「内側にむかってくるような問い」あるいは「反転的な知」について
On
“inward-looking questions” or “inverted knowledge
文献:塚本明子『動く知フロネーシス:経 験にひらかれた実践知』ゆみる出版、2008
==
第1章 テクネーとフロネーシス【承前】
第2章 アリストテレス的図式の崩壊と近 代【承前】
第3章 「もの」から「こと」へ
・塚本の芸術と科学に関する見解:アートがアーチストから切り離され芸術作品として独立したものになる。これはテクネーの作用による。
・ものではなく、ことを中心にして考えるホワイトヘッドの主張(『過程と実在』)
・「純粋に生きているということについての知がここで「動く知」とよぶもの」(p.139)。
・動く知には、自己組織化がはたらいている。
第4章 「できる」と「わかる」
・運動と知覚の絡み合い(p.150)
・池田の覚書:「身体が外部から入る情報をもとに内部を調節し、作り直し、統一体を作り、そのことを当たり前として忘却し、放棄し、また最 初にもどる」(pp.156-7を読みながら)
・「もの」「こと」二元論の乗り越えを模索
・「できる」ことへの考察は、できないことへの省察からはじまる?(ここから、〜できる自由というものから、制約の中の可能性を模索してい るのでは?
・ゲシュタルト、「勘」経験、芸道
・わかることについての言語化の可能性と限界について格闘しているのでは?
・ダンスや即興を手がかりとして、やり方がわかるということについて考察を深める(pp.206-)
第5章 経験と慣れ
・サブタイトルは「専門家の熟達」
・「われわれが真の専門家と呼ぶのは、特定の領域について、およそどんなことになっても手持ちのルールを慌てずに素早く当てはめて対処で き、またそのケースが例外的でマニュアル通りにいかない場合にも、その場で即興的に対処できるような人である」(p.231)。
・「専門知としてのテクネーがなぜ具体的な場面に目を向けなくなり、ともすれば現場にかかわるのを避けようとするのかと考えると……」 (p.232)
・ただし冒頭から続くのは、感性や慣れについてのさまざまな哲学上の議論
・ここらあたりを読んでいると、本書の「はじめに」における「内側にむかってくるような問い」あるいは「反転的な知」という指摘について思 い起こせる。
「技術のさまざまな成果の中で、ときに影のようにあるいは空白となって出てくるのが、技術はいかに使われるべきかという、またさまざまな技 術的な製品や制度の中に生きながら自分が何をしようとしている。端的にいえば「今どうしたらよいのか」という生きる意味への問いである。それは目の前の問 題の解決を求めるというよりもむしろ後ろ向きに、内側に向かってくるような問いである。それが答えの見つけようのない問いとなってわれわれを不安に陥れる のであるが、ときには不意に他人の生き方や行為のうちにその見事な答えを認めて心打たれ、あらためてそうした問いに気づかされることもある。また自分自身 がいつの間にか問いへの判断をしていたことに、後になって気づくこともある。自分としてはそれは正しい判断を主体的に選択したというよりも、自ずとその方 向に向かわされ、促されたような受動的な経験としで実感されることが多い。ただ間違った方向にゆくと、これは間違っているという批判的判断が働いて、それ が「知」であることを思い知らされるのである。この、むしろ偶然とか不本意に近いものに意味があるようだという自覚は、対象に対して積極的に判断を下し、 その判断の基準やルールを形成しようとするテクネー的なやり方とは裏腹になっているようである。この知は、間違ったときにはルールに合わないから間違った というよりも、そこに「まだ見いだされていない」ルールがあるのではないかと思わせるような、反転的な知である」(p.9)。
・自己の破れなども、この反転的な知との共通のニュアンスを感じさせる。
第6章 練習と即興
・「経験を学べるか共有できるかという問題が最も明確な形で出てくるのは、即興の技能を学ぶという場面であろう」(p.287)。
・池田コメント:即興と現場力には関係がある[→場所性・意識性・媒介性・身体性の諸特徴と交錯]
・慣れ、反復、批判のルーティン化、イディオム、身分け
・私(池田)がとりわけ印象に残ったのは、本文最後の「2 新しい専門知——即興能力」の箇所である。とくに Joseph Dunne, "Back to the Rough Ground: Practical Judgment and the Lure of Technique, " University of Notre Dame Pr; 2nd Revised edition, 1997.に依拠する所論。
・実践的三段論法を通した、実践を生み出すフロネーシスの意味づけ。
・「フロネーシスが倫理的なルールを設定するよりもプラスの方向に始動する」(p.346)。
・「フロネーシスが今、ここで現場に「コミットしている知」だからであり、いわば手の中にある目だからである」(p.347)。フロネーシ スは、現場の眼になる、あるいは現場力における〈視覚的能力〉(=鳥瞰の能力?)を発揮する。
・「フロネーシスの働くところは常に不確定性と曖昧さに満ちた現場であって、それは個別のケースに直面し、具体的な場で重要なものにピント を合わせ、明確な形を見てとる知なのだということがわかる」(p.350)。
・アリストテレスは「誰でも怒ることができるが、いつ、だれに向かって正しい動機で正しい程度に怒るということは誰にもできることではな い」といっている……(p.350)。
・「あとがき」の最後の文章は、評者(池田)にとって、相変わらず「テクネー=諸悪の根源説」が見えて気になるところであるが、経験知と倫 理の関係について適確にまとめている:「テクネーの圧倒的な圧力の中で、テクネーでないものに耳を傾け、「正しく待つ」しかない。われわれに残された道 は、自らの経験と習慣を超える方法を自らの経験の中から見い出すという至難の業である。そこで重要なのは、自分がどちらを向いているかを絶えず考え、経験 を積む中で少しずつよりよい方向へと向かおうとすることであろう」(p.356)。
〈付録〉 実践的三段論法について[→リンク]
★クレジット:「動く知と現場力:
「内側にむかってくるような問い」あるいは「反転的な知」について」2009年8月7日 拡大現場力研究会における池田光穂の発表
リンク
文献
その他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099