インフルエンザ
歴史記録におけるインフルエンザ(Historiographical Influenza)
解説:池田光穂
インフルエンザ(流行性感冒)は、インフルエンザウィルス(オルソミクソウイルス科インフルエンザウイルス属)の感染によって生じる急性炎症の こと。上気道——鼻、のどの上の部分(口から食道のあいだ:咽頭=いんとう)、のどの下の部分(のどは下にゆくと食道と気管に別れるが、咽頭の下で気管が 始まる部分:喉頭=こうとう)——から気管支(下気道の部分にあたる)に炎症が翌出る。インフルエンザはふつうの風邪と異なり。頭痛、高熱、筋肉や関節の 痛み、あるいは倦怠感などの全体症状が著しいこと。
インフルエンザウイルスは、1933年に、スミス、アンドリュー、レイドローにより、分離されその存在が証明された。核タンパク質の抗原によ り、A、B、Cの3つのタイプがあるRNAウィルスである。1918-19年に大流行したスペイン風邪はA型であるといわれている(→より詳しくは「スペイン風邪」)。
ウィルスの表面はHA(ヘマグルチニン)とNA(ノイラミニダーゼ)タンパク質が別々のスパイク(棘=とげ)を張り出している。HAには16種 類、NAには9種類の変異が知られており、これらの組み合わせにより懸かった人にできる免疫のタイプが異なるので、インフルエンザのタイプは便宜上 H1N1からH16N9までの、144種類のものが理論的には存在することになる。ただし人のインフルエンザになるタイプは、H1N1, H1N2, H2N2, H3N2が主たるものである。ただしトリインフルエンザ(鳥インフルエンザ)にはHとNのすべての組み合わせのものがあると言われており、2003- 2004年にアジアで流行したのはH5N1タイプである。
出典:「流行性感冒」 内務省衛生局著
(1922.3) |
https://www.niph.go.jp/toshokan/koten/Statistics/10008882-p.html |
●日本インフルエンザ流行年表
984年 丹波康頼撰『医心方』が朝廷に献上
1008年頃 源氏物語「シハブキヤミ」咳嗽(がいそう)の記述
1173-1174 ヨーロッパで記載
1329年 増鏡「シハブキヤミ」の記述
1554 『医心方』が正親町天皇により典薬頭半井(なからい)家に下賜される
1832 琉球風
1850 亜米利加風
1889 ロシアでインフルエンザ発生(ロシアかぜ)
1889-1890 東京ならびに神奈川では超過死亡はみられない。
1891 超過死亡がみられる。※「超過死亡 とは、インフルエンザが流行したことによって、インフルエンザ・肺炎死亡がどの程度増加したかを示す、推定値」のこと。
1892 北里柴三郎らがインフルエンザ患者の気道から病原体の候補となる細菌を分離し、Haemophillus
influenzae(インフルエンザ菌)と名付けたが、コッホの原則に基づいた証明には至らず(→インフルエンザウイルス)
1918 春、米国で「スペインかぜ」が発生。「全世界 の罹患者数6億人、死亡者(推計)は2,000-5,000 万人」
1919-1920 冬、日本での流行。流行性感冒(流感)の名称が日本でつく。日本での「罹患者 は2,300 万人、死者は38万人」
1931 Shope によるブタインフルエンザからのウイルス分離がおこなわれる。
1933 Wilson Smith, Christopher Andrewes, Patrick Laidlaw らによって初めてヒト・インフルエンザ・ウィルス分離。インフルエンザウイルスと命名。
1940 インフルエンザ患者から従来とは抗原性が異なるウイルスが分離され、B型インフルエンザウイルスと命名
1940年代 米国で不活化ワクチンが実用化
1946 鼻かぜ症状を呈した患者からA、B型と異なるウイルスが分離
1950 病原性のあるC型インフルエンザウイルスの命名
1957 アジアかぜ
1961 南アフリカでアジサシが大量死しているのが見つかり、その際に野鳥から初めてインフルエンザウイルスが分離
1968 香港かぜ
1972 日本「ウイル ス粒子をエーテル処理して発熱物質などを除去し、免疫に必要な赤血球凝集素(HA)を主成分としたHA型ワクチンが実用化された」
1976 予防接種法による学童集団接種の開始
1977 ソ連かぜ(A/USSR/90/77 (H1N1))
1987 予防接種法による学童集団接種の終焉。以降、任意接種になり、高齢者のインフルエンザの流行や死亡が社会問題化される。
2001 予防接種法改正。65歳以上の高齢者への定期接種が可能に。
2009 パンデミックH1N1インフルエンザ(Influenza A virus subtype H1N1)のパンデミック
2020 新型コロナウィルス(SARS-CoV-2)
のパンデミック
【参考資料】歴史人口学者・速水融(はやみ・あきら、1929-)による
-ウイルス
-「ウィルスは、遺伝子が不安定なRNAなので、変異しやすい」(2006:2)。
-「カモやアヒルは、ウイルスを消化器に持つので、その生命には異常がない。ただ、その排泄物のなかでウイルスがしばらくは生きているの で、他の鳥類にうつる。ニワトリは呼吸器に持つので、ウイルスをうつされると死んでしまうし、ヒトにもうつす。インフルエンザ・ウイルスを持ったニワトリ が発見されると、何百万羽もが処分されるのはヒトへの感染の可能性があるからに他ならない]2006:2)。
-スペイン風邪
-スペインインフルエンザ(1918-20)「第一次世界大戦の死者は約一千万人と言われているが、実にその四倍(約四千万人)の人命を 奪った」(2006:2)。
-「二十世紀最悪の人的被害であり、記録のあるかぎり、人類の歴史始まって以来最大のものである」(2006:2)。
-予防について
-「それはアメリカの兵舎に発し、アメリカ軍の欧州派遣に伴って世界に拡大していくのだが……」(2006:2)。
-「インフルエンザの発生は、一種の「天災」だということになる。われわれにできるのは、せいぜい「減災」であり、起こってしまったらその 被害をいかに最小限に食い止めるか、である」(2006:3)。
-(タミフルは罹患後48時間以内への服用が効果があるといわれている)「しかし、われわれは、自分がインフルエンザに罹患した時間を正確 に判るだろうか。……専門医による指示を必要とする。速すぎると薬効が消え、遅すぎるとウイルスが繁殖し、もう抑えることができなくなる。……さらに副作 用についての警告もある。……日本の場合、いわゆるハコモノだけを作って、ソフト面の充実を怠っているような気がする。……一つのワクチンに含められるイ ンフルエンザは、せいぜい三種類であり、もし予想が外れたら役に立たないのである」(2006:2)。
-「個人レベルでは、どうすることもできない。……「手を洗え、うがいをせよ、人ごみに出るな」といった呼吸器流行に際しての注意を喚起し ただけだった。しかし、これらのことは、今でもわれわれがなし得る唯一の「対策」であることに変わりはない。……もはや距離は感染症にとっては壁ではなく なった」(2006:4)。
-日本のスペイン風邪流行
-「おそらく当時の人口五千五百万人のうち、半分はかかっただろう。……直後の関東大震災(死者数は最近の研究で10万人くらいと下方修正 されている)は大正時代の出来事として皆知っているが、「スペイン・インフルエンザ」はその五倍近い人的被害を出しながら近代史のどの本にも出てこない」 (2006:4)。
-「「スペイン・インフルエンザ」は日本に三回やってきた。第一波は大正7(1918)年5月から/7月で(「春の先触れ」)……第2波 は、大正7年10月から翌年5月ころまでで、26.6万人の死亡者を出した。これを「前流行」と呼んでいる。大正7年11月は最も猛威を振るい。学校の休 校、交通・通信には障害が出た。死者は、翌年1月に集中し、火葬場が大混雑になるほどであった。第三派は大正8年(1919)12月から翌年の5月ころま でで、死者は18.7万人である」(2006:4-5)。
-「「前流行」では、死亡率は相対的に低かったが、多数の罹患者がでたので、死亡者数は多かった。「後流行」では罹患者数は少なかったがそ の5パーセントが死亡した」(2006:5)。
-インフルエンザと人口
-「インフルエンザは決して1年で終わらず、流行を繰り返し、その内容を変えている」(2006:5)。
-教訓
-「19世紀後半、人類は最近を「発見」し、それが原因となる流行病をほぼ撲滅した。しかし、ウイルスが原因となる流行病はまだまだ解明さ れていない。人間同士の愚かな戦争はもう止めて、ウイルスのような「天敵」との戦いにもっと備えなければならない」(2006:5)。速水の言うことは、他の多くの権威者と同様、同じ内容だが、その表現の細部にみられるさ まざまな価値観の挿入は、それ自体で言説分析の資料になるだろう。
●スペイン風邪と供養塔(1919-1920年の流行時)
大正八九年流行感冒病死者群霊碑。(大正十一(1922)年十二月建立) 寄進者は大阪市東区道修町二丁目の薬種商「日本薬品粉末株式会 社」総代の小西久兵衛氏と小西ヨシエ(「滋養大関 次亜燐」を開発)。
小
西久兵衛に関する情報「31肺病・胃腸病・貧血に効くという自社ブランドの滋養強壮薬「次亜燐」の衝立看板(左)。地方の薬局に販売促進のため置かれてい
ました。朝陽館の建物や塀の瓦(上)にも相撲取りが描かれています。瓦のマーク「次亜燐」の衝立看板建物は、全体として書院造や数寄屋すきや造などの伝統
的な様式と華やかさでまとめられています。現在は、久兵衛の孫で学校法人朝陽学院理事長の小西欣一氏
が建物と庭園を維持されており、罹災りさいはまぬがれたものの、長廊下に残る焼夷弾の痕など、明治・大正・昭和を語る歴史的建造物として重要な役割を果た
しています。(朝陽館は一般には公開されていません)幕府公認の薬種問屋として、道修町で要職についていた小西家大阪・道修町の小西家は、薬の原料を扱う
薬種中買仲間として幕府から公認され、長崎から輸入される唐薬や国内産の和薬の流通の中心を担っていました。1870(明治3)年、政府がドイツ医学を採
用し西洋医学へと関心が広がると、家業を引き継いだ久兵衛は、自社ブ
ランド「次亜燐じありん」を開発します。明治・大正の富国強兵の流れに乗り、滋養強壮薬「次亜燐」は大ヒットしました。販売のため全国各地を巡っていた小
西は、このころ日本中の神社・仏閣に多額の寄付をしています。一方、西洋医学教育が始まると洋薬の知識が不可欠となり、薬剤師制度や近代薬事制度など、新
たな基礎を築くため、1886(明治19)年、売薬業者により大阪薬学校(後の大阪大学薬学部)が誕生します。若き人材の育成が不可欠だと考えた小西は、
その後大正期に、私費を投じて道修町の薬種商の徒弟を対象にした夜学「小西薬剤学校」——
当該薬剤学校には1926年「大阪聾口話学校(私立)」が創設(後の大阪府立聾唖学校)——を開きました。また、これからの時代、女子教育の重要性を確信
し、1929(昭和4)年、大阪女子商業学校(現、大阪女子高校)を設立。新しい時代へ向けて、職業を持つ自立した女性の育成に力を注ぎました。大阪女子
高校内には、創設者である小西久兵衛の胸像があります。玄関付近小西久兵衛(内藤記念くすり博物館所蔵)」出典:http:
//bit.ly/3p6FWfo
坂松山高岳院一心寺(大阪市天王寺区)
●スペイン風邪と物価
「感冒流行に乗じ口蓋(マスク)の馬鹿値上 二円近くの物さえ出来た」「東京日日新聞」1920年1月15日
新型コロナウィルス(COVID-19, SARS-CoV-2)
Severe acute respiratory syndrome
coronavirus 2: "Severe acute
respiratory syndrome coronavirus 2 (SARS-CoV-2),[1][2] formerly known
as the 2019 novel coronavirus (2019-nCoV),[3][4] is a positive-sense
single-stranded RNA virus.[5][6][7] It is contagious in humans and is
the cause of coronavirus disease 2019 (COVID-19).[8]/ SARS-CoV-2 has
strong genetic similarity to bat coronaviruses, from which it likely
originated,[9][10][11] although an intermediate reservoir such as a
pangolin is thought to be involved.[12][13] From a taxonomic
perspective SARS-CoV-2 is classified as a strain of the species severe
acute respiratory syndrome-related coronavirus.[1]/ SARS-CoV-2 is the
cause of the ongoing 2019–20 coronavirus outbreak, a Public Health
Emergency of International Concern that originated in Wuhan, China.[14]
Because of this connection, the virus is sometimes referred to
informally, among other nicknames, as the "Wuhan coronavirus".[15][16]"
#Wiki.
" This illustration, created at the Centers for Disease Control and Prevention (CDC), reveals ultrastructural morphology exhibited by the 2019 Novel Coronavirus (2019-nCoV). Note the spikes that adorn the outer surface of the virus, which impart the look of a corona surrounding the virion, when viewed electron microscopically. This virus was identified as the cause of an outbreak of respiratory illness first detected in Wuhan, China."
-出典
リンク
文献(西暦2000年以降のもの)
その他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099
大谷友右衛門演ずる佐々木小次郎(春川芦広)