イントロダクションB
史上最低/最高の文化人類学の授業とはなにか?
第1回目の授業では、PBLの理念、歴史、方法について大まかに学びました。第2回目のイントロとなる授業では、これからの授業の進行に不可欠になる、グループによる討論のやり方を学びます。ただし、グループによる討論は座学で学べるものではありません。適切な理念や方法論的な概論の後に、実際におこなってみて、その雰囲気をつかむことが重要です。また、グループ討論を積み重ねてゆくことで、その場その場で、グループ討論の技法を学んでいかねばなりません。
◆ グループ討論の方法
ここでのグループ討論は、世の中でおこなうさまざまな集団の討論の形式を、大学・大学院での授業(教育)という枠組みのなかで抽象化・洗練化させたモデルとして考えて規格化ないしはプロトコル(儀典化)したものです。
まず皆さんに守っていただきたいルールがあります。それは、ここでの議論は、道徳的判断(例:未知の患者に余命1週間であることを伝える家族会議)でも、政策決定(例:内戦で混乱している外国に治安目的のために軍隊を派遣する)でもありません。議論の決定が特別な道徳的判断を引き起こさない、あるいはそのようなことが忌避されている、いわゆる純然たる学問的議論についてです。後者のような議論のタイプが人間の活動において常に成り立つという保証はありませんが、少なくとも学会や研究会では、このような運用方式によって、議論を通してさまざまなアイディアを交換して、それぞれの研究分野における生産的な活動に寄与させる方法がとられています。このような方法に精通することは、理性的かつ冷静に考えることができることと同じであると、ここでは考えておきます。
教室で保証された学生同士の議論においては以下のようなことが保証されていないと、価値中立な議論のトレーニングになりません。
(1)討論とは言語を操る一種のゲームである。ゲームをおこなうことの中には、熱中、遊び、仮想性が含まれる。
(2)ゲームに私情を持ち込むのは御法度である。議論はしょぼいが、声が低音でカッコイイとか、イケメンだから良い意見だと判断する者は正しいゲームプレイヤーとは言えない。もちろん、議論がこんがらがったり、激高するようなことが怒って、もまず冷静に軌道修正する努力をおこなうべきである。
(3)相手の論理をきちんと、別の論理を動員して批判することと、非難することとは違います。相手の論理が未熟だと、どうしても相手を見下して個人攻撃(ad hominem)に転化する危険性がありますが、これを制するのも理性の力です。また、本当に良いことだと称して、道徳的事象にまつわること(これはよいが、これはわるい)ということも極力抑えるべきです。人生訓を展開しても犬も喰いませぬ。
(4)議論がゲームだからといっても、相手をねじ伏すことがゲームの勝利ではありません。より説得的な議論を展開できたものが勝利ですが、このような判断は普遍性をもつ部分と、そうでない部分があり、歴史社会的文脈いかんでは、その正反対の判断が適切と判断されることがあります。議論の公平性を保証するには、反対の意見が出てきて、それが最終的な結論とどのような関係にあったのかをきちんと記憶に残るようなものです。全体の総意が統一されても、個人の意見の多様性が保全されるように配慮することも重要です。
ここまで来て学生・院生の皆さんはもうお気づきになったと思いますが、このような議論の一般原則は、じつは大学内で多くおこなわれるゼミナールや、他の大学の研究者などと一緒におこなうことが多い、学会の分科会やシンポジウムで採用されていることとほとんど変わりません。ということは、このような議論の方式に精通することは、専門性を活かして大学や社会の現場で働く職業的トレーニングそのものになるということです。
グループ議論は以下のようなステップを踏んで進みます。
このようにして制限時間が来た時点で議論を切り上げるようにします。
その次は、授業(教室)全体で各グループの発表をレポーターにより発表してもらいます。これをおこなう理由は、グループのすべてを聞いて回るとすべての議論について聞くための時間と労力が膨大になるためです。
主宰者は最終的に論評を加えることができますが、あまり講評てな感じで価値判断を全員のメンバーに押しつけるものは禁じ手です。
【出典】池田光穂「臨床とは(1)」
史上最低/最高の文化人類学の授業とはなにか?(ポータルページ)