民族医療の領有:戦術編
030331 池田光穂 BE(Bio-Economics)研究会
論文のレトリック
【コンテクスト】=行為者の現象世界の切り取り方
(a)日常的疑問:西洋近代医療全盛と思われている時代に、なぜ非西洋医療(伝統医療、代替医療、民間医療、クワッカリー(贋医師)な どの周縁化された集合体)が生き残っているのか? 生き残り、残存するだけでなく、資本主義社会において、つねに新しい装いをもった商品として消費されつ づけるのか?(「いまなぜ民間医療か」「非西洋医療」)
(b)専門家による説明:それに文化主義(Culturalism)的説明を与える医療人類学の発言の登場と、その学問的地歩づくり。 過去20年間この領域に身をおいて、医療人類学はつねに「新しい・開発途上の学問」とラベルが貼られるという体験は何を意味するのか? 周縁領域の研究は 好意的に受け取られた際(=象徴資本の獲得)には「先端で新しい」という言説のタイプで社会的に語られる(伝統医療や周辺医療が、資本主義世界医療システ ムの中で補完的に期待される面と同じ機能)。
(c)この2つの疑問に解答(=学問の行為実践を正当化する根拠/他の方法では解答を与えられないという「真理」性を勝ち取る)を与 え、かつ、2つの問いを関連づけることの妥当性を検証する。
【目的】=論文執筆の正当性の確保
「先住民社会に存在している薬草や治療技術の総体としての民族医療を、グローバルな資本主義システムの流通形態から解放する」。
【戦術】
[正当化の水準:人々の良識に訴える手順](→冒頭のサマリー)
(1)先住民の権利主張を進展させるのは良いことである(護民官的態度(paternalism)と弁護=煽動(advocate)の 2つの意識を区分することなしに、超越論的命題を提示)
(2)だが知的財産権を主張する存在として、先住民族の権利は忘却されることで、結果的に侵害されている。(権利保護の不作為)
(3)しかしながら、近代医療と民族医療の境界は曖昧で、歴史的には相互浸透してきた。したがって、利益が保全されてきた近代医療に対 する民族医療の貢献を評価し、それを償還すべきである。
(4)人類学はこの分野の問題系に実践的な解答を与える(=提言)。
[分析の水準:学問的攪乱を実践する]
(1)権利の根拠づけと主張が正当性を獲得するには、社会的うらづけが不可欠であるが、これは権力構造による勾配・傾斜・偏向 (gradient, disposition, diviation)がある。この用語を、領有(appropriation) の2つの訳語、専有=領有と我有=盗用から考える。(→ I. はじめに)
(2)近代医療による伝統/民族医療の知的簒奪(loot, lieutenat(中尉)=holder,colonel とsurgentの中間に位置する/配列づけを待つ状態 )を列挙することにより、近代医療の純粋な構築の物語を解体する。(→ I. はじめに、V. ラテンアメリカにおける事例)
(3)伝統/民族医療の定義にはじめから内包する曖昧性し、民族医療のカテゴリー的不統一性について指摘する(→ II 民族医療とはなにか?)。
(4)近代医療の純粋性を内部から構築する学問としてのアイデンティティの歴史的構築を指摘する。(→III 近代医療の歴史的構築)
(5)伝統/民族的なるものが、近代的なるものに歴史的必然のものとして線形的に置き換わるという「医療の進歩観」を批判する。「2つ の」医療システムの置き換わりは、進歩や進化の結果ではなく、近代国家制度の統治性のタイプによって、さまざまな展開の可能があることを示唆する(IV 民族医療と近代医療の相互交渉)。
(6)知的財産権の人類学的批判(Strathern 1999)は、知的財産権そのものを非普遍化して、知的財産概念の相対化を計る戦術だが、私はその[文化主義的]方法を採用しない。むしろ、知的財産権の 発想が、市民社会における創造者(creator)個人の保護尊重のシステムから、権利を有する特定の法人(corporation)の利益産出を保証す る——権利を有しない法人は排他され、システムの搾取の対象になる——システムへと変貌したことを指摘する(前期/後期知的所有権ヘゲモニー)。また、知 的財産権の制度を前提にして、この戦術的にローカルコミュニティに利益を還元する方法が考えられていることも併せて指摘し、状況が混乱した、論争的状況に あることを指摘した(→VI 民族医療の再領有化にむけて)。
(7)民族医療に知的所有権を与える(=資本主義システムにおける法人的主体[corporate subject ?]を構築する)ということは、近代医薬品のパテントとして昇格させることは、パッチをあてれば何とか動くプログラムのように経験的には実体化し機能を生 み出すことが可能であるが、論理的には矛盾絡みのものである。また、そのプロセスに人類学的知を繰り込むことは、知的には領有をめぐるより複雑な権力問題 が立ちはだかるし、保守的な人類学者にはアドボケートすることに後込みするだろう。つまり、この方面での打開はそれほど展開が望めない。
(8)人類学者のモラリティの復活は、ただ一度だけの経済利益還元である。
「歴史上の先住民の知識が人類社会にもたらした貢献を貨幣価値に換算して、利益に預かった人びとから、知識提供した先住民とその 末裔に対して利益を還元すべきことを最初の候補として私は提案する。人類学がこれまで蓄積してきた知識は、それに具体的な情報をもたらし、国際社会が先住 民に支払う長年の債務の大きさを実感させるだろう。もし先進開発国が先住民に対して過大な債務を負っていると認識するのなら、彼らが住む先進国の内的な後 進地域や開発途上国に背負わされている債権など全く問題ではない。そこでは我々の常識とは裏腹に、債務返済のモラトリアムや帳消しを求める者とは途上国の 人びとではなく、先進国で今まで民族医療の派生物から恩恵を受けてきた人びとや多国籍製薬企業に他ならない。それは現在までの植民地における収奪の歴史か ら見れば、自明の処方箋とも言えるべきものである。」
その代替案は、互酬性の秩序理念の復活(全体主義道徳?の復権? Italian corporative state)というユートピア的なもの。
「多くの先進国の人びとにとって、これが到底受け入れられない提案であるならば、知的所有権の過度の適用に歯止めをかけ、それら を相殺する国際社会と先住民の間に互酬性の社会原理を復活させるべきである。これが最初の提案に対する代替案である。我々が社会性を維持し共存してゆくた めには、我々が受けてきたものの中に「完全に無償の贈与というものは存在しない」、ということの意味を人類学者は今一度想起する時に来ているようだ。 」
【戦術の効果】
(結果待ち)民族医療の領有について
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■医療の社会的決定
医療人類学者のレトリック:
(1)医療を観想のもとにとらえ普遍的な実体と定義するもの(=aタイプの説明)
(2)社会的な審級により決定される流動的/現実形態を重視する態度(=bタイプの説明)
(3)普遍的なコア(カテゴリー的共通性)の上に、文化で決定する可塑性が備わっているという折衷的見解
【aタイプ】
「医療とは患う者と患う者の本復を企図する個人ないしは集団が関わる技術と信念の総体のことである。患者が不在では医療が成り立たない ように、医療は社会おける奉仕義務のシステム(system of total service)である[MAUSS 1990:5-6]」(2002:311)
【bタイプ】
(K・M「フォイエルバッハについて」の第一テーゼ)
「これまでのすべての唯物論——フォイエルバッハのもふくめて——主要な欠陥は、対象、現実、感性がただの客体の、または観照の形式の もとだけでとらえられて、人間的感性的活動、実践として、主体的にとらえられないことである。だから、能動的側面は、唯物論に対して観念論によって——し かしただ抽象的にだけ展開されることになった。というのは、観念論はもちろん現実的な感性的な活動をそのようなものとしては知らないからである」(引用は 田辺 2003:82)。
「民間医療においても西洋医療においても、医療体系は……自律的エージェントではない。また医療そのものを「アクター」と考えて自律的エー ジェントとして医療体系を取り扱ったとしても(池田 2001a:8)、それらは自動調節的に棲み分けるわけではなく、それらに働きかける別のアクター(例:人間や物理的資源)の存在が不可欠になるために、 この表現[=“医療の棲み分け”論]は不適切となる。……私は今日我々が所与のものとしている 医療の概念そのものでさえ近代社会制度が生みだしたものであると信じている(池田 2001b)」(池田 2002:白川『カストム・メレシン』への書評)。
ラス・カサス『インディアス史』序文・自筆原稿(岩波書店より)