脱病院化社会への実現に向けて
——旧称:医療のポストモダン=脱病院化社会を考える——
《予告編です:本編はこの後で!》
「資本蓄積 (Capital accumulation)とは「マ ルクス経済学においては、資本制再生産において、剰余価値の一部が再び資本に充当される」過程のことをいい、新古典派経済学では、資本形成のことをさす。 前者では「生産過程において生み出される剰余価値は、単純再生産に見られるように資本家の消費で全てが支出されるのではなく、一部が新しい追加的な資本に 転用される。その結果として資本の蓄積が起こり」生産規模が拡大し、経済成長となる。後者では、単純に「民間・政府部門での在庫品や固定資本などの資本の 増加」をそのように呼ぶ。-ウィキ「資本蓄積」
"Capital
accumulation (also termed the accumulation of capital) is the dynamic
that motivates the pursuit of profit, involving the investment of money
or any financial asset with the goal of increasing the initial monetary
value of said asset as a financial return whether in the form of
profit, rent, interest, royalties or capital gains." - Capital
accumulation.
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医療のポストモダン
——脱病院化社会以後を考える——
池田光穂:第93回日本麻酔科学会東海地方会総会「教養講座」2003年2月15日:第93回日本麻酔科学会東海地方会会員の皆様へのサービス!
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0.3つの事実
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《1》
【2003年2月14日、朝日新聞】
見出し:大学病院、麻酔医引き上げ
リード:臨床研修必修化で余裕ない:派遣先、手術に影響
中身「大学病院が麻酔科医を派遣先病院から引き揚げ始めている。減員を強いられた病院は医師確保に奔走(ほんそう)しているが、手術を減らさざるを得なく
なった病院も現れている。[20]04年度に医師の臨床研修が必修化されるのに備え、大学病院自身の体制強化を図るのが理由だ」。「引き揚げの背景は、医
師の臨床研修の必修化▽遠くの病院勤務を嫌う医師の増加▽大学の臨床・研究の充実化——など。全国的に医師が少ない麻酔科での動きが顕著だ。/これまでは
麻酔科に入局する医師に加え、研修で短期間回ってくる外科医に教育を兼ねて手伝わせることもできた。/必修化で1病院が抱えられる研修医数は10床あたり
1人に限られる。2年間の研修中は内科や外科など決まった診療科を回ることになるので手術室の労働は不足する」。
【我々の用語法】
→専門家システムの確立に伴う、人的資源と学習資源の再配分化現象
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《2》
「修繕サービスに関連して過去百年ほどの間にわれわれが目撃してきた基本的変化の一つは、車を引 いた行商とか御用聞きがおこなわれなくなってきたことと[同時に]仕事場の装備複合体 the workshop complex の発展である。サービス提供者が依頼人の許に自ら道具持参で出向く代わりに、依頼人がサービス提供者の許に来て、故障したもの(object)を彼に預 け、のちに改めて修復の済んだ所有物を受け取りにくるのである」(ゴッフマン『アサイラム』[1961]1984:331-2)。
【我々の用語法】
→同じ職業カテゴリーの業務内容の根本的な変化、行為主体の実践構造/認知構造の変化
《3》
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昨年2002年12月2日ユダヤ人でカトリック司祭であったイヴァン・イリッチが死にまし た。イリイチは「社会の脱病院化」について直接このスローガンを掲げたわけではありません。イリイチの著作『医療の限界(原題)』を1978年に翻訳した 金子嗣郎さんという精神科医が、イリイチの著作がもつメッセージを日本語のこの標題として掲げたのです。当時の歴史的状況から考えれば想像できるように、 このスローガンには反精神医学の精神への期待や、日常生活の医療化への批判が込められています。しかしながらhospitalizeは「加療のため入院す る」の意味があるので、この用語法は日本語ならではの特殊な翻訳で、医療システムに対する当時の不信感を表した、ある意味で見事な用語でもあります。また 病院を「近代システムの収容所」という風な悪い意味あいで用いている点で、脱病院化の意味はさまざまな誤解を産む可能性のある多義的な用語になったことも あります。この用語は一般化ないしは大衆化をとげて、専門家が狭い議論のなかで使われることはほとんどないにもかかわらず、保健にかかわろうとする学生や 一般の人々——とくに団塊の世代以降の——人々の日常用語となりました。
その後、この医療化(medicalization)批判に関する議論や病院のシステムその ものは、時代や経済の流れを受けて変容を遂げてきた。ひとこ とでまとめると、病院はかつての全制的施設(total institution)という古典的な意義を失いつつあることは明らかである。したがって、現況の日本において脱病院化の理念は、それをオリジナルに掲 げた人たちとはかなり異なったかたちで実現されつつあるといえる。しかし「病院化」とは医療化のことであり、病院が社会の中の施設から社会の制度そのもの へ、身体を収容する施設から時代精神を収容する制度(institution)となったと理解すれば、病院化社会は脱病院化という経路を通らずに別種の病 院化社会になったとも言える。これはある種の近代化の成果と言えないこともない。
【我々の語彙】
→批判の語彙、
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ここから論文の本編です:「医療のポ
ストモダン」
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1 はじめに
私の大学院生時代の指導教官であった大阪大学名誉教授・中川米造(故人)は「私は大学に入 り医学生になった途端に、医学というものがわからなくなった」と、独白めいた言葉を吐きながら、授業や講演をおこない、我々学生を煙に巻いていました(池 田 online)。それから二〇年近くなって、私は「医療と文化」という先行論文を書くことなしに、「『医療と文化』再考」なる論文を思想界に名の通った岩 波書店の雑誌『思想』に書かせてもらい、世に問うという無謀をしでかしました。共に——中川さんの正統な弟子筋から見れば彼と私とを同列に並べることは眉 を顰める話でありますが、しかしそれは私にとって愉快なので敢えて同列に扱います——それまでの「常識」を前提にして議論を展開することを拒否した、きわ めて反省的、きわめて反実証的、きわめてユートピア思想的な立場が貫かれており、読む者に対して挑戦的な気分にさせる(あるいは不安に陥れる)修辞法で あったなあ、と現在では私はそう考えています。
ここでは、そのような鬼面人を驚かすような修辞法から始めるのではなく、この種の修辞法を可 能にする社会的条件である「医療と文化や社会は、いかにして 今日のように相互に密接に関係するような存在として認められるようになったのか」について、私の考えを紹介したいと思います。
私の議論を理解するためのチェックポイントは3つあります。つまり、(i)医療とは何であ るか、(ii)文化とは何であるか、そして(iii)医療と文化の関係とはどのようなものであるか、ということです。ここでは、まず(i)医療とは何であ るか、についてのみ考えます。当然のことですが、他のチェックポイントも議論しなければ、最終的な目標である「医療と文化」について考えることができませ ん。誌面の都合から、限られた議論を先鋭化する方法を選びました。しかしながら、私が「医療と文化」について書いている本や論文(池田 2001)を参照することで、読者の皆さんが、私がこの論文でおこなった議論を受けて、皆さんの仲間どうしあるいは自力で解法できるように、私の考え方の 基本についてなるべく平易に伝わるように工夫しました。さあ、それでは始めましょう。
2 近代医療はどこから始まるのか
医療や医学という言葉は翻訳語です。しかし外来のものが翻訳される以前や以後にも、医薬の 取り扱いや治療のための技術に長けた人(例えば「治療者」)や、その人たちが担う技術体系(例えば「医術」)をさす固有で独特の名前が、多くの社会には準 備されています。西洋で中心的に発達してきた近代医療が、それまで普及していなかった社会に導入されると、それに対する翻訳語がすぐにできあがります。ま た近代医療は、いろいろな社会への導入直後には大きな問題を引き起こしたことがあるものの、社会に完全に適応できなかったものはありません。つまり、近代 医療は、それが実際に使えるか否かは別にして、世界の多くの人たちにとって、まさに病気を治療する技術や、はたまた実践体系として認知されています。
私の最初の疑問は、このような近代医療はいつごろ認知されるようになったのか、ということで す。我々がそうであると思っているところの「近代医療」は いったい、いつ頃からあるのだろうか、という問いを立てることにします。
ところが、この問いに明確に答られる人はいません。まず、科学の社会史やトマス・クーンの科 学革命についての議論に馴染んだ研究者なら、近代医療がある 限られた特定の時点から一斉に成立するという議論に関心がないでしょう。また、そのような問いをおこなうこと自体が有害でナンセンスだと片づけられるかも しれません。そして、このようなことは、論理上のことだけでなく、具体的な歴史の中でどのような時代にそれが可能であったのかという問いを立てることで、 逆にその正確な答を得ることが不可能なことがわかります。
実例をあげてみましょう。近代医療の出発点と主張される医学上の発見やその歴史的事象につい ては、多くを指摘することができます。
医学理論に注目すると、古くは血液循環を発見したウィリアム・ハーヴェイ(1578- 1657)、臨床現場における観察を重視し今日的な病気観察の類型 論を確立したトマス・シデナム(1624-1689)、三〇歳で夭折するまでに精力的な病理解剖をおこなった組織解剖学の祖マリ・フランソワ・ビシャ (1771-1802)、実験にもとづく生理学の基礎づけをおこなったクロード・ベルナール(1813-1878)、実験医学の基礎をつくったルイ・パス ツール(1822-1895)、パスツールとならび細菌学の祖とされるロベルト・コッホ(1843-1910)まで、その科学的認識の始祖とされる人たち の活躍には四世紀の広がりがあります。また、近代医療を典型的な近代化システムと見立てて、社会統制のシステムであるとみると「医療警察」制度を考案した ヨハン・ペーター・フランク(1745-1821)、イギリスの衛生改革運動の強力な推進者であり公衆衛生法と行政機関としての保健局の設置に貢献したエ ドウィン・チャドウィック(1800-1890)などが、まさに近代医療の確立者であると言えなくはありません。
また、近代医療を今日のようなシステム化された科学的知識とその技術的外挿と考えると、その モデルは新大陸の北アメリカに求められ、定番となる医学教科 書をつくったウィリアム・オスラー(1849-1919)やジョンズ・ホプキンス大学設立の功績者であるウィリアム・ヘンリー・ウェルチ(1850- 1934)、医療の定式化をロックフェラー財団の全面的な援助をバックに制度改革(1903-1935, ロックフェラー医学研究所初代所長)として精力的に推し進め、世界の最高水準にまで高めたサイモン・フレクス ナー(Simon Flexner, 1863-1946)の名前を忘れるわけにはまいりません。これ以外にも、いろいろな近代医療の始祖を探し出すことが可能です。
このように、ざっと見ても400年間の幅があるわけですから、近代医学のある特定の出発時点 を定めること、それ自体には大いなる意味がないことは明らか です。
3 連続と不連続
それでも、どこから始まるかという問いを立てたが最後、そんなものはないと教師が言って も、そりゃどこかにあるはずだと言う学生は後を絶たないでしょう。問いがあれば、答があるはずだと考えることは、我々が骨身にまで教育されてきたひとつの 原則=教練だからです。だから、その地獄から逃れるためには、もうすこし丁寧に解説する必要があります。これを解く鍵は、その問いの中に知らない間に我々 が滑りこませた時間的概念であり、それについて自覚的になる必要があるということです。
つまり近代医療という表現のなかの「近代」という言葉に注目しようということです。近代 (modern)という表現における時間概念は、それが同時代の (contemporary)中にあるということです。ということは、我々が享受している同じ医療体系が、ある時期以降に到来した/誕生した/確立した医 療と同じものだと感じた際に、それを我々は近代医療と呼んでいるのです。しかし、その時間的概念を軸にして近代医療というものを理解する人の態度は、ただ 単にその基準の中に安住しているだけではありません。同時代においてさえ、時代遅れの医療や近代医療と異質なものであると見なされる医療は、近代よりも時 間的に遡る「前近代」ないしは「古代」や「中世」といったレッテルを貼られたり、その同時代性が保証する普通の世界の外側にいるという意味において、否定 的な「反〜」とか「非〜」という接頭辞を付けられて、同時代性つまり同じ世界の圏外に放り出されてしまいます。なぜなら、たいていの人間集団は、自民族中 心主義の色眼鏡によって自分たちが当然とみなすものを最高ないしは最適なものと見なしがちだからです。
ところで自民族中心主義と述べましたが、これにはちょっと留保が必要です。近代医療の担い手 は西洋の人たちだけでなく我が国の医療者たちであり、文化的 背景を異にする人たちの間にそれは広く受け入れられました。したがって、この場合には、どこに傲慢さの中心があるかというと、それは近代医療を発達させ た、あるいは受け入れた特定の民族集団よりも、受容される近代医療の論理が内包する自文化つまり、近代医療をおこなっている人たちがもつ近代医療の優越性 についての揺るぎない信念にあるといえます。
このような揺るぎない信念はいったい、いつ頃から形成されてきたのでしょうか。私はこのよう な問いかけは、近代医療はどこから始まるのかという前節の問 いよりも、もっと意義深いものだと考えます。それは、近代医療がどこにあるかという、ある種の歴史的な恣意性にもとづく評価よりも、歴史的な認識をも含ん だ近代医療そのものの自己認識のあり方を問うているからです。近代医療そのものと言いましたが、もっとも医療そのものが自己認識などする訳はないですか ら、正確に問い直しますと、近代医療の従事者(ないしはそれらの学者や論客)は、自分たちが従事する医療をいつから「近代医療」と呼ぶようになったか、と いう問いです。そのような連続と不連続の時間の境界で、彼らはいったい何をおこなったのかということです。
4 同時代医療という着想
メリアム・ウェブスターのオンライン辞書によると、英語におけるモダンメディシン (modern medicine)という用語の初出は一五八五年に遡ることができると言います(ちなみに民俗医学(folk medicine)は一八七八年)。この用語の初出時期の古さは医療を時間性の中で捉える発想が意外にかなり以前よりあることを示唆しますが、その歴史的 文脈のなかに位置づける他の資料があまりにも少ないので、ここでは検討しません。
私は科学史研究におけるパラダイム論や科学社会学的アプローチを重視します。つまり近代医療 に従事している当の人たちが自分たちの仕事の位置づけとして モダンメディシンという用語をいつ頃から使うようになったのかという点に着目してみます。
アメリカ合衆国ミシガン州バトルクリークにあるサナトリウム兼病院において『モダンメディシ ンと細菌学の世界』("Modern Medicine and Bacteriological World")という雑誌が一八九三年に発刊されます。細菌学は、その当時の近代医療におけるもっとも強力な学問的パラダイムでした。この雑誌は翌年に 「世界」("World")を「レビュー"Review"」に変えた後、一九〇〇年に細菌学の名前が消え『モダンメディシン"Modern Medicine"』と改名されます。モダンメディシンを冠した雑誌は四三年に『モダンメディシン年報("Modern Medicine Annual")』(一五年後に『レビュー・オブ・モダンメディシン("Review of Modern Medicine")』と改名)になるまで現れません。
他方、英文による書物はどうでしょうか。先に挙げたカナダ生まれの医師ウィリアム・オスラー (William Osler)は、バトルクリークでの医学雑誌が発刊される一年前、彼が亡くなるまでに八刷を数える当時の標準的医学教科書『医療の原理と実践 ("Principles and Practice of Medicine")』の初版を出版しました。これが一八九二年です。しかし、その「医療」にはモダンという形容詞は修飾されていません。彼は一九〇五年 にはオックスフォード大学医学欽定講座の担当教授に任命されます。その三年後には『モダンメディシン、その理論と実践( "Modern Medicine: It's Theory and Practice")』というタイトルの本をフィラデルフィアで出版しています。当時の医学界の最高権威のひとりによってモダンメディシンと冠された書物 が刊行されたのです。彼は一九一三年四月に今度はアメリカのシリマン医学研究財団が主催するイェール大学での連続講演のタイトルを「モダンメディシンの進 化」とします。この講演は、彼の死後二年経って、オックスフォードとイェールの両大学から出版されます。この頃にはモダンメディシンは英語圏の医学界にお いては完全に市民権を獲得します。一九一六年には「一般医のための実践的ノート」という副題のついた『モダンメディシン(近代医療)と幾つかの近代的療法 ("Modern Medicine and Some Modern Remedies")』がロンドンで、二年後の一九一八年に初版が出て四一年まで第九版まで続く基礎医学のテキスト『モダンメディシンにおける生理学と生 化学("Physiology and Biochemistry in Modern Medicine")』(総九〇三ページ)——奇しくも先の雑誌における細菌学から、この生理学や生化学への推移は同時にモダンメディシンを構成する主要 パラダイムの変更を象徴しています——がセントルイスで公刊されます。
つまりモダンメディシンという用語の登場からもっとも権威ある筋に認められるようになるの は、十九世紀の最後数年間から二十世紀最初の一〇年間であると いうことになります。雑誌論文や書籍のタイトルにみるモダンメディシンの使われ方をみて興味深く感じるのは、一度用語法として確立した直後におこるのは、 (オスラーの時代にすでに徴候がありましたが)モダンメディシンがどのような来歴をもつのかについての検討、さらには、モダンメディシン以外のメディシン (医療)、とくに未開医療や民俗医療についての位置づけや解釈が、まさに同時代的状況の中で登場することです。医療人類学の学問の成立時における未開医療 への関心についてすでに私が指摘していることですが、イギリスの精神科医で人類学者のウィリアム・H・R・リヴァーズは一九一五・一六年にロンドンの医学 校での講演で未開医療について重要な指摘をおこなっています(池田 2001:18-22)。
このような認識を通して、モダンメディシンは近代社会において我々と同時代性を共有する正統 的ないしは公的医療の地位を獲得したと同時に、その進化や発 展を保証するための二つの異質な部分——ひとつは同時代性を拒絶する発展の途中で古くなってしまったモダンメディシンの部分的過去と、他のひとつは前近代 =非近代=伝統=未開という発想の連鎖の中で位置づけられる民俗=民族医療から構成されます——を抱えることになるのです。これが「医療と文化」の関連性 について論じる際に重要な分析の視点となるのではないかと、私が最近抱くようになった仮説です。
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5 発想の連鎖反応へ
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ここまでの説明を踏まえれば、あるいはそれらを論証するために提示してきた一連の仮説を理 解してもらえれば、別の著作の中で論じている次のような医療のあり方をめぐる議論を私がなぜおこなったのか、ある程度推測することができると思います。そ れは、病気を治すための信条やそれに関連づけられた技術の体系を<医療>と名づけると、ひとつまとまりをもつ文化・社会においてさえ、ひとつの<医療>の 中には複数の下位領域が認められます——これを医療的多元論と呼びます(池田 1995:203, 2001:95-98)。さらに、一見一枚岩に見える近代医療つまりモダンメディシンにおいてすら、実態は、その中心的な考え方をなす生物医療 (biomedicine)を中核に、相矛盾する複数の理論と実践からなる構成体である可能性が高いということです(池田 2001:93)。このように見ることで、非近代医療つまり民俗=民族医療もまた近代医療との同列の次元で取り扱うことができる地平を我々は持つように なったということです(池田 2001:94)。つまり、前節で主張したように近代医療の自己同一性に関する議論から論理的に導きだせることも、医療的多元論についての経験的な成果か らも、近代医療概念の確立には常に同一ではない異質な医療あるいは、異質な下位領域の存在が重要になってくるのです。
この論文の著者としての私の課題は、次に我々が所与のものとしている、(ii)文化とはいっ たい何であるか、について論じることです。しかし、もう誌面 が尽きました。もちろん、私はこの議論の続きを展開するつもりですが、今までの私の議論の展開をご覧になれば、読者の皆さんに納得してもらうための論証の 手続きのやり方について多少なりともお分かりになった方も多いと思います。大変わがままなリクエストですが、ここまでお読みになった読者の方は、是非と も、私の論文や著作などを参考にして、私の粗い議論をより洗練したものにしてくださるようお願いします。
論文の最後に著者が読者に向かってお願いするなんて前代未聞かも知れません。しかし、それは 冒頭で挙げた、中川さんや私の先行論文で読者に投げかけてい た鬼面人を驚かすような修辞法よりも、多少なりとも親切な呼びかけとは言えないでしょうか。あるいは、このようなやり方が、「私は医療が分からない」とい う中川さんの独白から私が知らずのうちに受けた教育法(pedagogy)かも知れません。
後日談
Dis-Easeの用語法探求の続報です。
オーストラリアのKaren-Sue Taussigさんと2,3メールをやりとりをして、以下の ようなことを教えてもらいました。我ながら酷い拙訳ですが、文意はある程度おわか りになると思います。[ ]内は私による補足です。
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【池田の質問】
私は、英語ネイティヴスピーカーの一般的な学術用語において、Dis-Easeがどのよ うに使われているかを知りたいと思います。ご存じのように疾病(disease)と病い (illness)の二分法のように、あなたは、Dis-Easeを「社会化した疾患 (socialized disease)」というふうに[疾病概念を]拡大したかたちで使った、す なわち[Dis-Easeを]疾病あるいは人間の苦悩の社会的意味である、というふうにお 考えなのでしょうか。
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【Karen-Sue Taussig さんの答】
私は、病気=安易ならざるもの("dis-ease")概念というふうに[disと easeを] 節合させたあなたの理解——少なくとも私はそう考えますが——は、まったく正しい と思います。
私は、この用語を第一に次のことを想起させる、あるいは発見的な手段としてとら えています。つまり、個人の「疾病(disease)」から、社会の疾病へと移行させる ことです。それは、「障害」[という言葉]のように、規範の外にある存在として見 なされかつ理解がなされているような、具体的な状態が容易に引き起こしている、社 会的落胆、不快、不安、安楽の欠如[そのものである]というふうに、疾病をとらえ ることです。
もちろん、医療人類学の研究者として、私たちはdis-ease[という言葉]を「疾病 (disease)」の理念がどのように理解されているかと仮想的に定義していると考え たいのですが、しかしながら「病気=安易ならざるもの("dis-ease")」という言葉 を使用することによって、我々自身(=医療人類学者)と人類学の他の下位領域とそ れらの幅広い関連領域における我々の同僚の双方に対して、[この病気=容易ならざ るものの存在を]常に思い起こさせてくれるものとして考えたいのです。
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【池田による解説】
要するに、大文字のDisease概念の解体がはじまっているということでしょうか。
これは、90年代の中盤から後半からかけておこっている北米の医療人類学や英国 の医療社会学における「人文科学的転回」——医療人類学が医療/人類学の折衷的分 野からとくに生物医療概念批判を含んだ人文社会科学的傾斜の度合いが転換点を超え ること——の帰結であるように思われます。
この頃の北米の生物医療は、EBMに代表されるように質的情報の大規模集積と、 それにもとづく「情報論的転回」——認知や倫理という医療者の行為主体中心から医 療を情報システムの中での確実性に基づいた操作体系とみなす変化——を遂げるわけ ですから、この動きは医療人類学における「人文科学的転回」と無関係ではないよう です。
とにかくここいらあたりは、要チェックですねぇ。
※ご注意※:人文科学的転回とか情報論的転回は、池田が勝手につけた造語なので、 他の人に言いふらしても通じないかも知れません。もし他人と議論する場合でした ら、その文意をご自身なりに翻訳して流用したほうがよいでしょう。