治療の文化的構成
Socio-Cultural Construction of the Traditional Healing in Modern Japan
San Jerónimo por Caravaggio , 1605 / San Jerónimo, por El Greco, 1609/ San Jerónimo escribiendo, cuadro al óleo de Caravaggio, (1607).
はじめに —— 宗教と医療の関係について
いかなる時代においても、信仰を通しての「治癒」というものが見られる。それは、近代医療によって駆逐されることはなかった。むしろ皮肉に も、信仰を通しての治癒は、近代医療の概念すら包摂(借用?)し、今日において影響力のもった「語り」として人びとのあいだに流布するに至った。しかしな がら、「近代医療の成立」を宗教からわかつ分水嶺とする理念は依然根強い。宗教と医療に通底する論理について考察することは、まさに今日の重要な課題なの である。
本稿は、大阪の東部を縦走する生駒山系に居住している、おもに修験道を中心とする「行者」*(1)と、そこに訪れる「信者」が織りなす、信仰と 実践の結 果としての宗教的治病について述べる。ここで筆者があげた「治癒」という用語は、分析のための概念であり、近代医学における「治癒」*(2)とは異なり、 病者本人の本復のみならず病者を取り囲む世界の調和の回復をも意味している。これは、ホリスティク医学あるいは医療人類学などで「癒し」と呼ばれているも のに相当する*(3)。筆者は、参与観察を含む調査*(4)を通して、信仰における治癒とは、病者をめぐる重層的な社会の諸関係の総体から論じられるべき ものであると考えるに至った。そのような観点から信仰のさまざまな諸相を概観し、修験系行者と信者が構成する「治癒」について考察を試みる。
生 駒
標高六四二メートルの生駒山を中心として南北に連なる生駒山系は万葉集にも数多く詠まれ、また奈良と大阪を結ぶ交通の要所として栄えてきた。 生駒山そのものを神山とみたてて往馬坐伊古麻津彦、伊古麻津姫を祀る生駒神社や、生駒山口に対する生駒水分の神が祀られていた生駒山口神社の存在は、元々 が山全体を信仰対象とした「神奈備信仰」の一形態であると考えられている。このような神道的な対象としての神体山や磐座が後に仏教信仰の場に取って代わる 例は、吉野の金峰山、東北の羽黒三山などの修験道場にも数多くみられ、神仏習合の形態を色濃く残していることがわかる。
生駒山中の街道の要所には数多くの石仏、仏塔の類が残っており、それにまつわる伝承や奇蹟の一端は今昔物語などの中世の説話からうかがい知るこ とができ る。それは、また組織的な修験道の信仰体系に組み込まれる以前には*(5)、農産物の収穫や雨乞いを祈願する民俗的な山岳信仰(ダケノボリ)として近隣の 村落共同体の人びとの崇敬を集めていたと考えられている*(6)。
生駒の修験道に関する寺社の伝承には、役行者や弘法大師が行を積んで行場を開いたり遺物を残したと言う歴史説話的な形式が多く見られる* (7)。しかし このような伝承は単に逸話だけに留まらず、現在でも行者のイニシエーション(=行者になる契機、加入儀礼)や修行にまつわる経験のなかにしばしば登場し て、そこで活躍する彼らの呪術力の源泉に歴史的な根拠を与えている。
生駒山系はこのように古い時代から聖性を持っていた。しかしながら、修験道最大の行場のひとつである大峯山系のような組織・系統だった行場とし ては展開 しなかった。その理由は明確ではない。中世以降、そこに国家あるいは貴族の庇護による宗教的センターが作られなかったこと、比較的低い山系であること、交 通の要所としてあり<神秘性>に欠けることなどが大規模な宗教センターとして発達しなかったことが、その理由として挙げられよう。しかし、このことが逆に 現在に至るまで、人々に手軽な「聖域」を提供することに成功したのである。聖と俗が交錯する位置に生駒はある。
寺 院
行者が生活を営み、呪術力を駆使した活動を行なっている行場や寺院は、山上あるいは谷に面した斜面に立地している、それは滝場(ないしは滝行 場)を組み込むのに最適なものになっている。寺院の基本的な要素は本堂、庫裏、滝場とそれに関連する小祠と塚である。しかし、これらの構成要素の空間配置 にはそれが設置される個々の立地条件により制限されており、とくに一般的な原則は見つけられない。
行場や寺院を管理するのは行者とその家族である。行者はその信者によって「住職」や「院主」と表現されることがあり、呼びかけとしては「先生」 と呼ばれ ることが多い。行者が複数いる場合には、区別するために「大先生」「若先生」「女先生」等の呼称が用いられる。行者の家族の他には、「先生」の弟子や寺院 活動を補佐するお手伝いさんなどの人達がいる。寺院の運営は行者とその家族が主導権を握っているが、さまざまな人達で構成される「寺院」の成員間には戦前 の大家族に比されるような共同体的な雰囲気が見られる。
行者と既成宗派の関係は、社会における行者の宗教的活動の永続性を論じる上で重要である。通常、生駒で修行を開始した(=「行に入った」)行者 達は「一 匹狼」的な人が多く、宗教上の位階や評価には無関心であった。しかし、その中にも既成宗派(ほとんどが密教系修験道)の位階や免状を持つ人がおり、絶えず 行の概念を裏付ける正統的な中心規範の情報提供者として機能していた。他方、既成宗派のほうは教勢の拡大を願っており行者の組織化を推進する必要があった ようである。また既成宗派のもとで宗教法人化することは、行者とその家族による寺院経営の安定を保証することを意味していたので、両者の利害が一致したも のと思われる。現在でも、各寺院は独自の信仰形態(例えば、両部神道、大峯登拝、四国八十八ヶ所巡拝、伊勢参拝などを組み込む)を保ちながらも、修験系の 既成宗派の末寺として本山の活動にも組みしている。
これらの一連の過程と、行者の呪術力獲得の様式の変化には平行関係がある。つまり初代の行者は教義的に未分化なシンボル(「龍王」などの守護神 仏)に導 かれて、修行のスタイルを経験的に獲得していき、行者として社会的な成功を得た後に既成宗派から位階を得ている。しかし二代目以降では、その寺院が属する 既成宗派の養成所を出て職能者の資格を取るにいたった。一般に、霊能力は「遺伝」しないからである。むろん、二代目の行者においても呪術力が修行によって 獲得できるという合意は成立している。
行 者 (ぎょうじゃ)
修行を行なう場(トポス)は、ひろく「行場」と呼ばれる。行場の伝承は神話的世界にまで遡るが、行者たちが記憶している行場の成立は意想外に 新しい。それは高々、明治の末期から昭和の初期にまでしか遡れないことが多い。すなわち行場は「再興」されたものがほとんどである。行場や寺院を再興した 行者たちのライフヒストリーは、直接本人への聞き取りや周囲にいた人たちの逸話などによっておおよそが再構成することができる。
行者の多くは、大阪近郊に生まれ、青年期以降に病気、経済的な破綻、人生に対する厭世感などの強烈な体験をしている。それが生駒に関連する信仰 を持つ人 と出会い、本人自身にあった宗教的求道の精神などと共鳴して、「行に入って」ゆくに至る。滝行を中心とする修行を通じて「病気なおし」「透視」「予言」な どの超自然的能力を獲得し、行者としての自覚を形成したようである。しかしこれらの諸能力は本人の意志とは関係なく「与えられた」ものであり、しばしば修 行の副次的な産物であるかのように言及されることもある。だが、宗教的な求道心の強さと、「与えられた」呪術力の大きさは、少なくとも信者が理解する限り においては重要な関係がある*(8)。
修行は、自ら「発心して」行うという点で、個人的な活動であるのだが、修行をおこなう者が複数存在する以上、社会学的な力学が作用する。実際、 昭和初期 から現在まで生駒で修行した行者はかなりの数にのぼると推定されるが、そのうちのごく少数の者だけが定着して現在のように至っている。その原因について、 多くの行者は「(超自然的な)能力にまさる行者が残った」と説明するが、修行以外の世俗的な関係、それを支持(=師事)する信者の組織化などの要因が絡ん でいる。
行者が定着した後の行場や寺院は世襲によって継承されていくので、二代目や三代目が寺院経営を引継ぐと、先に述べた宗派との関係同様、寺院を支 える信者 集団の構造が変化する可能性がある。実際、初代の行者の強力な「霊力」やカリスマ性に期待していた信者たちが、二代目の継承以後に減少するのではないかと いう危惧が信者および行者の間でおこり、寺院をめぐる信者たちの専らの関心事となることもしばしばである。しかし、多くの信者は行者との長年の交流を通し て二代目の人柄なりを熟知しており、行者の即物的な呪術力ではなく、加護を受けている守護仏神(八大竜王や不動明王など)の「御利益」を通して、組織的な 危機が回避されたこともあった。
■ 行者のライフヒストリーについては以下を参照してください
滝 行 (たきぎょう)
呪術力をつけるため生駒の行者が最もよく行う修行は滝行である。本来、修験道では行者の呪術力をつけるために山岳登拝し、それに伴う数々の儀 礼を執り行うことが主とされている*(9)。滝行というのは水垢離とともに、行に入っていくための浄化の儀礼と考えられおり、それ自体が修験道の主たる儀 礼とは考えられていない。しかし、生駒の行者や信者にとって、滝行や水垢離は試練や願掛けの際の重要でかつ有力な儀礼的実践と見なされている。これは、苦 行としての修行が、人びとにとってより身体感覚やイメージとして訴えかけ、経験レベルにおいて受け入れやすく、より深い印象を与えるからであるとも思われ る。
昭和初期に生駒山系の宗教調査を行った栗山一夫によると、滝行場の機能として療養所、医療提供宿泊所、会合所さらには「金銭を集中させる」もの があると している*(10)が、筆者はさらにそれが日本の文化における病気や不幸の原因に関する民俗的信条と密接な関係を持っていることも指摘しておきたい。
行者は水を引いて滝場を作ったり、自然の滝を整備して「滝場をひらく」。修行する場として滝場を設置することは、超自然的な直感を得る(=「感 得す る」)ことを通して実現され、かつ多分に歴史的な行為でもある。すなわち、かつて役行者や弘法大師が行ったことを再現し「霊験」を再確認することに通ずる のである。修行においても希有な経験である「霊験の感得」がなされると、その後、行場近くのお堂やその周囲に、「お供え」が置かれ、絵馬が奉納され、とき には祠や塚が建立され、記念碑としてその場所に記憶される。滝の周囲にはそれらが多く見られるが、それらは滝場を訪れる人びとの想像力をいやが上でもかき 立てる。
行者や信者が語ったことを総合すると、滝場には大きく分けて、(㈵)呪術力をつける所と、(㈼)ケガレ*(11)や罪業をおとす所という、二つ の機能が 見いだされる。前者は積極的な意味をもつ「霊力」を「ツケル」場所として考えられている。滝行場は浄化作用を持った清浄で「聖なる場所」であり、その流水 口から出る水は「御神水」になり、様々な病気に効く「加持水」として利用される。他方、後者は「否定的で好まれないもの」を「オトス」あるいは「ナガス」 場所として考えられている。行者は治病を行う際に、患者に憑いている邪悪な「霊」を、患者自身を滝に打たせて「オトス」。あるいは、行者がそれを「もらっ て」(患者から行者の身体に移して)行者の滝行によって「ナガス」のである。
一般に滝そのものは、行場の開基に先行して存在するわけであり、「天然」のものであると考えられている。また、滝行場は、普通の人びとにとって 「カミさ ん」や「わるさをする霊」が跳梁している点で、不用意に近寄り難い。すなわち滝は、文化人類学で表現するところの「自然」の領域と認識され、「文化」に対 峙するものと見なされている*(12)。むろん現実の滝行場は、天然そのものではなく、人工的に「切り開かれた」ものであり、ある程度、統制がゆきとどい た「文化」の領域にも属することになる。
そのために、滝場は象徴的に不安定な両義性を持つことになる。すなわち浄化機能を持つ滝行場は「聖なる場所」であると同時に、患者から落とされ た邪悪な 霊の溜まり場であり、「不浄」な場所でもある。この二項対立は滝場においては一般的にそのまま放置されているが、邪悪な霊を信者から「オトス」だけでな く、もはや「わるさ」を行わないように「供養し、成仏させてあげる」という「教化」「供養」という仏教的な弁証法のかたちで解消される場合もある。この論 理は治療儀礼においても表出する*(13)。
滝行のほかに身体の浄化をめざすものに「断ちもの」がある。断ちものとはある特定の食物や嗜好品などを一定期間、忌避することである。この行為 は苦行の 中の「断食」として分類されるものであるが、C・ブラッカーによれば、水行と断食は原初的には共に浄化という意図を持っており、現代では「心の明晰と集 中」という効験をもたらすものと考えられているという*(14)。
滝行を含む一連の苦行によって、霊能力をつけたり、身体が浄化されるが、それらは常に行者本人の利益には結びつかない。厳しい行をおこなうと共 に、信者 から「病気をもらって」それを滝で「オトス」ことは、行者にとって「気力」をかなり消耗することであるという。生駒山系で名声をはせた行者は高齢になって も元気な人生を送っている、あるいは送った人が多いにもかかわらず、「行者は短命である」という考え方は多くの信者や行者のあいだに受け入れられている。 すなわち、経験的事実よりも、修行や病気なおしによって行者は命をすり減らすのだという言説が優先しているのである。
修 行
行者とは、一般に仏道に入って修行する者のことであるが、生駒では「行を積んだ人」という意味あいが強い。
行とは修行や苦行を指すが、ギョウと発語されるときに想像されるものはより多義的な行為の総体をさす。ある行者によれば、ギョウには行者が克己 しておこ なう苦行を意味する「行」と、生業を持つものとして立派にその職務を遂行することを意味する「業」の二つの「ギョウ」があり、その両方を成し遂げてこそ 「立派な行者」であると見なされる。また別の行者は、「真は信に依って入り、業は行によって達す」と説明している。それらには、「呪術の獲得のための修 行」と「市民社会的な道徳的倫理」という二つの方向性が見られる。このような「ギョウ」の二つの考え方は、在俗でありながら験を修めることによって得た 「霊力」を衆生のために用いるという修験道の伝統的な信条にも相通じるのである。
「ギョウ」が道徳的なものであることは、集団的な行為の中で最もよく理解される。岸本英夫は、「行」は基本的に個人が行なうものであるが、その 多くは集 団で行なわれることに着目した。彼によると、行場の環境や、制度として「指導者」を必要とされることなどが、「行」をおこなう付帯的な理由になる他に、集 団でおこなうことによって参加者が相互に琢磨することを、「行」の積極的な理由として挙げている。そして、そのことがさらに、集団で行が運営されるシステ ムを洗練させていくのである*(15)。当然、それは生駒の行者が信者を統制して、「ギョウ」を実践させる際にも当てはまる。
さて「ギョウ」の市民社会的な道徳的側面を強調するのは、女性の行者よりも男性の行者が多い。彼らは霊的な話題の中にも、世俗的な現実の社会問 題や権力 の問題を持ち込むことがしばしばある。男性の行者は、夢見や霊的予言において政治や経済などの話題を好んで選ぶ。
他方、女性の行者は「霊感」に対する感受性が強いと思われており*(16)、信者の相談を受けたりする際に、信者の世俗的な社会諸関係よりも、 霊的な テーマがより豊かに出てくる。彼女たちは、身近に霊的世界を独自に感じ、信者と共に霊的な世界観を構築してゆくのであり、予言ないしは託宣的な傾向の強い 男性の行者とは好対照をなす。
治 療
信者への「治癒」は、さまざまな個別的実践、言うならば「治療」を通して実現される。諸神諸仏への信仰や帰依、修行・苦行・世俗的実践として の「業」、身体への「お加持」、お告げなど、行者と信者が「理解」する範囲内では、「治療」はどのような形態をも取り得るように思える(事例㈼参照)。
すでに、修行・苦行・「ギョウ」は、一般に霊力を獲得するための方法であると述べたが、そのような霊力は、「治癒」のための「ちから」としても 作用す る。治癒されるものは、他ならない病気や不幸であり、その当事者である信者が行者の指導のもとに滝行する(「お滝を受ける」)ことも見られる。従って、修 行には治療という意味も含まれるのである。現に、行者は滝行で得た呪術力、すなわち治癒力を使って、信者に「加持」をするが、この加持そのものが治療と同 義となるばかりか、より包括的な災因厄徐と生命力の強化をもたらすものと見なされている*(17)。
行者はどのような霊力を行使して信者の支持を受けているのだろうか?。行者の活動は、日々の修行や「お勤め」などの日常的な儀礼行為と、「お祓 い」「占 い」などの個別的な信者の相談事の二つの部分から構成される。そのなかで最も印象的なのは、非日常的な信者からの依頼による儀礼であり、行者と信者がドラ マティックに共同主観を構成する「家族における危機管理の場」であると言えよう。ここで筆者が述べる「危機管理」とは民俗学の世界で「厄除」と呼ばれてき た事柄と類似するが、さらに意味を強めて、「家族構成員のひとりあるいは全員が、その存在やアイデンティティーの危機に曝され、超自然的なものを含めて他 者に救いを求める時に発動されるもの」をこのように呼んでもよいであろう(事例㈽参照)。
このように考えると、現代社会において、近代医療とさまざまな民間医療や、より呪術的な行者、あるいは新宗教による「治癒」などが、共存してい る状態、 いわゆる医療的多元化(medical pluralism)*(18)の状態が、決して特殊なものでも何でもないことに、我々は気づくであろう。
救 済
先に、修行そのものが病気治療になり得ることを説明した。この論理を敷衍してゆくと、修行をおこなう人間に備わる宗教的求道心は、しばしば行 者本来がもっている「根源的な病い」として見なされる。そして、この見解は行者はもとより信者たちにも、現実に共有されている。「わざわざ(人の嫌がる) 苦行をやる人間には、(やはり)どこか(常人とは異なる)おかしいところがあるものだ」という行者の自戒とも受け取れる言葉のなかに、苦行を「知らず知ら ずのうち」受け入れざるを得ないその宿命論がよく反映されている。
生駒の行者は、「根源的な病い」からの解放や救済が、病気なおしなど「他者を救済してあげること」を通して達成されるとは考えていない。あくま でも「カ ミさんのおかげ」で、ひとは救済されるにすぎない。にもかかわらず、呪術をも含めた個々人の主体的な実践を通して「救済を成就させる」ことは彼らの大きな 関心事なのである。
ここで生駒の神義論を理解するために、思い切った対比を試みてみたい。それはトランス・パーソナル心理学における「救済」あるいは「悟り」を参 照として みることである。
世界の神秘主義的な思想と今日の深層心理および近代科学思想の要素が垣間みえるトランス・パーソナル心理学においては、個人間の境界の乗り超え た人間の 普遍的な意識の繋がりが強調される。K・ウィルバーはその代表的な論客である*(19)。彼は、個人を超えた「無境界」を自覚することが重要であり、それ に基づく「統一意識」を説く。すなわち、いかなる意識のレベルにおいても、自他、正邪、貴賎、高低など、「境界」をつくることは物事の本質を見失うことに なる。結局、それは仏教における悟りの一般的了解事項と非常に似かよったものとなっている。
仏教の悟りは、生駒の行者たちが関心をもち、たびたび言及するように、彼らにとって重要な概念である。しかし、彼らは信者への「相談事」におい て、その 大半が「境界」をつくり出す「呪術」に費やされているように思える。奇妙なのは、それにもかかわらず、仏教はおろかトランス・パーソナル心理学的な「統一 意識」のような「悟りの言説」そのものを、彼らが呪術とともに葛藤なく受容していることにある。このような現象を、どう理解すればよいであろうか?
解釈者が再検討しなければならないことは、観察対象の論理整合的な矛盾を問題にすることではなく、そのように見える解釈側の認識的枠組みそれ自 体を問う ことである。すなわち、世俗的な諸事に対処し、霊的な境界を構築し続ける「呪術」と、高踏的ですべての対立を超えた「悟り」が相互に排除するものであると いう、従来の伝統的な宗教解釈の枠組みを我々が留保することではないだろうか。
このような解釈者側のバイアスからより自由になる具体的方途として、二つのことが考えられる。ひとつは、世俗的な倫理的行為*(20)の積み重 ねが、悠 久の「仏教的境地の理想としての悟り」として行者や信者たちにイメージされていると考えることである。日常の行為の積み重ねが、「悟り」とも言わなくと も、ある安定した意識の状態を形づくるということは、我々にも一般に受け入れられている。そのような「意識の高み」(higher state of cousicousness)は、生駒の行者においては「ギョウ」の実践を通して、他方、日常生活を送る我々においては、日々の勤労、芸術、芸道、あるい は極端な場合「色道」の実践を通して、獲得されうる。すなわち、双方とも「行の文化」とも言える伝統を共有しており、その究極の境地に表現を変えた「悟 り」の理想と言うものが語られているのである*(21)。
「悟り」と呪術の共存的理解を可能にする別の方法は、それらを「生命主義」における救済の教理として解釈することである。この用語と概念は新宗 教研究を 通して生まれてきたものである。
対馬路人らは十一の新宗教教団の「教え」の分析を通して、万物を生み、そして生かしている根元的生命と、人との調和を打ち立てる宗教的救済観を 「生命主 義」と名づけ、それらの「教え」は現世の人生における充実とその拡張を唱っていると規定した。そして、既成宗教から批判されることが多かった「現世利益」 などもそのような観点から理解すべきだと彼らは主張し、今日における新宗教研究の認識論的な相対主義の重要性を強調した*(22)。彼らが論文のなかで既 に主張しているように、生命主義的な救済観は、世界の「原始的な」信仰形態にまで遡ることができ、仏教の場合、特に密教や法華思想系にも見られるという。 修験道の流れをくむ生駒の行者は、その生命主義的な救済を、「ギョウ」という実践を通して行っているといっても、過言ではない。
現 実
病気や災厄から解放されること、すなわち「治癒」の実現ためには、その原因を知ることが必要とされ、さまざまな「診断」のための方法が生駒に おいても見いだされる。そのなかに、「透視」「眼通」などと呼ばれるものがある。これらは、視覚的なメタファーとして表現されているが、「知らせ」「お告 げ」「予言」という聴覚的なメタファーが用いられることもある。文字通り、病気の原因、予後、治療の方策などが、「手に取るように分かる」ことを意味して いる。
しかしながら、これらは、単なる信者の病気の予後や相談事の未来を予測するという意味だけではなく、信者の「心の中」や、その人の「本質」を 「見抜く」 という含意があることに注意すべきである。信者の「姿」を行者が完全に理解し掌握することによって、親が子供に向かってあれこれ指示するように、すなわち パターナリスティック(paterna- listic)に、行者が信者に向かって諸事にわたる相談を引き受け、その処方を呈示することができるようになるのである。
このような「透視」についての解釈が成立してはじめて、M・ハーナーの言う「シャーマン的光明」との共通点が浮かび上がる。シャーマン的光明 (shamanistic enlightment)とは、文字通り暗闇を照らす能力のことであり、これは他の者が見ることができないものをその暗闇の中に見る能力である」* (23)。このような通常人とは異なった——あるいは、そのように見える——能力は、今日では「変性意識状態」(Altered State of Con- sciousness)を通して得られるという。この用語を提唱したA・ルードヴィヒによる定義によると、それは「さまざまな生理的、心理的、薬物的手段 ないしは作因により誘発された精神状態である。そしてそれは、覚醒した意識状態におけるその人にとっての一般的な規範から、主観的な体験や心理的機能の面 でかなり逸脱を表すものとしてその人自身(もしくはその人の客観的観察者)によって主観的に認識される」*(24)という。
ハーナーによると、ルードヴィヒのこのような定義の問題点は、覚醒した状態は変性意識状態ではないと理解する可能性があることだ。彼は、R・ カッツのク ン・ブッシュマンのトランス治療の研究を例にあげながら、変性意識状態が覚醒した条件の下でも発動されると言っているが、これは、生駒の行者においても指 摘できることである。
問題は、このようなことを観察者が、どのような「事実関係」のもとで、理解し取り扱うかということである。
確かに、行者における「ギョウ」は、観察者や信者における「ギョウ」とは異なる形態をとる。読経や滝行などの日々の「お勤め」、護摩焚きなどの 「月行 事」「例祭」、直接の信者宅の訪問など、その信仰および生業形態は独自なものではあるが、その運営はきわめて合理的なものとして、観察者の眼に映る。ま た、そこで取り交わされるさまざまなパフォーマンスも、参与観察を重ねてゆくうちに、観察者は行者が説明するのと同じように説明することができ、ある程度 の予測もできてくる。
ただ困難なことは、「透視」に見られるような、観察者自身が体験していない、あるいは共有できない知覚・感覚——いささか乱暴ではあるが一語で 表現する と「神秘体験」——の理解であり、またそれについて「観察者自身の評価」である。
通常、このような日常の感覚では了解できない意識を合理的な文脈において「理解」しようとする試みは、現象学的社会学の分野でおこなわれてき た。とく に、神秘体験に関する経験的研究はH・ガーフィンケルの影響を受けたC・カスタネダによって定式化された。彼は、人間の経験を「日常的現実」と「非日常的 現実」に分けた*(25)。前者は我々が日常生活において通常体験していることをさし、後者は先にのべたような変性意識状態における経験を言う。そして、 このように別個に了解することによって、ともに「有意味な体験」として評価されるべきそれぞれの「現実」が対峙され、意識の非日常的側面への「理解」の端 緒を作ったのである。
しかしながら、このような日常と非日常の二分法には限界がある。なぜなら、日常と非日常の境界が、個々人の経験の境界と一致する場合、すなわち 観察者と 行者が認知的に対立して理解されているあいだは問題はない。だが、神秘体験が「合理的な観察者」という個人のなかで「起った」場合、その日常的現実と非日 常的現実の境界の区別はきわめて難しいものとなる。例えば、観察者自身が「ギョウ」を通して体験したことを、他者に伝える際におこる不能ないしは不全感を めぐる問題である。これは、単に自己の経験を「論文というかたち」で表現する困難さのみならず、自己体験を行者が評価、解釈してくれた際に生じた、自己の 「理解」や「受容」とのギャップにも生じるのである(事例㈸を参照)。
考 察
「宗教と医療」に関する文化人類学や社会学の諸研究に見られたいくつかの解釈モデルを、施術者と病者の置かれている文脈のレベルにおいて整理 してみると、次の三つの領域に、おおまかに分類することができる。
(α)個体のレベル
個人の社会的属性や役割に注目した、医療社会学などで採用されている「医者—患者の関係」(Doctor-Patient
Relationship)。あるいは「施術者—顧客」(Practioner-ClientRelationship)などの二項関係*(26)。この
二者に「霊的なもの」が加わった「治療の三角形」を代表とする三項間関係*(27)。
治療効果に注目した、個人の心理的特性としてのプラシーボ(偽薬)効果*(28)や、「個人的」あるいは「社会的神話」が治療的効果を持つとした「象徴
的効果」論*(29)、「個人的シンボル」*(30)など、個人的信条が文化的信条体系(↓(㈽)のレベル)の一部として組み込まれているもの。
(β)社会集団やその構成原理のレベル
社会集団における治療をという観点からみた際に浮かび上がる、治療共同体や「受苦の共同体」(suffering community)*(31)。社会福祉における行動科学およびシステム論的な観点から提唱されている社会的支援システム(social support system)。
(γ)文化的あるいは信条レベル
民俗的病気観(病因論、災因論*(32))、健康観・健全観などの、病気と健康の信条体系*(33)、身体観など。これらは、文化的社会的 な状況の定義 によって効果が変化する「活性プラシーボ」*(34)現象がある点で、(㈵)のレベルと深く関わりをもつ。
いま、便宜的に三つのレベルに分けてみたが、これらは互いに排除し合うものではなく相互に関連をもつ。それは、個人が意識上においても実践上 においても三つのレベルを行き来していることからも、容易に推測できよう。すなわち、「日常生活の現実はルーティンのなかに具体化されることによって自ら を維持しており、このルーティンが制度化の本質をなしている。しかしながら、それだけではなく、日常生活の現実は他者との個人の相互作用のなかでたえず確 認しなおされてもいる。現実は、最初、社会過程によって内在化されるのとまったく同様に、同じく社会過程によって意識のなかに保持される」*(35)から である。
冒頭において、宗教と医療の関係を生駒の行者と信者が構成する「治癒」 (全体的な癒しまたは本復)を手がかりにして論じると述べた。この生駒 における 「治癒」を治療における宗教的側面としてとらえなおした時、右の三つの次元がそれぞれ相互に関与していることとが明らかになるだろう。それに比べて、近代 医療における生物医学(bio- medicine)的なアプローチは、(㈵)個人のレベルにきわめて偏重され、さらに人と病気における「個」の多様性がほとんど捨象されていることに気づ くであろう。今日における、心理学——特に心身医学——的な患者管理、あるいは社会医学的なアプローチの重要性が叫ばれているが、それにおいてさえ、三つ の次元は配慮されることはあっても、現象を普遍化したモデルから理解し、対処してゆくようなシステムの中のバリエーションとして患者をとらえているのであ る。
ただし、共通点もある。近代医療モデル同様、行者と信者が織りなす「文化的な規範」を参照することなしには「治癒」が構成されることはあり得な い。いか なる「治癒」のシステムも、それに依拠する人びとの「参照のシステム」(referral system)が不可欠なのである。異なる点は、近代医療における科学的厳密性を脅迫的に実現させるようなシステムと、あくまでも個々の信者と行者におけ るルーズで大胆な「共感と理解」の制度の違いなのである。
宗教と医療——その展望
広く仏教を中心とする「宗教と医療」についての伝統的な議論の多くは、仏教教典における医術、薬草、あるいはメタファーとして「治癒」とその 解釈をめぐるものであった*(36)。それらは、宗教的立場からみた医療や、伝統的な医療に存在した「宗教的根拠」を検証し、その現代的な意味を明らかに することであったようである。近年、文化的、社会的であると同時に哲学的な含みを持つ「末期医療、脳死および臓器移植」についての議論の高まりは、現代社 会における仏教のあり方やゆくえを問うものとして注目されている*(37)。
他方、実際の宗教現象を調査研究し、それを医学的な立場から理解し位置づけてゆく作業は、文化精神医学の領域*(38)の一部の研究を除けば、 ほとんど 閑却されてきた。日本民俗学、文化人類学、宗教社会学の研究者による長年にわたる調査報告(モノグラフ)の豊富さに比べれば、「宗教と医療」についての実 態研究はあまりにも僅少であり、時には奇異な印象さえ与える*(39)。
その意味において、実態調査を基にした研究が要請されるのである*(40)。素材の特殊性にもかかわらず、本稿が今後の一般的な議論のために提 唱したこ とは、「治癒」が、施術者と患者という関係性に留まらない、社会・文化的に構築された概念であり、その全体性を俯瞰するために、その観察の視座を拡大して ゆく必要がある、ということである。これは、教義論の研究アプローチが宗教的実践を教理との整合性に収斂させてゆく方向とは対照的に、その実践を現実の社 会におけるダイナミックな過程としてとらえてゆくものである。そして、この二つの研究の相補的な発展が、「宗教と医学」の研究には不可欠であるように思わ れる。
註
(1)行者の蔑称として「拝み屋」がある。この言葉は、ふだん使われないだけでなく、低級な行者を蔑む際に用いられることがある。
(2)治癒は、一般には病気からの回復することと理解されているが、臨床では創傷治癒( healing
of wound)を除いてはあまり使われず、現実の用法も多様で曖昧である。
(3)S・ロック他、一九九〇、『内なる治癒力——こころと免疫をめぐる新しい医学』(池見酉次郎監訳)、創元社。
(4)調査はおもに「宗教社会学の会」による調査活動の一環として、一九八二〜八三年にかけて行った。調査を行ない資料を集めるにあたって、塩原勉教授
(大阪大学人間科学部)、沼田健哉教授(桃山学院大学社会学部)をはじめとするメンバー全員からの協力や助言などを得ることができた。記して感謝したい。
また、研究会の総合的報告書として、宗教社会学の会編、一九八五、『生駒の神々——現代都市の民俗宗教』創元社、がある。
(5)五来重、1980『修験道入門』角川書店、
(6)保仙純剛、一九八五「大和のダケ信仰」『御嶽信仰』(宮家準編)雄山閣、一七−二八頁。
(7)藤東海、一九七六(一八五〇)『役行者御伝記図絵』山伏文化保存会。斎藤昭俊、一九八八、「弘法大師伝説」、『弘法大師信仰』(日野西真定編)、雄
山閣、四九−六一頁。
(8)生駒の行者のライフヒストリーの典型例については、沼田による詳細な報告がある。沼田健哉、一九八七、「生駒における龍神信仰と修験道——八代龍王
神感寺を中心として」、昭和六〇・六一年度科学研究費補助金研究成果報告書『日本宗教の複合的構造と都市住民の宗教行動に関する実証的研究』所収、一〇六
−一一四頁。また歴史的にはそれに先行するが、昭和初期の生駒の行者の気質やライフヒストリーと一脈通じる人物に浜口熊嶽(ゆうがく)(一八七七〜一九四
三)がいる。浜口に関しては、井村宏次、一九八四、『霊術家の饗宴』、心交社、を参照。
(9)宮家準、一九八五、『修験道儀礼の研究<増補版>』春秋社。宮家準、一九八五、『修験道思想の研究』春秋社。
(10)栗山一夫、一九三三、「生駒山脈に民間信仰を訪ねて」、旅と伝説、六巻五号、四一−五二頁
(11)波平恵美子、一九八八、『ケガレの構造』、青土社。
(12)レヴィ=ストロース、一九七七、『親族の基本構造』(上・下)(馬淵東一、田島節夫監訳)、番町書房。
(13)宮本袈裟雄、一九七八、「治癒儀礼に関する一考察」『日本宗教の複合的構造』(桜井徳太郎編)所収、弘文堂、一〇九−一三五頁。池田光穂、一九八
二、「治療儀礼の研究——仏教寺院の事例から」、医学史研究、五六号、三六−四六頁。(註(17)も参照のこと)
(14)ブラッカー、一九七九、『あずさ弓——日本におけるシャーマン的行為』(秋山さと子訳)、岩波書店、七七頁。
(15)岸本英夫、一九七五、『信仰と修行の心理』(岸本英夫著作集第三巻)、渓声社。
(16)宮田登、一九八三、『女の霊力と家の神』、人文書院。
(17)「加トハ諸神諸佛之加被。持トハ行者ノ受持ニテ。本尊加護ノ力。行者持念ノ力と和合シテ利益ヲ施シ候コト。加持ノ義ナリ」『修験十二箇條當山
方』。(宮本袈裟雄、一九七八、前掲論文一一二頁)。宮本は、修験道の「治癒儀礼」についていくつかの符呪集(護符に書き付ける呪文やシンボルを記載した
覚書)を分析した結果、修験道の主要な病因は「邪霊・邪鬼・邪神などの類が憑いたり、さわったり、崇りをなす結果、あるいは諸神諸仏の咎を蒙った結果とし
て病気・災難が生じるという考え」であり、その治療には㈰邪悪なその病因を教え諭す「教化」と、㈪それらを力で制圧させる「調伏」「退散」という、大きく
二つの考え方が見られると述べている(宮本袈裟雄、前掲論文、一一七−一一八頁)。井村も、修験道における呪術の内容について、修験者が用いた「切紙」
——秘儀の伝授に使われる儀軌を書き写したもの——に記載された作法(総数三四一例)にかんする資料を整理した(『修験深秘行法符咒集』)。彼によると、
治病に直接関与する呪術は一四・四%(件数四九)であったが、九字や邪気を除くこと、呪詛返しなどの「一般方術」を含めると四割以上になる。このことは、
修験者が呪術の作法においても、病気をはじめとする、災いにかんする信条体系(「災因論」)について精通していたことをうかがわせる(井村宏次、前掲書、
一二一−一二二頁)。
(18)医療的多元化/医療的多元主義とは、C・レスリーらによって提唱され、複数の医療体系(たとえば、近代医療、中国医学、民間医療など)とそれを支
える信条が、ひとつの社会に多層的に存在していることをさす。Leslie,Charles
M.,1976,Asian Medical Sys- tems: a comparative study, Barkeley:
University
of California Press.
(19)Wilber,Ken.,1979,No Boundary,Colorado;Shambhala
Publications.(K・ウィルバー、一九八六、『無境界』(吉福伸逸訳)、平河出版社)。
(20)呪術は信者の不幸に対処する意味において行者にとって「真剣」で「正しい」行為、すなわち倫理的行為を形成する。
(21)野間光辰、一九七六『近世色道論』岩波書店。湯浅泰雄、一九九〇、『身体論——東洋的心身論と現代』、講談社。
(22)対馬路人ら、一九七九、「新宗教における生命主義的救済観」、思想、六六五号、九二−一一五頁。
(23)エリアーデ、一九七四、『シャーマニズム』(堀一郎訳)冬樹社。ハーナー、一九八九、『シャーマンへの道』(高岡よし子訳)平河出版社。堀一郎、
一九七一、『日本のシャーマニズム』、講談社。
(24)Ludwig,Arnold M.,1972,Alterd States of Conciousness,in "Alterd
States of Conciousness"(C.T.Tart ed.),New
York:Anchor,pp.11-24.なお邦訳は高岡よし子によった(ハーナー、前掲書、一〇三頁)。
(25)Castaneda,Carlos.,1968,The Teachings of Don Juan,University of
California
Press.(カスタネダ、一九七四、『呪術師と私』(真崎義博訳)、二見書房)。彼のフィールド調査の方法論ならびに分析枠組みについての批判的検討
は、リチャード・デ・ミルら、一九八三『呪術師カスタネダ』(高岡よし子他訳)、大陸書房、を参照のこと。
(26)医師−患者関係は、パーソンズや、サズとホランダーによるものが、余りにも有名であるが、現在の医療社会学では、この研究は独立したおおきなジャ
ンルになっている(
Persons,T.,1951,The Social System,Glencoe,Ill.:The Free
Press.)。また、医師の替わりに、看護婦(nurse)、施術者(practioner)など、さまざまな役割名を当てはめることが行なわれてい
る。
(27)「治療の三角形」という用語はJ・プイヨンによるものである(山口昌男、一九七八、「病いの宇宙誌」『知の遠近法』所収、岩波書店、二三九−二四
五頁)。「行者と病者(=病気)と霊的なもの」という図式化したものは、松岡悦子、一九八二、「カミによる病気治し——修験道の世界観を中心として」、年
報人間科学(大阪大学人間科学部)、三号、四三−七一頁。
(28)ワイル、一九七七『ナチュラル・マインド——ドラッグと意識にたいする新しい見方』(名谷一郎訳)、草思社。S・ロック他、前掲書。
(29)レヴィ=ストロース、一九七二『構造人類学』(荒川幾男ほか訳)みすず書房。
(30)オベーセーカラ、一九八八、『メドゥーサの髪——エクスタシーと文化の創造』(渋谷利雄訳)、言叢社。
(31)ターナー、一九七六、『儀礼の過程』(冨倉光雄訳)、思索社、二〇頁
(32)長島信弘、一九八七『死と病いの民族誌——ケニア・テソ族の災因論』岩波書店。
(33)波平恵美子、一九八四『病気と治療の文化人類学』海鳴社。
(34)ワイル、一九七七『ナチュラル・マインド——ドラッグと意識にたいする新しい見方』(名谷一郎訳)、草思社。
(35)バーガーとルックマン、一九七七、『日常世界の構成』(山口節郎訳)、新曜社、二五一頁。
(36)たとえば、福永勝美、一九八〇『仏教医学事典』雄山閣。
(37)中野東禅、一九八五、「現代の生命問題に仏教はどう答えるか」、理想、一九八五年一二月号。武井秀夫、一九八八、「仏教からみた脳死」、
G−TEN(天理やまと文化会議)、三七号。
(38)小田晋、一九八〇『日本の狂気誌』思索社。荻野恒一・宮本忠雄編、一九八一『文化と精神医学——現代精神医学体系二五』中山書店。
(39)大工原彌太郎、一九八八『明るいチベット医学−−病気をだまして生きてゆく』情報センター出版局、は、この分野における数少ない興味深い報告に
なっている。
(40)生駒山系の行者と信者の「信仰」の形態に類似しているものに、北部九州の江戸時代の念仏信仰「新後生」や、そこから生成したと考えられている「中
山身語正宗」がある。古賀和則、一九八九「新後生の動態」、龍谷大学論集、四三四・四三五合併号、七二三−七四〇頁。石井奈緒、一九九〇「病いに対する新
宗教の言説——中山身語正宗を事例として」、『病むことの文化』(波平恵美子編)所収、海鳴社、二九七−三三一頁。
***
事 例
【事例㈵】憑きもの
大阪に住む二十四歳の女性。近県の断食道場から帰ってから「言うことがおかしい」ので、その母親(信者)と一緒に寺に連れだってきた。行者 (女性)のAさんが聞いたところでは、一週間道場に入っていたが、三日目からおかしくなってきたとのこと。Aさんは「私たちが見てもおかしい」ので、別の 行者(女性)のBさんに乗り移させてみた。女性が乗り移ったBさんは、たまたま寺にあった「「あげ」(油揚げ)や、かりんとうを食べに、食べた」という。 Bさんによると「断食によってお腹が空いた弱った身体のなかに、多数のキツネが入っていった」のである。BさんはAさんと協力して、「キツネを一匹一匹抜 いていった」。一時間ほどすると、生気を失っていた女性は、「お母さん、わたしはどうしたの?、ここはどこ?」などと言って正常に戻ったという。
このエピソードにおいて、Bさんは、キツネが憑いた原因として「親に黙って友人と一緒に(断食道場に)行った」こと、を挙げている。また弱った 身体には キツネやタヌキなどが狙って憑くとも、述べている。「憑きやすいタイプなどあるのですか?」という調査者の質問に、Bさんは「嘘をついたり、人を騙すよう な人に多いね」と述べている。
【事例㈼】五輪塔の因縁
中国地方に住む信者の小学一年生になる孫が、大小便を「垂れ流しにするよう」になった。信者の依頼で、中国地方にむかった行者のAさんは、信 者の家近くの道路を通った時に、頭が痛くなったという。信者の話だと、その近くの交差点は常に交通事故が絶えないとのことだった。信者たちを連れて、そこ へ行ったところ、Aさんはとても喉が渇き、「島流しになった人」がそこにいるという「霊感」を感じた。さらに、付近についての由縁を聞いてみると、かつて そこには五輪塔が祀ってあったという。そして、道路を通す際に建設会社がその五輪塔を埋めたのである。建設会社はすでに倒産しており、小学生の病気の原因 も、その因縁によるものだと思われたそうである。
五輪塔を発掘するには多額の費用と手間がかかるので、そこに埋まっている五輪塔の「性根(しょうね)を抜いて」、それをAさんの身体に「憑け、 (大阪 に)もって帰って、供養する」必要があった。供養の最中に「紐を替えたばかりの念珠がバラバラに」切れてしまった。付近で拾い集めたが、どうしても「(念 珠の珠が)五つ足りなかった」。帰阪後、寺に帰って「本尊にお伺いを立てた」が、「ダメ」という答えが返ってくるのみであった。その後、鞄の中から無く なっていた五つの念珠の珠が出てきた。信者には、お伺いを立てた結果を電話で告げた。
信者の「お嫁さん」(病気の小学生の母)が一生懸命になって、近くのお寺に五輪塔を建ててもらうことになった。五輪塔建立の後、その寺でも五輪 塔にお参 りしてくれて、小学生の具合いは徐々に良くなってきた。しかし、ある夜、その嫁は夢のなかで「大阪の先生に拝んで欲しい」というお告げを受け、Aさん一行 は再び広島へ出かけた。訪れた寺の五輪塔は雪で隠れており、そのお祀りのやり方は不十分であった、とのことだった。五輪塔を供養し(なおして)、帰阪後に やっと子供の病気は「治った」。そこで、信者さんからお寺は改めて喜捨を受けたという。
【事例㈽】脳腫瘍の手術と祈祷
信者の息子が国立大学の附属病院で脳腫瘍の手術を受けることになった。信者の相談を受けた行者Aさんは手術が成功するように本尊である観音様 に願掛けをすることになった。願掛けの内容は滝行と断ちものである。手術日には、大学病院には患者とその両親が、患者の両親の家には信者の父親達がおり、 寺院にはAさんと別の行者の他は信者の関係者は居なかった。Aさん達は生駒にある寺院の中で「飲まず食わずの行」に入った。
その日の午後、Aさんは行の最中に手術がうまくいくというお告げを聞き直ちに信者の父親の居る家に電話を掛けてその旨を報告した。しかし信者の 父親はま だ手術が終了したという連絡を受けていないと返事をした。Aさんは「おかしい」と思いつつ再び願掛けの行に入った。それから一時間後、信者の父親からAさ んに電話が入り、大学病院では手術の終了は少なくともあと一時間はかかるという報告が入った。結局手術が終了したという連絡が入る夜半までの数時間Aさん は寺院にてお経をあげていた。手術が成功に終わったと信者から連絡を受けた後、Aさん達は本尊に感謝の気持ちを込めて報告した。
【事例㈿】相談事と病気なおし
「ネジ屋」を経営している五七歳の男性Nさんが、嫁とその娘である孫を連れてやってきた。Nさんは最近店舗を移転した。移転の際に、行者Cさ んに家相のことなどですでに相談しており、その時は、その際のお礼と信仰上の相談ということであった。会話は、およそ次のようだった。
Cさん(行者):転居はうまくいったか?
Nさん(信者):うまくいきました。
Nさん:転居後、商売は、うまくゆくでしょうか?
Cさん:うまくゆく。しかし、最初のうちは得意先がつくまで時間がかかるかも知れん。 看板を作って、道路沿いに出せ。そうしたら、うまくゆく。
その後、全員で連れだって、庫裏とは別棟のお堂のほうへ、お参りに出た。お参りから返って後。NさんはCさんにお礼を言って、再び庫裏に上がった。
Nさんの家には、既に黒髪大神と子安地蔵が祀ってあり、転居にともないさらに「お不動さん」を勧請することになっていた。
C:信者さんでも、お不動さんを置ける者は、そうざらにはおらへん
N:ありがとうございます。その時には、不動明王、黒髪大神、子安地蔵をどう置けば よろしいですか?
C:真ん中に不動明王、右に・・・(Cさん念じるかのように)
N:黒髪さんですか?、子安地蔵ですか?
C:黒髪大神、左に子安地蔵このような会話が続いた後、
N:左肩が凝ってあきません。最近、変な夢ばかり見ますねん。(この間、Nさんは自分自身のみならず、嫁も転居して身体が疲れていると、しきりに主張して
いた。嫁も周りの人(CさんとCさんの妻で「霊能力のある」Dさん)に「お義父さんは、毎日神経をすり減らしてはりますわ」などと言っている)
C:変な夢みるのは、若いからや(笑い)DさんがNさんに近づいて、身体への「お加持」がはじまる。Nさんは、あぐらから正座に座り直して、同様に正座し
たDさんに背をむけて座りなおした。
Dさんは、眼を瞑って合掌した。口に真言を唱えて、しきりに「おくび」とも吐き気の際の鳴咽ともつかない様子を示している。それが五分近く間欠的に続い
た。その後、Dさんは合掌をしてから、両手でNさんの肩——特に左肩を主に——を揉んだ。再び、合掌して、その掌の中に空洞を作り、口でフッと息を吹き込
んだ。再び、おくびが始まり、今度は指でNさんの背中をなぞりながら、口をすぼめて時々息を吐いている。弘法大師の真言(ナムダイシヘンジョウ)を唱えな
がら、数珠でNさんの身体を数回撫でて、「お加持」は終わった。
Dさんが言うには、左肩に不動さん——「岩滝不動さんかな?」——がいると言うと、Cさんが間を入れず「不動さんやな」と言った。(後に、Cさんに「ど
うして、お不動さんと分かったのか?」と筆者が聞くと、「Nさんの肩に大きな不動さんの目玉が見えた」と語った。)
Dさん:今度、Nさんのお宅にお不動さんをいつ祀りはるの?
Nさん:それは、今わたしが聞こうと思うとりました。いつ祀ればよいですか?
Dさん:十月中は忙しいから、十一月中にやりましょうCさん、Dさんともども、笑顔でNさんに対応している。Nさんは、その後、嫁と孫を連れて辞す際に、
「身体がなんやしら、すっきりしましたわ」と言いながら礼を言って山を降りていった。
【事例㈸】滝行における「経験」についての行者と観察者の解釈
滝行のおこなう動機にはさまざなものがあるが、筆者が「体験」として「お滝を受けたい」、すなわち滝行をやりたいという申し出を行者におこ なった際に、次のような指示を受けた。
まず「願をかけ」、すなわち目的を立ておこなうこと。次に、寺院に泊まり込むのではなく「日参」する日数を決めること。その数は、三、五、七、 九、ある いはそれらを適当に掛け合わせた数がよい。「願かけ」をしたら、それを最後までやることを心に誓うこと。
初日に「お滝を受ける作法」を学んで、指導してくれた行者Eさん(男性)と一緒に受けた以外は、筆者は残りの六日間すべて「一人」で受けた。七 日間を通 して、ドラスティクな「神秘体験」を受けることはなかったが、日参の六日および七日目(「満行」の日)に、滝を受けている最中に「奇妙な気持ちと感覚」を 経験した。滝を受けた時間は数分間から十数分間で、眼を閉じて般若心経を唱え ていた。フィールドノートにはおよそ次のようなことを記した。
(六日目)「滝に入っていて、般若心経の読経八巻目(滝にあたり始めて八分から九分程度)に「悟った」ような気がする。行中に、ハッと目が醒め るような 気がして、このような苦行——苦行というほどのものではないが——を行う必要はないと思った。また(般若)心経を唱える必要もない、と思われて、九巻目を 読誦し終えてから、合掌したまま黙って滝を受け続けた。(身体が空になったように感じて)体腔の奥から、身体に水のあたる音が太鼓のようにゴーッと響いて ゆく」。
(七日目)「滝行中に人の気配を感じる。Cさん(行者)が、私の右前方から滝場に入ってきて立っている——ような気がした。非常に奇妙な気がし たので、 眼を開けてみると——当然のことながら——そこには誰もいない。と同時に、後ろによろけた。私は、この日(満行である最終日)の滝行が、長距離を歩いた後 の疲労による「幻覚体験」というふうに理解している」。 当時(一九八二年九月)、筆者は寺院の社会的関係などに関心があったので、このような体験を行者 のCさんやEさんにはあえて語らなかった。それから半年間、十数回の訪問を繰り返した後に、ある機会にEさんにそのような経験を話した。彼の見解は、およ そ次のようなものであった。
「霊体験は身体で感じるものだから、言葉ではうまく説明できない。自分(Eさん)も行を行っていて乗っている足場の板ごと、宙に浮かぶような経 験をする が、眼を開けると別に(状況が)変わっているわけでもない。・・・[筆者の「悟った」ような経験談を聞き、相づちを打ながら]そのように感じても人に言え ないだろう。経験は言葉ではできないものなのだ。・・・[行場にCさんが表われたと「感じた」ことに対しては]滝にいてはるお不動さんが、そのまま現われ ては(筆者が)びっくりするだろうと感じて、先生(Cさん)の姿に変えて現われたのだ」[注記]一般に信者の「神秘体験」に関して行者の「解釈」は、その 場の雰囲気や、それに先立つ会話の脈絡に応じてアド・ホックな——悪く言えば場当り的な——対応をするような「印象」を得ることが多かった。従って、他の 行者がEさんと同じ解釈を行う可能性は少なく、またEさん自身の解釈がいつもこのようなものであるという保証はない。しかしながら、筆者にとって興味深 かった経験は、聞き取り調査を重ねてゆくうちに、「幻覚体験」よりも「お不動さんの現出」という理解のほうが、行者と信者が構築している言説により適切な (relevant)解釈であると私自身が違和感なく「受け入れ」られたことである。
クレジット:池田光穂、「治療」の文化的構成——生駒にお
ける信者と行者、『宗教学と医療』(黒岩卓夫編)所収、弘文堂、1991年、pp.8-36
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