火かき棒とアイザイア
Wittgenstein's Poker and Isaiah Berlin
火かき棒とアイザイア・バーリン Wittgenstein's Poker
and Isaiah Berlin, if you do not know previous page, please access to 080401hikaki.html
このページはこれに先行する「火掻き棒事件をめぐる〈熱い〉記述」をめぐる 授業の続編です。このページの趣旨を理解できない人は、先行する説明を読んでいない可能性がありますので、先に火掻き棒事件をめぐる〈熱い〉記述を読んでください。
池田光穂 15 de mayo, 2008
■哲学の後進地としてのオックスフォード大学
「オックスフォード大学の哲学はようやく20世紀に入ったばかりの段階にあった。同大学の指導的な哲学者たちはいまだに前世紀のブラッド リー流の観念論の反駁に終始していた。ラッセル、ウィトゲンシュタイン、そして隣のケンブリッジ大学に胚胎していた革命については、1920年代後半から 1930年代前半ごろのオックスフォード哲学のチューターたちはほとんど注意を払わなかった。G.H.ムーアの『倫理学原理』——この本はブルームズベ リー・グループの倫理上の立場を明確にするのに多大な貢献をした——はどのシラバスにも載らなかった」(イグナティエフ 2004:55)。
この当時のオックスフォードの状況を知りたい人は、アイザイア・バーリン「J.L.オースティンと初期のオックスフォード哲学」『時代と回 想』(バーリン選集2)Pp.141-165、岩波書店、1983年を参照のこと。
■検証主義に魅せられたエイヤー
「オール・ソウルズ[オックスフォードのカレッジのひとつ]に席を得ることができなかったエイヤーは1932-3年の冬をウィーンで過ご し、モーリツ・シュリック、ルドルフ・カルナップ、オットー・ノイラート、フリードリッヒ・ヴァイスマンらウィーン学団の哲学セミナーに出席した。エイ ヤーはウィーン滞在中の4ヶ月の間にアイザイア[・バーリン]にあて、何を学んでいるかについて重要な手紙を何通か送っている。すなわち、哲学の重要問題 は「人は理論をつくるときに何をしているのか」ということである。
ウィーン学団においては、実証のための厳格な経験主義理論が正しい理論をいかに形成するかの試金石になっていた。もし命題が経験的に証明さ れえないか、論理的に試されえない場合、それは無意味とされた。このことは、哲学の形而上学的問題のほとんど——生の目的は何か? 善の本質は何か?—— をゴミ箱に捨て去ってしまった。バーナード・ウィリアムズの言葉によれば、論理実証主義として知られるようになったウィーン学団の理論は、哲学を「形而上 学の死亡記事の記者」「科学の秘書」という慎ましいものに変えようと欲したのである。
/エイヤーはこうした理論に心酔してしまった。彼は気質的に偶像破壊主義者だったが、ウィーン流の考え方は彼が教えられてきた哲学に斧の一 撃を与えたのである。……オックスフォードに戻りクライストチャーチのチューターになったエイヤーは、ウィーン学団の理論一般、とりわけウィトゲンシュタ インの普及に輝かしい活躍をした。そのころにはケンブリッジに来ていたウィトゲンシュタインがウィーン学団の正式な一員であることは一度もなかったし、 1921年刊行の『論理哲学論考』は、ある部分は同学団の理論の完全な再現だが、別の部分、特に終わりの部分は同学団が形而上学的で半宗教的な推論だと拒 絶したものなのである。エイヤーが努力するまでは、ウィトゲンシュタインの存在は哲学的な影響力というよりも神秘的な人物としてのそれだった。人々は夕食 のテーブルで彼のことを話題にしたが、実際に彼の書いたものを読んでいる者はほとんどいなかった」(イグナティエフ 2004:90-91)。※[ ]内は引用者による。
・オックスフォードの元おちこぼれ[言い換えればニュージェネレーション]のエイヤーが『言語、真理、論理』の公刊をしたのが1936年 だった。
■そして検証主義の破綻
「1940年12月、ドイツ軍がフランス戦線を突破し、パリが彼らの侵入にさらされる状況になったとき、[アイザイア・]バーリンは、ケン ブリッジの道徳哲学クラブで「他者の精神」についての論文を発表するために出向いた。オックスフォードではフランスの陥落が間近であることが誰の念頭にも あった。ケンブリッジでは教官たちの超世俗性は信じられないほどだった。
/ケンブリッジの哲学者が全員顔を見せた。ブレイスウゥエイト、ブロード、イーウィング、ムーア、ウィズダム、それに六人目の人物がいた。 彼は小柄でハンサム、当人とまったく同じツィードの上着と白の開襟シャツを着た従者たちに囲まれているように見えた。それがルードヴィヒ・ウィトゲンシュ タインだった。バーリンは、どのようにして他者の内奥の精神状態を知ることができるかに関する問題について論文を発表した。会の空気は「まったく退屈だっ た」と彼は思い出している。
いくつか最初に質問があったあと、ウィトゲンシュタインは我慢ができなくなり、議論を引き受けた。バーリンは彼がこう言ったのを憶えてい る。「違う、違う、そのやり方ではだめだ。僕に言わせてくれ。哲学を論じるのはやめよう。お互いのビジネスを話そう。普通の事柄をね。通常の状況では僕は 「君に時計が見える。分身と時計が文字盤の上に一定の数字に合わせて固定してある。文字盤が回転しても、時間は変わらないと言う。そうじゃないかね。それ が独我論だよ」
/時計の針が動かないからといって時が止まっているというのは馬鹿げている、とウィトゲンシュタインは続けた。時計が何を記録しようと、感 覚与件がたまたま何を記録しようと、時間は変わったのだ。これはエイヤーの言うような検証主義の見事な破壊だった。ほかの誰も発言しなかった。「ブロード は怒りでゆでた海老のように座っていた。歳をとり老衰したG.H.ムーアは口をあんぐり開いているように見えた」。アイザイアはできるだけうまく受け流 し、例の従者たちはウィトゲンシュタインの一言一言にうなづき、誰も議論をさえぎろうとしなかった。1時間たったところでウィトゲンシュタインが立ち上が ると、従者たちも立ち上がり、彼は机越しに身を傾けてアイザイアの手を握った。「とてもおもしろい議論だった。ありがとう」と言うと出ていった。他の出席 者たちは寄り集まり、こんな方法で褒められるのはごくまれなことだと話した。だがバーリンは騙されなかった。……」(イグナティエフ 2004:104-105)。
■第三者としてのバーリンの視点
「戦争前、彼[=バーリン]は知的目的を自分の外にある源泉から得ていた。いまは、自分の内部に持続的な動機を探さなくてはならなかった。 彼は道の分岐点にさしかかっていた。自分自身の本格的な知的取り組みを発展させるのか、彼がいちばん恐れたもの、「おしゃべり屋」に堕するのか。周囲では 彼の世代の最もすぐれた思想家たちが自分自身を明確にしつつあった。例えばカール・ポパーは戦時中の年月をニュージーランドで過ごしながら『開かれた社会 とその敵』を書いていた。アイザイアはポパーのリベラルな価値の熱烈な擁護に影響を受けたが、彼とポパーには大きな相違があった。ポパーが懐疑的な合理主 義者であるのに対し、アイザイアはもっと直感的な思想家であり、内なる苦悩、個人的なジレンマ、人間的価値の間の衝突に関心をもっていた。これらのことに は[LSEの]ポパーはけっして興味をもたなかった」(イグナティエフ 2004:190)。
【課題】(→オリジナルページ「火かき棒をめぐる〈熱い〉記述」からの引 用)
この歴史上著名な?エピソードから、我々が学ぶべきことはなにか?——この両派(LW vs. KP)のコミュニケーションの齟齬について(i)記録すること、(ii)記述を読んで想像すること、(iii)想像したことをもとにその文脈から飛翔した 別種の議論をおこなうこと、の意義について考えなさい。
【私の回答】
(i )文化人類学者の私にとって目の前に繰り広げられる社会現象を記録すること(=民族誌・民族誌にもとづく論文を作成すること)は職業的活動そのものであ る。かつ同時に、周到な記録のための能力を日々鍛えることにも大いに関心がある。したがって、それを可能にする条件について考察することが重大な関心事に なる。
(ii)記述という〈永遠に不完全な客体物〉を通してしか、人間の社会的想像力の遂行は成就されえないと 私は信じている。文化人類学者(正確には民族誌学者[ethnographer])記述のプロセスは、法学者の仕事に類似して〈ローカル・ノレッジ〉(ギ アツ)に依存する。したがって、民族誌を読む場合には、他者が実現した〈ローカル・ノレッジ〉を逆に展開するという作業プロセスが欠かせない。私にとって 記述を読んで想像することは、人類学者として生きることを意味する。
(iii)「その文脈から飛翔した別種の議論」とは、この事例においてはLW一派とKP一派のゲバルトを 社会学的に読み取ることだ。
【私の理解】
1.対立する2つの社会集団の儀礼化された〈抗争〉(=ディスコミュニケーションでも構わない)として読む。ここでの登場人物にとっての目 的は、儀礼化〈抗争〉の世界を生きることであり、勝敗の結果ではない。コミュニケーションや哲学は、ここでは〈抗争〉を成就するための目的ではなく手段で あることを理解すべき。
2.その点で、エドモンズとエーディナウの議論は〈抗争〉から外部者として教訓を得るという読解(=功利主義的な読み)とは言えず、むしろ 〈抗争〉を本質、フェチ化し、私にとって本質的すべき議論を弄んでいるにすぎない。
【用語集】(火掻き棒事件をめぐる〈熱い〉記述からの再掲です)
■厚い記述(thick description):
ウィキペディアの同項目では「哲学者ギルバート・ライル(1900-1976)に由来する。ライル[→当該論文リンク:引用者]によれば、 われ われは誰かから目配せをされても、文脈がわからなければそれがどういう意味か理解できない。愛情のしるしなのかもしれないし、密かに伝えたいことがあるの かもしれない。あなたの話がわかったというしるしなのかもしれないし、他の理由かもしれない。文脈が変われば目配せの意味も変わる」と説明。本家はライル だが、この用語を最も有名にしたのは、この作業を文化人類学(ないしは解釈学的人類学)の課題にし、かつ同名の論文にしたクリフォード・ギアツ(1926 -2006)である。[→さらに興味のあるオタクはこちらへ]。ちなみにウィキの記述(2007年6月13日)には、民族誌は厚い記述であるべき風に記載 してあるが、含蓄——そう含蓄とは相矛盾するが権威ある情報がそれぞれ満載されている——にもとづく曖昧的記述の天才であったギアツは、民族誌と厚い記述 (およびライルのいう薄い記述)の関係については、もうちょっとややこしい書き方をしている。下記を参照。
"[T]he points is that between what call Ryle calls the "thin description" of what the reherser (parodist, winker, twitcher...) is doing ("rapidly contracting his right eyelids") and the "thick description" of what he is doing ("practicing a burlesque of a friend faking a wink to deceive an innocent into thinking a conspiracy is in motion") lies the object of ethnography: a stratified hierarchy of meaningful structures in terms of which twitches, winks, fake-winks, parodies, rehearsals of parodies are produced, perceived, and interpreted, and without which they would not (not even the zero-form twitches, which, as cultural category, are as much nonwinks as winks are nontwitches) in fact exist, no matter what anyone did or didn't do with his eyelid."(Geertz 1973: 7)
■バーリン先生の肖像
Preparatory drawing by Anthony Stones for his bust of Berlin, 1987
出典:http://berlin.wolf.ox.ac.uk/
■オックスフォード風の審問
「この動物は豚のようにがつがつ食べるから、こいつを豚と呼んでかまわないだろう」という文の当否について考えよ——オックスフォードのオースティンが好んで大学の試験に使った課題
■熱い記述(heat description):
火掻き棒が熱かった(hot)のと、LWとKPの議論は全くすれ違いであれ感情的には深い対立を呈していたため状況は加熱した(excite) ので、それを掛けた池田による冗談。