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三宅雪嶺と雑誌『日本及日本人』

Setsurei MIYAKE and "Japan and Japanese" magazine

第511号(1909)

池田光穂

☆ 三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日 - 1945年11月26日)は、日本の哲学者、作家である。政治教育学会とその機関誌『日本人』の創刊に貢献した。 略歴 1883年、東京大学文学部哲学科を卒業。 政治教育学会の設立に尽力し、その機関誌『日本国民』を創刊した。1907年、同誌は『日本及日本人』と改題された。長谷川如是閑が同誌に採用されたのも この頃である。 三宅の他の著作には『新善美日本人』『偽悪日本人』『醜悪日本人』などがある。 政治的見解 以下も参照のこと: 国民本質主義 三宅は協調的ナショナリストであり、普遍主義者とは意見を異にしていた。彼は、日本は第一にアジア共同体の一員であり、第二に国際共同体の一員であると考 えた。また、日本は明治時代以前からの文化遺産を保持し、保存すべきだと考えていた。 三宅は、日本はアジアを研究し、西洋の帝国主義に反対し、日本独特の美意識を育てることを使命とすべきだと考えた。

Miyake Setsurei (三宅 雪嶺, July 7, 1860 – November 26, 1945) was a Japanese philosopher and author. He helped found the Society for Political Education and its magazine Nihonjin [ja] (日本人, later known as Nihon Oyobi Nihonjin).

Biography
He graduated from the University of Tokyo's Department of Philosophy in 1883.

He helped found the Society for Political Education and its magazine Nihonjin ("Japanese People"). In 1907 the magazine was renamed Nihon Oyobi Nihonjin ("Japan and The Japanese People"). It was at this time that Hasegawa Nyozekan was recruited to the magazine.

Miyake's other works included Shinzenbi Nihonjin ("Goodness, truth and beauty of The Japanese People") and Giakushu Nihonjin ("Falsehoods, evil and ugliness of the Japanese People").

Political views
See also: National essentialism
Miyake was a cooperative nationalist and differed in opinion from universalists. He felt that Japan was first a member of the Asian community and secondly a member of the global community. He also believed that Japan should hold onto and preserve its cultural heritage from before the Meiji era as it helped to strengthen Asian culture and, by doing so, world culture.

Miyake felt Japan should make it its mission to study Asia, oppose western imperialism, and nurture the distinctive Japanese sense of beauty.
https://en.wikipedia.org/wiki/Miyake_Setsurei
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三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日〈万延元年5月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉11月26日)は、日本の哲学者、国粋主義者、評論家。加賀国金沢(現・石川県金沢市)生まれ。本名は雄二郎。帝国芸術院会員、文化勲章受章者。

人物
1860年(万延元年)、加賀藩家老本多家の儒医・三宅恒の子として生まれる。官立東京開成学校を経て、東京大学文学部哲学科(のち帝国大学文科大学)卒。

卒業後の1883年(明治16年)、臨時修史局編纂掛(現:東京大学史料編纂所)に就職。のち文部省編輯局を経て、1887年(明治20年)、東京専門学校と哲学館で講議を担当[1]。

同じ頃、後藤象二郎の大同団結運動や条約改正反対運動など自由民権運動に関わる。1888年(明治21年)、志賀重昂・杉浦重剛らと政教社を設立し、国粋 主義の立場を主張するため、『日本人』を創刊する(後に『日本及日本人』に改題)。その後も、個人雑誌として『我観』を創刊、『中央公論』等に論説を発表 するなどして注目を集めた。

林内閣において文部大臣への入閣の要請があったものの辞退している。1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員、1943年(昭和18年)、文化勲章受 章。主著は『真善美日本人』『偽悪醜日本人』(冨山房百科文庫で再刊)『自伝』(人間の記録・日本図書センターで再刊)『宇宙』等。『ジャパン・レ ビュー』への寄稿もある。

1945年(昭和20年)11月26日、老衰のため北多摩郡狛江村猪方の故・中野正剛の別荘で死去[2]。墓所は青山霊園。
https://x.gd/RlEAP
三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日 - 1945年11月26日)は、日本の哲学者、作家である。政治教育学会とその機関誌『日本及日本人』の創刊に貢献した。

略歴
1883年、東京大学文学部哲学科を卒業。

政治教育学会の設立に尽力し、その機関誌『日本国民』を創刊した。1907年、同誌は『日本及日本人』と改題された。長谷川如是閑が同誌に採用されたのも この頃である。

三宅の他の著作には『新善美日本人』『偽悪日本人』『醜悪日本人』などがある。

政治的見解
以下も参照のこと: 国民本質主義(「国粋主義」)
三宅は協調的ナショナリストであり、普遍主義者とは意見を異にしていた。彼は、日本は第一にアジア共同体の一員であり、第二に国際共同体の一員であると考 えた。また、日本は明治時代以前からの文化遺産を保持し、保存すべきだと考えていた。

三宅は、日本はアジアを研究し、西洋の帝国主義に反対し、日本独特の美意識を育てることを使命とすべきだと考えた。
National essentialism (国粋主義),[1][2] in Japanese pronunciation as Kokusui shugi is one of the terms used to describe Japanese nationalism. Terms similar to kokusui shugi include kokka shugi (国家主義, lit. "state nationalism") and minzoku shugi (民族主義, lit "ethnic nationalism"). Kokusui shugi emphasizes the uniqueness of Japanese culture and tradition against Europeanization (欧化主義) and pursues conservatism; Nihon shugi (日本主義, lit. "Japanese consciousness" or "Japanism") is used in a similar sense.[3]

History
Kokusui shugi was based on Sonnō jōi, which emerged before the end of the Edo Shogunate. After the Meiji Restoration, it appeared as a reaction to the Europeanization policy pursued by the Empire of Japan government; at that time, the Japan's government was promoting Japan's modernization through the active introduction of Western culture.[3]

The term "Kokusui shugi" appears in the Japanese newspaper 『日本人』, which was founded in 1888 in Seikyōsha [ja], where Shiga Shigetaka and Miyake Setsurei belonged; they opposed the Japanese government's Europeanization policy at the time.[3]

Unlike the early kokusui shugi, in the middle of the Meiji era, the kokusui shugi ideology embraces Europeanization while preserving the traditional culture and lifestyle of Japan in order to develop Japanese civilization independently.[3]

Kokusui shugi served as a right-wing principle of action in favor of traditions or the state system and opposed the socialist mass movement; from the events of Manchuria in the early Shōwa era to the Second Sino-Japanese War, it also transformed into the ultra-nationalist ideology of the Historical Vision of Imperial Japan [ja].[3]

As such, the Kokusui shugi ideology is consistent in that it is a kokutai theory that insists on the permanence of the Tennō-central system, which has never been cut off from bloodline, while changing with the times.[3]
https://en.wikipedia.org/wiki/National_essentialism
国 粋主義(こくすいしゅぎ)[1][2]は、日本のナショナリズムを表す用語のひとつである。国粋主義に似た用語に、国家主義や民族主義がある。国粋主義と は、欧化主義に対抗して日本の文化や伝統の独自性を強調し、保守主義を追求するものであり、日本主義も同様の意味で用いられる[3]。

歴史
国粋主義は、幕末以前に生まれた尊王攘夷を基礎としている。明治維新後、大日本帝国政府が進めた欧化政策への反動として登場した。当時、大日本帝国政府は西洋文化を積極的に導入し、日本の近代化を推進していた[3]。

「国粋主義」という言葉は、1888年に志賀重昂と三宅雪嶺が所属していた青響社で創刊された日本の新聞『日本人』に登場し、当時の日本政府の欧化政策に反対していた[3]。

明治時代中期の初期の国粋主義とは異なり、国粋主義では日本の文明を独自に発展させるために、日本の伝統的な文化や生活様式を守りながら欧化を受け入れている[3]。

国粋主義は、伝統や国家体制を支持する右翼的な行動原理として機能し、社会主義的な大衆運動に反対した。昭和初期の満州事変から日中戦争に至るまで、それはまた大日本帝国史観[ja]の超国家主義的なイデオロギーへと変化した[3]。

このように、国粋主義的な思想は、時代とともに変化しながらも、血統から切り離されることのない天皇中心体制の永続性を主張する国体論であるという点で一貫している[3]。
Ethnic nationalism in Japan
Nippon Kaigi
Statism in Shōwa Japan
Ultranationalism (Japan)
Uyoku dantai
日本における民族ナショナリズム
日本会議
日本の国家主義
超国家主義(日本)
右翼団体

日本人』(にほんじん)は、1888年(明治21年)4月から1906年(明治39年)12月まで発行された、政教社の政治評論雑誌。1907年から、『日本及日本人』になった。

歴史
言論団体政教社の機関誌である。同社は、志賀重昂、棚橋一郎、井上円了、杉江輔人、菊池熊太郎、三宅雪嶺、辰巳小次郎、松下丈吉、島地黙雷、今外三郎、加 賀秀一、11名の同人により1888年4月結成され、同月『日本人』誌を創刊した。間もなく、杉浦重剛、宮崎道正、中原貞七が加わった。半月刊ないし週刊 だった。創刊早々、高島炭鉱事件でキャンペーンを組み、国会の大臣弾劾権問題を特集した。

同人らには西欧の知識があった。政治的看板は国粋主義だったが、それは日本のすべてを讃え外国のすべてを退ける極右では全くなく、志賀によれば次だった。 『宗教・徳教・美術・政治・生産の制度は「国粋保存」で守らねばならぬが、日本の旧態に飽くまでこだわれというのではない。ただし西欧文明は、日本の胃腸 で咀嚼し消化して取り入れるべきだ』(第2号所載『「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す』の大意)。

政府が急ぐ鹿鳴館的西欧化を批判して、頻繁に発禁処分を受け、雑誌はそれを避けて改名し、次のように変転した。

第一次『日本人』:1888年4月 - 1891年6月
『亜細亜』:1891年6月 - 1893年9月
第二次『日本人』:1893年10月 - 1895年2月
『亜細亜』:1893年12月 - ?
第三次『日本人』:1895年7月 - 1906年12月
同人誌として出発したものの、第二次『日本人』は志賀と三宅とが編み、内藤湖南、浅水南八、畑山芳三、長沢別天らが助けた。日清戦争の1894年には、のべ半年以上の休刊を強いられた。

第三次『日本人』は三宅の個人雑誌的になった。日本新聞社の社屋内に編集室を置いた時期もあって[1]、1902年には日本新聞の陸羯南社長が日本人誌の社説を受け持ち、1904年からは三宅が日本新聞の社員を兼ねて日本新聞の社説を書くという、一心同体的な仲になった。

1906年(明治39年)、日本新聞の社長交代を不服として多くの社員が政教社へ移り、三宅雪嶺は、『日本人』誌と『日本』紙との伝統を受け継ぐとして、雑誌を『日本及日本人』と改名して主宰し、『日本人』誌は通巻449号で発展的に終刊した。

発行部数は、初期に500 - 600、盛期で4000足らずだった。

上記以外のおもな執筆者を、初出の順に並べる。松岡好一、吉本襄、巖谷小波、福本日南、岡本監輔、加藤七五郎、斎藤祥三郎、加藤弘之、渡邊洪基、井上毅、 鈴木券太郎、田岡嶺雲、赤羽雄一、石橋禹三郎、海浦篤弥、国府犀東、坪内逍遙、尾崎行雄、神鞭知常、高浜虚子、市島謙吉、徳富蘇峰、島田三郎、犬養毅、池 辺三山、天野為之、国友重章、肥塚龍、正岡子規、横井時雄、江藤新作、笹川潔、白河鯉洋、菊池九郎、関戸覚蔵、南園竹翠、田島錦治、内村鑑三、中井喜太 郎、久保田譲、干河岸貫一、藤田豊八、田口卯吉、樽井藤吉、湯本武比古、片山潜、朝比奈知泉、黒岩涙香、桐生悠々、梁啓超、高田早苗、坪井正五郎、幸徳秋 水、森外三郎、来馬琢道、稲垣伸太郎、吉川潤二郎、山本良吉、山田一郎、鈴木大拙、円城寺清、丸山幹治、小川平吉、久津見息忠、山県悌三郎、浮田和民、村 井啓太郎、稲田周之助、赤羽一、三淵忠彦、野上啓之助、江渡狄嶺、和田鼎、結城蓄堂、建部遯吾、須崎芳三郎、花井卓蔵、阪東宣雄、戸水寛人、根来源之、小 川運平、松井広吉、高橋亨、岡野養之助、煙山専太郎、千葉亀雄、境野哲、小島烏水、中村千代松、長谷川如是閑、胡桃正見、牧口常三郎、中村不折、元良勇次 郎。

参考文献
『雑誌「日本人」・「日本及日本人」目次総覧Ⅰ』、日本近代史料研究会(1977)
植手通有:『「国民の友」・「日本人」』、思想(1952.3)(筑摩書房 明治文学全集37 政教社文学集(1980)所収)
佐藤能丸編:『政教社文学年表』(筑摩書房 明治文学全集37 政教社文学集(1980)所収)(号別に記事名と筆者名とが載っている。)
『三宅雪嶺年譜』(鹿野政直編:『日本の名著37 』、中央公論社(1966)所収)
脚注

^ 長谷川如是閑:『ある心の自叙伝』、講談社学術文庫 p.338
https://x.gd/J1T4t

第511号(1909)
日本及日本人(にほんおよびにほんじん)は、1907年(明治40年)1月1日から1945年(昭和20年)2月まで、政教社から出版された、おもに言論の雑誌。1923年秋まで、三宅雪嶺が主宰した。

歴史
この雑誌は、政教社の日本人誌と陸羯南の日本新聞とを継いでいる。これらは元々兄弟のような間柄だったが、1906年、日本新聞社の後任社長伊藤欽亮の運 営を不服として、社員12人が政教社に移り、三宅雪嶺が『日本人』誌と『日本新聞』との伝統を継承すると称して、翌年元日から『日本人』誌の名を『日本及 日本人』と変え、彼の主宰で発行したのである。創刊号の号数も、『日本人』誌から通巻の第450号だった。

雪嶺は1923年(大正12年)秋まで主筆を続けたが、関東大震災後の政友社の再建を巡る対立から、去った。それまでが盛期だった。

雪嶺は、西欧を知り、明治政府の盲目的な西欧化を批判する開明的な国粋主義者で、雑誌もその方向に染まっていた。題言と主論説は雪嶺、漢詩の時評の『評 林』は日本新聞以来の国分青崖、時事評論の『雲間寸観』は主に古島一雄、俳句欄は内藤鳴雪、和歌欄は三井甲之が担当し、一般募集の俳句欄『日本俳句』は河 東碧梧桐が選者で、彼は俳論・随筆も載せた。ほかに、島田三郎、杉浦重剛、福本日南、池辺義象、南方熊楠、三田村鳶魚、徳田秋声、長谷川如是閑、鈴木虎 雄、丸山幹治、鈴木券太郎らの在野陣が執筆した。月2回刊、B5より僅か幅広の判だった。

たびたび発禁処分を受けた。

大正期に入ってからは、三井甲之の論説が増え、中野正剛、五百木良三、植原悦二郎、安岡正篤、土田杏村、布施辰治、寒川鼠骨らが書いて、右翼的色彩も混ざった。

1920年(大正9年)4月5日発行の春季増刊号『百年後の日本』(通巻第780号)は、当時の未来予測記事としてしばしば言及される[1][2][3] [4][5][6]。同号はJ&Jコーポレーションから2002年(ISBN 4930794005)と2010年(ISBN 9784930794000)に覆刻されている。

1923年(大正12年)の関東大震災に、発行所の政教社は罹災した。雪嶺と女婿の中野正剛とは、社を解散し新拠点から雑誌を継続発行すべきとし、他の同 人が反対し、碧梧桐・如是閑が調停したが、雪嶺は去った。以降の『日本及日本人』は、同名の無関係の雑誌とする論もある[7]。

1924年年初、政教社が発行し直した『日本及日本人』は、体裁はほぼ以前通りだったが、内容は神秘的国粋論が多くなった。1930年(昭和5年)、五百木良三が政教社社長となって『日本及日本人』を率いた、1935年からは月一回発行になった。

1937年の五百木の没後は、国分青崖社長、入江種矩主幹、雑賀博愛主筆の、戦争協力体制になった。

第二次世界大戦の末期、1945年2月号(第440号)まで発行が確認されている[8]。

戦後の復刊
1950年9月に復刊し、日本新聞社、日本及日本人社、J&Jコーポレーションと版元を変えて2004年1月(通巻第1650号)まで発行されていた。

1988年陽春特別号(通巻第1590号、1988年4月1日発行、日本及日本人社)は、「創刊100周年記念」と題されている。












Tokyo Kaikan(大東亜会館 1942-1945) was requisitioned as the meeting place for members of the Imperial Rule Assistance Association (IRAA) in the early days.

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