かならず
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行者と患者
shamans and their client
A Nahua man from the Florentine Codex, a 16th century ethnography.
The speech scrolls indicate speech or song. (Photo from Wikimedia.)
突然、私の眼の前で、“診断”とも“治療”ともつかない行為が始まっていたのだ。
呪術師である女の「先生」は、うっすらと眼を閉じて、しゃっくりのような、ヒクッ、ヒクッという音をたたている。私は、そのとき横で彼女 の旦那さんである「大先生」とインタビューとも世間話ともつかない、おしゃべりをしていたので、それが治療の開始であることに、すぐには気がつかなかっ た。しゃっくりはやがて、おくびのように、ゲブッ、ゲブッとすこし調子が強くなってきた。信者さんに対峙して正座した「先生」の身体が、前に後ろにゆっく りと揺れる。やがて、「先生」は大きく息をすってからフッーと信者さんの背中に息を吐きかけた。
そして、ふだんと変わらず、私と「大先生」のほうに向かって微笑んだ。奥さんである「先生」は、信者に憑いていた霊について、「大先生」 とことばを交わした。このとき私は、お医者さんと看護婦さんが患者の前で何やら専門用語でことばを交わしているような印象を受けたのだった。
これは、私が関西の大都市近郊の行者(ぎょうじゃ)さんについて、病気治療から信仰生活全般にまで調査研究をしていた頃に出会った、いく つかの“治療”の現場のひとつにすぎない。
行者さんとは、仏教用語でもともとは「仏道に入った修行者」のことをさすが、ここでは漠然と“呪術力を駆使して、透視、予言、徐災、そし て病気治療などを行なう能力のある者”を言う。「祈祷師」や「拝み屋」という言い方もあるが、いささか軽蔑した含みがあるのでここでは使わない。
このような呪術的な病気治療にまつわる、いろいろな治癒話には、おおむねドラマチックなものがおおい。私自身も、冒頭に掲げたものより も、より劇的な治病シーンを眼前にしたこともある。だが、私にとって、この“病気治療”との出会いが今もって忘れられない新鮮な感動となっているのはどう してだろうか?
それは呪術的治療が、日常生活とは完全に切り離された劇的なものであること以上に、もっと生活に密着したなにものかであることを最初に私 に印象づけたものだったからである。
さて、だいたいにおいて社会調査をおこなう研究者というのは身勝手なものである。しばしば人びとが信じて——あるいは騙されて——いるよ うに、連中は調査を通じて“新たな発見”をし、その新事実に即した理論を我々の眼の前に提示するとは限らない。たいてい彼らは、研究しようとする分野で先 行された調査報告や理論を予め机の上で勉強しておき、調査の方法やデザインを描いてから——すなわち理論武装しておいてから——現場に出かけ調査する。私 の場合も例外ではなかった。
言い訳がましくなるが、“呪術的医療”と聞いて心踊らない医療人類学者はいない。そこで、“凄い治療”に参加できれば、それだけで貴重な 調査報告になる。あるいは、仮にトリックというものがあったとしても、それに対して病気治療を行なう信者さんがどのように“言いくるめられる”か、そのお 手並みを拝見することができる。病気の平癒を求める信者さん以上に、我々はそこに“奇蹟”を求めるのである。このような「おどろおどろしい」呪術的治療の 現場を報告した論文を読み、その状況に出会ってみたいものだと、この種の研究者は夢をはずませるのである。
むろん、我々はそのような信者さんの信条がどのようなところに発しており、行者さんがどのようにその期待に応えているか、という極めて常 識的ではあるが重要な問題にも関心をもっている。しかしながら、ある特定の社会現象を現場で調査する者は、しばしば先に指摘した陥穽=“落し穴”におちい る。このことが、冒頭に指摘した私自身の“呪術的病気治療はドラマチックだ!”という予断であり、“もっと生活に密着したなにものか”でなかったことは、 読者はもうお気づきであろう。
私自身は、このような回り道をしたことで、その時は随分損をしたような気持ちになった。しかし、このような“痛い目”に合わないで、ドラ マチックな——そして、おどろおどろしい——現場ばかりをより好みしていたら、より悲惨な結果に陥ったかもしれない。
この種の失敗例をもうひとつ。キツネやタヌキが憑依する現象——いわゆる“憑き物”——も西日本の民俗社会でよく紹介されてきた。こちら も、呪術的な病気治療に関する論文などを漁れば、必ずどこかで見つかる代物である。“霊能力”があり“憑き物落し”(落とす、とはそのような憑き物を取り 去る=治療することを意味する)に長じている行者さんを前に、研究者が問いかけないほうがおかしい。そして、私もその“知的伝統”に従って、うかがってみ た。
——「先生!、キツネなどの憑き物って本当にあるんですか?」と私。
——「キツネやタヌキが憑くことは実際にはあるが、こういうことは言わんほうがええ。もっともキツネやタヌキの棲んでいるところが少のう なっているのに(それらの憑き物が)減るのは当り前や!」と行者さん。
そのとき私は、自分自身がはまり込んだ論理の“落し穴”に初めて気がついた。私は、その答のなかに、キツネに憑依された信者さんと、それ を“落として治療した”行者さんの武勇伝を期待していたのである。はじめから、憑き物が実在することを前提に——あるいは予見——して質問していたのであ る。何事も“理解していない”哀れな調査者に対して、その行者さんは、(心優しくも!)憑き物の存在は否定しなかったが、棲息地の減少が、病気の減少を引 き起こすという重要で明白な指摘をおこなったのである。これでは——むろん条件付きだが——科学的な推論を展開しているのは、調査者ではなく“霊能力のあ る”行者さんのほうになってしまう。事実そうなのだ。
今回は、私の調査に関わる失敗のエピソードを紹介させていただいたが、別にこれは私自身がマゾヒストであるからではない。人はしばしば、特 定の社会現象を観察するとき、あるいはある種の役割を担った人間と付き合うとき、知らず知らずのうちに、自分で作り上げたイメージを対象に押しつけている ということである。さて、「行者」さんの代わりに「患者」という文字を放り込んでも‥‥、と言えば、それは読者にとって教訓でなくて皮肉になってしまうで しょうか?
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