はじめによんでください
熊送り(熊祭)に関するニール・ゴードン・マンローの記述
THE BEAR CULT AMONG AINU PEOPLE OF
HOKKAIDO, by Neil
G. Munro
「この熊は、人びとに捕らえられている間は〈カムイ〉として崇められ、また優しく扱われて今でもかなり人に馴れています。一人の長老が祈りを唱 え ながら、この〈カムイ〉である熊の身体に酒のしずくを振りかけます。この後、熊は檻の外に引き出されることになります。頑丈でしなやかな、引けば締まるよ うな輪にした縄を熊の首にしっかりと取り付け、檻の床下の穴から熊を引き出します。熊は捻り声をあげながら、それでも凶暴というよりはむしろ不意をつかれ て驚いたような表情を見せながら、自らの終焉の場へと導かれてゆきます。アイヌの人びとは、こうすることで熊は幸せになれるのだと信じています。熊は棒の 先などで突かれて刺激を受け、広い中庭を走り廻っています。また、熊はその身体に付いている悪霊をエゾマツの枝葉で払い清められます。周りでは、この場面 を囃す唄が歌われ、伝承的な拍子の取り方は昔と変わることなく響いています(マンロの記録映画よりB・Z・セリグマン(編) 2002:242)
「熊がしばらくの間みんなの前で引き廻されると、何人かの男たちが特別に作った飾り矢(花矢)を熊目がけて射かけます。この飾り矢は先端がと がっ ていないので、熊を傷つけるようなことはありません。この後熊は、広場の中心に打ち込まれた杭につながれます。この行事が進められて行く中で、最後に選ば れた一人の射手が、自分の放つ本当の矢が迅速に熊に命中してすぐに射斃(たお)すことができるように、と〈カムイ〉に向かって祈ります。竹の先端をとがら せて作った一本、時には二本の矢は、熊の身体からその霊魂を送り出してやるために適切なやり方であると考えられています。射た熊の身体から出る血を地面に こぼすことは禁じられており、またその血がほんのわずかな雪で汚れることも許されていません。一人の長老が、去り行く熊の霊魂の無事を祈り ます。前に熊の 遺体を安置した祭壇を越えて何本かの霊力のある矢が空に放たれることで、熊の霊魂が去って行ったことが確認されます。(マンロの記録映画よりB・Z・セリ グマン 2002:242-243)
「この後、男の子たちがきそってその矢を拾おうと駆けて行きます。たとえ 熊が既に死んでいたとしても、儀式のたてまえとして、もう一度二本の棒の間に熊の首をはさんで絞め殺すしぐさを行います。熊を絞め殺すというこの儀式上の しぐさは、古くからの習慣に従って行われるものであって、現在ではおそら く、今熊を殺すのを見たばかりの見物人たちの緊迫感を解きほごすための一種の道化のようなものであり、さらには、熊の霊魂をこうすることで安らげてやるた めのものに変わってきたのではないかと思われます。(マンロの記録映画よりB・Z・セリグマン 2002:243)
「雌の熊を送る儀式の場合には、その遺体に首飾りを雌の熊を送る儀式の場合には、その遺体に首飾りをかけて飾ってやります。熊の霊魂に向かって は、敬意をこめた挨拶の儀を行い、人びとに恵みを与えてくれたことに讃辞を述べ、その霊魂を先祖のもとに送ってやる約束の言葉を唱えて捧酒を行います。こ うすることで、その霊魂を満足させてやるのです。熊の毛皮を紳いだり 解体する作業は、伝統密な儀式の約束にもとづいて行われることになっています。人びと は敬虔な態度で熊の生き血を飲むことにしていますが、この生き血は神聖な薬であると されています。(マンロの記録映画よりB・Z・セリグマン 2002:243)
「胴体から切り離されて毛皮の上に安置された熊の頭には、 消え去ろうとしている霊魂がまだ留まっていると信じられています。この頭に向かって感 謝 の意を表すしぐさがなされ、讃辞が述べられながら捧酒が行われますが、このことが催されているあいだは、神聖な火が燃やし続けられています。そこは、アイ ヌの人びとの考える世界中の霊魂、つまり地上に存在する万物の生命の源となるもの、すなわち「宇宙を支配する神」が到来する場所であるとされています。 こ こには、熊の生き血を満たした椀がいくつか置いてあります。儀式が行われている間の作法として、その椀を最初に渡きれた者は、そこに満たされた生き血をす べて飲み干してはならないことになっています。その椀を受け取った者は、自分が少し飲んだ後、その椀をおし頂いてから自分の前に座っている人物に手渡して 廻し飲みをします。先祖の神々に対しても、この生き血を満たした椀を供えます。女性たちも自分たち女系につながる先祖の霊に向けて供え物をすることになっ ています。(マンロの記録映画よりB・Z・セリグマン 2002:243-244)
Neil Gordon Munro, 1863-1942
ニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro、1863年6月16日 - 1942年4月11日)は、イギリスの医師、考古学者、人類学者。 略歴 エジンバラ大学で医学を学び、インド航路の船医として29歳で日本にやってきた[1][† 1][2]。横浜で横浜ゼネラルホスピタルで医師として、その後長野県軽井沢でサナトリウムの院長として働く。 考古学にも深い造詣があり、日本の先史時代の研究をつづけ、1905年(明治38年)には横浜市神奈川区沢渡・三ツ沢付近にて、三ツ沢貝塚を発見し、発掘 調査をしている。考古学の知識は母国で培われた。旧石器にかなり精通していたであろうことは、彼の遺品のフリント(燧石)製の旧石器(槍先形ハンドアック ス)数点、エオリス(曙石器)一点などから推測できる。マンローは、ジャワ原人(現在はホモ・エレトウスに分類)の化石情報に接し、その一派が大陸と陸続 きであった日本列島にも到達したのではないかと考えた。1905年(明治38年)の夏、神奈川県酒匂川流域の段丘礫層を掘削し、数点ではあるが石器とみら れるものを見つけている。この活動は日本列島にも旧石器時代の人類が生息していたのではないかという自らの仮説を証明しようとしたものであった。[3]。 日本人女性と結婚し、1905年(明治38年)に日本に帰化した。1922年、来日したアルベルト・アインシュタインと面会する。1923年、関東大震災により横浜の自宅が全焼、軽井沢に自宅を移す。 1930年、軽井沢を訪れたイギリスの人類学者チャールズ・G・セリーグマン(英語版)の紹介により、ロックフェラー財団からの助成金を獲得。1932年 (昭和7年)、北海道沙流郡平取町二風谷に住所を移し、医療活動に従事する傍らアイヌの人類研究、民族資料収集を行った[2]。 1933年に北海道に渡り、平取町二風谷にマンロー邸を建てる。以後当地でアイヌの研究活動や結核患者への献身的な医療活動を行う。 二風谷時代は、「アイヌの世話をする西洋人」ということで周囲から奇異な目で見られ、新居の放火騒ぎがあったり(ジョン・バチェラーとの対立が原因とも言 われた)、「無資格で診療を行なっている」「英国のスパイだ」といった噂が流れて身の危険を感じることがあったりと、コタン以外の地元住民からは好かれて いなかったという[4]。 1937年、ヘレン・ケラーと面会。1941年、病により臥床生活となる。1942年4月11日死去。マンローは亡くなる時に、コタンの人々と同様の葬式 をしてくれるよう遺言した。遺骨は晩年を過ごした二風谷に埋葬されるとともに、長年過ごしてきた軽井沢の外国人墓地にもその分骨が納められた。軽井沢での マンロー埋葬の際には、時の町長や大勢の内外人が集まって「萬郎先生慰霊祭」を執り行ったという[5]。 家族 父・ロバート(1889年没) ‐ 外科医。マンローを名乗る一族は14世紀から続くスコットランドの名家。[6] 母・マーガレット・ブリング・マンロー 弟・ロバート ‐ 兄を追って来日 妻・アデル・マリー・ジョセフィン・レッツ(Adele M.J.Retz、1876年生) ‐ 在日ドイツ商人フレデリッヒ・レッツ(レッツ商会店主)の娘。ロバート(1896-1902)、イアンの二子を儲けるも1905年離婚。離婚前、実家の パーティで夫と秘書トクへの嫉妬からヒステリックにピアノを演奏したとして客前でマンローから平手打ちの暴行を受ける。離婚手続きを簡単にするために夫婦 で日本帰化。[6] 妻・高畠トク(得子、1877年生) ‐ 元柳川藩江戸詰家老(逓信省役人)高畠由憲・ゆうの次女。マンローの講演会に出席して知り合い、秘書兼通訳となり、1905年結婚。娘を儲けるも博士号取 得のために渡英していたマンローが帰国後冷たくなり1909年に離婚。娘はフランス留学中に28歳で没。トクは離婚後公立女学校の教師となり、富山出身の 苦学生を養子にして支援、その息子に高畠通敏がいる。[6][7] 妻・アデル・ファヴルブラン ‐ 1914年結婚。在日スイス人貿易商ファブルブラント商会店主の娘。一女を儲けるも、父親の死、夫の不倫などで精神を病み、治療名目でマンローにウィーンに送り出されることになり、土地家屋の売却でマンローの借財も清算し離日。[8] 妻・木村チヨ(1885-1974) ‐ 1924年結婚(マンローと前妻の離婚を待って入籍は1937年)。高松市出身の看護婦長。日赤香川支部看護婦養成所卒業後日露戦争に従軍、1919年よ り軽井沢サナトリウムに勤務、医師として勤めていたマンローと親しくなり1932年にマンローとともに北海道平取村二風谷に診療所を開き、マンロー没後軽 井沢サナトリウムに戻った[9]。 死後 マンローの人類学関連の蔵書は以前から親交があったフォスコ・マライーニに譲られ、アイヌ研究の遺稿はマライーニからロンドン大学へ送られ、人類学者のセリーグマンの手によって『AINU Past and Present』としてまとめられた。 アイヌ文化の理解者であり、アイヌ民具などのコレクションの他、イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残した。映像の大部分は、網走の北 海道立北方民族博物館で見ることができる。彼の旧宅兼病院であった建物は、北海道大学に寄贈され、北海道大学文学部二風谷研究室として活用されている。一 般公開はされていない。毎年6月16日マンローの誕生日は、二風谷では「マンロー先生の遺徳を偲ぶ会」が開かれている。 マンローのコレクションはスコットランド国立美術館に収蔵され、2001年の日本フェスティバルで公開された。 また、2013年(平成25年)に横浜市歴史博物館が開催したマンローをテーマとする企画展では、スコットランドにある日本の考古資料も含めた調査・展示が行われ、その業績が改めて評価された。 軽井沢 1917年、マンローは、タッピング別荘を借りて避暑がてら軽井沢に診療所を開設した[5]。1921年からは『軽井沢避暑団』の診療所を夏場だけ引き受 けて滞在することになった[5]。1923年の関東大震災後は軽井沢に居を移し、診療所は通年経営の本格的なものとなる[4]。当時は「マンロー病院」 「軽井沢病院」など様々な呼び方があったが、1924年にマンローが正式に院長就任後は、「軽井沢サナトリウム」と呼ばれた[5]。しかし病院経営は、夏 の3ヶ月は繁忙期であったものの、それ以外は閑散としていたため、元々採算の取れるものではなかった[5][4]。その上、マンローは近所の貧しい小作人 や木こりたちからは治療費は取らなかった[5][4]。当時の妻アデールの父ジェームス・ファヴルブラントがスイスの時計商で資産家であったため、病院経 営の大きな援助者であったが、ジェームスが1923年8月に軽井沢の別荘で死去したことから、当地で新生活を送りはじめたマンロー一家は、瞬くうちに経済 難に陥った[4]。そんな中、マンローは病院の婦長、木村チヨと不倫関係になる[4]。これらの度重なる出来事から精神的に不安定となったアデールは、サ ナトリウムに隣接した自分名義の土地を軽井沢避暑団に売りマンローの借財を補って、「軽井沢の冬は寂しすぎる」という言葉を残して、憔悴しきったまま ウィーンのジークムント・フロイト博士の元へと旅立ち、その後2人が再び会うことはなかった[5][4]。 1928年、加藤伝三郎博士が院長に就任、マンローは名誉院長に据えられた[5]。マンローはその後実質的な妻となったチヨとともに、1932年に北海道二風谷に移住したが、軽井沢には晩年まで夏季診療として毎夏3ヶ月程度滞在していた[4]。 軽井沢サナトリウムにマンローを訪ねた人物として、内村鑑三、土井晩翠らがいる[4]。また、堀辰雄の軽井沢を舞台とした小説『美しい村』(1934年発表)には、マンローがモデルとされる「レイノルズ博士」なる人物が登場する。 著書 『先史時代の日本』第一書房(英文、復刻版、1982年)[† 2][2] 『アイヌの信仰とその儀式』国書刊行会 2002年 参考文献 桑原千代子著『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』新宿書房 1983年 横浜市歴史博物館2013企画展示図録『N・G・マンローと日本考古学-横浜を掘った英国人学者-』 横浜市埋蔵文化財センター2004『埋文よこはま』10号 p.4 公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団 |
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https://x.gd/266TL |
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Neil Gordon Munro
(1863–1942) was a Scottish physician and anthropologist. Resident in
Japan for almost fifty years, he was notable as an early archaeologist
and one of the first Westerners to study the Ainu people of Hokkaido. Biography Educated in the University of Edinburgh Medical School M.B., C.M. 1888 and M.D. 1909, he traveled in India before settling in Yokohama as director of Yokohama Juzen Hospital which was one of the largest western-style hospitals in Asia in 1893. From 1930 until his death he lived among the Ainu in Nibutani village in Hokkaido. Film footage he took of the local people survives. Between 1908 and 1914 he sent more than 2,000 objects (including archaeological ceramics, metalwork, shells, bones and stone tools; musical instruments, Buddhist objects and Ainu material) to the Royal Scottish Museum (today's National Museum of Scotland) in Edinburgh. He authored several volumes, among them Coins of Japan (1904), Prehistoric Japan (1908), and Ainu Creed and Cult (with H Watanabe & B Z Seligman, 1962). Books Coins of Japan (1904) ISBN 4-87187-868-6 Prehistoric Japan (1908) https://en.wikipedia.org/wiki/Neil_Gordon_Munro |
ニール・ゴードン・マンロー(1863年~1942年)はスコットランド出身の医師であり人類学者であった。日本に約50年間居住し、初期の考古学者として、また北海道の先住民族であるアイヌ民族を研究した最初の西洋人の一人として知られている。 経歴 エジンバラ大学医学部で学び、1888年に医学士、1909年に医学博士を取得した。その後、インドを旅し、1893年に横浜十全病院の院長として横浜に 定住した。同病院は当時アジア最大の西洋式病院であった。1930年から亡くなるまで、北海道の二風谷のアイヌの集落で暮らした。彼が現地の人々を撮影し たフィルム映像が残っている。 1908年から1914年の間、彼は考古学的な陶磁器、金属細工、貝殻、骨、石器、楽器、仏教関連品、アイヌの資料など2,000点以上の物品をエディン バラのロイヤル・スコットランド博物館(現在のスコットランド国立博物館)に送った。彼は『日本の貨幣』(1904年)、『先史時代日本』(1908 年)、『アイヌの信仰と祭儀』(H・ワタナベ、B・Z・セリグマンとの共著、1962年)など、数冊の著書を執筆した。 書籍 日本の貨幣』(1904年)ISBN 4-87187-868-6 先史時代日本』(1908年 |
Iyomande:
The Ainu Bear Festival,
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