かならずよんで ね!

 鈴木大拙,あるいは鶏が鳴く前に三度戦争を肯定した覚えはない 

D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉, 1870-1966

池田光穂

"We want coffee without caffeine, beer without alcohol and love without its dangerous moment." - Slavoj Žižek.

"In this method of decaffeination the beans are steamed for about 30 minutes in order to open their pores. Once the coffee beans are receptive to a solvent, they are repeatedly rinsed with either methylene chloride (dichloromethane) or ethyl acetate for about 10 hours to remove the caffeine.# - Decaffeination 101: Four Ways to Decaffeinate Coffee.

これから鈴木大拙の思想について考える。左の年譜はウィキペディア「鈴木大拙」から抽出したものであり、右の引用カラムは次の文献からの引用である;佐藤 平 顕明「鈴木大拙のまこと:その一貫した戦争否認を通して財団法人松ケ岡文庫研究年報 (21), 1-56, 2007

1870
石川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四 男として生まれる

1871


1872


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1883


1884


1885


1886


1887
石川県専門学校初等中学科卒業。

1888


1889
第四高等中学校中退(予科卒業)。飯田町 小学校教師(英語担当)

1890
美川小学校訓導(1891年まで

1891
東京専門学校(現・早稲田大学)中退

1892
 帝国大学(現・東京大学)文 科大学哲学科選科入学

1893


1894


1895
 帝国大学(現・東京大学)文 科大学哲学科選科修了

1896


1897
1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡 り、東洋学者ポール・ケーラス(en:Paul Carus、1852-1919)が編集長を務め、その義父、エドワード・C・ヘゲラー( en:Edward C. Hegeler)が経営する出版社オープン・コート社(en:Open Court Publishing Company)で東洋学関係の書籍の出版に当たる
1) 1897年6月13日貝葉書院宛通信より抄出。/我国にては宗教の事を説くもの次弟に多くなり、種々の企をなして宗教心を満足させんと致候うち、「新神 道」とか申して国家中心 主義を唱へ候もの有之候由承及候、宗教の漸く国民一般に感ぜらるるに至りたるは、結構なれども「新神道」の説の如きは宗教として如何かと存ぜられ候、抑も 宗教の哲学、倫理と異なりて別に一旗幟を建て候所以は深き仔細あることと存候、然るに今此深き仔細を余所に致候て、何かと騒ぎ立ちても無益のわざと存候、 畢竟ずるに彼等は未だ人心の奥妙を悟り得ぬ人々かと察せられ候」1897(70)『近代の仏教者たち』朝日新聞社2004年5月16日号26-27頁

1898

2) 1898年6月11日釈宗演宛書簡より抄出。/近頃友人に依頼して「日本主義国教論」と云ふ書を送りて貰ひ、此処彼処読みて見たるに、予想と違ひ、頗る乱 暴な意見のみ多く一 驚を喫したり、純粋な日本主義を挙揚した部分、譬へば美術の画題に古事記や日本書紀の神話を用ゐよと云ふ処などは頗る面白く覚えたれど、その他の功利主 義、幸福主義を牽強附会し、之に天皇と国家との名を蒙らせ、所謂る鬼の面を着けて小児を瞞ぜんとする部分は、単に無茶苦茶と云ふより外無之。殊に宗教の真 義をも知らずして経典の句を覚束なくも一つ二つ引用して見た処、いかにも浅ましきことに覚えはべる。老大師には既に御一読遊ばされたるにか。1898 (71) 『鈴木大拙未公開書簡』438頁

3) 1898年6月14日山本良吉宛書簡より抄出。/今朝の当地の新聞によれば国会は地租増税に反対して解散せられたる由、日本政界の乱脈知る べし。日本今日の勢にては尚政党内閣を造る能はざるにや。予は皇室が依然として旧時の超絶、神聖主義を夢み、国民も亦勅語を此上もなく有難きものに思ひな すを以て進歩に益なしと信ずるなり。之がために政府が自家に不利なることあれば直ちに此に隠れて人民の口を箝制せんと勉め、人民も亦此がために自由思想を 挙揚するの途を塞がれ、勅語を楯にし、皇室を担ぐものの前には、一も二もなく拝服せねばならぬなど、甚だ不都合ならずや。〈(欄外)此の如きことはゆめゆ め公にすべからず、吾は暫く期を待たざるべからず。〉 近時の日本主義など 功利主義に天皇の衣装を着けしめ、之を担ぎ廻して、自家の説を推し通さんとす、昔の南都の坊主共が神輿を利養したるさへ思ひ出されて、いまいましき限りな り。木村の「国教論」など乱暴を極む、たとひ日本主義に多少の取るべきふしあるとするも、功利説の牽強附会せられたるを見ては、誰も耳傾ける気にはなら ず。1898(72) 『鈴木大拙全集』[増補新版] 三十六巻145-146頁



1899


1900


1901


1902


1903

4) 1903年(月日不明)山本良吉宛書簡より抄出。/今回の哲学館事件の如き何ぞ児戯に似たるの甚だしきや、当国の予の今の者より見れば文部省の仕打ち狂人 の所作としか見られず、忠とは何ぞや、国体とは何ぞや、赤子のがらがらに勝れる直(値?)打あるにか、而して 之を正宗の刀のやうに降り舞わす政府の役人、障らぬ神に祟りなしと、程よく避けんとする国民、岸を隔ててみれば一場の好笑柄、併し君は尚這裡の人、予の意 見を余りなりと思し召さん、とに角、人民自主の気風なく、政府を君主なるものの代表となし、而して君主なるものを神人のやうに人間以上となし、其命に是れ 従ふを忠とか何とか云はんとするこそ片腹痛けれ、今の日本の天子は幸いに賢明なり、国民の政治に干渉せず、もし皇太子位に即くとき、今の独逸の帝のやうに 切りまわらんとし、而して人民は忠君と云ふ名の下に箝制せらるるとせよ、その結果は予想し難からず。1903(73)『鈴木大拙全集』[増補新版] 三十六巻151-152頁



1904

5) 1904年10月1日山本良吉宛書簡より抄出。/戦争は長く続くにや、日々の新聞旅順における悲惨の景を伝ふ、殆ど読むに堪へざるものあり、双方とも決死 して軍に臨むため、互 いに殺さずば止まぬと見ゆ、予は日本有為の軍人の多く死するを悲しみ、露国無辜の農民の苦しむを憐れむ、何とかして結着をつけたきものならずや、憾らくは 敵国政府専制の習として、疲弊困憊して復起つ能はざるまで戦はんとするならんを。1904(74)『鈴木大拙全集』[増補新版] 三十六巻238-239頁

6)  1904年12月1日山本良吉宛書簡より抄出。/日本の政府が戦争の成行を報ずるにおいても、勝てる所をのみ大仰にいひなして、其失敗を言はず、言ふこと あるも、成るだけ之を 小さくせんとす、之国民を愚にせんとする也、軍機にかかる処はとに角、然らざる所は公明正大を主として国民全体を信用して可ならんに、其此に出づる能はざ るは遺憾ならずや、当時当地に数日間滞在せる日本人あり、それと此事を言ふ、彼頑として日本政府の措置をよしとす、此の如き思想尚教育ある人の間に supportせらるとすれば、日本政事思想の進歩尚遅々たるものありと云ふべきか、貴意いかん、日本の政事は余程煩瑣にして干渉頗るうるさいと見ゆ、予 にして卒然帰国せんには其其窮屈に堪へざらんも知れず。1904(75)『鈴木大拙全集』[増補新版] 三十六巻254-255頁

7)  1904年12月21日西田幾多郎宛書簡より抄出。/手紙並びに新聞切抜き受取申す、今次戦後の事は山本よりくれる新聞やら藤岡の手紙などにて知りたり、 固より軍人の身の上なれ ば、今日あらん事は兼ねてよりの覚悟なれど、愈々其時となりて見れば、今更の情なくばあらず、抽象的にはそれらの理屈もつくけれど、日々具体の出来事の上 にありては、苦しき、悲しき思をなすが人間の心なり、此心によりて今一入の修練をなすが、尊き死者の贈物と云ふべきか、人生は真面目なりとの考へ、今度の 戦争によりて深く日本国民一般に滲み込むなるべし、旅順の戦争のみならず、遼陽方面のも、中々常の人の想像の如くならず、露兵の頑強、意想の外に在るに似 たり、我が軍の勇悍なるは言ふまでもなしとして、之に敵抗して、連敗に屈せぬ□□相手の剛強も亦褒むべしとすべし、日々の新聞旅順方面を(原文ママ)惨を 報ず、読むものをして覚えず寒毛卓豎せしむ、当国民の太平無事を楽しむと相比して、如何に我国民の深く悲しみの淵に沈めるかを思ひ、悵然として独り胸をい たむ、国威とか云ふものの戦あるごとに揚がるは去る(原文ママ)ことなるが、これがため幾多の生命を失ひたるかを思へば生き残れるものの責任の殊に大なる を覚ゆ。1904(76)『鈴木大拙全集』[増補新版] 三十六巻256頁


1905

8)1905年2月12日山本良吉宛書 簡より抄出。/今度の戦争は日本人の自覚を覚醒し、自家の文明の他に比類なき処あるを知らしむるにおいて大なる力を有す、多くの人の死する上 国民の負担の日に高まるは嘆かわしき事なるが、之によりて日本文明の将来に大なる光明を与えることありとせば、今日の邦人、子孫のために此の大なる重荷を 負ふをいとわざるべし、今度の戦争は、双方のくたびれexhaustionに終わらんも知れず、独逸、英吉利など其機に乗じて自家の利を図らんとするなる べし、我国古今の歴史において今の時ほど外交家 の手腕を要するはなし、文明のために露国と戦ふなどは虚言八百なり、何れも自国の利益のためなり、されば外交家たるもの他のわが虚に乗ずるに先ちて露と結 ぶか、さなくば深く米英と結托して愈々の時の準備を夙になしおかんを要す、流石に露国は大国なり、内政如何に挙がらずとするも戦争は極処まで続くなるべ し。1905(77) 『鈴木大拙全集』[増補新版] 三十六巻258頁


1906


1907


1908


1909
1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住 み、学習院に赴任。英語を教えたが、終生交流した教え子に柳宗悦や松方三郎等がいる学習院講師(英語担当) 東京帝国大学文科大学講師(1916年まで)。

1910
学習院教授(1921年まで)。
9)1910年『新仏教』掲載の「緑陰 漫語」より抄出。/日清日露の兩大戦役の後を受けたるが故なりと曰はば曰ふものの、軍人の跋扈は余り心地よく思はれぬものなり。米国において軍服 がましきものを見るは、宿屋の召使位なものなれど、英国に渉れば、多少の兵隊を見る、而も目に立つほどにあらず。仏国に行き、独逸に旅するに及びて、始め て国を挙げて一大軍隊的組織なるを見る。露国に至りても同様なるべしと信ず。而して其最も甚しく思はるるは、日本に帰りてなるべし。これ一は我国の事情を 知り、また軍人全盛の実際を覚り得べき機会に触るること多きに由るべし。されど其余りよき心地せざるは、何国に在りても然り。身自ら軍人となりて時めくに 至れば、兎に角、今日の身の上より見れば、軍人の優遇は分に過ぎたる如く思はる。其上平気に観じ来たりても軍人の偏重は決して国家の前途のために祝すべか らざるものと予は信ず。一方を重んずれば勢ひ他方を軽んぜざるべからず、即ち軍人に多くの金を費やすときは、教育に之を惜しむと云ふが如き事情なき能は ず。1910(78)『鈴木大拙全集』[増補新版] 三十六巻269頁


1911
1911年にベアトリスと結婚

1912


1913


1914

10)1914年『禅道』第五十一号所 載「禅と戦争」より抄出。/或る人問ひて曰ふ、禅者は近時の大戦争に対して何等の感想をか抱く、と。禅者答へて曰ふ、別に何等の感想と云ふものなし、殊に 禅者としての感想と云ふものに至りては猶更なし。禅者とて別に変りたる人物にあらず、目二つ、足二つ、頭一つの動物なること、他の人類と相異のふしなし。 されば、寒さを寒さと感じ、暖かさを暖かさと感じ、月の白きを見ては秋光の愛すべきを思ひ、花の赤きを見ては春色の賞すべきを思ふ。戦に対しても、平和に 対しても、もの思ふ所、他の人類と何等の差等是れあらず。如何に棒喝とか云ひて喧嘩ずきに似たる禅者も、屍の山を築き血の河を流すを見て、是れ大に我が意 を得たり、戦争万歳と叫ぶものあらんや。もし人々、其吾にあるものを全うし、開発し、増進せしむるを以て此世に処する最大要務なりとせば、此の如きは平和 の時代においてのみ最も有効的に実現せらるべし。一旦平時の状態に変調を生じて、互いに其隣人を射殺し切り殺して始めて、其務めを果し得ると云ふ時に至り しは、正に是れ修羅道、魔王大活躍の時節なり。人文の発達、科学の進歩、個人の幸福、家族団欒の楽しみなどと云ふものは、ただ風前に飛びちがふ暮春の落花 に異ならざるべし。戦争は、極楽を一転して地獄となし、菩提を一転して煩悩となすもの。禅者豈戦争に与するものあらんや。されば近時の大悲劇に対する禅者 の感想も亦、教育者の感想の如く、人文を愛するものの感想の如く、進歩を喜ぶものの感想の如く、商工業者の感想の如く、農業者・科学者・政治家の感想の如 くなる外ならざるべし。殊に禅者の感想を問ふものは誤まれり。・・・ただ普通の人として曰はんに、今日の戦争は所謂泰西基督教的文明なるものに対しての大 打撃・大破綻・大失敗として見るべからずや。戦争そのものが既に非宗教的なり、故に一たび破るれば、従来の制裁は一時にとりのけられて蛮野時代の光景をそ のままに現出す。赤裸々の人心は禽獣にも似たらんかと思はれて、浅間しなんど云ふばかりなし。・・・戦争と云へば、いつも思ひつくことあり。想ふに人の一 生は戦争の連続なり。少しにても我が心に油断が出来れば、敵必ず此罅隙につけこみて吾を撃破せざれば止まず。故に用心・修養・鍛錬は日日に刻刻に積みもて 行かざれば、我が道徳・宗教は必ず忽ちにその根底をくつがへさるべし。丁度戦時の警戒に似たらずや、少し外敵に克ち得たりとて油断すれば、その緩みたる処 よりして崩壊の原因は瞬時の猶予なしに進み入り来る。而してその進み入り来る途行は極めて秘密にして、その蹤跡を窺ひ難し。実に其油断そのものが直ちに是 れ強敵の侵入なり。一旦の見処をのみ頼りとして、少しなりとも弛みを生じなば、その見処は手を翻す如く失却せられん。是れ豈にただ禅の修業のみと云はん や。・・・禅者には特に一種の戦争観なるものなし、少なくとも吾一個人にとりてはそんなものなし。もしありとすれば、今云ふ如き内面的戦争の意義に過ぎ ず。今日の如き文明、今日の如き人心、今日の如き国際関係にては、戦争あるも自然の途行ならん、これにつきて何等の感想をか起すべき。只願はくは吾等をし て各自にその心裡は敵と相戦うて克つことを忘れざらしめよ。1914(79)『鈴木大拙全集』[増補新版] 三十巻407-408頁


1915


1916


1917


1918


1919


1920


1921
1921年に大谷大学教授に就任して、京 都に転居(1960年まで)。同大学内に東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』(Eastern Buddhist )を創刊

1922


1923


1924


1925


1926


1927


1928


1929


1930
英語論文で大谷大学より文学博士号を取 得。題はStudies in the Lankavatara Sutra。
11)1930年2月21日山本良吉宛 書簡への後書。/河上へ投票、只今落選のよし見ゆ、政党は皆だめ、併し無産がいくらか出ればよかるべし、又余計になるといけぬ。1930(80)『鈴木大 拙全集』[増補新版] 三十巻480-482頁

1931


1932


1933


1934
大谷大学教学研究所東亜教学部部長

1935

12)1935年10月16日山本良吉 宛書簡。/山川男爵の演説英訳、お送りのものに手をつけるよりも、初めから自分で試みる方が早く、又気分も出ると思ひ、やつて見ました、 お気に入らぬ点は又御教示に預り可申候、僧堂教育を安直に出版すること、印刷屋にきいて見ます、又二三年の後になると、又五百か千位再版したいと思へり、 そのときなれば尚都合よし、誰か東京の警察の人に知合無之か、赤化の傾向あるものが淀橋で拘留せられて居るので(それからは、転々するよしにきく)、何と かしてその居処をつきとめ、又早く出獄するやうにしてやりたいと思ふのである、何かつで(伝)有之候か、佛教と日本主義の関係につき先頃西本願寺でその種 の本を出版したり、本郷の森江へでも電わで御問合あれば知れると思ふ、秋冷御自愛あれと祈る。十月十六日 大拙拝 山本老兄侍史 1935(81) 『鈴木大拙未公開書簡』361頁 

1936


1937


1938


1939
1939年、妻のベアトリス・レイン死去

1940

13)  1940年2月10日山本良吉宛書簡より抄出。/中学校入学の問題、父兄にとりては大事なり、御苦労同情申上候、近頃学校の教育、大いに科学性を欠く、国 体も天業も祭政一致も 結構なれど、その内容具現の点につきては、何にもなし、空疎をきわむ、東亜新秩序もその通り、なんらの実行性ももたず、国民を駆り立て一部能治者のイデオ ロギイの犠牲に供せんとす、内乱起らざれば幸なり、出征の人々は言ふに及ばず、銃後の吾等も迷惑千万、現時の日本に一人の政治家なし、慨嘆痛惜の至り也、 是から二十年後の用意をしておかなくてはならぬ、教育の局に当るもの、その任大なりとす、厳寒、炭なく、米なく、燈なし、御自愛是祈、奥さまへよろしく  御大事に 二月十日 貞拝 山本君侍史 /1940(82)『鈴木大拙未公開書簡』385頁

1941
1941年に自ら創設した「松ヶ岡文庫」 (東慶寺に隣接)で研究生活を行った
親友の山本良吉宛昭和十六年 (1941)二月十三日の手紙。「葉 書拝見、今何か書かうと思つて居たところです、御申越の如きものおもしろからん、どうすべく、どうなるかと云ふこと、余り忌諱に触れないところでしかるべ きか、これは別にして実際考えて見ると、日本の前途は実に寒心すべきものがある、政治家のないのが一番困る、思想上の見透しのつかぬ、わいわい連中の跳梁 は見てをれぬ、/ 何れ又 / 二月十三日 / 貞拝 / 山本君」1941(57)『禅と戦争』14頁

1941年十二月八日の真珠湾攻撃先立つこと四ケ月、同年八月八日付けの岩倉政治宛の書簡「貴書拝見、刊行不許可、遺憾に候、併し出来て居れば、何年かの 後に、公刊可能なるべし、御辛抱のことと存知候 / わしの考では、日本は此戦役で破滅に瀕する危機を味ふにきまつて居る、現に味うて居ると云つてよい、 こんな矛盾をいつまでも 続けていけるものでない、日本の支配者の心中に一大矛盾がある、これが解消せぬと国運の進歩はない、東亜共栄圏も出来上らぬうちに崩壊するにきまつて居 る、是非もないが、自分等は集団生活の業報に服しなくてはならぬ、わしの忌憚なき意見はまた面晤の日を期すべし、宗教的信念なきものに、国事を托するの危 険は歴史の証明するところ、日本は現にこれにぶつかつて居るではないか、/ 暑くなつた、五穀豊穣なれと祈つて居る、/ 何れへもよろしく、/ 御大事 に、頓首 / 八月八日 鈴木大拙 / 岩倉君侍史/  試練と基督教徒は云ふ、忍従は封建的なり、無功用のはたらきでは余りに超越的か、老人的か、若きものはなんと云ふか」1941(59) 井上禅定・禅文化研究所編『鈴木大拙未公開書簡』禅文化研究所1989年刊行、416頁
1942

昭和十七年(1942)二月二十八日西 田幾多郎宛の手紙の中の和歌数首
○ みつるぎの光すざまし さはあれどくもらぬ玉の潤ひを思ふ
○ 権力と意志と血で生きる悪魔! 汝の責任 問ふものは誰ぞ(誰も   なきこそ悲しけれ)
○ 絶対の威力に生きて責任を持たぬものあり 名を国家と云ふ
○ 国家てふ名によりて魔のいとなみをいとなむ汝 われ汝を悪む
○ 君達よ そんなに踊るな昭南島 破くわいは易し創造は長し
1942(60)『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十七巻25-26頁
1943

「今までの日本仏教は本当の意味での大 乗仏教ではなかつた。余りに島国的政治性を帯びて居るので、その面では、兎に角、環境相 応の存在的意味を持って来たが、今日ではそれ以上に出ることは許されないのである。それで、布教的精神に燃えて海外に出て一生を草叢の間に終わるといふよ うな仏教徒は居なかつた。此点では、基教徒、特に加特力教徒の奮闘的精神に対して大いに遜色あるを覚ゆるのである。国の中では捨石になる覚悟を持つて居て も、国の外で、異域で、異国人の中で、生きて居るか死んで居るかわからぬと云ふやうな生活をして、自分の信ずる道に殉ずると 云ふやうな仏教徒は、まだ日本にはひとりも居ないのである。これは〈日本〉仏教と云ふものの性格から出てくる自然の事象である。」1943(20)『鈴木 大拙全集』[増補新版] 第三十二巻所収の論考。もとは『大谷学報』第24巻3号(1943年6月20日発行)に掲載。

「つまり大乗仏教徒は自分の所信が世界性を持って居ると云ふことを了解するに止まらず、その世界性を世界的論理で、世界的に論 述し宣布しなければならぬのである。これには伝灯や歴史を一旦は否定する必要があらう。吾等は今世界的に一大転回し百八十度の転回を要求せられて居るので ある。このきつかけは偶然な事実から出たとも云へる。或はある集団の、抑制を逸脱した行動から出たとも云へる。その発生の直接動機は何であつたにしても、 昭和十八年の今日は、吾等に迫りて世界的に吾等の持つて居た文化と思想の一大転回を求めるのである。この要求が大乗仏教徒の誰かの心の底に響きさうなもの である。否、その響きは誰にもかにも聞かれてあると信ずる。但々それに応じて起ち上がるだけの準備がまだ十分でないのであらう。鎌倉時代に於ける親鸞聖人 は、その時代が大地から呼びかけた魂の響きにふれて、どんな風に伝統を否定したかを見よ。/聖人までの伝統思想は、衆生がその善根功徳を菩提に廻向すると 云ふことであつた。それを彼は如来からの廻向と読んだ。これは伝 統思想に対しての真正面からの否定である。下から行くものが上から来ると云ふことは、彼以前には考へられなかつたのである。一旦考へ出されると何でもない やうに思はれもするが、始めてこれに考へ及んだと云ふことは飛躍である、横超である。大乗仏教には始めから回互性の哲学思想があつたが、これを意識して文 字の上に表現したのは親鸞聖人の天才である。真宗教徒は、それから発展して来た伝統的概念体系と肉食妻帯の実践とを、(真宗には〈僧侶〉はないのであ る、)一所懸命に研究し生活してきたが、今日ではそれだけで済まされぬ、どうしても聖人の宗教的体験そのものに飛び込んでこなければならぬ。話はそれから である。これが或は真宗教徒に呼びかけられて居る一大転回かもしれぬ。」1943(21)『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十二巻430頁。

「次に眸を放つて世界に於ける近代思想、特に科学思想が如何なる影響を文化の諸方面に与えつつあるかを見ようではないか。吾等 は精神的で彼等は物質的だなどと云つて、安価な己惚れに起居しては居られないのである。自分は精神的だとか道義性の専売特許をもつて居るなどど云つて居る ものほど、物質的で非道義的なものはないのである。両眼と双耳とを蔽ひ匿されて、他の云ふままに、左を向き右を向くものならいざ知らず、苟もすこしく自ら 内に省み外を観察するだけの知能のある仏教徒なら、何が事実の上に、彼等の身辺に動きつつあるかを認識し能ふのである。彼等はだまされて居るとは云はぬ が、彼等は確かに自らの耳目を十成に活用しては居ないのである。」
1943(22)『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十二巻432頁。

「兎に角、今時の仏教徒には何れの方面に向かつても一大転換の事実を成就させねばならぬものがある。若き生ける仏教徒は深く思いを此に致してほしいのであ る。」1943(23)『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十二巻434-435頁。
1944

?「自分は〈日本〉と云ふ言葉をどう云 ふ風に使ふかにつきて一言しておく。それは地域的民族的意味にのみ使はれるので、其他の意 味を持たないことにしたいのである。即ち日本と云ふ地域、東洋の一角に空間的位置を占めて居る場處、そこに棲息して居る民族或は人類の間に自覚せられた霊 性的自覚を、日本的霊性的自覚と云ふのである。霊性の概念は云ふまでもなく普遍性を持つものであるが、其自覚は個人個人の上にある。そしてその個人個人は どこかの大地に居て、どれかの民族に属するのである。それ故、霊性的自覚の上に〈日本的〉を冠することが出来ると思ふ。」戦争中(27)『鈴木大拙全集』 第八巻106-107頁。

「云はなくてもよいやうで、やつぱり云つておく方が、何らかの誤解を防止する役に立つだらうと思ふことがある、― それは此で 云ふ〈日本的〉には絶対に政治的意味のないことである。……政治はいつも力である、威力、権力、圧力の源泉である。霊性にはそのようなものはない。それは 徹底的に大悲である、大慈である、誓願である、無辺無尽の悲願である。力はその中から出てくる。その中から出た力でないと、力は必ず暴圧的なものになる、 排他的自尊心となる、帝国主義、侵略主義、兼併主義など云ふあらゆる歪曲性を持つた力の行使となる。活人剣で裏付けられぬ殺人刀ほど非道なものはないので ある。政治から決して霊性的自覚は出ない。政治は霊性的自覚から導き出されなくてはならぬ。その逆は嘘である。必ず崩壊と収拾不能を伴ふものである。殷鑑 遠からず、ドイツを見よである。」戦争中(28)『鈴木大拙全集』第九巻164頁。

「今回の講演ではまず大略此邊以上に出る時間がない。拙著『日本的霊性』も亦固より尽しては居ない。これから益々此方面の研究 を進めていく所存である。真宗のお方は、自分が今までの講述で、真宗の佛教性が消えて、何もかも日本的霊性的自覚に摂収されたのかと思召すかも知れない。 併し自分の意図はそこにあるのではなくて、日本的霊性的立場と云ふようなものが考へられる、さうしてそこから所謂る「佛教の日本化」を観察したいと云ふの である。佛教者のあるものは、〈日本化〉を余りに強調して、時局下の思潮 ― 中には甚だ不穏なものもあつて、或は大いに国家に禍するものもある と思うが、そんな思潮をも鵜呑にして、日本化、日本化と云ふのである。自分はこれと反して日本的霊性なるものの主体性を主張し、そこから佛教の日本化なる ものを見ようと云ふのである。このように見方を変へてくると、所謂る〈日本化〉なるものが世界性を持つのである。世界性のない精神文化なるものは死骸と同 じい。外に出て外のものを摂取し消化するだけの生命力を持ち得ない。従来の意味の〈日本化〉なるものは、佛教を例に取って見れば、佛教を固形化すること、 ある意味では、化石性を持たすことで、佛教の死滅である。佛教を活かし、真宗を活かす、殆ど唯一の途は、日本的霊性的自覚の主体性に注意するより外ないと すら考へて居る自分である。ここで日本的なるものが世界性を加へて来るのである。」1944(29)『鈴木大拙全集』第九巻165-166頁。


1945
鎌倉に松ヶ岡文庫を設立
「我が〈神国〉の現在は実に魔王の荒れ 狂うままに放置されているではないか。ただ天罰だとか天譴だとか云つてのみは居られない。彼ら(国家神道信奉者)の云ふ〈雄大な規模〉なるものに何か極め て不健全なものがあるに極まつて居るのである。(平田)篤胤の所説を以て 〈古より今に至るまで、国学の思想的中枢たるもの〉となす人々の責任は十分に問はれて然るべきであらうと、自分等は信ずる。日本は先に共産主義を以て国体 を破滅に導くものとして、厳罰を加えた。篤胤一流の国学者は実に〈国体〉だけでなく、その内容をも併せて崩壊の一途を辿らしめて居るではないか。」 1945(30)『鈴木大拙全集』第九巻202-203頁。

第一に今度の戦争には何らの名分がなかつた、主張がなかつた、誰が聞いても成程と思はれるやうな思想的背景はなかつた。満州で始められた戦争は純粋に略奪 的帝国主義の行為であつた。」1945(35)『鈴木大拙全集』第九巻294頁

「満州が兎に角片付くと、北シナに乗り込んだ。満州だけでは日本の生存が経済的に確保できない、どうしても北シナへ進出しなけ ればならないと云ふのである。北シナでも調子よく行つたので、これを天皇陛下の御稜威と云つた。陛下にとつてこれほど迷惑なことはなかつたと信じてよい。 〈御稜威〉は、文殊菩薩の活人剣の如く、又不動明王の降魔の剣の如くでなければならぬ。満州でも北シナでも、此種の剣を、日本軍は使用しなければならなか つたであろうか。彼等は吾等に対して何らの危害を加へるものではなかつたのである。……如何にも露骨な侵略的武断的帝国主義の肯定に外ならぬ。」1945 (36)『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十三巻7頁

「北支から中支、南支へと、所謂〈聖戦〉なるものが拡大された時、吾等国民一般には、何の拡大であるか、全く五里夢中であつた。軍閥と財閥が只勝手に勢に 任せて南下するものとしか考へられなかつた。それから南京における非人道的な残虐行為 ― 国民には全く隠蔽せられて居たが、外国へは筒抜けに知れて居た其暴虐無比な行為 ―、何のためにそのやうなものが〈聖戦〉付加物となり、〈皇軍〉の是非やらなければならぬ行為であつたか、国民には全くわからなかつたのである。」 1945(37)『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十三巻7頁

「中・南支における〈聖戦〉なるものは、自ら他国の利権を侵害することになつた。この他国と云ふものも亦固より博愛人道に終始 しているものではないが、兎に角、一方が力を行使すれば他方もこれに対抗して力を行使するに決まつて居る。これが戦争なのだ。元来、全ての戦争には〈聖〉 なるものは決してないのである。〈聖〉は力を超越したところにのみ顕現するものである。併し日本の軍閥は何でもかでも〈皇〉軍と〈聖〉戦とで押して通し た。」1945(38)『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十三巻8頁

「かうしたことから、シナで米英との衝突を来した。米英に対しても〈聖戦〉呼ばはりをやつたが、今度は少し趣を変えて、〈大東 亜戦争〉と云ふ名称をつけた。これは理由の立たぬことはなかった。東亜の民族は何れも欧米の強国から圧迫を受けて居た。彼等はそれから解放せらるべきで あった。併しこれをやるには少なくとも二つの条件が必要である。一つには圧迫下の東亜民族そのものに独立の意志と努力がなければならぬ。さうして又一つに はこれを援助するという日本そのものに十分の実力がなくてはならぬ。然るに〈大東亜戦争〉にはこの二つともが欠けて居た。ことに第二の条件は我国にとりて は皆無であつた。」1945(39)『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十三巻8頁

「それなら日本は何故にこの無謀を敢えてしたか。ここに軍閥の無分別が曝露せられるのである。シナの〈聖〉戦がどうしても片付かぬので、新たな名でこれを 東亜の前面に拡げたのである。軍閥や財閥の思想の貧困さがいかにもまざまざと見せつけられる。箝口令のもとに喘ぐ国民一般は兎に角として、重臣とか国会議 員とか云 ふ側の人達が、この無謀の挙に対して、軍閥や財閥を押へ得なかつたと云ふことが、吾等にはどうしても解し得られないのである。緒戦には花々しいものがあつ たにしても、それは素人欺しにはならうが、玄人の眼からすれば、危険此上もなかつたのである。それにも拘はらず、あるいは正にその故に、彼等は益々欺瞞と 威嚇を以て国民に臨んだ。大部分の国民は群集心理で動くより外何も知らないのである。小数の知識人のみは大体の見透しを付けて居たのであるが、彼等はあら ゆる意味で言論・行動の自由を奪われて居た、袖手傍観の外はないのであつた。さうして戦争は遂に今日に至つた。」1945(40)『鈴木大拙全集』[増補 新版] 第三十三巻8-9頁

「愈々終局になつてから、国民は鳶に油揚でもさらはれたやうに、只茫然としているのが精精であつた。少し気がつくようになる と、官僚は国民総懺悔だと叫ぶ。国民は何を懺悔してよいのか全くわからぬ。深い情性から出た懺悔なら、日本人だけがすべきでない、全世界の人類、勝者も敗 者も、共に心の底から懺悔すべきである。それを敗者のみの懺悔とは何の事か。特に指導者なるものに、左向けと云はれて左向き、右向けと云はれて右向いた国 民は、何を自分の罪業として、それを悔ゆべきであろうか。懺悔すべきは、今まで戦争をやつた、さうしてやらせた人達 ― 軍閥・財閥・官僚・重臣・上層階級の人達 ― ではなからうか。彼等は口だけの懺悔でなく、もつともつと実際的に 行為的に、懺悔の真実を挙ぐべきではなからうか。ただの国民から見れば、これほど非道理の云ひ分を聞かされることはないのである。さうしてそれを殊更に非 道理とも没思想とも考へないで、只黙々として居る日本人、時には雷同附和して、総懺悔を口にする日本人もあると云ふことは、いかにも彼等の理性を欠いてい る事実を明白に証明するものではないか。」1945(41)『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十三巻9頁

「永遠の平和を望みつつ常時の闘争を続けて止まないのが、人間の運命らしい。建設しつつ破壊し、破壊しつつ建設すると云ふのが、人間歴史の真相な のか。しかし無窮の輪廻ではどうも割り切れないものがあるやうで、安心のしどころがない。それなら人間は畢竟どうしたらよいのか。ここに一つの方便があ る。『普賢行願品』の一節に懺悔を教える。常時懺悔である。念念相続無間断の懺悔である。」1945(42)『鈴木大拙全集』[増補新版] 第三十三巻9-10頁

「今までの佛教は鎮護国家で動いて居た。戦争中は殊にこれがやかましく云ひ囃された。神道者から何か云つて責められると ― 佛教には、国家思想がないとか、天神崇拝をやらぬとか、皇道的道義がないとかなどと云つて攻められると ―、仏教者は躍起になって、〈皇道佛教〉を称える、聖徳太子の十七條憲法を担ぎ出す、歴代の詔勅が繰り返される。佛教の本領 は、只管に〈国家〉と結びつき、皇室と関係づけられることに由りて挙揚せられるものと、彼等は考へて居るらしい。戦争前から戦争中にかけての仏教者の言論 行動を一一調べて見たら、実に奇奇怪怪なものがあらう。彼らに自主的思索と 云ふべきものの片鱗をも認められぬのは、何と云つても今日の痛恨事である。」1945(44)『鈴木大拙全集』第二十一巻86頁


1946

「敗戦以来十箇月、新日本建設の声のみ 徒に高く、無秩序と退廃の風潮は漸く激化して、今や祖国崩壊の前夜に在るが如き現実を直視する時、真に克くこの危機を背負い、これを超克するの途は、一に 正法の開顕以外にあり得ないことは、我々の確信である。/茲に我が大谷教学研究所は、動乱の現実に一大燈炬を与ふべく、艱難を排して『大谷教学叢書』の刊 行を企てることにした。本書は、もと、昨年六月当教学研究所が第一回の講習会を開催せる際、講師の一人たりし著者(鈴木大拙)の原稿である。当時 空襲漸く激化して、ついに出講不能となりたる著者は、全国より参集せる聴講者の上に思ひを馳せ、烈々たる所信を披瀝して、開会直前本稿を当研究所にとどけ られたのであつた。当時、杉平顗智氏の代読を聞きつつ、異常なる感銘を覚えたのであるが、敗戦後の今日、改めてこれを繙く時、現前の危機を克服し得る途 は、ここに既に明示せられ、惻々として我等の心根を打つ。/敢えて本書を『大谷教学叢書』の第一巻として世に送る所以である。」1946(25)『鈴木大 拙全集』第九巻所収。

「和辻教授の此所述は、今日云ふ行過ぎ国家主義のイデオロギイである。……特に天照大御神を撰びだしてこれを〈現御神〉の天皇と聯関させるところに、『日 本の臣道』の著者の政治的意図が看守せられるのです。彼は日本国家を以て絶対神からの〈途中の神(天照大御神)〉によりて経営せられるものとして居りま す。さうして此〈途中の神〉の方が絶対神よりも具体的で、世界宗教と云はれるキリスト教や佛教などよりも、〈排他的でなく〉又〈一段高い立場〉に立つもの と考へて居ります。それから此〈途中の神〉の生物学的後裔たる現御神(天皇)は、〈途中の神〉と同じく絶対的神聖性をもつものであるから、彼を尊崇するこ とは、やがて〈途中の神〉を尊崇すること、又随って絶対神への繋がりを認覺するものとして居るのです。」1946(45)『鈴木大拙全集』第二十一巻86 頁

「武断主義になると、人命の上でも財産の上でも非常な犠牲を出すことになるのみならず、被侵略国の方では、種々な方面で非常な 圧迫を受けることになる。単に人道主義の面から見ても、戦争するものは、人間の命を何とも思つて居ない、人を切ること麻の如しと云ひますが、現に敵するも のだけでなく、女でも子供でも無茶苦茶に殺してしまふと云ふことになる、聞くだけでもぞつとする。ヨーロッパの一隅に崛起した所のドイツ民族を指導して居 つた人達だけが残虐行為をやつたのかと思つていたら、日本人のやり口も中々に尋常ならぬやうであつたと聞かされて、吾等は慙愧に耐へない次弟であります。 戦争は元来狂人の仕業であるから、尋常一様の道義観では批判せられぬと云ふかも知れぬが、善良な人民を駆つて、こんなことをやらせる指導者たちには大責任 がある、絞首の刑を云ひわたされるのも当然と思われるのです。これは敗者だけの反省すべきところではなくて、勝者も共に自誡すべきであらうと考へます。そ れは何れにしても、吾等敗戦国の人民としては、何事も忍従と懺悔で、これからの進むべき途に進むべきことを勤むべきであると信じます。」1946(46) 『鈴木大拙全集』第八巻273-274頁

「異質的西洋文化思想の襲来に際して、仏教徒は仏教徒として、自分等の今までの考へ方、即ち〈過去〉に向かつて、清算し否定すべきものを、清算し否定し て、新局面の展開をやらなくてはならぬ。〈大東亜〉戦争と 云ふが、その実は思想的に東亜(西?)文化(50)の抗争であると見てよい。仏教徒は此抗争に加わつて自らが持つ本来の使命を果たさなくてはならないので ある。」1946(51)『鈴木大拙全集』第二十八巻343頁

「文化思想の方面では、抗争と云い相克と云い頡頏と云つても、相手をねじふせて動かぬやうにすると云ふことはない。特に相手の 思索方法や装備や歴史などと云ふものが、自分等のものに対して、必ずしも劣等であると云へない場合は、それを絶滅させるなどということは、事実不可能でも あり、また自分にとりて却つて不利である。西洋文化は東洋のとその質を異にするが、またそれだけに、吾等はそれを取り入れてよいのである。それから又相手 の人々も吾等のを取り入れなくてはならぬのである。吾等としては向こうのものをしてさう云ふことになるべき心持を起さしめなくてはならぬのである。この役 割は実に仏教に課せられて居る。何故かと云ふに、東洋的文化思想の中軸に動いて居るものは、仏教思想だからである。」1946(52)『鈴木大拙全集』第 二十八巻343頁

「併し此は大きな声では云はれないが、自分にも悩みのないことはないのだ。原子爆弾で焼き尽くした焦土の中から青々と芽を出す 草があり木があることだ。大地の懐から太陽の光を仰いで出て来る不思議な力、この力はわしの力よりも強いのだ。これは魔性のものでない。力以上の力だ。不 思議にわしの力を無力にしてしまふのだ。人間の奴はこれを霊性的だとか云つて居るが、兎に角、怪しからぬ働きをする。わしと同じく人間の〈無意識〉に生き て居るやうだが、わしの力ではその正体をつきとめられぬ。時にはその存在を無視しても見るが、どうもわしの思ふやうにならぬ場合がある。それが予期しない 方面――或は予期不可能の方面――から、いつのまにか、頭を擡げて居るので困る。焼野ヶ原から芽生える青草のやうな奴、霊性とかなんとか云つて居るが、こ いつを一つ何とかしてやりたいが、これだけは、ままならないのだ。それで余り大きな声では云はれぬのだ。人間の耳に入るととんでもないことになる。が、此 霊性的自覚から芽生える大悲と云ふわしの見えざる相手、わしを遂には取りひしぐかも知れない相手――大敵ではあるが、自分としては出来るだけの魔神力でこ れに抵抗して見せるぞ。相手もわしを負かすには容易ならぬ努力を要するのだ。わしは名にし負ふ魔王である。」1946(65)『鈴木大拙全集』第九巻20 頁

「大地の懐から太陽の光を仰いで出て来る不思議な力、この力はわし の力よりも強いのだ。これは魔性のものでない。力以上の力だ。不思議にわしの力を無力にしてしまふのだ。」1946(66)『鈴木大拙全集』第九巻26- 27頁
1947


1948

「自分の見解では、国家を先において、 それから宗教を考ふべきでなくて、その反対が真実だと思ふ。即ち国家に宗教を順応させな いで、国家を宗教に順応させるべきだと云ふのである。〈今まで〉の国家はどんなものであつたかは、試験済みだ。宗教に団体として加へた圧迫、及び宗教が国 家を頼つて道ならぬ利欲を獲得しようとした策謀 ― 何れも見苦しいことの限りであつた。これは〈これから〉の吾等の生 活の上に繰り返したくない。国家を先にしないで、宗教を先にしなくてはならぬ。宗教と国家は没交渉だと云つても、事実、宗教的個己はまた政治的個人であ る。できるなら此個人の環境をして極楽浄土の写しにしたいものである。それはなぜかと云ふに、宗教の世界は絶対個己の世界ではあるが、これは政治生活や集 団生活又は経済生活から隔離し絶縁したものと考へられてはならぬのである。上述のところでは、宗教をその絶対個己的自覚の上で見たが、宗教にはまた相対性 の一面があるのだ。それを忘れてはならぬ。即ちその面で宗教が知性の上に現はれてくる。知性は絶対独自の世界ではなくて社会性を持って居る。知性の世界は 集団の生活に外ならぬ。それで宗教は国家の上に動き出る。さうしてこの国家は宗教的知性を持ったものでなければならぬと云ふことになる。」1948 (33)『鈴木大拙全集』第二十三巻139頁

「上来の所述を要約すると、宗教とは霊性的自覚の世界を云ふのである。この世界からすると、国家などはどうあつてもよいのだ。 如何なる形態の国家でも宗教をどうするわけに行かず、また宗教のほうで国家などになんらの関心を持つものでないのである。それは、絶対的個己の立場から云 ふと、宗教は所謂る物外に超然として居るのである。天地の生成と破壊にさえ没交渉の立場を持つ宗教は、国家と云ふ空間と時間に制圧せられた人々の制度に対 しては大した関心を持ち得ないのである。/併し霊性的自覚の世 界はそのままで存在するものでない。それは必ず知性又は理性の世界に出るべきものである。即ち差別界に出て始めてその意味を十全にする。此點で宗教は国家 の経営に大いに関心を有する點があるのだ。一方では無関心で他方では多大の関心がある、宗教にはこの二面がある。それで宗教は国家に対して自由の制度を要 求する。自主の原則が十分に働きうるような集団生活の構成を要求する。限定または制扼と考へられるものは、国家から出ないで自主的相互契約の結論とならな くてはいけない。」1948(34)『鈴木大拙全集』第九巻290頁
1949
1949年には、ハワイ大学で開催された 第2回東西哲学者会議に参加し、中華民国の胡適と禅研究法に関して討論を行う。同年に日本学士院会員となり、文化勲章を受章した。

1950
1950年より1958年にかけ、アメリ カ各地で仏教思想の講義を行った。 プリンストン大学・ニューヨーク大学などで講演。ニューヨークに居住する。

1951

1952 1952年から1957年までは、コロン ビア大学に客員教授として滞在し仏教とくに禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。ハワイ大学、エール 大学、ハーバード大学、プリンストン大学などでも講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングらが主催したスイスでの「エラノ ス会議」に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボリなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。ハイデッガーとも個人的に交流があった。

1953

1954

1955

1956 ※ウィリアム・バレット(哲学者;William Christopher Barrett, 1913-1992)はD.T. Suzukiの『禅仏教(Zen Buddhism.)』の編集務める。

1957

1958 帰国

1959 松ヶ岡文庫で研究生活

1960 1960年に大谷大学を退任し名誉教授と なる

1961

1962

1963

1964

1965

1966
東京築地の聖路加病院で死去


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