外科医の社会化と儀礼*
Rituals
through Socialization among the Japanese surgeons in age of 1960s to
1970s.
池田光穂・佐藤純一
アエイネスと外科医(紀元1世紀ごろ:ポンペイのフレスコ画)
*この論文は外科医の社会化と儀礼(共著:池田光穂,佐藤純一),メディカルヒューマニティ,第5巻4号,pp.90-97,1991年10月 に準拠したものですが、一部改変されています。文献として引用される場合は、原著にあたるか、本論文を典拠とされる場合はウェブ上の論文として取り扱いく ださい。(→オンライン文献の引用方法)(→旧版はこちらです)
■はじめに
わが国において近代医療が導入されて以降、幾たびかその社会的役割が医療に従事する者たちから批判されてきた。そのなかでもインターン闘 争期(1963〜68年)においては、若手医師への待遇改善の要求を主調とするなかで、一部ではあるが、臨床医学の支配的制度としての「医局講座制」を位 置づける試みも萌芽的になされた。だが、それは、医療者の社会的位置づけにおいて、“支配者イデオロギー”★(1)を永続させる制度という観点から医局講座制をとらえたものではなかった。
その後、四半世紀が過ぎ、インターン制度は廃止され、近代医学の治療技術の発達に伴い、医療は巨大化し、医療産業との関係をさらに深め た。現在では、学際領域におよぶ発展の結果、「ハイテク医療」などということばさえ生まれた。にもかかわらず、大学医学部の医局講座制そのものは現在まで 続いており、日本における近代医療の形態にさまざまな社会的・文化的影響を与えている★(2)。
本稿は、日本の病院医療において外科医が成長してゆく過程に注目し、彼★(3)が一人前になるための“節目”となる、はじめての大きな手術である「エルステ・オペ」と、それを支え る“先輩と後輩”の関係である「オ−ベン/ネ−ベン」と呼ばれる人間関係について報告する。そして、そこに象徴される技術の継承形態を支える社会集団であ る「医局」★(4)について予備的に考察する。
■事例
旧帝国大学系のある国立大学医学部の関連病院—その大学の勢力下にあることを意味する「ジッツの病院」と呼ばれる—における、外 科医A氏の初めての胃の切除の手術「エルステ・マーゲン」(=“はじめての胃の手術の執刀”)★(5)の事例を紹介する。
A氏は、1977年に医学部を卒業し1年半のあいだ、出身の大学病院で研修した。その後、この病院に派遣され、麻酔や、外来小外科、鼠蹊 ヘルニア、虫垂切除術—いわゆる「盲腸の手術」—などの小手術を許可され経験してきたが、大きな手術は「やらせてもらえなかった」。関連病院に派 遣されて半年後、先輩医師であるB氏が、「医局」の管理者であり指導的立場にいる医師であるC部長に、「そろそろA先生にマーゲン(胃の切除手術のこと) を始めてもらう時期ですが」と進言した。その後、A氏はC部長に呼び出され、「次に来るマーゲンは貴方が受け持って下さい。」と通告された。
A氏が勤務していた病院において、このような通告を受けることは次のようなことを意味する。A氏はC部長から「マーゲンの患者を受け持 つ」よう命じられたのであり、その時点から胃切除手術の必要のある患者(=「適応のある患者」)が新たに病棟に入院してきたならば、A氏はその患者の主治 医となり、手術の執刀が予定される。さらに、C部長のA氏に対する命令は、A氏にとって初めて経験となる「マーゲン」の手術—胃切除術—★(6)にたいして今から勉強し、そのための準備をしておきなさい、 というメッセージでもある。
C部長のこの命令は、A氏の所属している医局内でもすぐに承知のことになった。この病院の外科では、外科医にとっての初体験となる「初め ての大きな手術」(=エルステ・オペ)が行なわれるときは、外科医局全体の行事として「お祝いする」ことが慣習化されていた。このことは、外科医師のあい だだけでなく、外科病棟・手術室の看護婦スタッフまで承知のことであった。
ふつう、胃の部分切除の手術が行なわれるときには、C部長とB医局員の中間に位置する医長クラスの医師が、「執刀医」について手術を補佐 する「第一助手」となる。しかしながら、エルステ手術においては外科医局の責任者であるC部長が、自ら「第一助手」—「前立(まえだち)」—を務 め、手を取って直接指導した。これはA氏のみならず、他の医局員のエルステ手術においても同様であった。この場合、執刀医はA氏、第一助手はC部長、第二 助手はこれまでA氏に直接細かい指導をしてきた先輩医師B氏が務めることになった。
この手術には、勤務のない同僚外科医たちも、多く見学に訪れていた。手術室の看護婦長は、手術予定掲示板の執刀医A氏の名前の上に、赤印 —これは、この病院におけるすべてのエルステ手術に際しても同様であった—で印をつけ、「器械出し」と呼ばれる手術介助にもベテランの看護婦を配 置するなど、特別な配慮をおこなった。
麻酔・消毒などの手術の準備ができると、執刀医A氏は、指導医でありかつ第一助手を勤めるC部長に対して術前診断・患者の状態・手術術式 などとともに、「私のエルステマーゲンです。」と告げ、「お願いします。」と丁重に挨拶をした。さらに、麻酔管理の医師・看護婦や手術介助の看護婦にも挨 拶をして、手術が開始された。ふつう、執刀医は手術のイニシアチブを取るのだが、エルステ手術において、A氏は第一助手を勤めているC部長から、「ここを 切りなさい、道具はあれ使いなさい、その血管を結びなさい」と指導され、A氏が手術中に困難に陥った箇所は、指導医C部長が直接処理してしまう場面も見ら れた。
手術は無事終了し、執刀医A氏は、指導医・麻酔医・看護婦たちに丁重に礼を述べた。手術を終えたA氏は、その直後、手術室の隣の控え室に おいて、切除された胃を患者の家族に見せながら、手術の結果や予後などの説明—一般に「ムンテラ」と呼ばれる行為—を彼らに行なった。この手術に 関するムンテラは、手術の執刀医がおこなうのが慣例であり、A氏もこれに倣った。
これらの作業が終わり、手術室の控室に戻ってきたA氏には、手術室勤務の看護婦一同の名前による花束が用意されており、看護婦長からA氏 に拍手をもって贈られた。手術後の仕事が一段落したころには、医師の控室—この部屋そのものが「医局」と称されることもある—では会食と酒盛りが 始まっていた。
このようなエルステ手術後の宴会は恒例化しており、手術に入る直前に、同僚外科医がA氏に、「寿司は何人前注文する? 手術室の看護婦さ んの分はどうするの?」などと質問していた。A氏が執刀しているあいだ、手術室の外では、A氏の担当する手術が順調に進んでいるのを確認したうえで、同僚 の外科医が寿司屋★(7)に注文をおこなっていた。注文された寿 司は、手術終了予定時間にはすでに医局に届いており、また手術室の看護婦詰め所にも寿司が届けられていた。酒が注文されなかったのは、医局内の冷蔵庫に ビールが冷やされており、これが宴会に流用されたためである。
エルステ手術後の宴会は、「皆様のおかげで、外科医の仲間入りを果たすことができましたという意味合いを込めて、エルステ執刀医が、自腹 を切って寿司などのご馳走を外科の同僚医師たちに振る舞う」のだと、医局の外科医たちは説明している。それに従い、エルステをおこなった当事者であるA氏 も寿司代をすべて負担している。
A氏抜きで、先輩医師たちの音頭によって宴会が始まったのち、手術後の仕事を終えたA氏が登場した。彼は先輩医師に対して「どうもお世話 様でした」と挨拶をおこなったものの、A氏が祝宴の焦点になることはなかった。ほとんどの先輩医師たちは、当然の権利かのように寿司を食べ、酒を飲み、そ してエルステ手術の内容に関して自分達の経験に照らしながらコメントし、「本日晴れて一人前の外科医になれた」A氏をはじめ、同輩・後輩医師達はそれを拝 聴していたである。
主治医となり、その一連の作業を経験することは、A氏にとって初めてのことばかりであった。にもかかわらず、この手術がA氏の初めての胃 の摘出経験であるということは、患者や患者の家族に対して一切伏せられていた。患者家族へのムンテラをはじめ、切除標本の整理・患者の術後管理など、それ 以後、A氏は主治医として、他の“一人前の医師”と同様に振舞うことが許され、またそのように振舞うよう要求された。A氏は、それ以降文字通り一人前の (消化器専門の)外科医となり、医局でルーティン化している手術のスケジュールに組み込まれることになった。
以上が、A氏の経験したエルステ・マーゲンの概略である。エルステ・マーゲンは、消化器を専門とする外科医にとって、最初の一度しか経験 できないものである。しかしながら、新しい手術の手技を初めておこなう際には、例えばエルステ・アッペ(虫垂の切除術)というふうに「エルステ〜」と称さ れ、その手術が自分にとって初めてのものであると公言されるが、その際には宴会が催されるという特別な意味づけはなされなかった。
外科医が手術の手法である「手技」を学んでゆく過程において、先輩から実地に指導を受けることは、外科医療という実践領域がもっている固 有の性格であり、避けることはできない。このような儀礼化された手術を支えているのは外科医局であり、それは、次に述べる先輩と後輩の強力な人間関係に支 えられている。
病院における医師たちは集団を形成している。この集団が、ふつう「医局」と呼ばれるものである。
オーベン/ネーベンとは、この社会集団としての医局のなかで取り結ばれる二項的(dyad)な先輩/後輩関係のことをさす用語★(8)である。オーベン/ネーベンは、相互の関係を叙述することば であり、相互の人間が互いによびかけをおこなう際の呼称とはならない。ともにドイツ語由来で、オーベン(Oben)は「上に、高い地位に」で先輩にあたる 者を、ネーベン(Neben)は「副へ」で後輩にあたる者を意味すると言われる。
学生から病棟配属の医師になり実際に患者を診るようになる時、新米の医師は、既に「医局」において臨床経験のある医師について学ぶよう指 導される。そのときに形成される継続的な関係がオーベン/ネーベンである。この関係は、当事者間の自発に基づいて形成されるのではなく、「新参者(=ネー ベン)の面倒をみる」ために、医局の管理者がオーベンを指名することで決定されることが多い。
この伝統は、A氏の勤務する大学の関連病院においても継承されていた。外科医A氏の事例において、エルステ手術をC部長に進言した先輩の 医師B氏はオーベンであり、A氏本人は彼にとっての後輩、すなわちネーベンであった。そして、このような関係は、A氏が医局に配属された際、医局の管理責 任者、この場合はC部長によって決められたのである。(これ以外にもオーベン/ネーベンの名称の使い方がある。註★(9)を参照)。
医局内においてオーベンはネーベンの面倒をみる。新参者であるネーベンは、傷を受けた部分の処置、比較的小規模の手術の助手や執刀、患者 の手術前後の管理をはじめ、大手術の際の第二助手★(10)、あ るいは第三助手などを務めることを、オーベンより学ぶ。この過程での教えられる技術は、メスの持ち方や糸結びから医局での隠語符丁の使い方までに及び、方 法も基本的にマン・ツー・マンで伝えられる。A氏の場合も、エルステ・マーゲンを経験するまでに、このような小手術や第二助手を務める過程において、言わ ば「非公式(インフォーマル)」に手術の基本技術をオーベンであるB氏から指導を受けていたのであった。
■集団が共有する知識としての「手技」
外科医たちが構成する集団を“ひとつの社会”と見なしたときに、我々はどのような分析視点を持ち得るであろうか? むろん病院は我々の社 会の一部であり、病院自体も事務、病棟、薬局、臨床検査部などの部門や、それぞれのスタッフなどで構成されるように、外科の医局がそれだけで独立した集団 とは必ずしも言い切れない。
にもかかわらず、外科医局には自律的な集団としての特徴がある。例えば、外科における不可欠な要素である手術が、基本的には“マン・ ツー・マン”で伝えられ修得され★(11)、そ れらは集団内の成員(=外科医)の自発的行動によって支えられている。このことは、さらに特定の外科医集団が共有する“手技”が、その集団の独自なものと して発展する余地を生むことに繋がる。また、外科医は基本的に“ジッツ”と呼ばれる大学病院の系列に沿った関連病院の間を移動するので、その“手技”の差 異は、大学の系列の差異に対応しやすくなる★(12)。 この大学系列による“知識や技術の伝承”は、単に手術手技に留まらず、支持する学説、好まれる薬剤にまで類似性が及んでいる。これは、現象的には時流に のった“流行”(=メディカル・ファッション)にすぎないが、その技術を運用する当の医師たちは、その時代の、その集団の共有する科学的な言説(=パラダ イム)をもって“その運用の科学的妥当性”をしばしば説明する。
A氏の事例に即せば、彼のエルステ・マーゲンは、(良性の)胃潰瘍に対する「胃広範囲切除術」で、胃の3分の2を切除し、残った胃と十二 指腸を繋ぐ(すなわち「消化管を再建する」)ものであった。この手術は、消化器外科手術の術式として、現在ではほぼ確立したものであり、いわゆる「定型的 手術」と呼ばれる範疇に入るものである。
この「再建法」には、大きくビルロースの㈵型と㈼型の方法に分けられるという。どちらの方法が優秀であるかは、その当時「消化器外科学」 の様々な領域から検討されていたが、当時決定的な結論はなかった。しかしながら、同一の施設でこの2つのタイプが並存して行なわれてはおらず、大学の学閥 や学派という系列によって、どちらかが相互排除的に採用されていた。
A氏の所属する医局では、この㈵型が採用されており、エルステの手術もこの方法でおこなわれた。それぞれの医学的妥当性については説明さ れていたが、採用したタイプである㈵型を弁護するものばかりであり、採用されない手技㈼型については否定的な意見が医局内では支配していた。むろん、これ に疑義を立てたり、㈼型でおこなうことは、少なくともA氏が執刀する手術においてはほとんど考えられなかったという。
このように、自己の集団が採用している様式を至高のものとし、他者の集団が採用している様式を“劣ったもの”と見なすような見方は、文化 人類学では、それぞれの民族が異民族に抱く優越観、すなわち「自民族中心主義」から説明することができる。さまざまな民族自身が、自己の集団の優越性を主 張する根拠は、外科医集団が述べる「医学的説明」と同様に、自分たちが“正しい”として疑わないと信ずるものに由来する。
■“通過儀礼”としてのエルステ
エルステは、あらゆる社会で見られる“通過儀礼”のひとつである。通過儀礼とは、出生の祝い、加入礼、結婚、成人式、葬儀など、人生のう ちで節目にあたる時期に執り行われる儀式や祭礼のことであるが、そのとき、未成年から成人へ、未婚者から既婚者へ、などと、儀礼に参加するの当事者の社会 的地位は大きく変動する。今世紀はじめにフランスで活躍した民族学者ファン・ヘネップは、通過儀礼の時間的・論理的な経緯を分析し、それを㈰「分離」から ㈪「移行」さらに㈫「統合」の三段階の過程がみられると指摘している。
エルステにも、そのような段階が見られる。すなわち、㈰「分離」;もはや(数カ月から2年に及ぶ)“見習い医”ではなく、エルステを準備 する外科医であることを命じられる。㈪「移行」;エルステの手術は“一人前の外科医”となるために必ず経験しなければならない。そして、㈫「統合」;執刀 者が奢るという独特の形式の祝宴は、医局のスタッフが参加し、“一人前の外科医”の誕生を全員で祝福する。
現代の人類学者ムーアとマイアーホーフは『世俗的儀礼』という著作のなかで、例えそれが日常におけるある行為(→ルーティンの手術)と似 たものであっても、独特の意味づけをされ、特定の場面や形式が参加者によって演じられ、それが何度も繰り返され、参加者にとって独特の参加意識が喚起され れば、それ(→エルステ手術)は人びとが集団で執り行う“儀礼”としての性格をもつと、述べている★(13)。
通過儀礼としてエルステをみた場合、儀礼の独自性が少ないという欠点が指摘されよう。にもかかわらず、それは参加者にとって必要欠くべか らざる行事として見なされている。A氏が述懐するある事例では、手術中に不測の事態[癌の転移が発見され胃の摘出そのものが意味をなさなくなり]が起こ り、第一助手の部長の判断によって摘出手術そのものが中止され、花束贈呈などの諸行事も中止された。この医師のエルステは、別の患者の手術において改めて 行なわれた。別の例では、エルステ・マーゲンをすでに派遣病院先で終え、2年後に出身大学の附属病院に戻った若い医師が、大学の外科医局においてエルス テ・マーゲンを行なっていないという理由で、派遣病院先で行なったものと、同じ様式で再び宴会を伴うエルステ手術をおこなったという。
エルステは外科医の社会化に少なくとも“儀礼としての機能”を具備しているのである。
■外科医の“社会化”を促進するオーベン/ネーベン関係
外科医師の共同体の外部にいるふつうの人びとにとって、オーベン/ネーベン関係は、「因襲的」な人間関係を彷彿させるものである。しかし ながら、内部の人間にとって、オーベン/ネーベンのあり方は「医局内の人間関係を円滑にさせる」ための調整機能をもった紐帯であると説明されることが多い し、またそのように思われている。この関係は大学附属病院における医局講座制のなかで最も強く作用する。オーベン/ネーベンは、役職的なつながりではな い、言わばインフォーマルな制度である。これが存続する理由にはいくつかが考えられよう。
医局内部では、(a)医師がお互いを「〜先生」と呼びあう形式的な平等主義の原理と、(b)医学部卒業年度、「医局」への入局年度、およ び大学の職級ランクに基づいて上下関係を設定しようとする、厳然とした垂直的ヒエラルキーの原理、という相矛盾する2つの原理が支配している。
医師という職業は、今日ではチームで行なう高度医療のなかに統合されつつあるにもかかわらず、未だに個人的な力量を発揮する専門家である という職業イメージ—外科では特にそれが強い—が、医師集団の自己規定としてある。前者の平等主義は、そのように職業的アイデンティティを意味づ けすることによって、各人の能力を尊重し相互に干渉しない行動原理をつくり出そうとする志向性から容易に説明されよう。
後者のヒエラルキー原理は、医学部臨床系教授という医局における最高権力者のポストをめぐっての競合において象徴的に表出する。山崎豊子 の小説『白い巨塔』はそれを描写した好例とも言えるが、この競合は彼女の叙述が力点を置いた<金と名誉>の原理だけで動いているのではない。加えて、教授 選考においては、人間関係における資質、学会での評判や業績、対立候補、周囲の教授との関係、それらのタイミングや「運」等の複数の要因が絡む極めてゲー ム性の高いマイナーポリティクスの世界を提示する。「教授選」によって臨床系の新しい教授が誕生すると、それまでの助教授や講師などの「中級ポスト」にあ るメンバーの多くは「進退伺い」を提出し、それにより「生き残るか、大学を去る」かという選択が新任教授に委ねられることすら起こりうる。
緊張するそのような人間関係のなかで、オーベン/ネーベンが、それらに影響されることの少ない、ある種の確固とした基盤を与えている。 オーベンのみがネーベンを「〜先生」ではなく「お前」と呼べる。またそこには、飲食を「奢ったり、いろいろ面倒をみる」ことに対して、忠誠を誓ったり、信 頼を寄せたりするという、互酬的相互作用が数多く観察されるのである。
オーベン/ネーベンという関係は、新参者を医局という新しいシステムに組み込むのに、先輩/後輩という伝統的な日本文化—あるいは儒 教文化—に密着した慣行のヴァリエーションと考えられる。
■結語
医局講座制★(14)に基づく医局という集 団を“社会”とみなし、そこに見られるエルステを、集団の紐帯を補強する“儀礼”とみることは、単なるアナロジーを超えるものではない。しかしながら、こ のような分析を通して、それを「封建的」あるいは「前近代」と批判することが本稿の目的ではなかった★(15)。むしろ、それらのインフォーマルな“制度”の背景には、根深い文化的伝統があるのであり、その ことを抜きに「日本の近代医療」は語れないと指摘することが、我々の目的である。すなわち、「科学的」「合理的」と考えられている近代医学の知識や技術の 伝達の形態には、文化に根ざした「伝統的な思考や方法」★(16)が あり、それらが一定の機能をもって現在の病院医療を担っていると考えられるのである。
このような指摘をおこなっても、近代医療における“科学的妥当性”そのものはゆらぐことはなく、我々の指摘は医師集団の表面的な人間関係 の出来事を描出したにすぎないという反論が出てこよう。にもかかわらず、科学に基づいた技術・知覚・認識は、つねに人間集団が担う営為であり、むしろ近代 医療の“科学的妥当性”は、そのような営為を含めた総体から論じられるべきなのである。我々は、その氷山の一角について予備的に考察したにすぎない。
本稿では外科医の社会化にのみ焦点をあてたが、内科医集団あるいは他の医療専門職集団との比較など、“医療専門職集団の社会・文化的研 究”が今後の試みるべき研究課題は多い。この種の研究が、これからの「病院の民族誌」の調査研究への刺激となり、病院医療に山積されている諸問題の解明へ の糸口となることを願っている。
■註
(1)医局講座制下の医師養成のモデルは、インタ−ン闘争期には、「臨床医学の大学教授」に象徴さ れる医師像と、その教授を頂点とするステップ・ラダー的ハイアラーキーとして理解された。このようなシステムは「封建的」であり、かつ「前近代的」である と基本的には位置づけられていたのであった(青年医師連合東大支部編,1978:17-24)。なお、日本の医局講座制が文化的にも特異な制度であること は注の(12)と(13)を参照されたい。また日本とは社会的・文化的、そして時代的な背景は異なるが、米国では、外科医による手術が“社会における支配 の体現者として”象徴的にはたす役割を“イデオロギー”批判の観点からとらえた論文がある(フェルカー,1989)。→本文に戻る
(2)わが国の「医療化」—すなわち近代医療が対象領域を拡大させてゆくこと—が、その文 化に応じたかたちで展開することは、欧米の医療人類学たちによってすでに指摘されている。Long and Long(1982)、Norbeck et al.(1987)を参照。→本文に戻る
(3)近代医療の専門下位領域のなかでも、外科医のほとんどは男性が占める。このことは、医師集団 全体のなかでもよく知られており、外科医自身は、その治療における“攻撃性のイメージ”とオヴァーラップして言及することが多い。この外科=攻撃的領域= 男性的イメージという連関と、外科医のアイデンティティー形成の問題は、本稿にも関連する重要なテーマであるが、紙面の都合上、別稿に委ねたい。→本文に戻る
(4)「医局」とは、病院医療を実践する医師集団の制度的単位をあらわす言葉であるが、多様な用法 がある。狭義の使い方では、病院におけるある専門科目の医師集団のことである。例えば、大学附属病院レベルの「整形外科医局」という場合、整形外科の診療 部門を構成する医師集団全体をさす。この場合の医局は各診療部門がそれぞれの医局を構成する(1科1医局)。医局の構成員は通常「医局員」と呼ばれ、医師 以外は排除される。中規模あるいはそれ以下の大きさの市中病院では、医局は、複数の専門科目(例;内科、外科、小児科、など)の医師による混成(1病院1 医局)となる。医局は、それに関連づけられて、同一グループの医師集団の職員室、控え室、集会室などの空間をさすことも多い。病院内での在・不在を確かめ る際に「A先生は医局にいます」という表現は、この“医師の詰めているところ”という後者の意味で使われている。→本文に戻る
(5)エルステ・マーゲンとは、ドイツ語起源の医師間にのみ通用する隠語(ジャーゴン /jargon)である。エルステは「初めての、最初の」、マーゲンは「胃」のことであり、それが複合語となって「はじめての胃の手術」となる。→本文に戻る
(6)胃の切除手術は、消化器専門の外科医にとっては重要かつ基本的と見なされているので、初めて の大きな手術—すなわちエルステ・オペ—に採用されやすい。→本文に戻る
(7)この際のご馳走は、病院の外に飲みに行ったという事例を除いて、病院内の医局で行なわれた場 合は、すべて寿司であった。医局で飲まれるビールの出所は、患者や患者の家族からの贈り物「付け届」があるが、エルステに関する情報は患者や家族には知ら されておらず患者の関係者から、それを祝うために「付け届」が贈られることはない。→本文に戻る
(8)オーベン/ネーベンという関係名称は、エルステと同様、病院や医局で使われる“仲間言葉” (ジャーゴン/jargon)であり、文中にあげたA氏の所属する病院において使われているものである。医局における、繋がりをもった固定的な二者の (dyad)先輩/後輩関係は、本稿で述べたように、大学病院およびその関連病院においてふつうに見られる。従って、異なる大学附属病院あるいはその関連 病院では、このような先輩/後輩の関係は存在するが、異なる名称でそれらを呼んでいる可能性がある。→ 本文に戻る
(9)オーベン/ネーベンは、このような医局における固定的な先輩/後輩の関係をさすほかに、 “技術が伝授される”ある特定の状況においても定義される。すなわち、本文事例中のA氏の場合、エルステ手術が行われている状況では、見習いの執刀医A氏 の直接の指導を第一助手を務めながらおこなったC部長がオーベンなのである。A氏が、後年になって別の親しい医師から「お前のエルステ・マーゲンのときの オーベンは誰だっけ?」と聞かれたなら、A氏は「C部長」と答えるであろう。しかしながら、「その頃の医局のオーベンは?」と聞かれたなら、A氏は医局に おける指導者としての先輩B氏の名前を挙げるのである。→本文に戻る
(10)手術における外科医の構成は、執刀医が第一助手と組ながらイニシアチブをとり、手術の規 模に応じて、第二、第三助手などと補佐するのである。ふつう第二助手の役目は、「鈎引き」(こうひき)—手術部位近くの「執刀医」の視野を鈎という器 具を用いて確保する—などと称される単純作業であるが、外科医となるための技術習得には必須のものとされている。他の手術室のスタッフをも考慮した チームワークについての研究については、Wilson(1954)を参照にして、今後我々の資料との比較検討を加えたい。→本文に戻る
(11)このような“技術”の修得のパターンは、伝統的な社会においては、ふつう“徒弟奉公 (apprenticeship)”と呼ばれる社会制度における技術修得体系と類似した特色を多くもつ(Graves,1989)。→本文に戻る
(12)技術の伝達が常にローカルなものであるとは言えない。例えば、教科書や論文は、手技の グローバルな伝達メディアである。日本と米国の外科手技の教科書を比較するかぎり、後者のそれは技術がメディアによって伝達でき得るという確信の度合はは るかに高いと判断せざるを得ない。このことは、日本の外科の伝統が、久しく手技を“秘伝化”し、米国のような努力を—故意に?—怠っていた傾向が あることを示唆する。むろん、近年わが国の外科の教科書は“米国化”しつつあり、日本でも技術の伝達形態の脱秘義化が進行している—すなわち秘義を支 えていた医局の社会的諸関係も変化している—ことを示唆する。→本文に戻る
(13)「世俗的儀礼」(secular ritual)については、フェルカー(1989)の論文を参照されたい。エルステは、このような世俗儀礼の要件をすべてを満たしているわけではない。す なわち、儀礼が自律的な独自の行事であるのに対して、エルステは外科のルーティンである手術と内容そのものは変わらず、付加的におこなわれる。儀礼にしば しば登場する“顕著な象徴や明白なメッセージ”を持たない。参加意識を喚起する表現形式がすくない、などである。→本文に戻る
(14)「医局講座制」とは、日本の大学の附属病院において、診療・教育・研究の3つの機能を 担っている医局の制度をあらわす。分業を推進する近代医療の制度からみると、この3つの機能をひとつの社会的集団のみが受け持つことは、きわめて特異的な 現象であり、それだけで、ひとつの大きな研究テーマを提供する。この「医局講座制」という用語は、今日ではほとんど使われなくなった。にもかかわらず、大 学の医局で観察される医師たちの行動(政治的・学問的—)が、病院を中心とする近代医療の医師たちの行動の基本的モデルとなっていることは注目に価す ることである。今日における日本社会の組織原理(スミス,1990)のひとつの形態として筆者たちは、将来別稿で論じる予定である。→本文に戻る
(15)「医局講座制解体」を叫ぶ組織的な運動は、今日では完全に低迷している。1960年代を 通じてのインターン闘争における“医局講座制解体”のスローガンに基づく戦略が果たし得なかった背景には、近代的な知識と技術が“伝授”されるとき、その 制度を支える社会の文化的要因を考慮しなかったという陥穽があったとも考えられる。→本文に戻る
(16)かつて、R・ホートンは、未開社会の思考の形態の代表格として「アフリカの伝統的思考体 系」を「西洋の思考体系」に対比して、その違いを強調したが、我々は近代医療の知識や技術の体系のなかに、未開と近代を貫く「伝統的な思考」があることを この報告を通して指摘したい。また、外科医が、手術の手順に従って、その個々の作業を「清潔/不潔」と分類してゆくような原理が見られ、それらはさらに、 手術室とそのまわりの空間の秩序づけにまで拡張してゆくという調査報告がある(Katz,1981)。→本文に戻る
※この論考は池田光穂と佐藤純一「外 科 医 の 社 会 化 と 儀 礼」(1991)論文を大幅に増補改訂したものである。
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「イーアピュクスの手当てを受けるアイネイアース
アイネイアースは後方でイーアピュクスによって治療されていたが、治療は困難だった。そこで、ウェヌスがディクテ草を治療用の水に混入させ、それをイーア
ピュクスが患部に塗ったところ、すぐに傷は治った」(出典:ローマ建国神話(ウィキペディア))。
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文献
その他の情報
(c) Ikeda & Sato 1996-2018