池田光穂
この論文は、同名の著者による『観光の二〇世紀』[共著]石森秀三編,ドメス出版,(担当 箇所「遺跡観光の光と影——マヤ遺跡を中心に」および総合討論),pp.193-206,1996年12月と、ほぼ同じ内容のものです。文献と謝辞は省い てあります。上掲の本を書店あるいは版元で あるドメス出版(Tel 03-3944-5651, Fax 033944-3599)に注文されるか、図書館で必要な手続きを得て複写してください。お願いします。
2. 武装蜂起とマヤ遺跡
一九九四年一月一日メキシコ、チアパス州におけるサパティスタ国民解放軍(EZLN)による武 装蜂起は、北米自由貿易協定(NAFTA)に伴うメキシコの貿易自由化と南部の観光振興を期待する人びとに冷や水を浴びせた。サパティスタは同年暮れの一 二月一九日にも再度蜂起をした。この蜂起は一般には中央政府の農業政策の転換に対する農民の抵抗として位置づけられており、政府との交渉においてサパティ スタ側は先住民の貧困や抑圧からの解放と、政府与党の汚職に対して政権の放棄を要求している(落合、一九九四)。
いくつかのコミュニケによると、この闘 争が先住民のアイデンティティの確立と深く関わっていることも確かである。サパティスタのコメントなかには政府が先住民を「人類学的な対象、観光客相手の 珍しいもの、あるいは『ジュラシック・パーク』の一部として見ている」という非難がある(クリーヴァー、一九九四、一五五頁)。サパティスタ解放軍が観光 客に対して積極的に危害を加えたという報道はないが、この表現には観光や人類学が現地の人たちをネガティブな「もの」にするという隠喩として語られている ことに注目したい。
今回の武装蜂起のあったチアパス州にはユカタン州、キンタナ・ロー州とならんでマヤ文明の多数 の遺跡がある。さらに隣接するグアテマラのほか、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドルにもマヤ考古学上重要といわれている遺跡が数多くあり、主要な遺 跡のいくつかは発掘がすすみ、現在遺跡公園として整備され年間を通して多数の観光客を受け入れている。その五ヶ国すなわちメキシコ、グアテマラ、ベリー ズ、ホンジュラス、エルサルバドルの各政府あるいは民間機関が協力し、この地域を相互に結ぶ「ルータ・マヤ」計画と、広域的な遺跡と民族の観光プロジェク ト「ムンド・マヤ」計画が推進されている。
ルータ・マヤ(マヤの道)計画とは、かつてマヤ文明が存在した南メキシコおよび中央アメリカの 地域の観光の潜在力を開発する広域プロジェクトで、五ヶ国の公的および私的の観光開発機関・企業・組合による共同計画である。これらの計画のアイディアは もともと米国で企画された。ルータ・マヤ計画の姉妹プロジェクトで同じ地域をカバーしているがムンド・マヤ(マヤ世界)計画であり、中米およびメキシコの 各国の代表によって組織され、より公的な性格がつよい。この計画にはヨーロッパ共同体からの出資などがあり、プロジェクトは個々の国が、資金調達も含めて 独自にそれらを立案し施行している。
マヤ文明の遺跡観光については、すでにインフラストラクチャーが整備され、観光客に人気のある 遺跡公園がある。例えば、グアテマラのティカル遺跡、メキシコのパレンケ遺跡やチチェン・イッツア遺跡、ホンジュラスのコパン遺跡などである。あるいは現 在までに発掘調査が終わっているか、あるいは現在発掘中であるが、観光ルートに組み込み可能になったもの。例えばベリーゼのカラコル遺跡、メキシコのカラ クムル遺跡、エルサルバドルのホーヤ・デ・セレーン遺跡、ホンジュラスのエル・プエンテ遺跡などがある。また同地域における現在のマヤ系の人々の生活や文 化にも密接に関連させようとする計画もある。新大陸の発見以降この地域にはスペイン人の植民者たちが侵入してきたが、マヤの種々の先住民文化は彼らが持ち 込んだカトリック文化などの影響を大きく受けながら発展してきた民族文化が多くみられる。さらに植民地時代の重要な歴史的建造物も多くみることができる。 また最近ではエコツーリズムと積極的に関連づけられて開発されることもある。例えば、後に触れる「ラカンドンのジャングル」すなわち、ボナンパック遺跡や ヤシュチラン遺跡を含むメキシコのモンテス・アスーレス生物保護区は近年拡張され総面積五万五千ヘクタールにまでになった。一九九三年五月にはコパン遺跡 でマヤ圏の五ヶ国の首脳が集まり、ムンド・マヤ計画の経済発展ための生態環境保護と文化的資源管理の共同合意である「コパン宣言」が調印された。
では、ムンド・マヤ圏にどれくらいの観光客が訪れているのだろうか。ムンドマヤ計画の広報誌 『ムンド・マヤ』によると、ムンド・マヤと呼ばれる地域は年間に三〇〇万人を超える観光客を受け入れている(Mundo Maya, 1992)。この数字は同誌の試算では全世界の観光客の一パーセント弱であり、アメリカ圏を訪れる全ての観光客の四パーセントほどになるという。ではムン ド・マヤにはどの地域から観光客が訪れるのだろうか。一九九一年の需要人数と見込まれた三三〇万人から推定すると、地域別の割合は、北米であるカナダおよ び米国から一九五万人(六割弱)、ヨーロッパから四九万人(一・五割)、ムンドマヤの五ヶ国で七〇万人(二割)、残りは南米の一六万人などである。さて、 その目的地であるが、目的地の地域の国別の分布比率は、メキシコ(ムンド・マヤ対象地域)六〇パーセント、グアテマラ一六パーセント、ホンジュラス一〇 パーセント、ベリーズ八パーセント、エルサルバドル六パーセントとなっている(Mundo Maya,1992:18-24)。このようにメキシコのマヤ遺跡はムンド・マヤ(マヤ世界)観光の中心的存在と言っても過言ではない。
チアパスの高地に銃声が響いたのは、古代マヤ文明の遺跡と自然・民族・文化を国際的な連携のも とに大きく売りだそうとし、またその成功に明るい見通しをもとうとしていた矢先のことであった。
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