専門家の反省について
On reflection by professional practicioners
茹でられる聖職者たち:Livre de la Vigne nostre Seigneur, France ca. 1450-1470 (Bodleian, MS. Douce 134, fol. 85r)ここでは、専門家の内省(反省的に自己の行 為や概念を考えること、省察ともいう)について、ドナルド・ショーンの所論を参考に考えてみることに しよう。
抄読:
ドナルド・ショーン『省察的実践とは何 か:プロフェッショナルの行為と思考』柳沢昌一・三輪健二 監訳、東京:鳳書房、2007年 (Schon, Donald A., 1983. The Reflective Practitioner: How professionals think in action. New York: Basic Books.)の第1章と第2章(担当:池田光穂)2008年10月29日
本書(第1章、2章)の紹介の前に
〈専門家の内省に関するパラドクス〉:私 の問い
専門家が内省するか、あるいは内省的であ るのか、という点についてのパラドクスをあげてみよう。このパラドクスは、(1)と(2)が共存する時 に、ないしはそれらに加えて(3)の要素が加わる時に起こるのではないだろうか。
【審問】
専門家が内省的かそうでないかという、 あるいはそういう能力があるかいなか、という議論の前に、そもそも専門家とはなにか、専門家の内省とは なにか、そして、それらに対してどのような価値判断をするのか、ということについて問わねばならない。しかしながら改めて専門家を含めて我々は〈内省的〉 でなければならないということは、いったいどういうことをさすのだろうか?
【章立て】
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1章 専門的知識に対する信頼の危機
専門家(ショーンは、profession, professional の2つの語彙を示し、本章では後者を多用する)に対する社会の信頼が1960年代以降落ちてきて、本書が執筆された1980年代にはその信頼の衰退は顕著 であることを示す。
2章 技術的合理性から行為の中の反省へ
比較的長い章で、専門家の実践にとって技術的合理性(technical rationality)がいかに中心的な認識論で、それが支持された社会的背景などについて説明する前半と、技術的合理性が専門家の実践にとって限界が あることを指摘した議論(Edgar Schein, Nathan Grazer, Herbert Simon)などを紹介し、専門家の実践的能力として、技術的合理性に代わる〈行為のなかの反省〉の可能性を模索する後半に大きく分かれる。 ** 1章 専門的知識に対する信頼の危機
・1960年代初頭、プロフェッショナル に対する信頼(=信仰)は絶好調だった、しかし今(1980年代初頭)はどうだろう? 地に堕ちてし まった……。
・プロの権威を濫用するスキャンダル
・信頼喪失
・プロが保証する技術の破局的結末
・では、そのような失墜の原因は?
・[本書に基づき池田の加筆を含む説明づ け]:プロの人口比率の増大、プロを養う負担の増大、官僚(B)との癒着、世間知らず(=「理解の遅 れ」)、プロフェッショナルのジレンマ(=理念と現実のギャップ、技術的解決に対する社会の側の過度の信頼と、プロのbig mouth)、能力低下(内在的なものと、社会環境の変化)、専門職支配に対するコミュニタリアン(C)の批判、社会保障をめぐるBとCの対決姿勢、対処 すべき社会問題の複雑性(=への自覚)、プロに対する社会の期待の変化、実践状況は予測不確実で多元的。
・プロは、現実にはあいまいなものに対処 している(=技を使って)にもかかわらず、そのことについて無自覚である。→著者の野望は、このことを 指摘するために「実践の認識論に向かって」ゆく必要性があるという(p.19)。
2章1 実践に関する支配的な認識論
・技術的合理性モデル (technical rationality model)の準拠枠では、プロフェッショナルの活動を成立させるのは、科学理論や科学技術を厳密に適用させて、科学を道具のように使って問題解決を行わ せしめるということ(p.21)。
・この思考のルーツには、ホワイトヘッド (1861-1947)が峻別した、専門的職業(profession)と仕事(avocation) という区別し、前者はクリエイティブで高度に洗練されたものに対して、後者は単調なものというコノテーションがある。しかしW・ムーア(1970)では、 プロと仕事の区別は、現代社会では高度に専門分化しているので、一般原理をよりさまざまな箇所で適用する必要があり、それがプロの仕事へ期待へと拡大した というビジョンをとる(専門職と仕事の二分法ではなく、前者の業務の拡大とみる)。
・グレイザーの見解では、メジャー専門職 とマイナー専門職に分けられる。前者は大学レベルの知をつけた者の他に、ビジネスや工学の専門家がお り、後者にはソーシャルワーカー、司書、教育者、都市計画専門家などがいる。この峻別が、技術的合理性モデルの判断基準によるとショーンは主張する。前者 が扱う知は曖昧さが少なく、後者には曖昧さが多いからだというのだ。
・専門家の特性は、1.専門分化している こと、2.境界がクリア、3.科学的、4.標準化されている(p.23)という(=ホンマカイナ?と池 田は思う)。
・専門的知識は階層化されている (p.24)
・知識を適用することを著者は「応用」と いう用語で説明する(ibid.)
・別の著者(William Goode)は、〈図書館司書を仕事(occupation)から専門職(profession)へと向上を意図する論文〉のなかで、それらは二分法的な 対位物ではなく、前者から後者への発展として見ている(p.25, →「階層モデル」p.27)。別の論文ではソーシャルワーカーのことが指摘(p.26)されているが、両者ともこの二分法的な対立から完全に自由になって いるとは思えない。なぜなら、仕事も専門職も技術的合理性モデルのなかで理解されているからであろうと評者(池田)は考える。
・このような峻別は、当事者のアイデン ティティのなかにも反映されているという(グレイザーの指摘 see p.27)。その理由を探すことは困難ではない。著者はこの説明の後に、専門職が育てられる知識や技能の階層性について、カリキュラムのなかで基礎科学と 応用科学、そして「臨床的」実践がどの時点でいかなる場所で教えられているかを説明する(pp.27-30)。
・さらに興味深い指摘は、ハーバードにお ける Case Method の導入と当時の学長デレク・ボクの反対論——つまりボクは技術的合理モデルの信奉者として描かれている——の対比論がある。事例の中で学び事例のなかで反 省するという現場志向の学習法は、[教育には洗練された一般的原理があり、理論と方法はそこから正しく導かれるといった]技術的合理モデルからみると邪道 とみなされている(pp.30-31)。
2章2 技術的合理性の起源
ここでは技術合理性の西洋における学問 的発展について歴史的解説がある。キーワードは、実証主義、ベーコンとホッブス、19世紀前半のオー ギュスト・コント[の3つのドクトリン p.33]、ヨーロッパとアメリカの大学制度の違い、ソースタイン・ヴェブレンが大学での専門職教育に時代の潮流に対して反対したエピソード、知識の体系 化の問題などである。しかし、この部分は、他の技術や知識の合理化に関する科学史などのテキストでよめるノーマル・サイエンス化した先行する他の研究者の 説明とほとんど違わないので、紹介と内容の検討は省略する。
2章3 技術性合理性の限界に気づき始 める
ショーンは、先に触れた、1960年代 以降の技術的合理性への信用下落以前に、なぜそれが隆盛していたのかについての歴史的説明の起源を、第 二次大戦時にもとめ、OR(Operations Research まさに操作[=作戦]研究である)、マンハッタンプロジェクト、ヴァネヴァー・ブッシュ、[生物]医学研究や、ショック療法としての「スプートニク・ ショック」などを例にあげて説明する(pp.38-39)。
・しかし、技術的合理性の風向きが悪く なってゆく現象を(多少散漫気味に)説明してゆく。
・合理性モデルは問題解決に執着するが、 現実の必要とされる問題は、むしろ問題設定のほうが解消にむけて重要な視点となる。そして、問題設定に 潜む、現実の複雑性への関心が、現場での反省的実践をうむ可能性があることを指摘する(p.40)。
・新奇性のものの取り扱いも、合理性モデ ルが苦手とする(p.41)。問題の文脈の変化について掴むことも合理性モデルは下手くそだ (ibid.)。 ・フレームを与えて、名前をつけること(p.42)
・厳密性よりも適切性のほうに力点をおく こと(ibid.)。
・視点の移動:ある局面においてささいな ことが別の局面では重要になることは、現場においてはしばしば重要であるが、これも合理性モデルは苦 手。
・形式化モデル(formal modeling, p.43)——すなわち複雑で柔軟なことを単純でソリッドな形式性に還元して問題解決をめざすこと——は、合理性モデルを適用することで顕著な成功を納め たが、複雑なことを複雑なままアバウトな解法に導くことにはやはり苦手なままである(pp.43-44)。
・ジャンクカテゴリー:合理性モデルは、 理論にあわないものを余計な介在物として捨象してしまう(p.45)。
・技術的合理性が専門家の実践にとって限 界があることを指摘した議論(Edgar Schein, Nathan Grazer, Herbert Simon)などを紹介する(pp.45-48)。ここではエッセンスだけを……「(この3名は)〈技術的合理性〉の限界に対し、また限界にともなって生 じる〈厳密性か適切性か〉というジレンマに対して、それぞれに異なった3つのアプローチを提唱」するが、それらには「共通の戦略」がある、つまり「彼ら は、(1)専門的知識を科学的に基礎づけることと、(2)現実世界の実践がもつ要求との間にギャップが」あることを指摘し「(3)そのギャップを〈技術的 合理性〉のモデルを維持する方法で埋めようとしている」という(p.48)。
・ショーンは、この手ぬるい3者を「実証 哲学者の実践的認識論」の範疇に留まっていると批判している。ここには、まだ「科学をプロセスとしてと らえる」ことができていないというのだ。プロセスとして捉えてはじめて「不確実性と取り組み、実践の不確実性や〈わざ〉と同様の探究方法」を導くことがで きるという(p.49)。
2章4 行為の中の反省
・この標題は以下の文章のなかにテーゼ化 される:「私たちの知の形成は、行為のパターンや取り扱う素材に対する感触の中に、暗黙のうちにそれと なく存在している。私たちの知の形成はまさに、行為の〈なか〉にあると言ってよい」(僅かに改変 p.50)。
・「有能な実践者は、日々の実践のなか で、適切な判断基準を言葉で説明できないまま、無数の判断をおこなっており、規則や手続きの説明ができな いまま、自分の技能を実演している。研究に裏打ちされた理論と技能を意識的に用いているときでも、有能な実践者は暗黙の認識や判断、また熟練したふるまい に頼っている」(僅かに改変 p.50)。
・「普通の人びともプロフェッショナルな 実践者も、自分がしていることについて、ときには実際におこなっている最中であっても考えることがよく ある」( p.50)。
・「行為のなかの反省 (reflection-in-action)というプロセス全体が、実践者が状況のもつ不確実性や不安定さ、独自性、状 況における価値観の葛藤に対応する際に用いる〈わざ〉の中心部分を占めている」(僅かに改変 p.51)。
・しかし、こういうことを技術的合理性モ デルと解説し、批判したときにみたような論理的手続きを経ずにいきなり言われても読者(すくなくとも池 田)は戸惑うばかりである。
2.4.1.行為の中の知の生成
・ギルバート・ライルのknowing how/what、アンドリュー・ハリソン「心を演じる」知的行動、チェスター・バーナードの「思考のプロセス/非論理的プロセス」の区分、暗黙知、クリ ス・アレキサンダーのスロバキア農民の工業染色品の導入による伝統的テイストが再現できなくなり衰退すること、アルフレッド・シュッツやバードウィステル の儀礼化、定式化行動などが延々と解説される。この節の結論は以下のようなテーゼ集の提示でおわる。すなち「知ること」(knowing)は……
・「意識しないままに実施の仕方がわかる ような行為、認知、判断がある」が、それらはその最中には考えない。(p.55)。
・それらについて我々は気づくことは少な い。そして、
・「行為の本質(staff)に対する当 事者たちの感覚には、後から取り入れられることになる了解について、あらかじめ気づいていた場合」もあ り、気づかない場合もあるが、「どちらの場合でも、私たちの行為が指し示す知の生成を記述することは、通常はできない」(p.55)。
・しかし、こういうふうなプロトコル化さ れた説明では、ショーンが批判する技術的合理性モデルの論証方法とそれほど違わないのではないかと、評 者は愚痴を言ってみたくなる。
2.4.2.行為の中の反省
・大リーガーの「自分の型をみつける」と いうこと(pp.55-56)
・ジャズミュージシャンの即興演奏 (pp.56-57)
・「即興とは要するに無秩序なものではな く、一定のフレームの中でいくつかの音楽主題を結びつけたり結びかえたりすることであり、フレームがあ ることで演奏の範囲は明確になり、 演奏に一貫性が与えられる。ミュージシャンたちがおたがいにからみ合いながら発展する音楽に方向性を感じるとると き、彼はそこに新しい感覚を見つけ、自分たちの演奏を、創造した新しい感触に合わせていこうとする。彼らは集団で創造する音楽について、また1人ひとりが かかわる音楽について、行為の中で反省をおこない、自分がおこなっていることをプロセスの中で考え、自分の行為を進化させているのである」(p.57)。
——こういうのは観察にもとづく指摘とい うよりもショーンが抱く、即興演奏に関するロマン主義的理解の産物ではないか?あるいは実践者が素人に 説明するような本人流の説明(docta ignorantia)とも言える——例えば、ジャズの歴史にはバップ、ハードバップ、モダンという流派にはそれは当てはまるが、その後に登場するフリー ジャズの即興演奏が、それが形式的美をもったり、逆に(ジョン・コルトレーンの)「一貫性を与えないという一貫性」恐るべき美的性、[セシル・テイラー・ グループにみられるような、それ以前のジャズの演奏と同様ないしはそれ以上の]厳しい修練の結果であるという説明を十全には説明できない。
もともとのDocta ignorantia の意味は次のとおり。ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus,
1401-1464):神は「能産的自然(natura naturans)」、現象世界は「所産的自然(natura
naturata)」と捉えて、この矛盾の一致を、神において認識することが「無知の知(docta
ignorantia)」に他ならないと説く。(ニコラウス・クザーヌス『学識ある無知について』山田桂三訳、平凡社、1994年)http:
//www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/000321CP0x.html
・驚きの経験の重要性(インヘルダーと カーミロフ=スミスの論文):(1)「行為—反応」(p.59)と(2)「理論—反応」(pp.60- 62)、後者が行為実践のなかで生まれてくる理論すなわち行為の中の反省の典型だと著者は説明する。
2.4.3.実践の中の反省
・実践という用語の両義性:(1)具体的 に対処していることと、(2)それに備えて反復練習したり、新しいことをおこなうことでもある (p.62)。 ・専門分化はしばしば過剰学習(p.63)を生むが、実践の中の省察は、それに対してブレーキをかける。
・実践者のフレーム実験:「問題が発生 し、対応可能な問題にすぐには置き換えられない状況に陥ったときは、実践者は新しい問題の設定法を生み出 し、新たなフレームを作って状況にあてはめようとする」(p.65)。
・勘(ないしは第六感)の問題 (p.66)——(1)銀行家と(2)眼科医の例
・トルストイによる「学びの豊かさ」の指 摘(pp.67-68)——(3)番目
・コミュニケーションプロセスにおける観 察が生み出す誤解について(p.69)——ある実験的状況における操作的な外部要因によるミスを(原因 を隠して)ビデオでみた教師たちの反応は、子供たちじしんの認知的失敗であるとみなした。しかし、操作的ミスであることを事後的に教師たちに教え、再度ビ デオを視聴したところ、その行動(ミス)が外部要因であることをきちんと違和感なく見ることができた。——要因(解釈)の相対性に対する解釈は、想像がで きない異なった認知フレームを自覚するまでは生起しない——評者なら「後知恵による事後的なリアリティ」と言いたい。これは(4)番目。
・行為者は専門家としてのさまざま実践的 反省をおこなう(p.70)、にも関わらず、専門家の文化——文化人類学者ならサブカルチャーやハビ トゥスと呼ぶだろう——が用意するさまざまな認識論的な障がいによって、その潜在力を削がれている、というのがこの章(節)の末尾でショーンが言いたいこ とのようだ。
・だからこそ、行為の中の反省についての 研究が重要だと言って締めくくる(p.71)——このことについて評者は、全く異論はない。
【評者の結論】
1)専門家は、通常の職業人と同様、反省 をしながら行為する人間的属性をもった存在である(質的な差異ではなく、程度の違いであり、またその差 異を過度に強調したくないようだ)。
2)専門家には、専門家の独自の内省能力 が要求される(だろう。ただし1,2章から言えない)
3)内省能力は、専門家のみならず良きも のであり、また望まれている(なぜかはショーンは無自覚)。
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茹でられる聖職者たち:Livre de la Vigne nostre Seigneur, France ca. 1450-1470
(Bodleian, MS. Douce 134, fol. 85r)