か ならず読んでください

風の記憶

Memoria del Viento, 1992

池田光穂

1990年、サンチアゴ・デ・アティトラ ン 虐殺事件

『風の記憶』(Memoria del Viento)1992 1992年


Memoria del viento

Memoria del viento

Una aproximación fílmica a la sufrida historia reciente de Guatemala vista por sus diferentes protagonistas: los militares, los políticos, los pueblos indígenas, etc.

52 min | Resistencias indígenas | 1992

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・白人観光客と先住民の光景

・観光客は我々のことに関心をもたない。

500年の沈黙を破る。風が無くならない ように、我々の抵抗をやめさせることはできない。

ツトゥヒル・インディアン

ろくす・ろひれお(世界の心臓)

マシモン(サン・シモン)

【女たちの証言】

・軍人が夫の弁当を奪う(=「ゲリラに食 料を与えるつもりだろう」)

・殺人が日常茶飯事である。

12月2日の虐殺

隊長に抗議をするために軍の駐屯地へいく 男性たち。

機銃掃射をあびせる軍人。13名殺害され る。

・叫ぶ中年の女性

1985年、民政への道が開ける。

1980年代のはじめアメリカとイスラエ ルの援助 100万人、自警団へリクルート。

【ルカス・ガルシアの発言】

ベネディクト・ルカス・ガルシア (198@ー1982?)

・PACの創設者 ・フランスに留学、対ゲリラ戦について学ぶ。

・兵士を近代化することに自負する彼のネ クタイ姿。

・当時のフィルム ・抵抗の村——ゲリラと軍隊の抗争から逃れて山岳に住まう人たち。

1981年 平定作戦に着手

250の村、2万人の犠牲者。

抵抗の村:CR

抵抗の村の女性:スペイン語で「自分たち は農民であり、軍人には近づかないでほしい」

女性2:マヤ語で

抵抗の村:1万5千人ほどで、山岳に分散 して住む。1980年頃〜

抵抗の村でのニュース係の青年:サンティ アゴについてのニュースについて知る。

別の男性:先住民族は屈することをしな かった。グアテマラ人である。グアテマラ人とは先住民のことである。

(ダンスのシーン):

【カブレラ司教の証言】

フリオ・カブレラ司教(キチェ司教)

はじめてこの村を訪れることができた。

先住民の告解のシーンを挟むカブレラ司教 のインタビュー

軍人は、川に毒を流した、死体に地雷をし かけた。軍の残虐さを理解することはできない。

ただ、先住民族を絶滅させることを臨んで いたのだ。

カブレラがヘリコプターで帰るシーン

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軍の暴力に対するゲリラのシーン

1954年アルベンスが倒れて依頼、中央 アメリカで最も古いゲリラだ。

ゲリラの多くは先住民族である。

【ゲリラの青年の証言】

1982年以降、ゲリラに入った先住民の 青年 20年以上のゲリラ

報復としてのゲリラの攻撃後のシーン

土地に関する先住民族の意識。

コーヒーを摘む人々:

(現在でも植民地の人々とかわらない)

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サンドバル家のパーティの状況

アルマンド・サンドバル博士(MLNの創 始者、クーデターの黒幕の噂)

【サンドバルの証言】

サンドバルの話:「スペインの征服はすば らしいものだった」

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コバン市のラビナ・ハウ(ミス・マヤ)の 選出:全国フォルクローレ・フェスティバル

【ルカス・ガルシアの証言】

FFの主催の一人:ルカス・ガルシーア: 自分にもケクチ語を話せる。

平定作戦の正しさを主張;虐殺や誘拐とい うものは、ない。自分は農民を愛している。 サンティアゴの事件は、市長が市民を煽動したのが原因である。ベトナムでおこった。そんなものはありえない。行方不明者はみなグアテマラのイメージを悪く する陰謀である。行方不明者はみんなキューバにいるはずだ。

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「しかし沈黙は破らねばならない」

恐怖を抑圧する。民主組織のバックアップ でのみ可能になった。

遺品から身元を確認する状況:たぶん旦那 さんへ。

黒いビニール袋に入った遺骨

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サン・アンドレス・サブカアハ(キチェ)

・テクン・ウマンとスペイン人との戦いの 仮面劇

・1980年の住民14000人、 1000人殺害、2000人行方不明。 200人を教会の敷地に埋める。

・セマナ・サンタのマトラカ。ナザレのキ リストプロセッション(受難の記憶だと説明)

・夜のプロセッション

マヤ司祭:死者が生きている。 死者の魂は風の中にある。

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グアテマラ市のディスコ:死者の日の若者 の行列。

サンドバル夫人

サンドバル家の人びとにとって、先住民は 不審と恐怖の対象に他ならない。

サンドバル家:先住民族の素朴画のコレク ション

「インディオは従順であった。彼らが絶望 したときに、一番危ない。貧困にはペレストロイカなどはいらない」

「バラバとイエスキリストのどちらかとい うことを、ピラトは投票させた。ユダヤ人はバラバに投票した」

選挙の状況:リオス・モントとアルス候補 (9*年の投票)

・ルイス・アビラ大佐(MLNの候補 者):

グアテマラの先住民は保存すればよい、 ディズニーランドで先住民を披露すればよい。

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先住民は、日食を何千年も前から予測して いた。

【ロサリナ・トゥユクの証言】

「あの人たち」は何も学ばなかった、自分 たちの精神的ルーツを。 先住民の権利を要求する権利がある。先住民族として立ち上がらねばなりません。

・抵抗の500年の後進。 (CONABIGUA)

【??先住民の女性】

・立場が逆になるから復讐をすると思わな いで欲しい。

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・サンティアゴの状況 ・軍の駐屯を撤退させた。 自分たちのパトロール隊を組織した。

・サンチアゴのプロセッション:マヤ司祭 の発言「俺たちは自由を勝ち取った」

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・マシモンと夕日と音楽、夕日に写る火山 の図。

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<2003年6月15日 朝刊 27面> 『沖縄タイムス』

傷病兵に青酸カリ注射/沖縄戦 軍医命令・従軍看護婦が証言

 沖縄戦当時の野戦病院壕で働いた元看護 婦が、当時軍医の命令で傷病兵に青酸カリを注射したと証言した。十四日に那覇市内で試写会 が行われた白梅学徒隊のドキュメンタリー映画「友の碑(いしぶみ)」に収録された。野戦病院から撤退する際に旧日本軍が重症患者に青酸カリをのませたとい う目撃証言や生き残った患者の証言例はこれまでにもあったが、実際に従事した看護婦が公に証言した例は初めてとみられる。

 那覇市の譜久山ハルさん(75)は、国 民学校を卒業後、県病院で二年間訓練を受けた。一九四五年六月、山第一野戦病院東風平分院 に軍医一人、譜久山さんを含めた正看護婦二人、白梅学徒五人が配置されていた。戦闘が激化したため、同月三日に分院が閉鎖される際、軍医の命令で、重症患 者に青酸カリを注射した。

 バケツの水に青酸カリを薄め、注射器で 兵士に注射した。三人目に取り掛かろうとした時、一人目が呼吸困難を起こし「お母さん、お 元気で。お父さん…」と苦しみ、こときれた。譜久山さんは「もう(青酸カリを)捨てましょう」と軍医に言ったが、軍医は激怒。譜久山さんは、足腰が立たな くなるほど、軍医に殴られた。むりやりに命令を聞くしかなかった。

 三人目の患者は、偶然にも親せきの男性 で助けを求められた。二人で方言で相談し、軍医に分からないよう注射をするふりだけで済ま せた。その後、譜久山さんらは男性を残して壕を後にした。

 「『天皇陛下万歳』と言って死んだ人は 一人もいなかった」と譜久山さんは苦々しく語る。「日本兵、軍医は本当にひどかった。言葉 では言い尽くせないことがたくさんある。軍医が軍曹とともに沖縄のおじいさん二人にスパイの疑いをかけて殺したのも目の前で見た。それを見た沖縄出身の兵 士が気が狂うほどだった」とも。

 譜久山さんは、この時の体験を沖縄戦の 三十三回忌が過ぎたころから、看護婦仲間に語り始めた。「戦後の生活でどんなに、つらいこ とがあっても、つらさは忘れることはできる。忘れられないのは、あの壕の中のこと。あの時のことだけはいまだにことあるごとに思い出す」という。

逆らえない大本営命令

 沖縄戦を研究する石原昌家沖国大教授の 話 今まで、青酸カリ入りミルクを枕もとに置いたという話などは出ているが、このような証 言は聞いたことはない。当時、日本軍の大本営陸軍部は(「決戦間傷病者は後送せざる」などと記した)「国土決戦教令」を出していた。上意下達の軍隊の論理 と組織の中で、大本営からの命令は天皇の命令として、軍医も忠実に部下に下す。(青酸カリを注射せよという命令に)逆らえるような状況ではない。

映画「友の碑」に収録、白梅学徒の「戦 争」克明に 重い体験に観客は涙/元学徒「若い人に見てほしい」 那覇で試写会

 沖縄戦で多くの犠牲者を出した白梅学徒 看護隊のドキュメンタリー映画「友の碑—白梅学徒の沖縄戦」(林雅行監督)の完成試写会が 十四日、那覇市の県女性総合センター「てぃるる」で開かれた。元学徒や同窓生らが参加、戦争体験を語る学徒の姿に、約二時間の上映中、すすり泣く人も。元 学徒は「二十一世紀を背負う若い人に、戦争がどれほど怖いか見てほしい」と話した。学徒隊の体験を記録した長編映画は珍しい。

 県立第二高等女学校四年生は一九四五年 三月、第二十四師団衛生看護教育隊に入隊。白梅学徒隊として東風平町の八重瀬岳の山第一野 戦病院などに勤務。五十六人中二十二人が亡くなった。

 映画は、入隊当時に始まり「うじ虫地獄 だった」という病院壕での勤務を元学徒らが壕を訪ねながら証言。具志頭村の新城分院跡を訪 ねた元学徒は、壕を離れる際に残していった患者が青酸カリで自決した姿を回想。「走ってガマから出た。恐ろしくて言葉に言い表せない」と声を詰まらせた。

 「銃弾を受けた同級生が、水を飲ませる と数分後に息を引き取った」「傷病兵が『死ぬんじゃないぞ。あくまで生きるんだぞ』と言い 残し、自決した」。元学徒らが重い現実を証言する。

 撮影に協力した白梅同窓会の松元須美会 長(77)は「校歌が流れる映画冒頭からずっと、十六歳の子どもたちの苦しみで頭がいっぱ いだった」と話した。証言した与那原和子さん(75)は「戦争の体験と実感が百パーセント表現されている。見ていて、いろんな思いが込み上げ涙が出た」と 話した。

 林監督(49)は「体験者の声は、五年 後に聞けるかどうか分からない。戦争体験を伝え、世代の橋渡しをしたい」と話した。

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