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「聖なる空間」作成ノート

Chronotopos of The Sacred and the Profane

左からデュルケーム 、ニューギニアのアサロ・マッドメン(泥仮面男装束)、 カイヨワ

講師:池田光穂

「聖 なる空間」論ノオト編(→姉妹編「「聖なる空間」とは何か」「宗教生活の原初形態」)

1.「聖と俗」の理論 The Sacred and the Profane

 1.1 E. Durkheim(1912) の理論

『宗教生活の基本形態(Les Formes élémentaires de la vie religieuse, 1912)』でデュルケムは、宗教的表象は実は集合的表象である、つまり宗教の本質は聖なるものでしかありえない、と主張している。

すべての宗教の根底にある、情動・感覚・認識・規範など のこと「聖」という。日常生活における 「俗」なるものと区別されることをさす、と定義される。

実際は、聖と俗で「宗教」を解釈する理論で、この 2つの対立(二項対立binary opposition)で宗教を解釈する立場のこと。もちろん、デュルケームが発見したというよりも、この二項対立はさまざまな「宗教」現象において経験 的にみられることがらである。 例・・浄/不浄、聖/賎、貴/賎、右/左、男/女、上/下、内/外、・・・など

デュルケームの図式;世界を聖と俗に二分して、聖 のもつ力や威厳などの源泉こそが、社会を統合させる原理である(→「宗教 と社会生活」)。

1.2 R. Caillois (1958)の理論

ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』(1938)におい て、まず遊びを基本行為として、そこから聖 なる行為が発生したと考えた。ホイジンガの指摘とその図式に対する批判かロ ジェ・カイヨワRoger Caillois, 1913-1978)は、デュルケームの聖と俗の図式に「遊」を加え、それは聖および俗の 領域とは別個の独自性をもつ世界であると主張。聖/俗/遊の三項図式と言われることもある。

カイヨワに よると遊びと聖なるものの間には次のような差があると指摘。まず、遊びは純粋形式であ るが、聖なるものは内容そのものである。聖なるものから 俗なるものへの「以降」は、遊びの雰囲気にも似て気楽で自由な感覚に人を導く。遊びは純粋な世俗であり内容がなく、それ自体で自律している。遊びと聖なる ものは、実生活を軸として対称的な活動である。遊びは生活を畏れる。遊ぶことを否定する原理であるから。他方生活は聖なるものに対して不安定な状態を保っ ている。

Caillois' key ideas on play.

Caillois built critically on an earlier theory of play developed by the Dutch cultural historian Johan Huizinga in his book Homo Ludens (1938). Huizinga had discussed the importance of play as an element of culture and society. He used the term "Play Theory" to define the conceptual space in which play occurs, and argued that play is a necessary (though not sufficient) condition for the generation of culture.

Caillois began his own book Man, Play and Games (1961)[4] with Huizinga's definition of play:

Summing up the formal characteristics of play we might call it a free activity standing quite consciously outside "ordinary" life as being "not serious," but at the same time absorbing the player intensely and utterly. It is an activity connected with no material interest, and no profit can be gained by it. It proceeds within its own proper boundaries of time and space according to fixed rules and in an orderly manner. It promotes the formation of social groupings which tend to surround themselves with secrecy and to stress their difference from the common world by disguise or other means.[5]

Caillois disputed Huizinga's emphasis on competition in play. He also noted the considerable difficulty in arriving at a comprehensive definition of play, concluding that play is best described by six core characteristics:

1. it is free, or not obligatory
2. it is separate from the routine of life, occupying its own time and space
3. it is uncertain, so that the results of play cannot be pre-determined and the player's initiative is involved
4. it is unproductive in that it creates no wealth, and ends as it begins economically speaking
5. it is governed by rules that suspend ordinary laws and behaviours and that must be followed by players
6. it involves imagined realities that may be set against 'real life'.
Caillois' definition has itself been criticized by subsequent thinkers;[6] and ultimately, despite Caillois' attempt at a definitive treatment, definitions of play remain open to negotiation.

Caillois distinguished four categories of games:

Agon, or competition. It's the form of play in which a specific set of skills is put to the test among players (strength, intelligence, memory). The winner is who proves to have mastery of said skill through the game, for example a quiz game is a competition of intelligence, the winner proves that it's more intelligent than the other players. E.g. chess.
Alea, or chance, the opposite of Agon, Caillois describes Alea as "the resignation of will, an abandonment to destiny." If Agon used the skills of players to determine a victor Alea leaves that to luck, an external agent decides who the victor is. E.g. playing a slot machine.
Mimicry, or mimesis, or role playing Caillois defines it as "When the individual plays to believe, to make himself or others believe that he is different from himself." E.g. playing an online role-playing game.
Ilinx (Greek for "whirlpool"), or vertigo, in the sense of altering perception by experiencing a strong emotion (panic, fear, ecstasy) the stronger the emotion is, the stronger the sense of excitement and fun becomes. E.g. taking hallucinogens, riding roller coasters, children spinning until they fall down.
It's worth noting that these categories can be combined to create a more diverse experience and enhance the players interaction, for example poker is a form of Agon-Alea, Alea is present in the form of the cards and their combinations, but it's not the only winning factor; since Agon is present in the form of bluffing, making your opponent think you have better cards by rising the bet, therefore putting pressure on the other players and thus making it possible to win by having a card combination but winning by implementing the bluff skill.

Caillois also described a dualistic polarity within which the four categories of games can be variously located:

Paidia or uncontrolled fantasy, spontaneous play through improvisation, the rules of which are created during playing time. E.g. concerts and festivals.
Ludus which requires effort, patience, skill, or ingenuity, the rules are set from the beginning and the game was designed before playing time. E.g. the Chinese game of Go.
Caillois disagreed particularly with Huizinga's treatment of gambling. Huizinga had argued in Homo Ludens that the risk of death or of losing money corrupts the freedom of "pure play". Thus to Huizinga, card-games are not play but "deadly earnest business". Moreover, Huizinga considered gambling to be a "futile activity" which inflicts damage on society. Thus Huizinga argued that gambling is a corruption of a more original form of play.

Against this, Caillois argued that gambling is a true game, a mode of play that falls somewhere between games of skill or competition and games of chance (i.e. between the Agon and Alea categories). Whether or not a game involves money or a risk of death, it can be considered a form of Agon or Alea as long as it provides social activity and triumph for the winner. Gambling is "like a combat in which equality of chances is artificially created, in order that adversaries should confront each other under ideal conditions, susceptible of giving precise and incontestable value to the winner’s triumph."[7]
カイヨワの遊びに関する重要な思想。

カイヨワは、オランダの文化史家であるヨハン・ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』(1938年)の中で展開した遊びの理論に批判的な立場で取り組んだ。ホ イジンガは、文化や社会の要素としての遊びの重要性を論じていた。彼は、遊びが発生する概念空間を「遊び論」という言葉で定義し、遊びが文化生成の必要条 件(十分条件ではない)であることを論じたのである。

カイヨワは自著『人間・遊び・ゲーム』(1961年)[4]をホイジンガの遊びの定義から始めています。

遊びの形式的な特徴をまとめると、それは「深刻ではない」として「普通の」生活の外にかなり意識的に立っている自由な活動であるが、同時にプレイヤーを強 烈にそして完全に吸収してしまうものと呼ぶことができるだろう。それは、物質的な利益とは無縁の活動であり、それによって利益を得ることはできない。時間 と空間の適切な境界の中で、一定の規則に従って、秩序正しく進行する。それは、自らを秘密で囲み、偽装や他の手段によって一般社会との違いを強調する傾向 のある社会集団の形成を促進する[5]。

カイヨワは遊びにおける競争を強調するホイジンガの意見に異議を唱えた。彼はまた、遊びの包括的な定義に到達することがかなり困難であることを指摘し、遊 びは6つの中核的な特徴によって最もよく説明されると結論づけた[5]。

1.自由であること、あるいは義務的でないこと。
2.日常生活から切り離され、独自の時間と空間を占めている。
3.遊びは不確実であり、遊びの結果を事前に決定することはできず、プレイヤーの自発性が関与する。
4.富を生み出さないという点で非生産的であり、経済的に言えば、始めたら終わりである。
5.通常の法律や行動を停止させるルールによって支配され、プレイヤーはそれに従わなければならない。
6.現実の生活とは異なる、想像上の現実を含んでいる。
カイヨワの定義はそれ自体、後続の思想家によって批判されており[6]、結局、カイヨワが決定的な扱いを試みたにもかかわらず、遊びの定義は交渉の余地が あるままである。

カイヨワはゲームを4つのカテゴリーに分類した。

アゴン、すなわち競争。特定のスキル(体力、知力、記憶力)をプレイヤー間で競い合う遊びのこと。例えば、クイズゲームは知能の競争であり、勝者は他のプ レイヤーよりも知的であることを証明する。例:チェス
アレア(偶然)は、アゴンの反対語で、カイヨワはアレアについて、"意志の放棄、運命への放棄 "と表現している。アゴンがプレイヤーの技量で勝敗を決めるとすれば、アレアは運に任せ、外部のエージェントが勝敗を決定する。例:スロットマシンのプレ イ
擬態、またはミメシス、またはロールプレイ カイヨワは、"個人が信じるために演じるとき、自分または他人に自分とは違うと信じさせるため "と定義している。例:オンラインのロールプレイングゲームをプレイすること。
イリンクス(ギリシャ語で「渦巻き」の意味)、またはめまいは、強い感情(パニック、恐怖、エクスタシー)を経験することによって知覚を変えるという意味 で、その感情が強ければ強いほど、興奮や楽しさの感覚は強くなる。例:幻覚剤を飲む、ジェットコースターに乗る、子供が倒れるまで回転する。
例えば、ポーカーはAgon-Aleaの一種で、Aleaはカードとその組み合わせという形で存在するが、それだけが勝因ではない。Agonはブラフとい う形で存在するので、ベットを上げることで相手に良いカードを持っていると思わせ、他のプレイヤーにプレッシャーを与え、結果としてカードの組み合わせで 勝つこともできるがブラフ技術を実行すれば勝てるようになる。

カイヨワはまた、ゲームの4つのカテゴリーが様々に位置づけられる二元的な極性を説明した。

パイディアまたは無秩序な空想、即興による自発的な遊び、そのルールはプレイ時間中に作られる。例えば、コンサートやフェスティバルなど。
努力、忍耐、技能、工夫を必要とするルドゥス、最初からルールが決められており、プレイ時間の前にゲームが設計されている。例:中国の囲碁。
カイヨワは、特にホイジンガのギャンブルに対する扱いに異を唱えた。ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』の中で、死の危険や金銭的損失が「純粋な遊び」の自 由を堕落させる、と論じていた。したがって、ホイジンガにとってカードゲームは遊びではなく、「死に物狂いの真剣勝負」なのである。さらに、ホイジンガは ギャンブルを社会に損害を与える「無益な活動」であると考えた。このようにホイジンガは、ギャンブルはより本来の遊びの形を堕落させたものであると主張し た。

これに対してカイヨワは、ギャンブルは真のゲームであり、技術や競争のゲームと偶然性のゲームの中間に位置する遊びの様式であると主張した(すなわち、ア ゴンとアリアのカテゴリーの中間に位置する)。金銭や死の危険を伴うかどうかにかかわらず、勝者に社会的な活動と勝利をもたらす限り、それはアゴンやアリ アの一形態と考えることができる。ギャンブルは「敵対者が理想的な条件の下で対決するために、チャンスの平等が人為的に作り出された戦闘のようなものであ り、勝者の勝利に正確で議論の余地のない価値を与えることが可能である」[7]とされている。



2.「聖/俗」理論の拡張と展開


聖/俗理論のその後の展開としては、二項対立による空間の秩序だてという問題に収斂する。こ れは 思想潮流としては構造主義というかたちで理論的結実を遂げる。


 2.1 空間としての聖と俗


 宗教空間論:

まず機能論的解釈が可能。例えば、巡礼による聖なる空間の階梯化、秩序づけ。あるいは宗教空間そ のものがdevice=装置となって、そこに訪れる人の意識を変革させる(高揚/鎮静/変容などを通して)のだという主張。滝行をするお滝場、修験道にお ける回峰行など。宗教における修行の多くは特殊な空間で苦行をおこなうが、これは身体感覚の変容をとおして内的な体験を外部から強制させられる宇宙観と節 合(articulate)させる行為であると解釈できる。この解釈は常にその理論の妥当性が問題になる。つまりその機能は必然なのか、付帯的なものなの ではないのか?、あるいは恣意的な解釈に過ぎないのか?。機能論解釈で旨く説明できる解釈もある。北米ダコタ・インディアンはもともと野牛の皮で葺かれた 円錐型のテント=ティピに住み、男女の空間区分を含めた方位に厳格な区別があった。しかしインディアン平定後、居留地の「四角い灰色」の家に定住を強要さ れ宇宙の中心が失われたと述懐。

つぎに宇宙 論的解釈がある。その宗教がもつ宇宙観=cosmologyが、寺院などの時空間に反 映されるのだという理解である。これは外部からの解釈だ けでなく、宇宙観を重視する宗教には現実を理念にあわせるということは、しばしば観察されるので、宗教そのものがなんらかの宇宙観をもつと言い換えること もできる。例えば、風水、密教など。

治療空間 論:

 

身体空間 論:

 身体におけるタブーと空間的秩序。身体の開口部へのタブー。 唾液、精液、月経血などの排泄物。
 リーチ、ダグラスによるタブー論、境界領域や曖昧なものがタブーになる。

 2.2  時間としての聖と俗


 通過儀礼論


 ファン・ジェネップおよびV・ターナー、E・リーチ


 2.3 レヴィ=ストロースの構造主義

3.では我 々に何が遺されたのか?あるいは講義の守備範囲を越えるどうでもいい問題


 3.1 聖/俗論は近代の理論理性?


聖俗理論は、近代に遺された最後の大陸であった宗教に対決する理論として構築された。理論は二項 対立による要素還元的、分析的な方法論から構成されていた。デュルケームにおいては宗教が手際よく分析されたが、そこからこぼれる現象をより局所的に解決 していこうとしたのが、その後の展開であった。いうならば構造主義は、その理論におけるある種の最終兵器?だったのかもしれない。

この主張の背景には、デュルケームが『原初形態』においても進化主義を払拭できなかったのに対し、モースおよびモースの後継者にあたるレヴィ=ストロー スでは、共時的な人間の普遍的現象に関心がシフトしていることがあげられる。

社会構造と宗教的信念の強化に関する正のフィードバック


 3.2 ポストモダンあるいは近代が射程に入れた「宗教」無き時代における宗教に聖/俗理論は生き残 れるか?


その答えはイエス/ノー。デュルケームの聖俗理論は、社会という全体性を説明する理論である。聖 俗なるものの対立が効力を失ってきたときに遊びの理論が、世俗化した近代を説明する論理として登場した(カイヨワの理論)。これは理論の深化というより も、研究対象が異なる結果だった。しかし、遊びの要素を入れても聖俗理論のすそ野はひろがったが、乗り越えられたわけではなかった。では、我々のまわりに は聖俗がないのか?


練習問題としてのオウム真理教(この時点ではオウム真理教は日本を震撼させた訴追事件の対象に「ま だ」なっていませんでした):オウムのあり方は、俗説にあるような「偽の宗教」などと解釈する わけにはいかない。現在容認されている正統的な宗教の多くは、近代化の洗礼を受け、社会との調整によってなりたっている世俗化された「近代の宗教」であ る。ドグマの完全成就という観点からみるとオウムは、近代に抵抗する究極の「前近代な」ほんものの宗教ということが言える。ふつう、この種の終末論的な宗 教は、時代の変動期に登場する千年王国主義運動にきわめて類似している。類似していない点は、必ずしも抑圧された人びとを吸収するような回路として機能し なかったことだが、これは千年王国運動自体にとっての必然とは言えない。

世俗化によって聖なる空間は社会という共同性のなかからは衰退していったが、個人や小集団あるいは電子メディアなどの局所場でしか保証されなくなってし まった。人間という宇宙論的な存在の内部に分け入る精神医学においては、まだこの種の聖俗理論の命脈も未だ保たれるかもしれない。もっと面白い現象は、そ の聖なる空間を結局消滅にいたる過程を推進してきた理論理性が、その演繹的な成果をもって「聖なる空間」を創造するという行為(愚挙?)に出たことであ る。これは歴史のアイロニーとしかいいようがないことである。

 3.3  結論:建築研究における聖俗理論の今後


 聖なる空間が観察対象として分析されるではなく、創造的行為の目的として構築されることは2つの 意味をもつ。


(1)その建築物を聖なる空間として秩序づけ、崇拝対象とすること。つまり、建築のカルト化。


(2)聖なる空間から得られる効用を建築の効果として誤認すること。つまり、聖なる空間の世俗化を さらに推進することであり、カルトを建築化することである。


 この2つの意味は、近代が明らかにした聖俗の理論を仮想現実において実現させることであり、その 行為そのものは現実の聖俗理論そのものを無力化する近代の傾向をさらに押し進めるだろう。21世紀の聖俗理論は、建築や精神医学などの局所場において生き 残るが、宗教現象や社会統合を語る理論としては生き残れないだろう、というのが私の結論。

【資料】

S・ヒューズ『意識と社会——ヨーロッパ社会思想1890-1930』生松敬三、荒川幾男訳、みすず書房、1970年(Hughes, H. Stuart. 1958. Consciousness and Society: the reconstruction of Europian social thought 1890-1930. New York: Alfred A. Knopf.)


「宗教現象 との対決は20世紀社会 思想の展開にしばしば決定的に重要な意義をもつ経験であった」(p.192)

「デュル ケームは、社会はその起源において宗教的なものであるという定義へと導かれてゆく。 宗教が社会をつくり出した。これが実証科学の立場からとらえられた宗教の真の機能であるというのである。*Elementary Forms, pp.416-19」


謝 辞:このノートは、今から20年以上まえの1990年代の中頃に、熊本大学工学部の伊藤重剛教授(←当時、現在名誉教授)のお誘いでスポットでおこなった大 学院生向けの授業が契機になっている。その後、伊藤教授からの宿題は、ずっと僕の頭の中にあり今日、定年退職するまで(2022年3月末)続いてきまし た。今後も考え続けます。

クレジット:「聖なる空間」とは何か

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