授業料は得られた知識と等価物なのか?
Can student as
cosumer make your campus benevolent place?
解説:池田光穂
大学教師は、教養課程の学生を前にして、しばしば次のようなことを言う。
「君たちの親御さんたちはしっかり君たちの授業料を払っているのだから、その分しっかり勉強しなさい」と。
また、不道徳な(つまり授業を受けない学生たち)や教えることが下手くそな教師のことを挙げて、次のような文句を言う。
「大学[あるいは我々]は授業料を払った分だけ、きちんと教え[られ]るべきだ」
ここでの〈物言い〉の論理的前提になっているのは、「大学で教えられた内容」ないしは「大学で得られた知識」【註1】イコール「授業料」という 等価式である。
つまり払った分だけ学ぶと、親は子弟に対して学費を支払ったかいがあると考える。(従って余談だが、寄付金の多い大学は、学費を負担する親に とって「授業料」以外の支出を支払っているという感覚が強くなる)。
【我々の偏見】
大学で得られた知識 = 授業料 |
このような等価式は、大学の経営すなわち運営経費という観点から見たときには、まったくナンセンスな概念、つまり迷信である。
【実際の現実】
大学で得られた知識 ≠ 授業料 |
授業料は、大学の運営コストから客観的に産出されるべきものであり、授業で得られるコストと等価物では決してない。実際には学内外からの補助金 により変動を受けたり、大学間での(不可視な)調整過程、さらには、消費者物価などの動向から「総合的に」つまり経験的に決定されるものであり、大学は世 論・経済状況などの要因により授業料を平気で上げ下げすることができるのも承知の通りである。
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しかしながら、20世紀初頭のアメリカ合衆国においても、授業料は得られた知識と等価物ないしは等価であるべきだと考えていたらしい。
「アメリカでは、カレッジは発生的私立の教育機関であり、教授またはチューターの集団によって運営されているというよりも、学長によって運 営されていたのである。両親が授業料として適当な額を納め、学長は適切な教育を行うことについて自らの責任を負ったのである。学長は教授を雇う立場にあ り、教授は本来、学長の助力者以上のものではなかった。/ドイツの偉大な社会学者マックス・ウェーバーは大学改革期のほぼ最終段階(1904年)にアメリ カを訪れ、次のように述べている。「アメリカの学生、彼らの前に立っている教員を、父親の払った金と引き換えにその知識と方法論を自分たちに売る人であ る、とみている」と」(ベン=デビッド、ジョセフ『学問の府』天城勲 訳、p.119、サイマル出版会、1977年)。
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さて、先に迷信であると書いたが、それはむしろ信仰というほうがより公平な言い方かもしれない。そして、この信仰はある意味で(つまり社会学的 な意味で)学習者に有効に作用することがある。
語学学校のように、実際に投下した資本(=授業料)の元を取り返すべく学生や生徒が自発的に頑張ることがある。授業料の高い語学学校などは、そ の効能を宣伝する際にTOFEL,TOEICの点数を高くとることができると言って憚らないのも、授業料が学習者に対してインセンティブとして働いている 可能性がある。また消費者としての学生の意識が高いと、教授の授業評価には辛口になる傾向があり、それが教授の授業の改善につながる可能性がある(=面白 くて安易に単位がとれると喜ぶどこかの国の馬鹿学生に教えたい気分である)。
そして、無料や安価な授業料の学校は、逆に学習意欲向上のための積極的なインセンティブにならず、それが市場的に不利に働く可能性すらある。
もっとも授業料が高ければよいというわけでもない。授業料の高い「お嬢様お坊ちゃま学校」などは、授業料の高さが、学生の(保護者の)経済的地 位を反映している意識の再確認の方向に働き、彼らの衒示(げんじ)的あるいは誇示的消費のライフスタイルを維持することには熱心だが、勉強意欲を上げる方 向に働かないのである。
ここで重要なことは、大学で教えられる内容と授業料とは全く関係のない代物であると、訳知り顔で主張することではない。我々はしばしば、関係の ないものを関連づけて、自分の生きる目標にしたり、生活の改善のための努力目標にしたりすることに気づくことである。
註1:
ここで脱線する(=脇道にそれること)が、「大学で教えられた内容」と「大学で得られた知識」が等価物と思ってはならない。立派な大学にいって も勉強しない学生は、やはり愚かな行動選択をしていると言わざるをえない。他方、三流大学と呼ばれようが、大学で授業で教えられた内容を咀嚼し、かつ教え られた以上の勉強をした学生は、エライ!と世間では評価される。
したがって、ここでは「大学で教えられる内容」と「大学で得られた知識」が等価の場合、それは「もとをとった」(=イーブン)と考えられる。
【もとをとった学生】
「大学で得られた知識」÷「大学で教えられた内容」=1 |
他方、この場合の愚かな行動選択している学生は、教えられた内容を十分に自分のものにできなかったわけであるので、「大学で得られた知識」を 「大学で教えられた内容」で除したものは1以下である。
【愚かな学生】
「大学で得られた知識」÷「大学で教えられた内容」<1 |
さらに大学に行って得をした学生は、「大学で得られた知識」を「大学で教えられた内容」で除したものは1以上である
【得をした学生】
「大学で得られた知識」÷「大学で教えられた内容」>1 |
しかしながら、このような等式と不等号において、「大学で教えられた内容」のみが常数ないしは学生によって大きく変動しないはずであるから、実 質的にこれらの数式を支配するのは、「大学で得られた知識」のほうであり、それは学生自身の努力によるものであり、授業料の多寡には、いくつかの例外を除 けば影響を受けない。その例外とは、勉強したいのに、経済的不況の影響を受けて授業料が支払えなくなり、退学の危機にさらされ、特待生や奨学金で条件付け される「優等生」になるようにインセンティブがつけられる場合である。
一般の資本主義的企業原理とは異なり、優秀な大学院生研究者は不況時にたくさん入学する。なぜなら、好況時には、優秀な学生はさっさと一流企業 に就職し、デモシカ(=大学院生「でも」なろうか、大学院生に「しか」なれない))という好まざる客としての大学院生が入ってくる。しかし、不況になる と、そのような優秀な学生が、一般企業に引き抜かれることなく、さらに大学院で研鑽を積もうとするので(=学歴資本への投資をさらに挑戦する[→「社 会経済的地位」])、不況時には、大学院には優秀な学生が集まるのである。
だから不況下において現在、勉強を積み重ねている大学院生諸君! 君たちのライバルは好況時よりも優秀だということを自覚し、不況時には、学問 を切磋琢磨するには、もっともよい環境であることを自覚すべきだ。もちろん、そのことも、大学というリヴァイアサンにとって「よい」という意味で、ラット レースに巻き込まれる君たちにとっては、かならずしも「よい」とは言えないかもしれない。でも、学習環境と社会一般とのダイナミックな関係について、自己 反省的になれば、社会や文化について勉強することは、今まで以上に楽しくなるはずだ!
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