツ国防軍をゆだねなければならな かった理由のひとつがあると考えられる。他方、日本の軍部はそれ自体が巨大な政治勢力として、軍部内の陰惨な派 閥抗争の流血をふみこえ、結局はもっとも強力に組織され、国家総動員体制の推進力たるにふさわしい知識と能力を そなえた高級軍事官僚群の指導の確立をつうじて、形式的合法性を保持しつつ、政権を支配するにいたった。ドイツ・ ファシズムと日本のファッショ化の過程の相違を原因づけた重要な問題のひとつであると考える」(大江 1976:46-47)。
0. はじめに:日露戦争の世界史的画期性
1. 陸軍軍備の拡大と兵力動員
2. 日露戦争における人員の損害
3. 軍隊における意識と行動
4. 日露戦争下の軍需動員
5. 帝国主義国家体制樹立への展望
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◎戦術的成功かつ戦略的成功, Both Tactical success and Strategic success
With Kuroki in Manchuria / by Frederick Palmer ; illustrated from photographs by James H. Hare, New York : C. Scribner's Sons , 1904
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参考:Scenes near Matanzas, Cuba, in Collier's Weekly (2 April 1898), photographs by James H. Hare |
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