はじめによんでください 

最適捕食者と経済的人間

Tim Ingold 論文の翻訳

ヒグマ右鮭つきのわひぐま

解説:池田光穂


【本文】

最適捕食者と経済的人間
ティム・インゴルド

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イントロダクション
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啓蒙思想は、ある扱いにくい自然に対する人間理性の勝利を高らかに宣言してきた。啓蒙主義者の子どもとして、新古典経済学は人間の意思決定の学問ならびに その総合として発展し、合理的な自己利害の探究するにおける各人の行為を前提に基礎をおいている。マクロ経済理論の前提が人間性全般に適用できるにせよ、 あるいは「西洋」社会のそれにのみ適用可能だとしても、このことは相当に論争の種になっている:マリノフスキー(Malinowski 1922: 60)は「人間、とりわけ文化の低いレベルにいる人間が、啓蒙的な自己利益の純粋な経済的諸動機により行為すべきだ」という過程を「馬鹿げたこと」と退け たが、レイモンド・ファースは、その反対に「ほとんどの未開社会では、資源利用のためのいかなる計画の代替案でも、あるグループと別のものとの交易におけ る相対的経済的優位についても、そして、やりとりをおこない……利益を得るための商品の質に関する精密な検討に関する抜け目のない議論がみられる」と述べ た(Firth 1964: 22, see Schneider 1974: 11-12)。

ここでの私の関心は、旧い論争に回帰することではない。むしろ、いわゆる未開の民——あるいはより具体的には採取狩猟民——の 150105Medical_bear.html150105Medical_bear.html化生物学からみた医療人類学化生物学からみた医療人類学 化生物学からみた医療人類学行動を理解しようとする 現代の人類学内部のひとつのアプローチの登場によって生じた逆説について位置づけることをおこないたいが、その論証の道のりは、形式経済学の諸原理の直接 的な敷衍を通してではなく、むしろより間接的なルートを経由することになる。つまり人間以外の動物行動を分析する際にすでに応用されてきた諸原理、すなわ ち(ほとんど同定されてはいるが)にも関わらず近似的にモデル化された経済学の諸原理を人間に適用してみることである。問題とされているアプローチは、そ の実践者たちには「人類進化生態学」として知られているものであり、生態人類学の研究領域では今日もっとも野心的な分野のひとつである。

ちょうど自然淘汰が合理的選択の鏡像であるのと同じ意味で、進化生態学がマクロ経済学の正確な意味での反転であることを私は示そうと思う。このことはすな わち、ポスト啓蒙科学の中核に位置する、理性と自然の間の二分法として正反対の形態として再生産されているのである。しかしながら明確に区分された諸個人 を特定する前の譲渡可能な特性により行動を探し出すことにおいて、真に生態学的視座を発達させてきたという逆の事実にもかかわらず、進化生態学(の発展 は)さまたげられている。このことにより、私はたんに行動のための説明の一部として外的環境変数に組み込むべきような視座を意味するのではない。私の見解 では、純粋に生態学的なひとつのアプローチとは、民とその諸環境の間の進行中でかつ相互に構築的なかみ合いの文脈のなかの人間の意図と行為に根ざすもので ある。だが、私が議論するそのようなアプローチとは、ネオダーウィン主義の説明的パラダイムの実質的基礎のなかに問題を持ち込むものである。

あなたが人類学における経済学的形式主義について擁護すると仮定し、かつ、なぜ採集狩猟民のあるグループがある種の植物と動物資源の双方の収穫に対して彼 らの活動(エフォート)を集中させることを選択すべきだと仮定したらどうであろうか。それを生み出す満足により測定することができる資源のそれぞれの単位 に価値をおく有用性(ユーティリティ)を付加することで、獲得資源に関するひとつの最適戦略をあなたは計算できるし、また消費した時間とエネルギーに相対 する最高の総合的な有用性を産出することができよう。そして、人びとが実際になにをおこなっているかについてのおの戦略を比較することができ、うまく適合 ができれば、あなたのモデルは経験値による再確認テストに合格したと公言することができるだろう。懐疑的な挑戦に対して「それがいったい何なのだ」という 疑問に手を打ち、採集狩猟民たちが誰も他にはみられない、彼ら自身の最適の関心に叶う理解可能な選択をおこなうことができるということが、ここで立証すべ き事柄であるというふうに結論づけるだろう。あなたが、まさに指摘しようとしている理由(理性)は、「韻代的な西洋人」や「文明化された」人間ではなく、 すべての人類に共通の能力であるということであり、与えられた状況のなかで合理的な熟慮の基礎をなすことが何であるかを私たちが決める一方で、採集狩猟民 が自分たちの行動を、文化的慣習から得られる知識に対して盲目的に確信しているのだという見解を想像することは、自民族中心主義にすぎない。

であるなら人間以外の動物ではどうだろうか? 連中もまた明らかに合理的に見える資源獲得の諸戦略の産物であるかのように見えるし、自分たち自身のために これらの戦略を実際に働かせてきた。しかし君は、連中にはそれらがないと言うかもしれない。自然淘汰(natural selection)の進化的作用によって、動物は諸戦略を先に働かせてしまった結果にすぎないからだ。自然淘汰の論理は単純に次のように表せる:
資源獲得あるいは捕食戦略により効率的にふるまうことで、個体はより効率の悪い戦略を使う個体よりも生殖的に有利になる、なぜなら、これらの戦略——より 正確に言えば戦略を引き起こすための規則あるいはプログラム——は遺伝物質に暗号化されているからであり、それに比例したより多くの子孫を生み出すため に、より効率的な戦略は自動的にそれぞれの世代の中に確固とした地位を築くようになるからである。ここで人類進化生態学のための出発点は、ちょうど採集狩 猟民に相当する動物と同様に、人間の採集狩猟民の捕食行動は、自然淘汰下における変種のダーウィン的過程を通して形作られてきた、とりわけある特定の環境 のもとでの意思規則あるいは「認知的アルゴリズム」の適用として理解することが可能になる。この前提がひとつの理論を導き出したのであるが、それが「最適 捕食理論」(=最適捕食戦略)として流布しているものであり、外部から条件を与えたもとで、捕食者がどのように振る舞うべきかということを予測する公的な モデルからなりたっているが、それは捕獲した資源から得られるエネルギーと調達のためのエネルギーコストの間の均衡を最大化するようにその上位水準での目 的をもつと仮定しているものなのである。

そこで問うてみよう。採集狩猟民は、ある種の経済人であるか、最適捕食の生物種なのかだろうか? これらの2つの姿、もちろん両方とも分析的想像力による 理想的な構築物であるのだが、それらの側面と「原始的な」採集狩猟民の原型的姿の融合は、どちらの西洋科学の言説のもとにあり、自然と人間性のそれぞれの 条件間の移行的なものとして表せる(図2.1)。
たしかに経済人は社会的相互作用の領域の中で自分の理性を実行するし、内在的に抵抗する自然の背景に抗いながら、文化あるいは文明のなかで有利に行動しよ うとする。それに対して、最適捕食者の合理性は、自然そのものの懐に組み込まれており、他方で社会と文化の人間の領域はとりわけ、最適から逸脱する行動を 生み出すかもしれない、外部の規範的な偏りのもとであるように見えてしまう。ここには、冒頭で私が指摘したような逆説があり、[人間以外に適用できない] 古典的ミクロ経済学の明示的なモデルがある一方で、にもかかわらず、ある意味で人間以外の行動に比較できる行動があるかぎり人類にも適用可能であると他方 で考えてしまうアプローチもまたあるからだ。ひとつあるいは同時に、つまり理性的能力(faculty of reason)が人間性の証しである一方で、人間以外の類似の動物との比較により、人間の採集狩猟民が社会と文化の制約と妥協するという彼ら(=人間)の 合理性をどのように位置づければよいだろうか? この疑問を私の議論の出発点としたい。

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文化と選択
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「採集狩猟民、あるいは捕食者は、多様で偏った分布の資源によって特徴づけられる環境に生きている。最適の食物種、採餌場ならびに諸経路の配置から、捕食 者は多かれ少なかれ効率的で効果的な調達のための生存形態(サブシステンス)を組み合わせることができる。捕食者の諸選択は、生態的環境、進化的経過から 導き出される適応パターン、そして状況と時間と機会の制約に対してひとつの戦略をしつらえるのである」(Winterhalder 1981a: 66)。

この清明な宣言は、最適捕食理論のきわめて明確なもののひとつではあるが、私たちを問題の核心へと引きずり込む。それは次の2つの意味の間の矛盾として表 されよう。つまり、捕食者の「準用戦略」(strategy of adjustment)が、どこに行き何を獲得するかという一連の選択の結果であるという一方で、「適応パターン」(adaptive pattern)としての進化過程の産物が他方であるからだ。この矛盾を説明するために、思いつく経験事例をあげることが役に立つが、それにより、ウィン ターハルダー自身が示している民族誌事例にしばらく取りかかろう。それはオンタリオ湖北岸のマスクラットダム湖のクリーの人々のあいだでのフィールドワー クから得られたものである。

クリーの人たちは、かれらの自分たちの生業をさまざまな大型と小型のほ乳類、水鳥、魚類が、環境のまわりに散在あるいはパッチ状に分布しており、その生息 環境は主要な植生の異なったタイプによりきめ細かいモザイクのからなっていると描写する。資源とする種の多数が、毎年著しくそして不規則的に変動するだけ でなく、気候変動により植生のモザイクも同様に変化する。そのためクリーの狩猟者は、ある年が次の年とおなじようになることはありえない (Winterhalder 1981a: 80-1)。狩猟者は、彼が直面する状況に応じて戦術をたててきた。ウィンターハルダーが示す、ある狩猟ための旅はこの点を上手に著している。この旅行で は、ビーバーの罠猟をおこなうとされているが、彼と彼のクリーの同行者は、雷鳥、ヘラジカ、オオカミ、野ウサギ、ビバー、ミンク、カワウソ、マスクラット (水鼠)がいた徴や姿を途上で見かけることになった。それぞれの徴を発見しながら、彼の同行者は、そこで関心のある動物を追跡することに心を砕いた。狩猟 の最中では、雷鳥が射止められ、ヘラジカとオオカミは無視し、野ウサギとビバーのために落とし穴がしかけられ、マスクラットとカワウソのための罠が仕掛け られた。しかしこの狩猟は、とウィンターハルダーが私たちに告げるところでは、古い狩猟のスタイルの例であるという。村から狩猟コース(トレイル)の出発 点に移動する時にはスノーモービルが使われたにも関わらず、狩猟そのものはスノーシューズを着用しておこなわれた。より若い世代の狩猟者やちは、かなりの 部分をスノーモービルを使うが、それはトレイルに到達するために使われたのではなく、動物を探すために使っている。獲物を捜索する時間における必要な割引 =縮小化(consequent reduction)は十分に選択的とは言い難く、[手に入れたい]優先度の高い種を手に入れるために集中するものに使われた。過去においては、よい狩猟 者のしるしは、ほとんどあらゆる種類の動物を手に入れる能力に求められたが、今日ではその反対に、若い狩猟者たちはひとつあるいは2つの種類の狩猟に特定 化されており、他の狩猟者と競合することがないようになっている(Winterhalder 1981a: 86-9)。

狩猟者たちが選択に直面するこの記述の意味は明らかで、彼らがパターンに加える諸選択というものがあり、このパターンは狩猟により持ちこまれるパラメー ター、例えば、新しい技術の導入という、代替するパラメーターがあることにより変動がおこりということなのである。しかしながら、それほど明瞭ではないこ ともあり、それは、ダーウィン的感覚での「進化した」パターンあるいは、その出現が自然淘汰の過程でおこっている内容などであり、不明瞭なままである。議 論のためには、これまで述べた狩猟の旅のなかで、さまざまな資源種から得られる想定カロリーと、(罠の設置とチェックの)探索のためのエネルギーコストを 計算することを通して、獲得エネルギーの総量比を最大化するために狩猟者が探索するための最適戦略として、何をモデル化すべきかということに、狩猟者の意 思決定がまさに直面していることである。そして、むしろ問題化するかもしれないが、戦術的に熟達した狩猟者の世帯が、それは相対的に十分に予測できること であるが、健康な子孫を生み出すことで世帯の繁栄をもたらすのではないかと仮定してみることだ。言い方を変えれば、森林における狩猟者の成功は、家庭内の 繁殖的成功と符合するのである。[だが]成功する狩猟戦略は進化的過程の結果であったと信じる理由はいまだ現れてはいない。

自然淘汰によりある種のどのようなタイプの行動が進化してきたのか示すことがよりよくできるのは生物学者たち(例えばDunbar 1987)だというのはよく聞く議論ではあるが、それ(=行動?)を実行するそれらの個体=個人の再生産適合度(reproductive fitness)に積極的に貢献することを人は唯一指し示さねばならない。この議論は批判的に言って不十分であり、その理由はダーウィン的説明の円環が閉 じたような基本的連関(リンク)を見逃しているからである。もし仮に、行動の効果が生殖に作用することを通して、その後に継承される世代のなかで、ひと組 の操作指示(instructions)あるいは行動を発生させる「プログラム」の発現(representation)に寄与するのであれば、自然淘汰 により行動のみが進化することになるのだ。言い換えると、行動は生殖への意義をもつだけでなく、生殖によりつくられた諸要素への意義をもつのである (Ingold 1990: 226 fn.9)。人間以外の動物において関わるかぎり、複製されるプログラムの諸要素とはふつうは遺伝子のことである。この仮定が意味をもつものであれば、私 たちの関心を人間存在にあてはめてみると、このことは間違いなく非現実的に見えてしまう。人間の採集狩猟民の民族誌的研究から明らかなように[その]行動 的な多様性は人口集団内の遺伝的差異によるものであることを真剣に指摘するような著者というものを今日私は知らない。むしろ、人間の捕食行動を引き受ける 操作指示(インストラクションズ)は、遺伝的と言うよりも文化的なものであり、DNAの「言語」というよりも、言葉あるいは他のシンボル的メディアのなか に記号化されたものである。ウィンターハルダー自身が記すように(1981 b: 17)人間の捕食者の場合「文化によって世代から世代へ伝わる情報は、ある特定の選択と別の選択肢が個人あるいはグループにより実行されるような戦略的枠 組みのなかで提供される」。

この文化化モデル(enculturation model)は、これまで述べてきたクリーの狩猟民の行動を我々が理解することになにかの役に立つだろうか? モデルが現実のものを意味するように、多く の決断——つまりある動物を撃ち、別のものをやり過ごし、また別のものには罠をしかけるような決断——をおこなっているように狩猟者に関して記述している にもかかわらず、意思決定における狩猟者の自律性の範囲は極端に限られている。とまれ狩猟者は、多かれ少なかれ自己意識化することなしに年長者たちから習 得した決定ルールのセットを適用しているにすぎないのであるし、彼の社会における優越性は、年長者たちが考える効率性によってではなく、むしろ彼の先達た ちに十分に奉仕してきた事実によるものなのである。この事実とは、父親たちの足跡に従い、自分たちの狩猟活動において同様の船楽的手続きをくりかえしてき たおびただしい数の子孫を支える食物をもたらしたことにある。より一般的に言えば、もし狩猟のある特定の戦略が文化的伝統のなかに書き込まれ、かつその伝 統が自然淘汰の過程を通して進化してきたのであれば、もし仮に環境や技術の諸変化が、初期の有利な点を無効にするような効果をもったとしても、すべての狩 猟者は同じ方法を維持することができるはずである。これは、行動が完全に[行動に先駆けて]処方されているということではなく、純粋な選択が作られるはず だったかもしれないということである。しかし、選択はある与えられた戦略的枠組の中で作られるのであり、枠組みに適用することに対してあるのではない。

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ネオダーウィニズム生物学と新古典ミクロ経済学
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しかしながら奇妙なことに、最適化にむかった行動を引き起こす進化した文化的傾向の担い手としての人間の捕食者というこの見解は、進化生物学者の著作のな かに、まったく異なった姿のそれぞれの中に示されている。人間行動はしばしば最適なものからほど遠いものであることが観察されるが、これらの乖離について の非なる責任は明らかに文化そのものに向けられる。つまりウィンターハルダー(1981b: 16)は「文化的終着点(cultural goals)」を明確に打ち出しており、とりわけ人間においては「最適モデル化(modeled optima)と観察された行動のあいだ」の分離に関する可能な理由のひとつとして、信条と意味のシステムのなかに、この文化的終着点が位置づけられてい る。同様に、文化の人間的能力の帰結として「最適性を実現することを阻むことがあるかもしれない」いくつかの特徴をフォーレイ(Foley 1985: 237)はリストアップしている。にもかかわらず、ロバート・ベティンガー(Robert L. Bettinger 1991)による最適捕食理論を人間の採集狩猟民に関する考古学的人類学に適用した近年の総説以上にみられる騒々しい矛盾がみられることはほとんどない。

「形式主義」と「実体主義」と呼ばれているそれぞれの擁護者たちの間の経済人類学における古典的論争に言及しつつ、ベティンガーは人間の合理性に関する形 式主義と実体主義のあいだのマックス・ウェーバー的峻別の中にみられる論争用語を思い起こそうとする。つまり形式主義では、経済的意思決定に含まれる量的 な計算やそれに含まれることを枚挙することの中に、そして実体主義では、最終産物への経済的活動の貢献、あるいは定量的性質の標準的基準の中にみるのであ る。(p.32)人間の事象にみられる実体主義が突出することを否定することなく、「文化的規範と理念」に対立するものとして「合理的、自己利害的動機」 によって支配される現実の行動というものがそれを測定するためにはどれだけかけ離れていたものであるのかという見解に反して、ベティンガーは形式モデルが 「客観的な経済的合理性のものさし」として大いに有利であることを議論する(Bettinger 1991: 106)。そして、最適捕食理論のモデルこそが、このことを可能にするものであるという見解を支持する。これらのモデルの理想的で典型的な捕食者は、純粋 に自己利害によって計算されたことを実演する文化的傾向から完全に自由な生き物である;「文化的規範」に関与することを通して、現実の人類が偏っていると する限りにおいて、彼らの行動は最適なるものから逸脱するだろうということが期待されるからである。


完全に異なった光の下で、この主張をクリーの狩猟者に当てはめてみる。ある効率的な戦略に適合する狩猟者の能力を保証するどころではなく、彼の文化的遺産 のなかで獲得した知恵が、便益(costs and benefits)を客観的に数え上げることを通して判定された行為の最上の行程(コース)を認識するということを狩猟者から妨げてしまうことは、現実に ありうべきことである。例えば、スノーモービルの利用が、積極的には推奨されないが[成功時には]豊かな収穫をもたらす狩猟動物[の収穫]により役立つ時 においてもなお、狩猟種に対して多様に努力してきた伝統的理想に深くコミットする古い[タイプの]狩猟者たちは、狩猟の多様性を維持しつづけようとする。 それに対して、若い世界の男性たちは、伝統的文化的価値へのコミットは(少なくとも年長者の眼からみて)弱いが、より特殊化した戦略にはすぐに適合的にな れる。これらの若い者には実践できて、彼らの父祖たちにはこのスタイルが真似できないことにより、この戦略がまさしく意識的で熟慮された決定の結果である ことを指示することは完全に理にかなっているようにみえる。だが、同じ意味で、自然淘汰下では多様性のある過程が出てくるために、このことがすべてに当て はまるとするのも正しくない。

それらが適合する事実から、ネオダーウィン進化生物学やあるいは新古典ミクロ経済から手掛かりが得られるとしても、最適捕食理論が両方の方法を挑戦してい るのだという印象を抱くことは避けなければならない。実際、ベティンガーの見解では、最適捕食理論が生物学を経由した人類学から来たという事実は、多少な りとも偶発的なものであり、それは「経済学から安易に借用したものにすぎないと言える」(1991: 83)。もしそうだとしたら、経済学の諸定理は人間行動に当てはまるかのごとく人間以外のものにも適用可能であるし、経済人に相当するものが動物界にも存 在するということだ。たとえば「経済学的なマスクラット」は、自分の遺伝子に入力する前に、自分自身の自己保存を確保し、クリーの狩猟民が設置する罠を訪 問しないような選択をおこなう。だが、次のようなベティンガーの主張は、そんな[思考の]ゲームから遠ざかってしまう。
(p.33)
「ダーウィン理論では……個体は説明のための基本である:個体の利害は無視することができない。生殖に関する【現実のそして隠喩的な選択】をおこなう自己 利害的な個体そのものであり、その選択(淘汰)リスクは行為のそれぞれ異なった経路(コース)にそれぞれ関連してきた」(Bettinger 1991: 152, 強調は引用者)。

決定的に、ベティンガーは「引喩的な選択」が意味することの説明に失敗している。自分自身の構成物そのものが最新の産物となるような自然淘汰の幾重にもつ らなる世代による「操作法(modus operandi)」のなかに実際に構成するものを選択してきたものを個体としてみる語りをおこなうのがネオダーウィン主義の生物学者たちであるが、ベ ティンガーはそのような[生物学者]共通の癖を思い描いているようにしか、我々には推測できない。隠喩はそれ自体の使用法があり、略記のように使われる、 しかしながら現実と隠喩を混同する時、つまりここで見られる混同のように、その帰結は破壊的(=なにも役立たない)である。

クレーの狩猟者の選択は、現実的(リアル)なのか隠喩的なのだろうか? もしリアルだとすれば、遺伝的か文化的かにかかわらず、なんらか遺伝的図式(ス キーマ)の部分としては「移行して」こなかったことになり、このことは自然淘汰が的外れであることを示している。他方、もし狩猟者の行動が、自然淘汰のあ る過程を通して進化してきたものだとすれば、遺伝的に伝達する特性よりもむしろ文化的なものが作用してきたにもかかわらず、ここで厳密に言えば、どこへ行 きあるいは何を追いかけるかということに関して、遺伝的な制御の下にあると想定されている行動をもつ人間以外の動物より以上の行動選択を[人間の]狩猟者 が実行しているものではないことになる[=つまり動物と人間の行動選択には差がない]。「なぜそうなのだ」とエルンスト・マイヤー(Ernst Mayr 1976: 362)は問いかける。「なぜウグイス科の鳴鳥(warbler)は8月25日の夜に、ニューハンプシャーの私の避暑地において、南にむかって移動を始め るのだろうか?」。それに対する彼の答えは、鳴鳥は進化した遺伝的構成をもっており、(気温が突然下がるのと付随した日照時間の低下という)環境条件と特 異な連合をしてこの特別な方法に反応することを引き起こすような「自然淘汰の何千代にもおよぶ経過のなかで」かたちづくられたものなのだ。また他方で、こ の淘汰(選択)主義者の主張に従うと、ちょうど狩猟の途上でその態度を示すように、何かを追いかけ、罠をしかけ、あるものには追いかけずにやり過ごすよう に、狩猟者は動物の存在をしめす徴に適切に反応しやすくなっていることになる。狩猟者は彼が実際におこなう以上には、何かをするための[それ以外の]選択 をおこなうことはできないし、マスクラットが罠のなかに入らないことを選択することができる以上のものでもないし、また鳴鳥が渡りをしないこと以上でもな いのだ。「文化化」の結果として、マスクラットや鳥がそれぞれの遺伝子のしがらみから逃れられないように、狩猟者もまた自分の遺産(heritage)か ら逃れられないのである。

煎じ詰めていうと、ネオダーウィン主義理論を頼りにするということは、諸個人がそれにしたがう諸戦略をデザインように見せることではなく、個体が従うため の戦略を自然淘汰がデザインするように見せることなのである。適切な環境下において、多少なりとも最適な行動を生み出すためのプログラムに合わせた進化的 過去のお陰で身につけたことにより、その[最適]行動を実行することを運命づけられている。このことは、生殖がもたらす審判によって、人生(生活)そのも のが、ある長引く裁判と継続中の決定過程であると言えるが、これ自体全体が自然淘汰[の過程]そのものなのである。トゥールミン(1981)はこのことを 人口的適応(個体群的適応 populational adaptation)であると言及したが、これは合理的な意思決定の結果を生み出す計算可能な適応とは対照的なものである。しかし、彼が指摘したよう に、合理的選択および自然淘汰を基礎とする適応的行動の説明は、両立しがたいものではない。実際、前者(合理的選択)は後者(自然選択)に依存していると いう議論ができるだろう——言い換えると、計算可能な適応についてのいかなる理論のためのひとつの前提条件とは、必要に応じて人口学的用語でほのめかされ なければならない人間の本性についての言及のことである。このことについて、これから論じてみよう。

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淘汰(選択)のエージェントとしての理性と自然(p.34)
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古典的マクロ経済学において洗練されているように、合理的選択の公式的理論では人々が将来何をおこなうかが予測されいて、それは彼らの計画の目的はそれら の行為から最大の利益を得るものであると仮定されている。代替的な行為をえらぶことで派生する相対的利益は、しかしながら、人々じしんの信念と選好によっ てのみ評価することができる。もちろん、「高次の」信念と選好から、「低次の」信念と選好が生まれてくるかもしれない。だが、この派生過程はいつまでも決 めることができない。究極的には、もし私たちがそれらの信念と選好が最初の場所から由来するのであれば、その場所がどこであるか示すことを望むのであれ ば、言い換えると、人間の意図の源泉をもし私たちが探すのであれば、自然淘汰の歴史を通してそれら(=信念と選好)どのようにして現れるのかについて示さ ねばならない。人間の意図と合理的選択に対して強調することは、すでに議論しているように、行動の直近の理由をのみ示せばよいし、選択を裏書きするような 根本的な動機と、決定したことを容認する認知的メカニズムの両方によって諸個人を形作ってきたそれらの選択的な力のなかに、究極的な理由があるのだ (Smith and Winterhalder 1992:41-50)。すなわち、もし諸戦略が人間を理由づける産物になるのであれば、私たちは諸戦略の合理性について説明するために自然淘汰について いまだに助けをもとめなれけばならない。

人類進化生態学はこのことについてなにか言及しているだろうか? できていないし、実際はできないのであり、行動をおこさせる心理的メカニズムを確立する ために異なった生殖(再生産)的成功についての効果に焦点化するよりも、潜在的な生殖の帰結から行動を分析するという[人類進化生態学の]主要な戦術に依 然としてかかずらっているままなのである。サイモン(Symons 1992: 148)が指摘するように、適切なダーウィン主義者の説明が適応について関わるべきであるのに対して、進化生態学は行動の適応度 (adaptiveness)に関わっているからなのだ。人類が成し遂げたい、そして彼らの行動を動機づけているもっとも基本的な終点(ゴール)が、我々 の種の進化のコースにおける先祖の人口(=人たち)が経験したある種の環境条件のもとでの自然淘汰によっていったいどんな風にデザインされてきたかという ことを、ここでは試みなければならないのだ。サイモンの議論によれば、そんな終点(ゴール)は種に特異的で柔軟性がないだが、「進化的適応度 (evolutionary adaptedness)の環境」とは全然異なる諸環境のもとで、現在[進化生態学が]追求する課題はかなり根っこの部分で非適応的 (maladaptive)な帰結となる行動を導くことが可能である。例えば、果実がもっとも栄養的価値がある時に、果実への選好が確立するが、甘いもの への嗜好は、私たちの最終狩猟をおこなっていたご先祖様に十分配分されたのだろう。しかしながら、現代の工業社会のより豊かな住民には、肥満や歯に良くな いということを引き押す点で恩恵とはみなされないだろう(Symons 1992: 139)。

近年、「進化心理学」として知られている完全に新しい研究領域が成長しているが、その学問は、朱塗りの「人間本性」のもとで伝統的に集められてきた人間の 能力や素因(disposition)を見つけ出したり、それらがどのようにそしてなぜ進化したのかを説明したりする試みの中で生まれてきたのである (Barkow, Cosmides and Tooby 1992)。ここは進化心理学の批判の場所ではないが、ネオダーウィン主義パラダイムへの忠誠心を連中がもつにもかかわらず、進化生態学の擁護者たちの間 で仲違いしているこの主人公(進化心理学者)だとみることに何の価値もない。連中(進化心理学者と進化生態学者)のあいだの違いはこういうことである:進 化生態学は、行動がどのようにして、その環境下での多様性(あるいは変種)への感受性のある変動となるのかについて探究しているが、人間についての筋の 通った説明がなされていない。他方で進化心理学は、人間についての筋の通った説明を構築しようと試みているが、環境条件に対する人間行動の微細で優雅な調 整行動(fine-tuning)については鈍感で無理解のままである。ここで差異を強調するつもりはない:普遍的な認識(cognitive universals)に相対するものとして行動的な差異が現れるということについて指摘しているからだ。この問題はより深いものである、なぜなら進化心 理学は人間の心と脳のなかの問題解決メカニズムが進化した結果として行動を位置づけているのだが、進化生態学では、自然淘汰のメカニズムを通してしでに到 達した解決の表現として行動を理解しているのであり、かつ進化生態学は行動というものを文化化の過程を通して心のなかに印象づけるものだとしている。私が 議論したかったのは、適切な別の選択肢を示そうとしたのではなく、採集狩猟民の生業技術がどのように獲得され発達してきたかに関する生態学に根ざした説明 なのである。

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認知的アルゴリズムと「大ざっぱなやりかた」(RULES OF THUMB)
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ウィンターハルダーのマスクラット・ダム湖のクリーの人たちの民族誌に議論を戻してみよう。環境は[狩猟動物の]生息地(ハビタット)の異質なモザイクの 様相をしており、これらの生息地は捕食者を支えてくれる被捕食者(prey species)の種類と相対的な豊かさにおいて多様である。最適捕食理論は、それらの環境下において、狩猟者がパッチからパッチに移動することを予測す るが、その予測のためには、パッチ[への]移動に関わる余計なコストにも関わらず、高い収穫(high-quality)のパッチにエフォート(=労力投 下)を集中させることでより多くがえら得れることを一度でも明らかになると、彼ら[狩猟者]の行程表から収穫効率の低い(low-quality)を無視 するしなければならないことに関するサンプリングが必要になる(MacArthur and Pianka 1966)。移動(トラベル)のコストが高いところでは、狩猟者はパッチをあまねくあさるタイプ(patch-generalists)になるが、移動コ ストが低い場合は、パッチを選別して動くタイプ(patch-specialists)になる。ウィンターハルダーは、クリー人が移動につかう時間を著し く改善(=時間が短くなる)するスノーモービルや船外機をつかうことを受容することは、実際に好ましい特殊化であったことを発見している。にもかかわら ず、ほとんどの人たちが雪靴で移動していた頃においては、彼らの行程表はわずかなパッチを覗いて(=チェックして)見て回るタイプだったのである[=移動 コストが高いにもかかわらずパッチ・スペシャリストであった]。

この食い違いにもかかわらず、ウィンターハルダー (1981 a: 90)は、クリーの人たちは捕食のために「パッチからパッチ」戦略よりもむしろ「(こまめに)隙間移動」戦略を採用したのである(Figure 2. 2を見よ)。狩猟動物たとえばヘラジカやカリブーはあるパッチから別のパッチへしばしば頻繁に移動するし、その動物に関係するパッチの数は相対的にそれほ ど豊富ではなく、また動物の最近の移動や現在どのあたりにいるのかという証拠によって狩猟者によって利用されるどの道跡あるいはどの足跡から離れるのかと いうことを、よい感覚としてつくりあげることが、ここで言う戦略なのである。パッチの間の隙間の移動であるが、これは比較的容易に移動できる凍った湖やク リークの堅く締まった雪の上を移動する——狩猟者はちょうど動物たちがパッチからパッチの間を移動する道筋を遮断することを期待し、好ましい獲物がそこに いることを示す足跡がみつかった時のみパッチを訪れる。「クリーの捕食者は」とウィンターハルダーが書くように「この技術をより技能の高いレベルに発達さ せてきた」(Winterhalder 1981a: 91)。

この指摘の真実に疑いを差し挟む余地はない。私の関心はむしろ、この文脈における技能という言葉の具体的意味についてである。ウィンターハルダーにとっ て、技能の意味は、環境条件から特異的に連関したものによって示される複雑な問題というよりも、見せかけ上のすぐに解決を生む能力のことを指している。別 のところでは、スミスとウィンターハルダー(Smith and Winterhalder 1992: 57)は、「おおざっぱなやり方」(rules of thumb)により実行されるものとも指摘している。明らかに、彼らが示したように、(幾何学上の接戦、偏導関数、代数的不均衡あるいはそれに類するもの を含む)正式な数学的手法は、「行為者の日常の決定過程」のなかで繰り返されることのない最適捕食モデルの構築に使われ続けた。しかしながら「自然あるい は文化的淘汰で流通している、単純な大ざっぱなやり方あるいは認知的アルゴリズムは、[特定の捕食問題については]『近道』を進化せた環境に近づける状況 下におおてより近づきつつ、解決に近づきつつあるだろう(Smith and Winterhalder 1992: 58 強調は引用者)。つまり技能をつけるためには、狩猟者は文化化の過程を通して、その種のルールを身につけなければならない。

ここで私はクリーの狩猟者が大ざっぱなやり方に逃げ込んでることを否定することを望んでいるわけではない。しかしながら私は「認知的アルゴリズム」として のこれらのルールを記述することは、それらの本質を根本的に歪めることであると信じている。認知的アルゴリズムの意味するところは、計画理論 (planning theory)に由来し、かつ内的なものから行為者へと連関(リンク)する一連の決定ルールを据えているものであり、それに引き続いて起こる行為(アク ション)のための計画を生み出ための情報を受け取るような行動をとる。想定されている「問題」への「解決」として、計画は正確で完全な行為の仕様 (specification)を含むことが期待されるため、「問題」は完全に「解決」よって完全に説明されるのだ:捕食者たちが何をするかということを 説明するためには、何をおこなうかということを彼らがどのように決めるかということを説明すれば十分であるとみなすのである。それに対して、おおざっぱな やり方の威力と便利さは、とりわけ行為の具体的な詳細についてはほとんどあるいは何も特定できないのだから、これらのことが本質的に曖昧であるという事実 によっている。人間、事物あるいは関係性という現実の世界への巻き込みという背景に取り憑かせることで、大ざっぱなやり方は、人々をして何をおこなってき たのかということを語らせたり、あるいは次にくるものが何かということを語らせることをおこなってきた。しかしながら、行為そのものがいったん動き出す と、彼らは全く異なった種類の諸能力、謂わば発達的に身につけてしまう(embodied)そして環境的に調整されているような、移動と知覚の諸能力に頼 らざるをえなくなってしまうのだ。サッチマン(Suchman 1987: 52)が描くように、大ざっぱなやり方とは、「最終的な分析において、君の成否を占うそれらの身についた能力(embodied skills)を利用するためのもっとも可能な位置をえることができるためのそのような方法に君自身が填ってしまう」のである。しかしながらそれらの技能 に代わることが行うことは、その意味で不可能である。また、ここで私が指摘したいことだが、文化化の過程として、引き続く世代の中に、技術的な技能の獲得 を理解することもあり得ないことである。

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文化化と技法習得
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進化生態学が主張するように、ちょうど北方の森林環境のなかで狩猟者と罠猟者ための資源調達の最適戦略のように、もし捕食が狭い(interstice) パターンが自然淘汰による進化してきたとすれば、世代を超えて伝承することが可能であった規則と表象のかたちは、表現可能なものでなければならない。今一 度、遺伝的に組み込まれるそれらの規則(ルール)と表象があることに疑問をいただく必要はないと強調させていただきたい。隙間における捕食のための「公 式」は、ある世代から次の世代へ、遺伝的伝達と類似の方法により伝わってゆく文化的情報のかたちの中に含まれていることを指摘したい。この類推によれば、 文化情報の伝達は、利用の特定のセッティングのもとでその応用の経験とは区別すべきことがらになるが、このことは、表現型(phenotype)について 広言する際に、特定の環境のなかでは、遺伝型(genotype)の構成要素の伝達現象は、遺伝型の現実化(latter's realization)から区分しなければならない[ことと同義である]。この峻別は学習の2つの形態、すなわち社会的学習と個人的学習の区分の間の対 比によりしばしば眼にする(例えば、Richerson
and Boyd 1992: 64)。すなわち、社会的学習では、共同体のすでに知り得ている成員からの狩猟のルールと原理の前提とされていることを弟子は吸収する:他方、個人的学習 では、環境のなかでの彼の諸活動の道筋(コース)の利用について彼は学習する。

社会的学習が彼らの理論のなかにそのような中心的な場所をしめると——それは実際に中心であるとい同時に遺伝的複製ことを意味するのだが——進化的生態学 者は、どのようにそれがおこるのかについてほんど注意をはらってこなかったことはむしろ驚きに値する。同じく、カプランとヒルが正直にも「子どもの捕食者 が成人の捕食者になる際にどのような発達的過程があるのか……私たちは実際なにも知らない」と言っていることで十分であろう(Kaplan and Hill 1992: 197)。しばしば文化的伝達が、単純な複製の過程として示されることがああるが、その過程では、ルールと表象の全部の目録が、弟子の受動的に受容的な心 に奇跡的にもダウンロードされるのである。進化心理学者が異を唱えてきたのはまさに、この文化化が指し示す内容そのものだったのである。生得的な過程のメ カニズムが社会環境から得られた信号を「解読し」その中にある情報を抽出しない限り、なにものも獲得することができない、と進化心理学者たちは主張してい る。つまり、進化心理学者が議論する、文化化の伝統的モデルは、ある種のあり得ない心理学(impossible psychology)にもとづいている。生得的な情報処理メカニズムを多様な文化的形態として可能な形で伝えるだけでなく、むしろ、なにをそしてどのよ うに学ぶことができるのかという彼ら自身の構造を押しつけようとするのである。進化心理学者によると、自然淘汰下におけるこれらのメカニズムの進化につい て説明しなければならないとされているのである(Tooby and Cosmides 1992: 91-92)。

これは、これ以上信頼できる主張として足るものだろうか? ほんとうに単純な理由により私はこれが説明することを信じてはいない。人類は、特殊化した獲得 メカニズムの既成の構築物(アーキテクチャー)として生まれるのではないからだ:このメカニズムが仮に存在するものであるとしても、このようなメカニズム は個体発生の成長の過程のなかで出現するにすぎない。すなわち、(多くの心理言語学者たちが想定する「言語習得装置」の類推として考えればよいが)「技術 習得装置」としてあるものが存在するとすると、子どもが属する共同体の特定の技能を子どもが学ぶような似たような発達の文脈の中で、装置(it)そのもの がその形成を経験しなければならないからだ。そして、もしその両方[=学習者と学習者に内在し学習者そのものを学習させる生得的装置]がひとつの発達の過 程のなかのふたつの側面だとすると、「獲得した」技能の学習は「生得的」装置の形成からは区分することができるはずだが、そのように見ることは困難である (Ingold 1995: 195)。しかしながら、ともかく「技術習得装置」が存在するようにはなにもかを想定することは困難である。むしろ、技術的技能の学習は、「技術獲得を支 援する諸システム」(Wynn 1994:153)とも呼べるべきものに依存しているように思われる。ウィンの議論によれば、これらのシステムは十全に生得的なものではない。それらは、 むしろ徒弟制のシステムとも言えるものであり、活動の「手動(hands-on)」の文脈のなかで熟達者とより未熟な者との間での関係により成り立ってい るものである。技術的伝統の連続が寄るべきものは、遺伝的複製の過程ではなく、諸関係の複製の過程——あるいは文化的指示といういくつかの類比的な暗号の 伝達過程——でおこなわれる。

(p.40)

弟子の狩猟者が実際にやり方(trade)を学ぶことを考えてみよう、すると2つの指摘することができる。第一は、手続きの明確なコードというものはな く、あらゆる与えられた環境下において実行してきた正確な動きを特定化するという手続きである:この種の実践的な諸技能は、規則と表現(表象)のあらゆる 公的なシステムによってコードの集積化(codification=法典化)することには根本的に抵抗するように見える(Ingold 1995: 206)。そして2番目には、実際には不可能であるが、他の人たちと共に弟子(=習得過程にある人)が巻き込まれる領域と、人間以外の環境に対する彼じし んの巻き込みの領域を分離することである。習得過程にある(弟子の)狩猟者は森の中でより経験のある専門家(hands)に付き添うことで学習をおこな う。彼が進むにつれ、彼は何を見ろと指示され、彼の注意は、その時以外では気づかなかった僅かな手掛かり(subtle clues)把握することに注がれる:言い方をかえると、彼の周囲の状況の特性と、行為に周囲の状況が向かわしめている(afford for action)可能性の特性に洗練された感覚的気づきを発達させるようにし向けられる。例えば、彼は他の人に伝えられるように表面の手触りの質を憶えるこ とを学習し、実際にタッチするだけで、雪に足跡を残した動物がどれくらい前にいたのか、そしてどの程度の速さで去っていったのかを記憶するのである。

観察と模倣を通して、そのようなノウハウが得られたと私たちが言うことができるが、しかしながら、それは、文化化(エンカルチュレーション)の理論家に よって採用された用語でそれを説明することとは異なる。観察はもはやコピーをして手に入れた情報の以上のなにものでもなく、受け入れた指示を機械的に実行 する模倣といったものにすぎない。さらに、観察することは、身体を動かして他者の動きにつきあうことである;それに対して、模倣することは配列することな のであるが、それは彼じしんの実践的な方向づけの動きへの注意を環境のほうに向けさせるということである。狩猟者と周囲の状況の間の関係におけるある種の 周期的な調整と共鳴を彼らが一緒に引き出しているということなのであるが、このことは習熟した実践にとって太鼓判そのものである。

私が別のところで述べたのであるが(Ingold 1991: 371, 1993: 463)ここでおこっている知覚と行動のすばらしい調整活動は、文化化(=文化適応)のひとつとして以上に、技術の熟達の過程として理解したほうがよりよ いと言える(Palsson 1994 もまた参照)。何が巻き込まれているかということは、文化化のモデルが意味するように、表象の伝達ということではなく、むしろ注意[力]に関する教育だと いってよい。実際、若い(弟子の)狩猟者が受ける指示——これを注視せよ、あれに従えなど——は環境と彼が取り結ぶ文脈の中で意味を理解することに過ぎな い。ここで、脱文脈化した知識の独立した実体として「文化」について語ることは意味がないが、脱文脈化した知識は、その応用の状況に先だって伝達するため には有用なものではある。このようなかたちにおいては、もし文化が人類学の理論家の頭のなかのどこにも存在しないのであれば、文化の進化という概念そのも のはひとつのキメラにすぎない。

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結論(p.41)
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要するに、隙間(裂け目)捕食(interstice foraging)のような技法は文化的な諸表象のいかなる体系的なまとまり(systematic body)の部分としてみなすことができない;つまり、より熟達した師匠の指導のもとで、日々の課題をとりくむ際に、彼らの環境をなす要素とともに実践的 に巻き込まれながら弟子たちの[経験の]経路のなかでの発達の過程を通して、それぞれの綿々と続く世代において教え込まれることに近い感覚である。十分に 仕込まれた狩猟者は外界世界に対して熟慮するのであり、彼の頭の中の表象について熟慮するのではない。この結論が意味するものは、ここで極端に強調するこ とはできないが、その理由は、それがネオダーウィン主義理論そのもの核心の部分を突いてしまうからである。このことが、その理論の基礎的な前提であり、一 個の有機体の形態学的属性と行動的性向は細かく述べなければならないからであり、ある意味で、独立してあるいはさらに前向きに環境との関係のなかに彼ら自 身が入ってゆくこととそれらの明細な内訳の要素は、遺伝子であろうが(人間の場合の)文化的類似物であろうが、世代を超えて伝達されなければならないから なのだ。それとは正反対に、私の言いたいのは次のことである:そのような文脈と独立した特定化の意味することは、せいぜい、分析的抽象化のことであり、現 実には、有機体の諸形態と能力は発生(発達)システムの発現特性であるということだ(Oyama 1985: 22-3)。

私たちは、なぜネオダーウィン主義進化生態学を生み出す試みがいくつかの困難に直面してきたかについてここで理解することができるようになった。適切な生 態学的見解がもとめられるように、もし形態と行動が有機体の関係のある歴史をとおして本当に登場するのであれば、発生(発達)の環境的文脈のなかに導入さ れるような、あらかじめ設計(デザイン)された特殊化[=特殊な仕様]として、[ここで議論している]形態と行動を割り当てることはできない。しかしなが ら、そのようなぴったりとした割当は、自然選択下の適応理論のなかでは必要なものとされているのである。これまで見てきたように、進化生態学者は発生(発 達)の理由に関することに失念している一方で、その代わりに適応の結果に関する適応度(adaptiveness)の研究を代わりにもってきて、行動の生 殖的結果に焦点を当てることで、この問題から巧みに逃げているのである。他方で、進化心理学者たちは、適応のネオダーウィン主義の論理にきびしく執着する ことにより、種は固定し普遍的であるという「進化的構築物」(evolved architecture)ということを主張する余り[逆に]根本的に反ー生態学的になってしまった人間本性論に到達してしまった。つまり進化心理学者た ちには、人々が成長する時に出会う環境的状況についての認識が欠落しているのである。

私が始めた対立、つまり最適捕食者と経済人の対立にもどって結論を試みることにしよう。経済人は彼自身のために自分の戦略をうまくやり遂げる能力があると 信用されており、最適捕食者は自然淘汰によって自分自身の生存をやり遂げないとならない。つまり、理性と自然、自由と必要性、主観性と客観性という間の分 割のそれぞれ越えた反対側どうしに位置するように思える。しかし、これは現代の自然科学のプロジェクトが依拠する二分法でもあり、この区別は西洋の人類学 の文献のなかでであたかも登場してきたように見えるが、科学者の間では、彼の人間性については疑われることはないが、他方、[文献に]登場する採集狩猟民 は偶発的にのみ人間として扱われるのである。科学者、ここでは進化論的生態学者は、採集狩猟民がおこなうことに対して何が最善であるかについて計算するこ とができる基礎にもとづいた抽象的なモデルから構成されている:この予測は採集狩猟民が実際に何をおこなうのかに対して「テスト」されるのである。もし、 観察された実践が予測と適合するのであれば、そのモデルは採集狩猟民の行動を説明する究極の説明として流布すると言われる。この意味で、自然淘汰は本当の 世界の過程よりも、自然の鏡のなかでの科学的理性の反映として特徴づけられ、あたかもそれらは行動のための説明(explanations for behaviour)とされ、行動のモデル(models of behaviour)が誇示される口実としてその理論家が流通することになる。

しかしながら、「方法論的個人主義」「理論的ー推論的モデル」あるいは詐術の分析者のバッグのなかの別の考案品といったものは、もはや人々に訴えかけるも のではない。なぜなら、その行動に進化生態学者が説明すると主張する個人(個体)は、学者自身による想像の産物であるという事実のまわりに、このような用 語が存在するからだ。あたかも適応度ー極大化(fitness-maximisation)の自然な処方のやり方と思われてきた、狩猟と採集に関する科学 のイメージは、人間の理性の自由と優越性の記念碑と同様、科学がそれ自体の企業であることとおなじくらい幻想的である。それはある者が自然の境界を横切ろ うとするときに直面するものでは断じてなく、自身を科学者と呼ぶものと、科学者が採集狩猟民と呼ぶものの両方が、我々のこの世界にいる同行者なのであり、 生活の仕事をおこなっており、何かをやっており、自分の能力と野心を発展させ、環境の人間的および人間以外の要素の両方を含む継続中の歴史の中にいる存在 である。もし私たちが、人々がその環境とどの程度リアルに関係し、かつ実際に行動をおこなっている感受性と技量に関する綿密な (thoroughgoing)生態学的な理解を発達させたいのであれば、我々の出発点として巻き込みに関するこの状況について取り上げるべきである。だ が、これを達成するためには、すでに私が示したように、進化理論それ自体の根本的な分解掃除(オーバーホール)をやること以外に必要なことはない。

(p.43)
脚注[1]この部分は、ベティンガーの書籍と考古学と人類学の領域の最近の採集狩猟民の近年の研究か引かれたものを取り扱っている、レビュー論文 (Ingold 1992)の一部の実質的な描写に由来する。

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Ingold, Tim. 1996. The optimal forager and economic man. In "Nature and Society: Anthropological perspectives," P. Descola an G. Palsson eds.,Pp.25-44, London: Routledge.

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