マイノリティ(少数派)を表象すること
On representation of "minorities"
「自閉症は誰ひとりとして同じではない。病態や現われ方はすべてちがう。しかも、自閉的特性とそ
の他の個人的資質には、創造的可能性をうかがわせる不思議な相互作用があるらしい。したがって、臨床的所見のためなら一瞥すれば充分であるにしても、ほん
とうに自閉症の個人を理解しようとすれば、全生涯を見つめなければ足りないだろう」(オリバー・サックス 2001:339)。
多数派や健常人——本当はそうであると思いこんでいる人たちなのだが——は、とかく、マイノリ ティ(少数派)にさまざまな思いを込めて表象したがるものなのだ。
表象される人たちは、その都度、誉められたり貶されたり、かけがえのないものだとされたりまった く無用のものだと、表象する人たちによって自由に変えられる。
他方、このような表象は消費者の手に渡り、解釈者たちの手によってさまざまな理解が与えられる。 そして解釈者たちはさまざまな影響を受ける。つまり消費される。
我々(文化人類学者)は、このような表象の生産と消費のサイクルの中で生活し、また、それぞれの 局面に深く関与する職業人である。
ここで取り上げるのはフジテレビ系列で2006年に放映された『僕の歩く道』橋部敦子(1966 -)脚本である。
使われる資料は公式ページサイト http: //www.ktv.co.jp/bokumichi/ と ウィキペディアの記事(2007年3月28日アクセス)http: //ja.wikipedia.org/wiki/僕の歩く道 である。
ウィキによると次のようなことが記載されてある。
本作のキャッチフレーズは「Everybody is perfect」「生んでくれてありがとう」「障害だって、個性といえる世の中になってほしい」を掲げている。テーマは「純粋」
また物語の梗概は次のようなものである。
主人公の大竹輝明は先天的な障害により、10歳程度の知能までしか発達しなかった31歳の自 閉症の青年。家族は、母の里江と妹のりなの3人暮らしだが、二世帯住宅の家に、輝明の兄・秀治の家族も住んでいる。輝明は、幼なじみで、動物園の獣医であ る松田都古に動物園の飼育係をやってみないかと勧められ、動物園で働くことになったが…。物語は、輝明の純粋かつ直向きに生きる姿を描く。
したがって、ドラマは自閉症の青年の生活における社会関係を描いて、ドラマの視聴者がその物語を 鑑賞する(=物語を消費する)というものである。そこには脚本家やプロデューサー意図を超えて、自閉症者の実態をフィクションを通して知る社会的啓蒙とい う側面があったり、ドラマのさまざまな登場人物に鑑賞者は仮託・感情移入してさまざまな思いを[仮想的]追体験をしたり、あるいは、ドラマ自体をひとつの 社会的事象として反省的に眺めることができるというわけだ。
これ自体には、ドラマの制作者が主人公を特段の偏見で観るように仕掛けていないという点を保証す れば、特段の問題がないように思われる。
問題はウィキによる当該日にみられた「自閉症について」と呼ばれる、その知識が明るいと思われる (単数または複数の)人間による書き込みである。
このような介入には、一介のフィクションを、その社会がもつ大きな問題系の一環ないしは延長上と して、フィクションを含む特殊な個別性を、より一般化して論じる点において問題——すなわち害——がある。
以下は(2007年3月28日アクセス)http: //ja.wikipedia.org/wiki/僕の歩く道 からである。
不安定になると、ツール・ド・フランスの歴代優勝者を復唱するなど、輝明は記憶に関する能力 が特に長けているように設定されていたが、「自閉症者には特別な能力(記憶力など。一般的にサヴァン症候群と呼ばれている)がある」という理解は必ずしも 正しくない。自閉症者の多くは知的障害を併せ有するが、その知的能力は非常にアンバランスであり、一部の機能(大量の記憶・緻密な構成・複雑な計算・創造 的な音楽等)が全体の能力に比べて不釣合いなくらい優れている人もいれば、そうでない人もいる、と解釈するのが妥当とされている。そのため、番組では終了 時に「このドラマはフィクションです」と断り、「医療監修を受けて」いるが、「自閉症には多様な症例があり、症状は人によって様々です」というテロップを 付けている。
* 輝明は典型的な自閉症者として設定された登場人物ではあるが、自閉症は幅が広く、すべての自閉症者が輝明のような特徴を有するわけでなく、輝明とは正反対 に社交的、物事に比較的無頓着な自閉症者もいる。つまり、個々によって接し方は当然変わってくる。
橋部が想定する自閉症のモデルには『レインマン』(B・レビンソン監督、脚本はB・モローとR・ バス)の影響があり、これは、多くのドラマの消費者にも共有されていることがらである。したがって、番組の担当者が、ドラマをみて一般視聴者が自閉症症例 を一般化するなと警鐘するのは無理からぬことである。しかし、現代においては、そのようなテロップを流すことで、理解に関する契約は完了したものとするの は当然である。医学的ドラマではないからだ。
* 幼少時代も含め、輝明には日常生活や対人関係に重大な支障をきたすほどの行動障害はなく、不安になっても自傷、他害、破壊行為をしない、不安を取り除くと すぐ落ち着きを取り戻すというように描かれており、(輝明が現実に存在するとしたら)軽度の自閉症として扱われる可能性が高い。(だからと言って家族の負 担が少ないかと言えば全く当てはまらない。大竹家が実際存在するとしたら、輝明のことを自閉症と受け入れ、現在に至るまでには相当の覚悟や苦労があったで あろうし、〔おそらく〕軽度であるが故に自閉症と認めがたいものもあったであろう。)
* そのため、「姑の容態に何かあった際、輝明を施設に預ける」という、真樹が秀治と交わした約束は現実的には実現困難である(施設側が軽度自閉症者を受け入 れないことが予想される)。しかし、それらは最初から想定されていたのか、最終回では施設に関する伏線を全て納得のいく形で回収し、「現代社会において施 設に送ることは決して本人の不幸ではない」といったことを描ききっている(施設に入ってからの輝明は「僕にも予定がある」と自由奔放な暮らしをしている様 子が描かれている)。
フィクション(その中には脚本家が夢想して現実ではないことはしばしばある)と、そういうことは 現実には起こり得ないなとど、全く無意味なことをこの註釈師は怒っているのである。
* 全ての自閉症者が、すべてを杓子定規のようにしないと安定しないというわけでもなく、ある出来事をきっかけにこだわりが変わったり、今までやらなかった行 動をすることも当然ある(きっかけは周囲の人にはまったく見えない場合もある)。そういった観点からすると知らない道は絶対行かないと考えていた堀田の自 閉症者に対する捉え方は一面的に過ぎるところがある。もっとも、個々の自閉症者の全てを把握することは不可能であり、堀田の医師としての能力が劣るとはい えない。むしろ、輝明やその関係者とよく相談に応じており、(理由はどうであれ)熱心にカウンセリングや将来についての助言を行っており、良き精神科医で あることが伺える。
こういう感想文はウィキが目指している客観的記述の範疇には入らない。
* 秀治が過去に、輝明が原因でいじめに遭った、教師から痛烈な言葉を浴びせられたとされている。秀治と輝明が小学生(1980年代)の頃は、自閉症に対する 研究や理解が進んでいなかった。ましてや外見だけで判断できるものでなく、輝明の場合、軽度である可能性が高いことから、周囲の理解はほとんど得られず、 ただの問題児として扱われたと思われる。もっとも、ドラマが放映された2006年においても十分な理解が進んだとはいえず、自閉症児が教師によって体育倉 庫に閉じ込められパニック発作を起こし、大怪我をするという事故があったり、いまだに自閉症は子育てが原因と公言する大学教授もいたりする。
* 以上のことから、本作で自閉症を理解したと安易に捉えるべきではない。あくまで一つのケースとして捉える必要がある。
馬鹿な大学教授——学長から助手まで含めて日本には16万4千人の教員がいます——の意見を一般 化するという愚とそれを批判の口実にするという愚は避けても、このドラマの視聴者の中に果たして「本作で自閉症を理解した」と感じる人はどれだけいるで しょうか。むしろ、こういうことを堂々と書き込む無理解のほうが問題——つまり害がある——だと思われる。
ただし、このような意見表明のやり方を全面否定する必要はない。むしろ、よくある「間違ったク レームメイク」とそれに対する練習問題としては、このような言上げは[扱い方を間違うと毒でもあるが]大変参考になる。
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