近代日本における未完のプロジェクト:帝国医療
Unaccomplished Project in Modern Japan, Japanese Imperial Medicine.
近代社会の統治術概念から導き出された植民地の医療システムとしての「帝国医療」とは、なによりもそれが使われる歴史・社会的文脈の中に位 置づけて精確に議論しなければならない分析概念である。歴史家のデイビッド・アーノルドや脇村孝平らが、この用語を鍵概念にして解き明かそうとしているの は、英国のインドを中心とする帝国統治のシステムが、中心地で論じられていたイデオロギー以上に、臣民(subject)への身体や集団への管理の具体的 諸相にあったことにある。
他方、人類学研究において、機能的かつ批判的議論を導く装置として我々が帝国医療の概念を流用することは可能であろうか。その際には、元 の概念に含まれている歴史・社会的文脈から自由になれる理論的代償として、我々は帝国医療がもつ主要な特徴をさまざまな諸事例から彫琢し、ある歴史・社会 的文脈の中でその医療システムが帝国医療として作動可能になる社会的条件を明らかにしなければならない。
日本における近代生物医療(modern biomedicine)を帝国医療として分析する際には、次にあげる幾つか歴史的社会的条件の固有性について着目せざるをえない。
(1)近代日本の医療は、明治維新以降、激烈にシステム変換したと言われるが、これは国家が採用する医療システムにおいてである。近代 医療を採用する以前から蘭方医療が存在し、また、漢方医も根絶対象となったわけでもない。システムの移行という観点から見れば、近代医療への移行は緩やか に進行したと考えられる。これは、今日における多元的医療にもとづく仮定法的態度の選択という医療行為の中にも残っている。
(2)国家の統治技術としての近代医療の適用が、もっとも激烈におこなわれたのは、「避病院」(伝染病隔離)や「癲狂院」(精神病)へ の収容政策であり、患者や家族による微弱な抵抗に出会うが、共同体は国家政策のエージェント機能の末端としてその役割を担い、集合的な行為としての医療批 判運動に繋がることは少なかった。これらの歴史的伝統は、今日における病者差別や国家賠償制度の不備という事態に色濃く反映さえている。
(3)近代医療はつねに輸入されつつその中身は欧米の水準に追いつくべきものであるという一貫した国家政策は、結果的に主要な医療者の イメージを草の根レベルの実践家ではなく大学病院を頂点とする科学者として定着させた。そのため国家の医療政策は、医科学を常に向上させる政策に傾き、福 祉サービスのエージェントとして転換することができなかった。それゆえ近代国家の中でも稀にみる医療化の弊害に見舞われた社会となった。
日本の植民地統治は歴史的には後発の部類に属し、また帝国を構築していた周辺部分では事実上交戦状態にあったために、帝国の社会基盤整備 の装置として生物医療を十分に発動させることができなかった(これは日本の植民地人類学の事情にも通底する)。日本の植民地統治へと飛翔するはずの帝国医 療のプロジェクトは第二次大戦終了において中途終焉したのではなく、その統治性を発揮する対象は代わったものの、これらの理念と現実は命脈を保ち続けた。 そして、今日のネオリベラル経済の医療制度改革によって初めて試練に曝されることになったのである。
発表ではいくつかの歴史的諸事例に触発された帝国医療の特徴を紹介し、それを今日の医療人類学の課題--日本において医療人類学を実践す ることの意味--に関連づけて論じてみたい。(Copyright(C) 2003 Mitsuho Ikeda)
Copyright Mitsuho Ikeda, 2002-2003
脇村孝平 2002 『飢饉・疫病・植民地統治』名古屋:名古屋大学出版会。
なぜ、19世紀後半から20世紀初頭まで英領インドでは飢饉と飢餓を繰り返したのか。そして、植民地政府はそれらの事態にどのように対 応したのか。
Copyright Mitsuho Ikeda, 2002-2017
■ I.イリッチ(1989[orig.1973])の医療の「ふたつの分水嶺」論
「1913年というのは、現代の医療の歴史ではひとつの分水嶺をなしている。その年あたりから患者は、もちろんその時の医学によって認 められた標準 的な疾病のひとつにかかっている場合のことがだ、医学校を卒業した医者から専門的な効果ある治療をうける機会が50パーセントをこすようになった。それま では、地域の病気治療法に精通し患者から信頼されていた数多くの呪医や薬草を使う民間医が、つねに同等かあるいはそれ以上の治療効果をあげて来たのであ る」[渡辺京二・渡辺梨佐訳、p.1、漢数字はアラビア数字に変えた―――引用者)]。
「[19]50年代の半ば[=1955年――引用者]になって、医療が第二の分水嶺をこえ、それ自身で新しい種類の病気をつくりだした ことが明白になったのである」[同上、p.3]。
「第二の分水嶺の頃には、不健康な環境に住み医療に依存する人々の病んだ生命を保護することが、医療専門家の主要な仕事となった」[同 上、p.5]