フォーレのクールー病が、プリオン病と認定される直前までのフィールド熱帯医学研究と民族誌の関係
——クールーの病因仮説と疫学的伝播の人類史的解明——
Medical History and Anthropology
of "Kuru" disease of the Fore in Highland New Guinea
フィールド熱帯医学と民族誌製作が極めて類似した重要な学問的活動であることは、熱帯医学者と文化人類学者の間の協働 (collaboration)が応用=開発人類学の議論でしばしば取り上げられること、また実際の歴史などから明らかである。
フィールド熱帯医学者と文 化人類学者は、これまで相互に多大な学問的交換をおこなってきた。我々が知りうるもっとも典型的な例は、今日BSE(牛海綿脳症)やCJD(クロイツフェ ルト・ヤコブ病)の原因物質であると最有力視されているプリオン病の一変種であるニューギニア高地人にみられたクールー(Kuru)病の研究史において知ることができ る。
プリシナのノーベル医学生理学賞受賞(1982)に先立つ6年前に未知の感染性のアミロイドあるいはタンパク質=プリオン(Prion)の存在の示唆により ノーベル賞を受賞し たガイダシェック(D.C.Gajdusekガ ジュセック, 1923-2008)は1957年に国際小児麻痺財団によりメルボルンのM・バーネット卿を訪問したことで、当時の 信託統治パプアでのジーガスと知悉することになる。その結果文化人類学者グラースの協力を得て、フォーレ地域における広範囲のフィールド熱帯医学=民族誌 調査が始まる。
D. Carleton Gajdusek in 1997. (from "D.
Carleton Gajdusek, Who Won Nobel for Work on Brain Disease, Is Dead at
85," by By DONALD G. McNEIL Jr.DEC. 15, 2008)
このクールプロジェクトは、米国の文化人類学者リンデンボーム(Shirley Lindenbaum, 1932- )の参加により、それまでの遺伝仮説が棄却されて、70年代以降に感染説 が有力 になり、チンパンジーへの種間を超えた接種実験の成功により、クールーの儀礼的喰人の際に粘膜への感染が起こったと説明されるようになる。ガイダシェック の学問的成功は、やがて文化人類学者アレンズ(William Arens, 1941-2019)の文献考証による批判(The Man-Eating Myth)から、詳細な民族誌事実による対決という学問上の論争へと発展する。
Shirley Lindenbaum, 1932- , and William Arens, a longtime Stony Brook University professor and anthropologist, died of complications from Parkinson's disease Aug. 6, 2019, in his Stony Brook home. He was 78. Credit: Stony Brook University/John Griffin
熱帯病の研究経緯を 立体的に調査すれば、フィールドワークを媒介とする多元的知的活動のダイナミズムが見えてくる。本研究が目指しているのは、このようなフィールド熱帯医学 と民族誌生産のあいだにみられるダイナミズムである。
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クールーの病因仮説(びょういんかせつ)と疫学的伝播(えきがくてきでんぱ)の人類史的解明(じんるいしてきかいめい)
【研究概要】
本研究は、ニューギニア東部高地のフォレ族の風土病として発見され中枢神経系の変性疾患である「クールー」をとりあげ、その実証研究でなさ れたフィールド 熱帯医学と生物医学による科学的論証の過程を、人類学の調査手法と科学論的分析手法を併用して解明することにある。クールーとBSE(牛海綿状脳症・狂牛 病)、vCJD(変異型クロイツフェルトヤコブ病)にはプリオン病という共通点をもつが、これらの学説の相互関連性をめぐる現在までの科学的証明の過程を 具体的に明らかにすることにより、輸入再開のリスク論や経済効果に傾きがちな牛肉輸入に関する社会的議論を、BSEの発症メカニズムに関する基礎的な市民 理解への糸口へと転換させるための人類史的資料を提供することができる。クールー病に関する病因仮説と疫学的伝播に関する立体的解明は、狂牛病やヤコブ病 をめぐる治療と予防に関する知見のみならず現代社会のBSEの政治経済力学現象に関する予測に新たな知見をもたらす。
【研究に関する代表および協同研究者のこれまでの業績概要】
研究代表者は人類集団の疾患と保健政策に関するダイナミズムに関する社会研究として文科省科研費・基盤研究(B)「価値の多元化状況におけ る 保健システムの変貌」(平成15-18)を受領し、奥野は協同研究者として一部の活動に関わった。また基礎医学(脳神経科学)に関する文化人類学的研究と しては文科省科研費・萌芽研究「実験室における社会実践の民族誌学的研究」(平成18-19)を受領し実証研究に従事した。奥野はボルネオ島カリス社会な らびにプナン社会の民族誌調査研究に従事し、呪術や民族医学研究に従事するのみならず、研究代表者と共同して帝国医療に関する文化人類学的分析を加え『帝 国医療と人類学』(平成18)を公刊した。田所は貴財団当助成(第30回、平成13)においてパプアニューギニア・イボリ社会のフィールドにおける森林資 源の利用をめぐる社会人類学的研究の実績があり、その研究は学会内で評価を受けている。
【主な発表論文名】
【研究の意義】
本研究は生物医学とくに中枢神経系の変性疾患クールーに関する実証研究の間に潜む2つのミステリーを文化人類学の調査手法であるフィールド
ワーク(インタビュー調査を含む)と科学論的分析手法を用いて解明するものである。
BSE(牛海綿状脳症)やvCJD(変異型クロイツフェルトヤコブ病)の原因物質の最有力候補は、感染型プリオンであり、これはウィルスや細菌ではなく
病原性たんぱく質であると考えられている。これらの病気に関する著述を調べると、しばしば「クールー病」に関する言及を見かける。クールーはニューギニア
東部高地のフォレ族(特に南フォレ)の間に1910年代から60年代にかけて流行した中枢神経系の変性疾患であり、1957年にガイジュシェックとジガス
の医学論文に初出する。しかし現在のBSEやCJB研究におけるクールー病への言及は、先行研究の指摘ないしは病原感染に関する「喰人」による伝播という
エピソード的な紹介に留まっている。また引用者の多くは二次資料に依拠しているようである。問題は「そこで言及されている科学的説明は果たして適切であっ
ただろうか」ということに尽きる。生物医学研究がどのような検証によって妥当性が保証されるかは、種々の研究下位領域によって手続きが異なる。しかし客観
的「真実」を保証するための手続きに大きな変化はない。プリオン仮説は発見者プルジナーのノーベル賞受賞(1997)にも関わらず異論(福岡伸一
2005)が提出されて、(1)科学的証明に関する論理上のミステリーになっており、双方の立場からの公平に比較考量する研究は少ない。喰人仮説について
米国では1979年に文化人類学者ウィリアム・アレンがこの問題を自著の一部で提起したが、当時の学会の反応はほとんどなく、むしろ喰人一般に関する伝統
的な人類学上の議論が再演されたに過ぎない。クールーの喰人仮説は、今日ではフォレの人びとがその慣習を「放棄」したことで、(2)その疫学的再検証が困
難になっており歴史物語上のミステリーになったと言っても過言ではない。2つのミステリーは複合的で動態的な生物医学の科学論の狭間に埋もれてしまってい
る。これが生物医学の謎に切り込む文化人類学的研究が必要とされるゆえんである。
クールーとBSE(牛海綿状脳症・狂牛病)、vCJD(変異型クロイツフェルトヤコブ病)にはプリオン病という共通性があるが、これらの学説
の相互関連性をめぐる現在までの科学的証明の過程を具体的に明らかにすることにより、輸入再開のリスク論や経済効果に傾きがちな牛肉輸入に関する社会的議
論を、BSEの発症メカニズムに関する基礎的な市民理解への糸口へと転換させるための基礎的な実証資料を提供することができる。クールー病に関する病因仮
説と疫学的伝播に関する過去の基礎資料の再解釈とその科学理論の現状の立体的解明は、狂牛病やヤコブ病をめぐる疾病対策と経済的効果に関する予測に新たな
知見をもたらす。
【研究計画の概要】
研究計画は(1)クールー病研究におけるスローウィルス仮説からプリオン仮説へと変更していった際の感染メカニズムに関する生物医学パラダイムの変化過程
の科学論を踏まえた質的調査研究[調査地:米国、日本]と、(2)熱帯医学研究におけるクールー病記載の確立とその病因仮説の成立過程に関する文化人類学
研究[調査地:パプアニューギニア、豪州(オーストラリア)]の2つからなりたつ。これらの研究は相互に関連するために時系列においては分業しつつ同時進
行のプログラムでおこなう。計画をスムーズに進めるため、管理サイクル・マネジメントサイクルであるPDCAサイクルにそって研究計画を立案した。
研究プロセスを四半期ごとに区分し、進捗状況と調整しながら、
という研究運営のPDCAサイクルを各年単位で進める。それぞれのローマ数字で
表記された2つのまとまりの単位のステップがそれぞれの四半期ご
とに遂行され計画的かつ具体的に実行することになる。
具体的には、下記の2点の項目について調査研究を進める(調査チェック項目は次ページの図を参照)。
(1)スローウィルス仮説からプリオン仮説への科学論研究
本研究の全体像を把握するためには、科学理論のあり方やその説明の言説の変化についての科学論的研究から着手するのが効果的である[資料購入費]。幸
い、我が国にはガイダシェックやプルシナーのもとで研究したバイオ研究者が多く(BSEやvCJDの研究は民間や国家を問わず多額の投資がなされているた
め)おり、科学理論の啓蒙書も数多くある。バイオインフォマティクスの資料(DB)などへのアクセスも比較的容易である。国内旅費ならびに米国への渡航を
おこない、関係者にインタビューをおこなう[調査旅費、人件費のうち謝金]。採集された資料は分析のため研究補助者を使って整理保存する[消耗品、人件
費]。
(2)クールー病記載の確立とその病因仮説の成立過程に関するインタビュー調査
ニューギニア高地での関係者へのインタビューならびにクールー研究者が在住する豪州へのインタビューを兼ねた資料調査を敢行する[調査旅費、謝金]。その
うち疫学研究における調査の2つのフォーカスは、ニューギニア・ゴロカ市の医学研究所(IMR)のクールー・プロジェクト研究グループと、豪州パース市・
カーティン工科大学のマイケル・アルパーズ教授の研究グループに当てられる。採集された資料は分析のため研究補助者を使って整理保存する[消耗品、人件
費]。
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