国民国家概念がさほど有効ではなくなった今日において、私たちは国際保健医療協力の持続可能性に何を期待することができるのか
What can we expect from the sustainability of international health cooperation today, when the nation-state concept is no longer so valid?
我は自ら を求めたり——ヘラクレイトス
1.何のための国際保健医療協力か
近 代国家概念は21世紀を生きる我々に は今なお有効だが、また同時に厄介な存在でもある。ホブスボーム『伝統の創造』やベネディクト・ア ンダーソン『想像の共同体』という著作——共に1983年に初版が公刊——に親しんだ人文社会科学研究者なら、その評価の高低はともかくとして、近代の国 民国家はその誕生期において意図的あるいは非意図的な“操作”の結果として社会的に構成されたものであるという主張を閑却することはできないであろう。ま た、ネオリベラル経済におけるグローバルマーケット化の効率性を最優先する市場=至上主義者であれば、国民国家は、地球の経済発展にとって十分に機能して いない——その病状の軽重は論者により異なる——という状況分析から、彼らの議論を始めるに違いない。
近 代の国民国家というものが、これまで の社会発展に大きく寄与してきた歴史的社会的構成体であることは論を待たない。しかし、これに関す る〈概念〉が永遠に安泰ではないことは上のような主張をみても明らかである。国民国家(nation state)というものは、ヨーロッパで発明され、その後この制度が世界各地に「輸出」——実際にはむしろ「移植」という表現がより適切だが——された。 実際には1960年代のアジア・アフリカの新興諸国の独立を経てようやく「グローバルスタンダード」な制度として定着したものである。しかしそれは人類の 歴史にとって長くても2百年から40年−−世代だと2から4世代−−程度の短い歴史をもったものに過ぎない。しかしコスモポリタン的な公共圏という理想像 を胸に抱いて生活する者——例えば冒頭にあげた批判的な人文社会科学研究者やネオリベラル経済主義者——からみると、それは冷蔵庫の中で何日か前に賞味期 限が切れている食品に似ている。これまでの経験的からは十分に利用可能だが、心底では「あまり信頼もしておけない」ということだ。
も ちろん国民国家の所属成員のほとんど はその安泰や、その健全な発展を願っている。この見方によると、国民国家は身の回りに降りかかるさ まざまな災厄から身を守り福利を提供してくれるものでなければならない。したがって愛国者(patriot)とは国家制度による福音を信じる者のことであ る。彼らは国家の国民に対する裏切りの責任を、国家制度の機能不全としてではなく為政者の悪質行為の中に見る。しかし愛国者においてもまた、自由に生きか つ生活の機会向上のあらゆる可能性を試そうとする時には、国家制度が思わぬ桎梏になる存在でもあることを知っている。例えば、私の経験によれば増税や経済 搾取における国民のアンビバレントな怒り——つまり国家制度が悪いのか為政者が悪いのか図りかね攻撃のはけ口をどこに向けてよいのかわからない——は愛国 者にとっても政府不信心者にとっても、どうも変わりがないようだ。
国 民国家は、その制度の中に犯罪者を収 容する牢獄の他に、もうひとつの別の「鉄の檻」を抱えている。このような国家制度の弊害を表現する には、ジレンマやトレードオフという表現であらわされる観念的なものではなく、身体感覚に訴える「檻」のメタファーがよりふさわしい。地球上で人の住むと ころは(南極、一部の植民地や信託統治地域を除いて)近代国家制度で覆われている。したがって宇宙船地球号の内部はどうも複数で迷路のような「檻」によっ て仕切られているようだ。そして我々はどうもそこから逃れる術はなさそうである。しかしながら、この障碍に対する人々のさまざまな挑戦は、歴史的にみてア ナキズム思潮に始まり労働者連帯のインター・ナショナリズム("inter"-Nationalism)運動へと発展してきた。それらの運動の大半は、そ の20世紀の最後の十数年間に見られたあっけない幕切れの経験を、冷戦の終焉と“共に”味わった。ゴドーは果たしてやって来なかったのか? もちろん反国 家運動はそれで完全に死滅したのではない。国家制度に関する、さまざまな社会の共同性の創造や回復、それらの代替的な社会運動に対する支援や既存の国家に 対する抗議活動はさまざまな形で現在も継続中のプロジェクトであると言っても過言ではない(ハートとネグリ 2003)。
し かしながら、これらの運動の担い手に おいてすら、実際のところ各人の所属する国家のパスポートと航空券をもって世界を移動しなければな らない。また本来自由人である彼らにおいてすら、さまざまな国家利害や個々人の政治的および経済的条件によって制限されており、他方で、すべての人々にこ のような権利が開放されているわけでもない。ごく普通の国民は(虚構であれ実質性をもったものであれ)民主制にもとづいた選挙に関する諸権利を行使し政治 に参加していると感じでおり、国家の保護のもとにおいて生存の機会向上に努めている。国家の経済的障壁を必ずしも歓迎しないネオリベラル市場=至上主義者 たちにおいてすらまた、それぞれの国家ユニットの中では国民に利益が還元されなければならないことを認識しており、国家は国民に対して経済的成功の機会を 公正に配分すべきであると感じている。
す なわち世界のコスモポリタン的性向を もつ知的エリートたちにとって、国民国家概念は崩壊あるいは衰退していることは自明であるが、それ ぞれの国民国家制度はすくなくとも当面の間は健全でなければならないと、同時に彼らは考えているというのが現状なのである。そして我々にも、そのように信 じなければならない理由がある。それは冷戦の終焉と同時に登場する国家機能の著しい不全状態、すなわちイデオロギーを中心的課題とせず、外部者にも当事者 にも「釈然としない」内戦状態や治安不安定を特徴とする無政府状態についての言及、すなわち「破綻国家」論や、アメリカ合州国が世界の平和の安定にふさわ しくないと評価するような「ならず者国家」——もちろん両者は実質としてよりもスティグマとして機能する——の存在があるからだ。良好な国民国家の維持と いう課題は、我々が心底求める希求よりも、アブノーマルで好ましくない国家状態(status non grato)に陥ってはならないし、また陥らせてはならないという我々の強迫観念によって強化されている。もちろんこれらの「のけ者国家」が誕生した理由 を、当事者の自己責任として理解することは、悪質な犠牲者非難(victim blaming)の修辞の行使であり、その歴史認識においても、また国際的な道義的介入主義という点から言って正義に叶っていないことは明白である。
そ のような現状を鑑みる時、我が国がい かなる形で国際保健医療協力を維持伸展させてゆくべきかという議論やそれに関する研究は、ことのほ か重要である。なぜなら、我が国が関与する“国”際保健医療協力が円滑に進み、その事態に納税者である国民が満足するような状況が生まれれば、我が国の国 民国家概念もまたその国民により安泰であるとみなされるからである。国際間の協力の成功は、その国家と国民の国際的威信に反映する。つまり皮肉にも、我が 国の国民国家概念を安泰にさせるために、国際保健医療協力の貢献は今後ますます期待されるだけでなく不可欠であるとみなされる事態が続くかもしれない【註 1】。
国 際保健医療協力の経済的ベースでの 「繁栄」という好機にもかかわらず、我が国のその研究の状況はいまだ機会主義的で、大きな合意のもと で組織的に進められているわけではない。それは保健医療協力の研究のみならず、日本における社会医学研究にも当てはまることである。公衆衛生学は言うに及 ばす我が国の社会医学研究の現状は、近代化のおよそ150年足らずで国民の健康改善に飛躍的に貢献した近代医療制度の〈社会的効用〉について冷静で客観的 な分析をおこなうことを怠ってきた。日本の医学研究において人文社会科学的な研究を取り組む姿勢は欠けていると言わざるをえない。我が国の医学研究では粗 野な生物医学帝国主義的主張が臆することなく跋扈している。国際医療協力の現場ではその生物医学の技術的な成果を、海外の「現場」で外挿するというが試み が行われてきたにすぎない。技術協力という観点からみれば、戦前の旧植民地に対する「帝国医療」のほうが、その統治技術としての医療の効用と社会医学的な 評価の問題について真剣に考えていたように思われる(飯島 2000, 2005)。
そ のような観点から見れば、我が国はよ うやくそのような技術の社会的応用に関する誤用と知的怠慢に気づき、真の“国”際医療協力に関する 具体的な研究への着手がされたばかりなのも知れない。本研究のようなテーマが採択され、またその成果に幾ばくかの期待が掛けられたのは、そのせいかも知れ ない。もしそうだとしたら、それは研究を助成した機関の内部評価の想像を絶するような刷新的なことに違いない。
2.学際研究を生み出すもの
さ て、これまでの国際保健医療協力に関 する研究に何が不足しているのか。それは一言でいうと学問的議論の流通させるための共通の学知的範 型(disciplinary matrix)すなわちトマス・クーン流の学問的パラダイムがないということである。そのためにこの研究分野では複数の研究の枠組みが生産的に交錯してく るのではなく、無秩序にごっちゃまぜになっている。いったいどのような観点から「何をどこまで明らかにするのか」【註2】に関する共通の合意がこの研究領 域では不明確なことにある。もちろん、このような研究は端緒に着いたばかりなのだから、このことに関して特段に目くじらを立てることはない。しかし、もし 複数の領域の研究が集まって相互に切磋琢磨すべき議論があるのであれば、その参加者は単一の学問的パラダイムだけで議論するのは不十分であり、多言語使用 者のように少なくとも2つ以上の学問領域に通じていることが望ましい。もしそうでないならば、この領域の学会活動において生産的なコミュニケーションは十 分に機能しないだろう。これが学際研究において求められる第1の要因である。
2 つの学問の組み合わせは、実際のとこ ろどのようなカップルでもよい。例えば、公衆衛生学と歴史・社会・文化に関する研究、臨床医学と開 発経済学、開発研究と精神分析、行動科学とマラリア学などの組み合わせを想定してほしい。少なくとも2つの学問的パラダイムを横断することができる資質を この分野の若手研究者に対して鍛えることが不可欠である。なぜだろうか? その疑問に答えることは容易である。他の領域の学問に精通することは、その学問 が用意する独自の概念や方法論について知ることに繋がる。そのような知識は、結果的に本来の自分の専門的学問の概念と方法論を“外から”客観的眺めること に道を開くからである。私のここでの主張は、共同でおこなう学際研究をはじめるには、まず個々の研究者が学際的研究のスタイルのイメージを獲得するため に、自己の研究の中に学際性をもつ必要があるということだ。学際研究とは共同研究の場において複数の学問を交錯するだけでなく、その場に参与する研究者自 身の思考パターンを事前に啓いておく必要がある。
こ のような学問的姿勢の要請は、「国際 保健医療協力学」という新しい学問を形成し発展させることを通して後進の生活を保障しなければなら ないという世俗的な理由のみならず、国際保健医療協力という現場がもつ複雑性の解明に取り組むには、その研究は学際的なものでなければならないという論理 的必然性にも由来するものである。そこでは、単純な論理実証主義や素朴な経験主義が入り込む余地はない。個々の専門的議論の積みかさねと同時に他の研究領 域に対して寛容であり、かつまた自己の研究の視座を柔軟に取りうる知的実践が不可欠である。つまり研究対象が複雑で、その解明には多角的な視座が必要であ るということが、学際研究が求められる第2の要因である。
文 化人類学者として私はここで国際保健 医療協力とはかなり異なる研究対象の学際研究を比較考量するための具体例としてあげて、学際研究が もたらす社会的意味について考えてみたい。それは1970年代の中頃に行われた色川大吉を代表とする水俣病に関する総合的研究である(色川編 1983)。
ト ヨタ財団助成によっておこなわれたこ の研究が水俣病事件に関する社会的解明よりも、この地域の文化と風土に関するより広い問題関心を もっていたことは、その調査グループが「不知火海(汚染)総合学術調査団」と名付けられていたことでもわかる。色川によると、この調査は部外者の研究者に よる純学術的な動機によって発意されたものではなく、調査団のメンバーでもある小説家の石牟礼道子が、水俣病事件をより広い精神史あるいは文明史的な観点 から理解したと色川——彼は著名な民衆思想史家である——に相談し学術的調査の必要性を訴えたことに始まる。石牟礼の要請は、学術的調査の対象になれば調 査対象の価値も上がるといったよくみられるフィールドと研究の理念上の密約のようなものでは決してなかった。むしろ調査研究を行わねばならない呪詛のよう なものであった。あたかもラテンアメリカ文学における呪術的リアリズム風の奇弁的修辞をもって、石牟礼は学術調査団の研究姿勢に対して土着倫理学 (native ethics)的な命令語法を用いる。「先生方よ、不知火海に生きている人、死んだ人、その人たちの、まだ暖かみの残っている歴史の心音に掌をあてて、時 間をゆっくりかけて巻き戻して下さい。そうすれば、ほろり、ほろりと、あのひとたちが出てまいります。ただ丁重に、丁重にあつかわねば、あのひとたちが苦 しがる」(石牟礼 1977;ただし引用は、色川 1988:12)。ここでの学際研究の命令語法は、先に私が提唱した2つの学問を認識論的に架橋することによって拡がる知的な論理的相対化というものでは ない。言うなれば、道徳的で呪術的な対象への関与化が中心的課題になっている。
事 実この調査は普通の学術調査という観 点からみて「異様」なものであった。調査の全体の概要や、その調査における生々しい内部批判の応酬 ——議論の内容と、そこで使われる修辞から明らかに1960年代末の大学紛争の思想を引き継いでいる——に関しては、後に公刊される調査報告書(色川編 1983)に詳しいが、ここではその学際研究の社会的意義について考えてみたい。
こ の調査の特色を整理してみよう。まず 最初にそれが文部省(当時)科学研究費のような国家からの給付によるものではなく民間の財団による 研究であったことがあげられる。当時の社会状況から考えると給付するほうも受けるほうも、政治問題化している水俣病事件に関する調査に「国家財源」が充て られることは夢想だにしなかっただろう。次にこの調査のもつ社会的使命が、研究そのものに高い倫理性を求めたことである。とくに事件の被害者を科学文明の 必然と主張する市井三郎と、その主張を強者の論理として批判する最首悟との論争(市井 1983, 最首 1983)は、フィールドワークの成果がつねに社会的価値の産物である事実を明らかにし、またあらゆる社会調査は研究における中立的な価値判断の虚構性を 問題化することを指摘している。言うまでもなく調査団は事件の被害者側に与することを予め表明しているものであるのだが。この調査は、色川のその後の水俣 病事件や世界の環境問題に対する民衆の関わりに関する認識を深くし、また調査団のメンバーであった社会学者・鶴見和子はここからの調査から得たことをヒン トに開発の「内発的発展論」を後に結実させることになる(鶴見 1983, 鶴見と川田 1989)。つまり、この学際的調査は日本の学界に批判的かつ代替的な議論の可能性に対してさまざまな種を蒔いたと評価することができる。
こ こでひとつの問いが生まれる。果たし て、この調査は現地社会に何らかの社会的影響をもたらしただろうか。もちろん現地社会によい影響を 与えるのが「よい」社会調査であるとは必ずしも言えない。だが敢えてそのように評価すると、水俣の地域に関する知識の集積に関しては水俣の「外部」からの 視点の提供と、内部からの応答に関しての幾ばくかの刺激を与えたように思われる【註3】。このことを考えるには、この総合学術調査の後に生まれる水俣の風 景を提示する知的伝統との関連において把握する必要がある。
現 在、水俣には現地の知識集積に関して は少なくとも3つの知的伝統がある。まず(1)事件の被害者の救済のための支援組織である水俣病相 思社ならびに水俣病事件研究会によるさまざまな研究成果の蓄積の継続。(2)全国の地域おこしにおける地元の環境と知識資源の集積を通して地域アイデン ティティの向上をはかる「地元学」の誕生。そして近年(3)熊本学園大学の原田正純らが中心になって起こした「水俣学」の提唱である。なお原田は同時に (1)の知的伝統に深く関わっているので、両者の関係は補完的である。さらに、これ以外にも民衆史的聞き取り調査の公刊や、国ならびに自治体による情報集 積や資料館展示というものがあるが、これは前三者の知識集積と提唱と、相互に深く関わっている。これらの知識(学)は、水俣病事件を契機とした学際的研究 そのものであり、その時間的尺度も極めて長く、かつその経過も成果も論争喚起的(contestable)なものである(池田 2005a)。つまり既存の大学などの研究機関がおこなう学際研究のような短い研究サイクルの中で生産・消費されるものとは根本的に異なっている。
以 上のような異例の「学際研究」の検討 を通して、本研究が主要なテーマとする「持続可能性」について幾ばくかの教訓を得るとするならば次 のようにまとめることができる。
ま ず(i)解明されるべき問題が時間が かかり、また問題の性質も持続的であれば、その研究は持続性をもつだろう。これは最初に与えられる 問題が難問でなければならないと言っているのではない。あるテーマに関する大きな問題が多元的で連続的な広がりをもつ具体的でより小さな問題からなってお り、また時間的にも未来に新しい問題を生じる可能性をもてば、その解決方法の模索においても、研究は必然的に持続的にならざるを得ないということである。
次 に(ii)解かれるべき問題の社会的 重要性である。その研究に従事する者の情熱を喚起しない限り持続性は保証されない。また、その重要 性がより広く知られていることは、研究助成団体の援助活動に積極的なインセンティブを与えるだろう。結局のところ、私が言いたいのは、研究対象と研究の相 互補完関係が保証されれば、その関係の持続性の強度は増すだろうということだ。社会研究において、研究対象とは研究者のたんなる〈観想の対象〉ではなく、 常に研究者との相互関係を想起させ何かを生み出す〈能動的な存在〉だからである。
3.学際研究を継続させる要因とは何か
中 世の教養主義の原型である自由七科か ら、近代社会における専門家としての個別の自然科学者の登場、さらには社会科学における価値中立と いう学問的態度の提唱と受容、さまざまな社会科学の領域における数量化革命、そして後期近代社会における学際的研究の開花と、その後の学問領域の再分割化 の過程が生じた背景には、それらの知的営為に課せられた社会的要請があったことが明かである。もちろんどのような社会的文化的活動にもインヴォルーション (内的旋回)とも呼べる、その活動が対象にもたらす意味を再生産させ、その活動自体が複雑化し洗練化してゆく効果も持ちうることがある。
私 が専門的に関わる文化人類学に関連す る研究領域において、学際研究の重要性が説かれるようになったのは、すくなくとも第二次大戦後の2 つの重要な出来事においてであったと思われる。それらは双方とも、学際研究の中心的拠点となったアメリカ合州国でおこった【註4】。すなわち(i)行動科 学研究、と(ii)地域研究である。
行 動科学研究は、戦前にはフォード財団 を中心に構想されていたが、実質的にその基礎を作ったのは、後に述べる地域研究と深く関連する人類 学・心理学・社会学を中心とした研究者であった。彼らは第二次大戦中は社会科学者の戦争協力と深く関わっていた。すなわち、地域社会における人々の固有の 行動や、現地社会におけるその意味理解が、戦争当事国ならびに戦闘地域において重要であることをさまざまな形で力説した。我々の分野におけるこの端的な成 果は、文化の型(pattern of culture)という理論研究の成果を、戦時情報局が便宜を図って入手した豊富な資料——敵国国民である日本人収容所におけるインタービューを含む—— にもとづいて分析したルース・ベネディクト『菊と刀』の中にもっとも典型的に現れる。
戦 後にマーガレット・ミードやグレゴ リー・ベイトソンらが参加した同様の研究では、単に現地あるいは敵国の文化に関する情報だけではな く、人々の行動やその意味理解、その伝統的あるいは歴史的展開、育児や発達における文化の影響、比較精神分析、異常行動や紛争パターンなどについて、多角 的に調査し、さまざまな方法論が動員されることが期待された。行動科学という名称は1950年代の心理学研究におけるシカゴ学派がその研究内容を最も有名 にしたが、行動科学という学問領域の広域性と、密度の濃い学際研究の必要性とその成果に対する期待は1946年のハーバード大学社会関係学部の設立、 1952年フォード財団によって設立された高等行動科学研究院(Center for Advanced Study in Behavioral Sciences)などの存在でも明らかである。これらの研究機関は、戦後アメリカの社会科学研究の発展の原動力となったことは言うまでもない(池田 online)。
さ て行動科学研究と関連しつつ独自の発 展をとげたのが地域研究あるいは地域文化研究(cultural area studies)である。本来、地域文化の研究は地理学が先鞭をつけていたが、その議論は気候決定論——人間の思考はその土地の気候=風土(英語では共に climate)が決定する——に代表される環境決定論の一種であった。しかしながら文化人類学者アルフレッド・クローバーが戦前にすでに先鞭をつけてい たが、生態学的条件や社会構造あるいは文化伝播、さらには当該の文化における伝統技術の変化など、環境決定論をよりさらに洗練された文化地域的概念がエル マン・サービスやジュリアン・スチュワードなどによって戦後に提唱された。この学派は、文化的広がりには環境決定論だけでは説明できない多様性があると主 張し、多角的な方法論による地域社会の情報収集と分析、すなわち地域文化研究の重要性を指摘した。彼らはその多様性を生みだす背景にはきちんとした説明可 能な理論があると考え、その根拠を生物進化論の基礎に立った文化の進化というモデルに求めた。それゆえ彼らは新進化主義者と呼ばれることがある。
こ れらの延長上にクローバー流の文化主 義的な伝統として統合させるために、学際的方法論が求められることを強力に主張したのがジュリア ン・スチュワード(1950)である。文化人類学者であった彼の『地域研究』(Area Research)という著作の中には、まさに環境決定論では解明できない地域に関する情報が、フィールドワークを通して多角的かつ濃密に収集され、学際 的に分析されることが期待されている。このような研究領域がアメリカにおいて重要視されたのは、単にこれらの研究者の主張の正当性だけでなく、戦後の冷戦 構造の中での地政学的な理解が、「文明」に代表されるような大きな地域的広がりと非政治的なものとしてではなく、メディアや運輸手段の発達による民族移動 やそれに関連する政治的イデオロギーの動向、さらには現地社会の民族間関係など、生きた「現地の文化」の動態として把握される必要が生じたことと関連して いる。このような地域研究の発展は、先に述べた行動科学の発達と相互に関連し、アメリカの文化人類学が戦後の国民科学(national science)を担う一翼として隆盛したことと無縁ではない。
以 上のような学際研究の発展に関する事 例のひとコマから我々が学ぶべきことは何であろうか。それは(前節で紹介した不知火海総合学術調査 団とは異なり)先行する学問的知識の国家総動員態勢の見本ともいえるべきものである。そこには学際研究が要請される背景には、その社会(アメリカ合州国) にとっての有用性が主張されている。
そ れゆえに、学際研究が求められる背景 には、その研究を推進させるための強い実利的要請——かりにそれが先のような水俣学術調査のような オカルト的な要請であっても——があると考えるべきなのである。そのような枠組みで本研究を眺めてみると、どのようなことが言えるであろうか。それは、現 今の保健医療協力における「持続可能性」を考えることは極めて重要な課題であると、研究申請者(つまり本研究の代表者ならびに共同研究者)も研究費を授与 した組織(国立国際医療センター)も認識していていること。さらにより一般的に、地球環境危機に関するグローバルな問題に端を発する生態学的な意味の「持 続可能性」の概念は極めて重要であると認識されていること。また現代社会における持続可能性の概念は、その生態学的な重要性のみならず、人間社会の健全さ の持続性を可能にするものであると理解されていること、などが指摘できる。それにも関わらず他方で、保健医療協力における「持続可能性」の定義に関する合 意が十分に形成されなかったし、また混乱が続いていることも事実である(池田 2005b、印刷中)。
4.結論:学際研究と歴史的社会的文脈へ の配慮
本 研究が目的とするところは、国際保健 医療協力の持続性か、その研究の持続性か、それともその両方を支える国民国家の持続性について研究 することであったのだろうか。多少意地悪だが、これらの疑問について答えるのではなく、第2節末で触れた研究対象の〈能動的な存在〉の議論に立ち戻り、私 の立場と本研究の関係について応えるという形で考えてみたい。私はそれらすべてが持続可能であってほしいことを希望する。なぜならこの研究は、私の生活の 糧に繋がる研究活動の一環であり、またこれらの一連の具体的な研究を通して明らかにすることは、私の研究者としての存在証明であり、また時に研究の実質に 取り組むことは、我々の人生の意味を説き明かしてくれるもの、すなわち我々の生存における希望だからである。
「何 物も永遠ではなく、変化こそが永遠 なのである」というエンゲルスの言葉に一つの真理があるとすれば、持続性を可能にする条件とは、決 して静態的で統計的(static & statistics)な性質をもつようなものではなく、現地社会とそれを取り巻く世界の社会・歴史・文化・経済との相互関係の中で決まる動態的で推計的 (dynamic & stochastic)なものであろう。この予測に従えば、国際保健医療協力を持続可能にする〈普遍的な社会条件〉というものはもはやどこにも存在しない ことになろう。しかしそのように結論づけることは、我々の長い議論の過程について不案内でかつ問題の所在を十分に理解していない人にとって議論の振り出し に戻るだけであろう。本稿を読む人がそのような不毛の地に入り込まないことを祈りつつ、最後に私の結論としてまとめておく。
本 研究の全体を通して、保健医療プロ ジェクトにおける「持続可能性」概念がはらむ問題が明らかになった。保健医療プロジェクトの持続可能 性とは、2つの行為主体である供与者と受益社会の両方が〈理想的目標〉とする未来という時間性を含んだある種の均衡状態、あるいはその可能態であると定義 することができる。保健医療プロジェクトは時間的に期間が一定で、また供給される資源も限られた非持続的なプログラムであり、それは一種の儀典的手続き (protocol)を用いて実行されるものである(儀礼には必ず最初と終わりがある)。そこでは、良好な健康維持の持続可能性が〈理想的目標〉——ここ では対象住民あるいはさまざまな健康維持に関する社会制度が維持、継続、さらには発展してゆくことに関する——の図式が想定されており、研究者はこの〈理 想的目標〉が良好に進展する要因は何かということに焦点があてられ分析されることになる。他方で、現実のプロジェクトは、それに関わるさまざまな行為主体 (actor)の相互作用により動態的に進展する。これはプロジェクトにおいて理念が現実に合わない時、理念の合理的進展という予見を疑問視し、より現実 に即した意味理解を我々が試みるべきであるということを示唆する。保健医療プロジェクトの〈理想的目標〉を複雑化するのは、歴史的および社会的文脈の存在 である。端的に言えば、時代や社会が変われば人々の〈理想的目標〉も変わるということである。どんなプロジェクトの評価においても、それが置かれている歴 史的社会的文脈の存在を無視して、持続可能性の可能にする社会的条件を普遍的な命題に還元すること——例えば「プロジェクトが長く続くためにはつねに経済 的資源が豊富に投入される必要がある」というような主張——に関して我々は常に懐疑的でなければならない。このような懐疑的な研究態度の必要性について は、私は2004年度のインドネシア調査の報告書の中で述べた(池田 2005b)。
次 に人文社会科学の方法論の検討におけ る本研究の有意義な成果を指摘することができる。本研究期間の全体を通して、代表者である中村安秀 が提唱する学際的調査方法として「呉越同舟アプローチ」は文化人類学的には極めて興味深い検討対象となることが明らかになった。この方法の理論上の到達点 と実践上の改善点については2005年度のホンジュラス調査の報告書のなかですでに述べた(池田 印刷中)。
本 研究が私の専攻する文化人類学にとっ て有用であったことは、研究対象においても、また方法論的観点においても、研究調査の歴史的社会的 文脈についての細かくて多様な——あるいは「厚い」記述に関する——配慮が不可欠であるということを、本研究調査での経験が私に教えてくれたことであった (Geertz 1973)。歴史的社会的文脈の存在は、合理的なモデル——ウェーバー流の理念型——の析出においては、取り上げられる要因の外部に存在し、つねにそのモ デルを錯綜化させる雑音のように見える(もちろんウェーバーはそのことについて十分に承知していた)。しかしながら小さな雑音の積みかさねを分析してみれ ば、それが大きなメロディの断片であったということもある。学際研究には、古代の絵画の修復や考古学の遺跡の再構成のような試行錯誤が欠かせない(X線写 真からキャンバスの背後にある作者の意図と後の正統的解釈のあいだの齟齬が発見されることもある)。本研究は、すでに終わった/終わりつつある保健医療プ ロジェクトの業務報告書が作成されれば、その評価が単純に済んでしまうものではないことを明らかにした。持続可能性の研究はプロジェクトが済んだ時点から 始まる。そのような点においても今後の国際保健医療協力の研究に革命的な貢献をおこなったと評価することができるのではないだろうか。
註
(1)JICAが大幅な機構改革をおこな うことができたのは、日本の新しい(発足当時)政権による行政改革政策の一環であったのだろうが、 それは現在(2006年2月1日)の理事長と彼女が打ち出した理念ならびに当該機関の職員の活躍を抜きにしては語れない。我が国の国際協力における「人間 の安全保障」などの進取の政策はその新しい挑戦とも言える。このような変化は、1980年代後半から続いてきた日本のODA政策への批判に対する遅まきな がらの外部的「対応」と自己的「変革」の結果であると評価できる。しかし、それは先進国のODA政策の文脈が変化しており、この国際状況の変化に対する 「順応」の結果であると指摘することもできる。私が“皮肉”と書いたのは、政策の評価が、いったい誰の観点からみたのかという点で、まったく異なった(時 には逆の)評価ができるという自明の経験的事実について指摘したいだけである。
(2)「何をどこまで明らかにするのか」 という文言は、文部科学省ならびにその省所轄の特殊行政法人である日本学術振興会が公募する科学研 究費補助金の申請書に登場する(日本の科学者なら誰でも知っている)有名な審問であり規則——すくなくとも申請書作成における「オッカムの剃刀」として機 能している——である。
(3)水俣病事件の発信地である当地は 「外部」と隔絶しているわけでもないし、水俣の経済開発の主要なエージェントであり公害発生の責任企 業である「チッソ」においてすら伝統的な「水股」——当地の古い地名——の外部であるということもできる(戦前は有力な国家総合開発のためのモデル企業と して植民地朝鮮に進出している)。また公害発生時には病名変更運動や「ニセ患者」という人権差別を「一般市民」と称する人たちがおこなっている。水俣の地 元において被害者支援関連の「事件」を捜査する公安当局者を「内部」の者と呼びたい人は誰もいないだろう。水俣(水股)において、内部と外部の視点という 視点は(他の調査研究の対象地域同様)理念的な虚構であることを踏まえたうえで、あえてこれら(「内部」「外部」)の表現を使う。
(4)文化人類学に関連の深い学際的な研 究は、これらと同じ時期にソビエトにおいてヴゴツキー派心理学研究でも類似のことがあったように思 われる。このことにおいて私は未だ不案内であるが、重要なことであるので、稿を改めて今後考えてみたい。
文献