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専門家の横暴について

Tyranny of intellectuals


池田光穂

1960年代中葉、風変わりな思想家エリック・ホッ ファー(Eric Hoffer, 1902-1983)は、多くの論者がいう〈現代は大衆の時代〉——その典型がオルテガ・イ・ガセー(このページ末に原文あり)であり、大衆の横 暴の背景にも知識人がいると 主張——という表現にたいして、現代は知識人が牛耳っている時代だと喝破した。

同時代の社会学者ライト・ミルズ(Charles Wright Mills, 1916-1962)の指摘に似て、当時のアメリカ社会は、一握りのエリート=知識人が、自分は自由だと思っている多数の労働者を コント ロールしていると考えた。そこでは、知識人の役割は、じつは、自分たちの身分を守ることに向けられており、また知識とは、学ぶ人の情熱よりも学ばせること の情熱のほうが支配的であるとするのである。

ホッファーの弁に耳を傾けてみよう。

「ここで、私が知識人という言葉で何をさしているか を述べておきたい。私のいう知識人とは、自分は教育のある少数派の一員であり世の中のできごとに方向と形を与える神授の権利を持っていると思っている人た ちである。知識人であるためには、良い教育をうけているとか特に知的であるとかの必要はない。教育のあるエリートの一員だという感情こそが問題なのであ る。/知識人は傾聴してもらいたいのである。彼は教えたいのであり、重視されたいのである。知識人にとっては、自由であるよりも、重視されることの方が大 切なのであり、無視されるくらいならむしろ迫害を望むのである。民主的な社会においては、人は干渉をうけず、好きなことができるのであるが、そこでは典型 的な知識人は不安を感じるのである。彼らはこれを道化師の放時と呼んでいる。そして、知識人重視の政府によって迫害されている共産主義国の知識人を羨むの である」エリック・ホッファー『波止場日記』における序文(みすず書房版、田中淳訳、p.2,1971年)

《全国民の幼児化の原因について》「支配的知識階級 の非常に多くの学校教師がいる、ということは興味深いことだ。教える情熱は学ぶ情熱よりもはるかに強力で根源的である」——エリック・ホッファー (1966)[これは、柄谷行人訳、ちくま文庫判、p.91、2015年]

ホッファーの主張することは、世界のトップランキン グに入ることが日本が先進国としてのトップに未だいることに、執着している、現在の日本の社会や大学にもいまだ通用しているといえるだろう。

***

オルテガ・イ・ガセーによると、閉じ篭もる科学者と は、大衆そのもの、みんなを代表しているような傲岸さを得るようになる、という意味らしい。閉じ篭もり 専門分野のなかを重箱の隅をほじくっても「自分はなんでも知っている」というようになる。そして、他人に耳を貸さないようになるという。オルテガ・イ・ガ セーは、科学者(あるいは知的専門家と言われる人のことだろう——私)こそが、文明における野蛮人にほかならないという。このことが招来するのは、ジェ ネラリストの衰退である。その意味で、今日の科学者にはジェネラリストからの知識給備が不可欠だという。まったくそのとおり、僕は以前から、理系の学生で 「専門家」になりたい連中には、哲学史や論理学あるいは倫理学を選択必修でもいいので、かならずどれかを受けるべきだろうと主張してきた。そのため には、大学教員もまた、彼らの教養力の陶冶のために、対話方法を中止としたきめ細かい人間教育が必要になるのだ。

このような無知への自覚は、かつてソクラテスがいっ た、人間陶冶のための無知の自覚ではなく、傲岸な大衆にならないための無知の自覚なのだ。

専門家が人間を堕落させることは、イヴァン・イリッ チも同様に指摘する(「創造的失業の権利」『エネルギーと公正』所収)。

Professional dominance

"Let us first face the fact that the bodies of specialists that now dominate the creation, adjudication, and satisfaction of needs are a new kind of cartel. And this must be recognized to outflank their developing defences. For we already see the new biocrat hiding behind the benevolent mask of the physician of old; the paedocrat's behavioural aggression is shrugged off as perhaps silly, overzealous care of the concerned teacher; the personnel manager equipped with a psychological arsenal presents himself in the guise of an old-time foreman. The new specialists, who are usually servicers of human needs that their speciality has defined, tend to wear the mask of and to provide some form of care. They are more deeply entrenched than a Byzantine bureaucracy, more international than a world church, more stable than any labour union, endowed with wider. competencies than any shaman, and equipped with a tighter hold over those they claim than any mafia." (Illich 1978:48)

■アメリカ(北米)のエリート教育の陰

ウィリアム・デレズウィッツ『優秀なる羊たち:米国 エリート教育の失敗に学ぶ』米山裕子訳、三省堂、2016年によると、順風満帆と思えるような米国のエリート教育にも「今日のエリート学生たちが世間に見 せることを習得した、人当たりがよく自信に満ち、そつなく適応している表の顔を一枚剥いでみれば、往々にして、有害なまでの恐怖や不安、抑鬱、虚無感、喪 失感や孤独を見ることができる」あると著者は指摘している(→三省堂の 書籍サイト)。その学生/院生達の特徴は「焦点の定まらない野心」(unfocused ambition)」なんでも、できるし、それをこなせる能力をもつけど、何に(自分に興味や意義をもたせるような)焦点を定められないという悩みであ る。またそのようなエリート教育をうける学生の親権者の所得水準はとても高い。それゆえ、失敗に対する「免疫力」をもちえず、一旦挫折すると大きなトラウ マになり復帰するチャンスをそぐようなシステムにもなっている。エリート偏重は、他方で失敗への恐怖と、失敗してしまった後のレジリエンス(復元力)をも たせにくい。そのために、著者はエリート教育よりも、エリート予備軍の富裕層ではなく、貧困層出身の学生/院生への評価と支援が必要だという提案にいた る。

章立て:第一部 羊たち/■第一部 羊たち/ 第一章 学生たち /第二章 歴史 /第三章 トレーニング /第四章 大学 /第二部 自己/ 第五章 大学はなんのため?/第六章 人生はその手で創る 第七章 リーダーシップ /第三部 大学/ 第八章 偉大な本 /第九章 魂のガイド/ 第十章 君のためのランキングガイド /第四部 /社会 第十一章 エリートクラブへようこそ /第十二章 世襲制能力主義社会との決別

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