はじめによんでください

反省的実践家

reflective practitioner

Hugo Grotius, 1583-1645

解説:池田光穂

現場で協働する人たちは、他者の発話や身体の動きを観 察しながら、同時に自己の存在(=身体)を効果的に周囲に呈示している。現場力を考察す るためには、その行為者の自己への意識がどの程度働いているか、またどのような影響をもたらすかについて知ることは重要である。だが〈意識〉は身体を駆使 した〈実践〉に先立つという近代の主知主義的な考え方に呪縛されてきた我々は、それについて十分な考察をおこなってこなかった。

反省的実践(reflective practice)とは、行為がおこなわれている最中にも〈意識〉はそれらの出来事をモニターするという反省的洞察をおこなっており、そのことが行為その ものの効果を支えているとするドナルド・ショーン(Schön, Donald A., 1930-1997)の議論のことである。ショーンは、この洞察を〈行為の中の反省 reflection-in-action〉、その行為者を〈反省的実践家 reflective practitioner〉と呼んでいる。同名の著作『反省的実践家』(1983)は、この反省的実践の重要性を説きつつも、実際にはこの種の実践がいか に難しいものであるのかを説いている。

さて現場で自らの身体をつかう〈実践〉 と、このことを把握し自己の行為ついて再帰的に思考する〈意識〉の関係については、いくつかの見解が考え られる。 まず(1)実践状況のなかで〈意識〉は忘却され無反省的なまま放置されているという主張。あるいは(2)身体がおこなう〈実践〉と〈意識〉は融合した状態 となって行為遂行のために最適化された状態になっているという主張。さらには(3)身体による〈実践〉状況におかれた〈意識〉のあり方は個々の状況によっ て多様な関係にあり一般化できないという主張が考えられる。ショーンの反省的実践の見方は明らかに(2)の考え方の系譜に属するものである。

ショーンの前掲書『反省的実践家』を子細 に読めば〈実践〉と〈意識〉の関係は容易に解き明かせるものではないし、また言語化しにくい暗黙知や身 体知の説 明をもって片付くものとも考えていない。にもかかわらずショーンの過剰とも言える理論的説明が、彼が批判してやまない〈技術的合理性〉の延長上に彼がいま だ留まっていることを示している。その理由は、具体的な解決を現場で目指す〈実践〉の「教育専門家」——教育も専門家も良くも悪くもプラグマティズムの具 現化にすぎない——の範疇を出ていないからであり、また彼自身がとった事例の言語分析という方法論の限界によるものだろう。

現場力の考察に引きつけて言えば〈行為の 中の反省〉の議論よりも、考察する時空間をより広くとった『組織学習(organizational learning)』(アルギリスとの共著, 1978)の理論のほうが有用であろう。組織学習の面では、学習者が行為そのものを修正する〈単一のループの学習 single-loop-learning〉だけでなく、与えられた状況そのものに変化を与える〈二重のループの学習 double-loop-learning〉プロセスにも関わる可能性を指摘している。つまり学習者の〈実践〉がその〈意識〉だけでなく〈環境〉(=現 場)へと展開し、〈行為の中の反省〉後の世界(=所与の状況)変革の可能性を図らずも示唆するからである。

■キーワード:反省的実践、反省的実践 家、行為の中の反省

●人類学者の観察

人類学者の観察では、発言(思考)と行動 が合致しないことが、ごく普通の一般的現象である。そのため、人類学者は、人々が「XXXの時はYYY する」という発言を記述することと、実際に、XXXになった時にYYYするかどうかを観察によって確かめよと、口うるさく弟子たちに指導する。(例:人々 が「焼香する時には礼をして三度焼香して最後に合掌するものだ」と記録するが、実際の葬式の時には「合掌し一度だけ焼香し最後に合掌した」という事実を フィールドノートに書き留めておく、葬儀が終わった時に、複数の人にこの異動の理由を尋ねるまでは、焼香の作法、について「知っている」とはいわない)。 発言(思考)と行動には次のような理由が考えられる。

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 文献

 関連用語

医 療人類学辞典


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