教育を通した人類学的デモクラシーの実践
Anthropological Democracy in Learning Space
"American
Democracy is Hypocrisy" (
Malcolm X).——Ver. 1.3:池田光穂
本発表を通した私の主張は以下の3点である。
1.医療人類学のテーマを素材に医学生や看護学生とどしどし対話しよう。それらのテーマは医療人類学者が、生命の社会哲学に対して挑戦したい、 さまざまな事柄からなる。
2.ここでいう対話という行為を人々にエンパワーするイデオロギーがデモクラシーである(→人 類学的デモクラシー)。
3.デモクラシーの理想状態とは、人々(人民)に対して、生きる意味のある生命活動(ビオス)を保証する権力が人々(人民)じしんに掌握されて いることである。このことを本発表では人類学的デモクラシーと呼んでいる。
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人々が生きていることについて考えてみよう。
メタボリックシンドロームは生物医学の言語によると、内蔵脂肪型肥満に高血糖、高血圧、高脂血症の3つのうち2つ以上の合併した状態をさす。 マスメディアが広めたこの用語の略称は「メタボ」である。
ところで「メタボ」は日本の保健行政の文脈では生物医学のそれとは全く違った社会的意味をもつ。すなわち特定健診制度の実施を徹底化し、その 病人——行政用語では病人とは呼ばれず該当者の名前が冠される——やリスク要因の高い予備軍に特定保健指導をおこない、当事者たちにペナルティ制度まで科 して、病者の数を減らすための数値目標——2015年までに25%削減——を定めて、医療費を削減する——2兆円と試算——こと[厚生労働省 2007: online]。これである。すなわち「メタボ」とは国民の身体(national body)が引き起こす国家財政上の「予告された災厄」(predictable disaster)のことを言うのである。
他方で医薬品や健康食品あるいはフィットネス産業にとっては「メタボ」は、未来に利潤をたっぷり含んだ投資のための経済的誘因である。なぜな ら保健医療行政の「メタボ」の語用論(pragmatics)から推論すると、メタボという病者にならないよう努力するのは国民そのものであり、そのコス トは国民が負担すべきだからである。国民のメタボについて国家は口を差し挟む(=助言はする)が、助言を聞かないことに関するリスクテイクは国民の自己責 任とする(=銭は出さない)ということを言っている。別言すると、国民の健康管理は大きく民営化(privatization)されようとしている。厚生 労働省の行為遂行的発話は、国民がメタボにならないための国家ケアは、これを放棄するだろうということを示している。このことに不満を持たない者とは、自 発的あるいは非自発的にメタボ対策にこれまでコストを支払い健康を維持している(現時点ではという付帯条件のついた)「幸せな国民」だけであろう。
マクロ経済的には、医療費が節約された結果捻出されることが予想されている2兆円(ないしはそれ以上)は、そのまま民間セクターであるメタボ の管理のための市場(market)に流れることを意味する。我々は、身体をケアするための医薬品や食品あるいはフィットネス管理のための費用を自弁で捻 出しなければならず、それにより巨大な産業複合体ができるはずだ。もちろん先端医療のみならず通常の医療機関(病院や医療関係者など)もまた複合体の重要 なメンバーである。
民間セクターの市場原理主義にもとづくこの種の成長において、産業が生み出す「健康維持商品」の不正や偽装が行われないために国家は定期的に 警邏(watch)するだけの存在へとその規模を縮小する——日本政府が続けている行財政改革は(官僚や道路族の抵抗に遭おうとも)この路線と全く矛盾し ない。生物医学的にまだまだ議論の余地があるメタボリックシンドローム対策を政府が性急に実施しようとしている背景には、未来における国家の財政的負担を 軽くすることだけでなく、国家によるメタボケアを放棄し、国民の身体管理の夜警国家(night watch state of body-politic)の実現へと向かう決意が見え隠れする。
世界に冠たる長寿国であり高度な医療を比較的平等に享受することができた日本の保健医療制度は超高齢化に象徴される人口構造の劇的な変化と長 期的な経済の停滞により、これほど儚くも国民の信頼を失うようになったのはなにゆえだろうか。グローバル化するネオリベラル経済がメディアを通して撒き散 らかす国家が推奨する生活倫理的態度とは、健康不安の最終的解決は「各個人がこまめに測る腹周りのサイズと生活習慣の改善」に他ならないと理解し、その実 現にむけて盲目的に従うことである。国民はもはや信頼を失った国家の言うことの背後にある「意図」を見抜く情熱を喪失し(=鑞で耳に蓋がなされている)、 健康維持の経済的な自己責任という「真理」だけは受け入れて(=黙々と船を漕ぐ)、試験管の細胞には「脂肪を燃やす〜♪」(=セイレーンの甘い歌声)とい う効力だけが証明された健康食品をせっせと摂ることに熱中する。もちろん、いかなる原因によるものであれ、「落ちこぼれた病人」という逸脱者(=セイレー ンの誘惑にまけて「メタボ」の海に飛び込んで死ぬ船員たち) を道徳的に非難するためのシナリオ[Ryan 1971]もきちんと用意されている。
【註】 丸括弧内はホメロスの神話、あるいはホルクハイマーとアドルノ『啓蒙の弁証法』[1947]に出てくる有名な議論のパロディ(ないしはメタストーリー)で す——さてここにオデッセウスはいるのだろうか?
生物医学や臨床医学の研究者、厚生労働省の官僚、健康関連産業のビジネスエリート、そして腹周りを気にする中年男性——メタボ想定されている 患者のジェンダーは男性で職業はサラリーマンである——「メタボ」対策という観点では見事なほど調和かつ整合的な動きをしている(2008年5月の内閣府 「食育に関する世論調査」では「メタボ」について知る国民の割合は87%に及ぶという)。
国家主導のメタボ対策が未来の日本国民にもたらす以上のような私の理解は、パラノイア的解釈ないしは根拠のない陰謀理論にすぎないのだろう か。私の信念に照らしてこれは荒唐無稽の説明とは思わない。むしろ国家という国民からなる政治的身体(body-politic) の現在について学ぶ医療人類学の課題として、これほど適切なものはないだろうと自負している。他方メタボ現象を考える医療人類学の授業において、より穏当 に、肥満の美的価値は歴史や文化によって決まるという文化的社会的決定論や、食物の文化的シンボリズムから議論を説き起こすべきだと考える同業者もいるか も知れない。しかしながら、このような毒にも薬にもならない文化相対主義の講釈は、人種主義的優生学思想や異民族への文化的偏見と学問的研究を通して戦っ てきた(北米のボアズやベネディクトらの)文化人類学の先人たちの長い間の努力[太田 2005]から何も学ばないことだと、私は考える。
【註】 Lock, Margaret and Nancy Scheper-Hughes.1996. A Critical-Interpretive Approach in Medical Anthropology: Rituals and Routines of Discipline and Dissent, with In Tom Johnson and Caroline Sargent, eds., Medical Anthropology: A Handbook of Theory and Method. , Pp 41-70. New York: Greenwood Press, Second Revised Edition.
にもかかわらずメタボをめぐる人類学的な説明がこれで十分とは決して思えない。このような解釈の妥当性に関する疑念が拭いきれないからであ る。寛容のふりをした自民族中心主義(=反・反自民族中心主義)に似て、「批判的視点をしっかり持てば人類学者は自分たちのことも十全に理解できるはず だ」という陥穽にはまってはいないだろうか。メタボの反省的解釈学は、すぐに見えてくる構造(=ドクサ)からは解き明かせないより高度な知的作業を医療人 類学者に要求するのではないか。この種の自己の能力への疑念を解消するためには、自己の知識と理解を相対化するリフレクシブな方法を、人類学者自身の生活 世界のなかに(再び)取り込む必要がある。この可能性を〈デモクラティックな討議〉の実践がおこなわれる教育の現場にみるというというのが私の発表の趣旨 である。
ミッシェル・フーコー[1986]やジョルジョ・アガンベン[2002, 2003]によれば現今の政治は個の生命と集団の生命(=人口)の存在とそれらをとりまく統治の政治権力のあり方を抜きにしては語れないという。にもかか わらず、医療と保健に関わる民族誌学者のフィールドワークの現場で、また人類学をなりわいとする社会のミクロな生活実践のなかに、生政治にまつわる諸現象 に出会い、マクロな社会現象[ないしはその科学的言説]で指摘されていることと関連づけて、政治と生命が十分に論じられているとは言い難い 。私たちがドクサを通して自然化しつつ生きるこの社会の成り立ちを、他者の社会生活に身を投じることから捉えなおすことが人類学者の仕事であるならば、こ のことが我々の日常的な教育や研究の場からもっと発せられてもよいのではないかと思われる[cf. ギアツ 2007]。
【註】北米の医療人類学者の間における応用=アクション派とフーコー主義者とのあいだで、現今の医療制度に対する理解に「齟齬」があること については、池田光穂「医療人類学の近未来を語る」文化人類学会北海道地区研究懇談会・北海道民族学会共催研究会「医療人類学の近未来」、北海道大学人 文・社会科学総合教育研究棟、北海道札幌市、2008年3月29日で言及した。私はこれらの齟齬が将来両派の対話的議論を通して速やかに解消される必要が あると信じるものである。
もしメタボが(ロラン・バルト的な意味での)「現代の神話」[美馬 2007:67-72]であっても、メタナラティブとしての寓意がそこにはあり、我々医療人類学者に対して何らかの意味をもつならばそれは次のようなこと であろう。人類文明の数千年を支配してきた飢餓への恐怖(苦痛)から逃れ、飽食を享受(快楽)することの延長上に位置づけられる、人間生活における栄養状 態の改善には限界があったこと。そして、このまま栄養状態を「改善し続ける」ことは、結果的に自らの生命そのものを弱体化することに繋がるという教訓であ る 。あるいは、生きる意味のある生命活動(ビオス)が、メタボリックシンドロームを可能にする栄養生態学上の例外状況の中では、国家にとっては人口を維持し 経済生産に従事している個性を失った生命(ゾーエ)に貶められている状況がいままさに起こっているということだ。これこそがフーコーやアーレントが主題化 しなかった強制収容所における生命政治(bio-politic)の論理そのものである[アガンベン 2002:11-16]。デモクラシーの論理はこの状況に断固抵抗する。そこから導き出される実践上の課題として、ゾーエに貶められた生命の復権、ビオス として生きることを可能にする例外状況を突き崩す対抗的な社会形態を想像し、そのことについて形を与える(=言説を構築する)ことが上げられるのではない だろうか。
【註】栄養生態学的データの蓄積の上に進化医学(evolutionary medicine)の最新の成果をつきあわせて、現代社会における健康や食生活、生物医学上の統計データにおける「ノーマル」概念の再検討、さらには現代 の「健康の不平等」(health disparities)の解明に、生態人類学の成果が役に立つという提言がなされている[Trevathan 2007]。
もちろんだからと言ってデモクラシー(民主制)の具体的な諸相がポストモダン状況においても盤石なままでもない。そもそも冷戦期におけるデモ クラシーは、共産主義やソビエト体制という「全体主義」に対して米国を中心とする西側の先進諸国がデモクラシーの用語を対抗的に提示つづけてきた時代の産 物である[Paley 2002:471]。冷戦構造が終焉を迎えても、古典的なデモクラシーのコンセンサスである、投票を通した国政への参加、市民をエンパワーするような行政 的措置、あるいはそれらを通した「良き統治」の理念がそのまま生き残っている 。しかしその後デモクラシーにはさまざまな意味が加味された。つまり内戦状況(=まさに例外状況)を終結させる国民和解、民主選挙を可能にする国際監視団 の受け入れ、世界銀行が提示する構造調整を受け入れて国内の政治的腐敗を一掃することなど、デモクラシーには複数の意味の歴史的派生物が加わっている。こ のためもともと全体主義を排除するための対抗言説(=手段)であったものが、達成されるべき目的を恣意的に付加してきたために、デモクラシーという用語そ のものが多義的(polysemous/polysemic)な表象になってしまった。
Fray
Tormaneta, the real Nacho Libre (article)
そのため連字符 のついた、あるいは形容詞のついたデモクラシーが百出することになる。ざっと挙げるだけでも、本質的民主制(substantive democracy)、手続き民主制(procedural democracy)、審議民主制(deliberative democracy)、対話論理的民主制(dialogic democracy)、コミュニケーション民主制(communicative democracy)、深い民主制(deep democracy)、分断した民主制(disjunctive democracy)、低水準民主制(low intensity democracy)、コスモポリタン民主制(cosmopolitan democracy)[以上はPaley 2002]、グローバル民主制(global democracy)[Singer and Baer 2007:208]などがある。
【註】 連字符とはハイフンのことである。医療-人類学、生態-人類学、経済-人類学など研究対象のテーマや方法論や領域などを限定するとき「ハイフン(連字符) つきの人類学」などと呼ばれる。
ファシズム、ファッショ、国家民主主義(ナチズム)、テロリズム体制という言葉に対抗する用語として、連字符がついてその威力は衰退しながら もデモクラシーはいまだ国民国家の正統性を維持するための権能として機能している。そのため国際政治の現場では、古典的なデモクラシーの尺度からみて民主 化されない国民国家——しばしば挙げられるのがキューバ、ベトナム、ベネズエラ、イラン、ボリビアなどである——が、撞着語法ないしはデモクラシーとは全 く関係のない連字符をつけてデモクラシーの正統な継承者であることを僭称していると非難のニュアンスを込めて紹介される(例:中国の「社会主義的民主社 会」、シンガポールの「持ち家デモクラシー」 )。これらのデモクラシーの使い方は、国家理性(=国家の存在理由)に正統性を与えるためであり、それゆえ人々(=人民)からは非難されることになる。
【註】Ong, Aihwa., 1999. Flexible Citizenship: The Cultural Logics of Transnationality. Durham, NC.: Duke University Press, p.208.
この文脈における連字符デモクラシーを本質的なデモクラシー(substantive)から区分する指標は、その形式的ないしは手続き的 (procedural)な類似性に警戒しつつ、そのデモクラシーが人民に対して何を生み出しているのかということに尽きる[Comaroff and Comaroff 1997]。私にはそれが「平等な対話を確保し伸展させる社会制度」と「多様性を前提とした思想信条の保全」であると思われる 。私が「人類学的」(anthropological)という形容詞(修飾語)により屋上屋を架すようなデモクラシーの用語法(=冗語法?)を弄するの は、そのことによりデモクラシーの内容や性格に新しい意味を付加するためではない。そうではなく人類学という方法論や理念を経由して、デモクラシー本来の 魅力と威力を取り戻したいがためである。デモクラシーは例外状況を防止するための(信頼度は低いが唯一の)安全装置であり、討議の対象になった人間を決し てゾーエとは見なさない約束を参加者に求める。
【註】対話者が相互に文化相対主義の信条を共有し対話的コミュニケーションを可能する社会的文脈が存在しないところにデモクラシーが主張す る共同性は確保できない。また対話における相互承認は、双方の主張が完全に一致することが目的ではなく、対話的コミュニケーションが成立するための最低不 可欠な条件であり、それは相互の主張が異なったままの状態を保つことを妨げない。このことが本文にあげたデモクラシーの成立条件である。
デモクラシーが人民による権力掌握と、生きる意味のある生命活動(ビオス)の実践であるならば、医療人類学への関心が高まり人々(人民)の生 命そのもののあり方が今日の議論において主題化されることは、歴史的な必然というよりも、人民が権力に関してリフレクシブに観想し、その内部において議論 している兆候である。医療人類学のテーマを素材に医学生や看護学生と対話するたびに(冒頭のメタボの事例は私の最近の授業テーマのひとつである)、生命の 社会哲学に関する医療人類学[者]による議論すなわち授業の提供がもっともあってもよいというのが、私の提案である。ただしこの主張は人類学の同業者にの み開陳するだけでなく、それを必要とするより多くの人たち——とりわけ看護学関係者——に向けて発言しなければならないかもしれない。
人類学的デモクラシーにもとづく教育がめざすものは、多様な価値、多様な目的をもった人民が共存できる多元主義のプラットフォームの構築であ る。もちろん人民や共存という用語、そしてデモクラシー概念すらも人類学的に[再]検討される必要があることは言うまでもない。デモクラシーのもとでの古 典的な教育学の理念では、単系的な文化の発展の観点にたち、未熟な人間(=子供や「未開人」)を教養人(=大人や「白人」)にするというプログラムをつく りそれを実践するということを目指してきたという歴史があるからだ[cf. Nisbet 1969:251-267]。1960年代以降に隆盛する、実践共同体の議論や認知科学の成果は、その古典的な教育学の枠組みを批判し問い直し続けてきた [ガードーナー 1987; レイヴとウェンガー 1993]。
【註】北米におけるいわゆる「認知革命」は1940年代に席巻した行動主義批判にはじまり50年代後半にはこの革命は徐々に進行してゆく。 文化心理学者のジェローム・ブルーナーは1960年心理言語学者のジョージ・ミラーとともにハーバード大学に認知研究センターを創設する。しかし1990 年にブルーナーは『意味の復権』を書いて彼自身が熱中していた認知革命からの決別を宣言した[ギアツ 2007:240-243]
しかしながら他方で蔓延するネオリベラル経済のなかで文化多元主義も盤石どころかむしろ瀕死の状態だ。現在の大学教育制度のなかにおける文化 人類学は、このアポリアを克服したとは言えない。我が国の事情がより複雑なのは、相対主義や多元主義に対する露骨な差別がこれまでなかったことがある。こ れは裏を返せば多元主義的言説がヘゲモニーを掌握することなど一度もなく、それ自体脅威にもならず反・相対主義が国家の公定イデオロギーのままで現在に 至っている、ということだ。それゆえ海外で批判に耐えて生き残った多文化主義の近年のより洗練された理論が、学問実践の修練の産物であることが日本の読者 にはしばしば忘れられて、知識人の消費財——あるいは取り組みやすい卒論のテーマ?——と化している(これに似た状況は『文化を書く』[1996 (1986)]でも『文化の窮状』[2003(1988)]でも、さらにはポストコロニアル理論の日本国内における学問的消費のされ方にもある程度言える かも知れない)。
多様な社会状況のなかで、多様な生き方をダイナミックに学ぶことができると信じていた文化人類学者の多くが、学問を支えている土台(=地面と しての歴史社会状況)や近くの木の枝の張り具合(=マクロな生命政治状況)を見ることなく、自らが紡ぎ出した理論的隘路——意味の網の目——にはまりこん でいるように見えるのは、まったく皮肉といわざるを得ない。人類学の領域で培われたさまざまな人類の知恵の蓄積があるにもかかわらず、私たち自身のサバイ バル手段として十全に使われていないというのが現今の文化人類学の窮状なのである。
他方で人類学的知識が他の分野において思わぬ流用をされることも別の窮状と言えるだろう。従来の学校教育への代替として構想された正統的周辺 参加(Legitimate Peripheral Participation, LPP)[レイヴとウェンガー 1993]が大学教育で理論として教えられ、組織経営のためのビジネスモデルになり、経営学大学院でカリキュラムとして教えられるようになることである。 ユカタン半島の産婆の人材養成の技が、女性のリプロダクティブ・ヘルス・ライツのためのNGOグループの組織原理になり、他方でコンサルタント会社の相談 内容に関するノウハウのレパートリーになるわけだ。ただし、デモクラシーの原則からは、知識の流用に関する倫理的側面[池田 2002]を除いて、このことを制限したり禁止することを正当化する論理を導くことはできない。
このようなカオス的状況を甘んじて受け入れた上でもなお、研究と教育という経験が車の両輪になって人類学的デモクラシーについての具体的な内 実を探究することが必要なのではないかと私は考える。そのための考えられ得る具体的な提案は以下の3つのとおりである。
1.学問的アイデンティティの再検討
隣接関連科学の学生・大学院生・研究者との交流を通して医療人類学の学問的アイデンティティを鍛え直すことの必要性[cf. 池田 2007:24-27]。
2.教育現場の対話論的転回の必要性
医療人類学の研究がもたらした研究(ナラティブアプローチ、実践理論、学際研究など)の中に含まれる、参加の概念や対話手法に焦点化した 授業の根本的組み替え(ただしこれには現行のシステムに対する強みも弱点もある[池田a online; 池田b online; 池田d online]を参照)。
3.現場主義の導入
医療人類学の研究や方法論に含まれる固有の事例へのこだわりや現場主義の感覚を、教育や研究の現場により広範に導入する。また討議で生ま れてきた仮説の検証は、現場での確認という再帰的なプロセスにより可能になることを授業のなかでより徹底化させることだ[池田c online; 池田d online]。
問題に基づく学習(Problem Based Learning, PBL)[池田a online]、実践の現場を意識するような対話型授業、演劇的手法の導入など、大学院教育で試みられつつある新しい教育手法の探究を、医療人類学教育で すぐに着手すべきである。教育の現場が変わらない限り、医療人類学の研究はテクノクラート的な発想にもとづく応用学のラベルを内外から貼られ続けたままに なるだろう。教育の現場が変われば、研究の現場が自動的に変わると信じることは、従来の講義型の授業の運営形態ではなかなか想像しにくいかもしれない。し かし授業の形式をよりダイナミックにすることで、その状況についてゆく教育=研究者の視座がよりフレキシブルになる可能性はあるはずだ。学生が学びを通し て変わるだけでなく、教師もまた教えることを通して変わるのである。フィールドでインフォーマントと対話する際に我々がしばしば使う文化の形式に関する質 問を、自文化の教育の文脈すなわち教室においても引き続き行うこと。問題解決について学生から専門家としての意見を聞きたいと質問されることをよしとする 態度を、フィールドにおける対話の態度として維持しつづけること。この過程の中で解決すべき問題はたくさん出てくるはずだ。そのような領域の越境と行為の 逸脱が、医療人類学の未来を変えるはずである。
クレジット:教育を通した人類学的デモクラシーの実践 、文化人類学会研究大会・分科会「医療人類学を学ぶこと/教えること」2008年
リンク文献
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