かならずよんで ね!

 禅と戦争 

Total War and Zen  Buddhism

池田光穂

"We want coffee without caffeine, beer without alcohol and love without its dangerous moment." - Slavoj Žižek.

"In this method of decaffeination the beans are steamed for about 30 minutes in order to open their pores. Once the coffee beans are receptive to a solvent, they are repeatedly rinsed with either methylene chloride (dichloromethane) or ethyl acetate for about 10 hours to remove the caffeine.# - Decaffeination 101: Four Ways to Decaffeinate Coffee.

禅と戦争 : 禅仏教の戦争協力、Victoria, Brian Daizen, えにし書房, 2015.12

廃仏毀釈運動


初期に見られる仏教側の社会的目覚め


内山愚童—革新的曹洞禅僧


既成仏教教団による革新的社会活動の拒絶


軍部政策に吸い込まれた仏教(一九一三‐ 三〇)


軍国主義に対する仏教側の反抗


禅、その暗殺者たち


皇道仏教の誕生


皇国禅、そして軍人禅の登場


戦時に協力した禅の指導者たち


戦後における皇道仏教、皇国禅、あるいは 軍人禅への反応


戦後日本における企業禅の登場
日本語文献: p291-296

英語文献: p296-300

戦争と仏教者たち

釈宗演
釈 宗演(しゃく そうえん、安政6年12月18日(1860年1月10日) - 大正8年(1919年)11月1日)は、明治・大正期の臨済宗の僧。若狭国(現・福井県)大飯郡高浜村(現在の高浜町)の生まれ。出家前は一瀬常次郎。号は洪嶽、楞伽窟、不可往。
沢木興道
澤木 興道(さわき こうどう、道号:祖門、1880年6月16日 - 1965年12月21日)は、明治から昭和を代表する日本の曹洞宗の僧侶である。定住する寺を持たなかったことから、「宿なし興道」と呼ばれる。
鈴木大拙
鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉[2][3][4]、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉 - 1966年〈昭和41年〉7月12日)は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広く知らしめた。著書約 100冊の内23冊が、英文で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教学者」
内山愚童
内山 愚童(うちやま ぐどう、1874年5月17日 - 1911年1月24日)は、日本の仏教者・僧侶(曹洞宗林泉寺住職)・社会主義運動家。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。
南天棒(中原鄧州
中原 鄧州(なかはら とうしゅう、1839年5月15日〈天保10年4月3日〉 - 1925年〈大正14年〉2月12日)は、明治時代から大正時代にかけて活動した臨済宗の僧侶で、諱は全忠(ぜんちゅう)、別号として白崖窟(はっけいく つ)を持つが、広く南天棒(なんてんぼう)の異名で知られる。竹篦(警策)として常に南天の棒を携え、全国の禅道場を巡っては修行者を容赦なく殴打した明 治時代屈指の豪僧として知られる。在家者への教導にも力を注ぎ、山岡鉄舟、乃木希典、児玉源太郎などが彼の影響を受けた。
関精拙
関精拙(せき せいせつ、1877年(明治10年)1月18日 - 1945年(昭和20年)10月2日)は、明治から昭和にかけての臨済宗の禅僧。道号は精拙、法諱は元浄。室号は青峨室。別に青峨、晩年峨翁と号する。俗姓は関。
飯田欓隠(とういん)
飯田欓隠(いいだとうい ん)は、文久3年(1863年)、父片野與兵衛の子として誕生, 15歳の時、大阪適塾の塾頭飯田柔平の養子となる。明治18年東京大学医科を卒業するとともに安芸仏通寺の香川寛量和尚のもとで参禅、翌19年に印可を受 ける。以後、医師を職としつつ禅僧として活動、昭和6年(1931年)、大阪府三島郡高槻町(当時)古曽部に少林窟道場を開く
大雲義幸
「小隊長の命令に従わな かった男がもうひとりいた。大雲義幸という禅僧の兵隊で、ふたりはその夜、軍靴を口にくわえ、鼻をくんくん鳴らしながら四つん這いになって雪の中を這いま わるよう命じられた。「犬にも劣る」ということだったが「大雲も私も『犬にも劣るのはお前たちのほうだ』と心の中で思っていましたから、予想外に軽い処罰 を喜んだ位でした。これを機会に二匹の犬は無二の親友になりました」と続木満那は書いている」黒川創『鶴見俊輔伝』を読む、より)
相沢三郎
相沢 三郎(あいざわ さぶろう、1889年〈明治22年〉9月6日 - 1936年〈昭和11年〉7月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵中佐[1]。皇道派将校として真崎甚三郎教育総監更迭に憤激し、統制派の永田 鉄山軍務局長を殺害した相沢事件の加害者として知られる。少尉時代には仙台の輪王寺に下宿して、無外禅師の教えを受け、三年間禅生活を送った。
井上日召
井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年4月12日 - 1967年3月4日)は、日本の宗教家、政治運動家、テロリスト。本名は井上 昭(いのうえ あきら)。日蓮宗僧侶としていわゆる近代日蓮主義運動の思想的系譜に連なり、戦前の右翼テロリスト集団「血盟団」、戦後の右翼団体「護国団」の指導者を務 めた。
山本玄峰
山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日(1866年3月14日) - 昭和36年(1961年)6月3日)は、日本の禅僧。道号は玄峰、法諱は宜詮、宜雄。室号は般若窟。俗姓は岡本、後に山本。和歌山県本宮町生まれ。龍澤僧 堂師家(僧堂を開単)、瑞泉僧堂師家(僧堂を開単)、21代妙心寺派管長、圓福僧堂家を歴任する
山崎益州(やまざき・えきじゅう)
1882-1961 明治 -昭和時代の僧。明治15年11月3日生まれ。臨済(りんざい)宗。山崎洪宝について得度し,天竜寺の高木台岳に参禅する。昭和4年仏通寺派管長,仏通寺 住持。20年臨済宗十三派合同管長。昭和36年12月31日死去。79歳。京都出身。旧姓は中川。名は大耕。号は吹毛軒。著作に「般若(はんにゃ)心経解 説」「大道を行く」。次項の、杉本五郎を参照せよ。
杉本五郎(陸軍中佐)
杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月25日 - 昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。遺言本『大義』が大ベストセラーとなり、当時の思想に影響を与えた。死の寸前まで四人の息子へ の遺書として書き継がれた20通の手紙を妻へ送っている。これに接した同志らによって、これは私蔵すべきでない、と20章からなる遺書形式の文章『大義』 として昭和13年(1938年)5月に刊行された。これが青年将校や士官学校の生徒など、戦時下の青少年の心を強く捉え「軍神杉本中佐」の名を高からし め、終戦に到るまで版を重ね29版、130万部を超える大ベストセラーとなった。本書は戦時中の死生観を示す代表的な著書とされ、天皇を尊び、天皇のため に身を捧げることこそ、日本人の唯一の生き方と説いている。本書を読み杉本に憧れ軍人を志した者も少なくない。文中、幾ヶ所も伏字があり、これは杉本の思 いがあまりにも純粋で、当時の権力者をも容赦せず、軍部の腐敗や軍規の緩みなども手厳しく批判した箇所といわれ、伏せ字の中には「敵国民族なる所以を以て 殺傷して飽くなし、略奪して止まる所を知らず。悲しむべし。」などと日本軍将兵の戦争犯罪に触れている部分もある[2]。あまりに純粋な言行を煙たがれ激 戦地に送られた、という噂が戦後出た。文中に登場する仏通寺の山崎益州管長は「少佐の次の大尉でなく、中尉の上の大尉でない。中隊長としても、他と比較することの出来ない「絶対の中隊長」であり「永遠の中隊長」であった」と述べている。
原田祖岳
原田 祖岳(はらだ そがく、1871年11月25日(明治4年10月13日) - 1961年(昭和36年)12月12日)は日本の曹洞宗の僧侶で、臨済宗の禅も兼修したことで知られる。号は大雲。駒澤大学教授。国粋主義、独裁政治、軍国主義、反ユダヤ的、反民主的な国体制度、大東亜共栄圏政策の活発な支持者でった、安谷白雲はその弟子。
柳田聖山
柳 田 聖山(やなぎだ せいざん、旧姓:横井(よこい)、1922年12月19日 - 2006年11月8日)は、日本の中国禅宗史研究者で、多くの著作がある。1922年、滋賀県愛知郡稲枝村(現在の彦根市)の延寿寺(臨済宗)に生まれる [1]。寺名の延寿寺は、宋朝文化を代表する五山の一つ杭州西湖の霊隠寺で、宗鏡録を書きあげた高徳、永明延寿の名にもとづく。博覧強記なことで知られ、 不勉強な後輩を一言の下に教化し、僧侶で大正大学教授を務めた天台教学の関口眞大と共に「東の関口、西の柳田」と称された。
朝比奈宗源
朝 比奈 宗源(あさひな そうげん、1891年(明治24年)1月9日 - 1979年(昭和54年)8月25日)は、臨済宗の禅僧。教育では、1934年~1942年まで横濱専門学校(現神奈川大学)で倫理学講師を担当、高歯の 下駄で鎌倉から通い横濱専門学校の多くの学生から慕われる。1936年2月26日朝(二・二六事件)、一時間目の授業に教壇に立つや「今朝、軍の暴徒が首 相始め高官達を襲って暗殺したらしい。こんなことを許していては日本は滅びてしまう」と横濱専門学校の学生に言ったと伝わる。 その後、駒澤大学教授。大戦中、中国や南方で従軍布教。1945年、広島に原爆が投下されるや、木戸幸一内府や平沼騏一郎らに終戦決断を迫った。
山田無文
山田 無文(やまだ むもん、1900年7月16日 - 1988年12月24日)は、日本の臨済宗の僧侶。道号は太室、法諱は素圭、のち無文。室号は通仙洞。俗姓は山田。花園大学名誉学長・臨済宗妙心寺派管長。
白川白弦
(略伝不詳)
安谷白雲
安谷 白雲 (やすたに はくうん、1885年 - 1973年)は、日本の禅僧、三宝教団の創設者。法名は量衡。師の原田祖岳と同様、太平洋戦争の終結まで、彼も国粋主義、独裁政治、軍国主義、反ユダヤ的、反民主的な国体制度、大東亜共栄圏政策の活発な支持者であり、仏教徒の問題に関する文章にも、その視点が見受けられた。
大森曹玄
大 森 曹玄(おおもり そうげん、1904年〈明治37年〉3月10日[1] - 1994年〈平成6年〉8月18日)は、臨済宗の禅僧。また、直心影流剣術第15代・山田次朗吉の弟子でもあり、直心影流剣術の「法定」の指導も行った [2]。 山岡鉄舟ゆかりの高歩院の住職を務め、山岡鉄舟についての著書もある。


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文献

その他の情報

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