生気論
vitalism, vitalismo
解説:池田光穂
生気論(せいきろん)とは、生命現象を、物理学、化学、数学などに還元できない特別の法則によって支配されているとみる生命論(=哲学観)であ る。生気論とは欧米語のヴァイタリズム(vitalism)からの翻訳で、vital とは生命や活力を意味する形容詞である。
生気論は、生命現象をそれらの自然科学で説明できる自然現象とは別のものと見なす点で、現代では、オカルトあるいは非科学的なもの、あるいは宗 教思想あるいは信念のひとつとみなされることが多い。
にもかかわらず、物理学、化学、数学などに還元できない生命現象は現実に数多あるために、生気論を信じる人たちが絶えないのは、(1)生命現象 を自然科学では、いまだ十分には説明できていない(理論上の未達成という現実)、と(2)我々の人生をも包摂する生命現象を自然科学で十全に説明できるわ けがないという現代人のオカルト的な信仰の結果である。
理論抜きの(まさに)信仰に近い生気論の立場に立つ人たちは、生気論の反対の見解を機械論に見立てる傾向がつよい。機械論とは、生命は精巧にで きた機械にほかならないという説明で、機械は自然科学的に説明することができるし、要素から全体をから演繹的に論証可能とする(これを要素還元主義とい う)という、これまた生命論と同様に宗教的信念に近いものである。言うまでもないが、生命現象を自然科学で説明することのすべてが、生命の機械論にむすび つくわけではない。生命を自然科学によって分析、説明することと、生命が機械に類推(アナロジー)できることは、説明の方向性や水準が異なるからである。
したがって生命の機械論を仮想的敵とするかぎり生気論はオカルト信仰のままであることは明白である。
米本昌平の説明によると、20世紀最後の生気論者はハンス・アドルフ・E・ドリューシュ(Hans Adolf Eduard Driesch, 1867-1941)による『有機体の哲学』(1909)で、彼はウニの二胚葉の卵を分割しても、それぞれ完全なウニの幼生ができたことで、発生の初期に は生命独自の調整能力があると主張した。現代では、胚の遺伝子が形態発現のための機能分化していないだけの現象であると片づくこの現象は、ドリューシュに よるとアリストテレス以来の目的論的な内的因子がある根拠とされた。
このように中途半端な生気論は、自然科学の理論上の未達成を根拠にしぶとく生き残ろうとするが、その説明は判っていることを明確に理解するより も、理論的に明らかにされないことを人質にとり結論を先延ばしにする傾向がある。他方で、生気論者が意固地になる土壌は、カルナップ『物理学の哲学的基 礎』(1966)に代表されるように、生気論を仮想敵にする、過激な物理還元主義者による不可知論——反省的思考をすることを意図的に退ける信条——の席 巻があるからに他ならない。
生物学の領域では、カルナップや論理実証主義による専門分野の外野からの中途半端な論駁よりも、ダーシー・トムソン『成長と形』(初版1917 年、第二版1941年)などのほうが、よっぽど決定的な影響を与えたと言われる(ホットフィールド 2009:31)。
他方、フランシス・クリックやジャック・モノーはマイルドな反生気論者であり啓蒙主義の域を超えないために、生気論の息の根を止めるほどではな い。
臨床医学研究になると、生命現象の解明がより複雑になるために、生気論の命脈はストレス学説や精神免疫学などの主張者のなかに見られることもあ る。いうまでもないが、ストレス学説や精神免疫学が門外漢ないしは一部のオカルト学者から生気論のように捉えられがちなのは、むしろ(1)生命現象を十全 に説明できないことが、(2)我々の人生をも包摂する生命現象には、独自な説明体系があるはずに違いないという信念にスリップするからではないかと思われ る。
生気論は、現在では[少なくとも自然科学の学問体系のなかでは]命脈が絶たれたように思われるにも関わらず、一般大衆のみならず自然科学の内部 者からも生気論への転向者が後を絶たないのは、生気論が科学理論ではなく、人間の生命=生活上の信念であるという反省的認識に他ならないことを、逆に忘れ ているからである。
サイエンス・フィクションなどに見られるお手軽な宿命的な機械論——例えば人間はネットワークに繋がっているコンピュータに他ならないという主 張を想起したまえ——も宗教論とみまごうばかりの生気論——例えばカルト教団にみられる生命哲学論——も、それらは自然科学をも包摂するようなアイディア などでは決してなく、生命=生活上の信念であることを認識すれば、機械的な生命と霊的な機械というオカルト的存在論が現代社会に跋扈しても、何ら驚くこと はないであろう。もっとも、このような社会現象の責任の一端は宗教や心理を研究する研究者による啓蒙活動不足というものもあるのだが……。
リンク
文献
miscellaneous
[T]here are two dimensions to basic research. The frontier of
science extends all along a long line from the newest and most modern
intensive research, over the extensive research recently spawned by the
intensive research of yesterday, to the broad and well developed web of
extensive research activities based on intensive research of past
decades.
The effectiveness of this message may be indicated by the fact that I
heard it quoted recently by a leader in the field of materials science,
who urged the participants at a meeting dedicated to "fundamental
problems in condensed matter physics" to accept that there were few or
no such problems and that nothing was left but extensive science, which
he seemed to equate with device engineering.
The main fallacy in this kind of thinking is that the reductionist
hypothesis does not by any means imply a "constructionist" one: The
ability to reduce everything to simple fundamental laws does not imply
the ability to start from those laws and reconstruct the universe.
--- Philip Warren Anderson, 1977:393
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