はじめによんでください

エミリアーノ・サパタ

Emiliano Zapata, 1879-1919

解説:池田光穂

1831-1835
独立とカウディージョ時代(1821年-1861年)
1829 ゲレーロが奴隷制を廃止する
天保4年(1833) - 天保の大飢饉(〜天保10)
1836-1840
1836 3月にテキサス共和国として独立を宣言(テキサスで奴隷制が復活)
天保7年(1836) - 天保騒動
天保8年(1837)大塩平八郎の乱
天保10年(1839) - 蛮社の獄
1841-1845

天保12年(1841) - 天保の改革
天保13年(1842) - アヘン戦争の情報を得た幕府は異国船打払令を廃止して薪水給与令発布
1846-1850
1847 ユカタン半島でカスタ戦争

1851-1855

嘉永6年(1853) - 黒船来航
嘉永7年(1854) - 3月日米和親条約、6月伊賀上野地震、8月日英和親条約、11月、安政東海・南海地震を受けて災異改元。安政元年11月、豊予海峡地震。12月日露和親条約
10月安政江戸地震、12月日蘭和親条約
1856-1860

安政3年(1856年) - 7月安政八戸沖地震、8月江戸大風災
安政5年(1858年) - 日米修好通商条約、続けてオランダ、ロシア、英国、フランスも締結(安政五カ国条約)。安政の大獄、コレラ流行
安政7年(1860年) - 桜田門外の変
1861-1865
1861 ファレス大統領に就任
文久2年(1862) - 文久の改革、生麦事件、はしか流行
文久3年(1863) - 薩英戦争、八月十八日の政変、下関戦争(文久3-4)
元治元年(1864) - 禁門の変、四国艦隊下関砲撃(下関戦争)、第一次長州征討
慶応元年(1865) - 兵庫開港要求事件
1866-1870

慶応2年(1866) - 薩長同盟、第二次長州征討
慶応3年(1867) - 四侯会議、大政奉還上奏 - 王政復古の大号令
慶応4年(1868) - 1月、鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争開始。4月、江戸開城、会津戦争開始。7月、上野戦争、秋田戦争。五箇条の御誓文、政体書発布、東京奠都、旧9月8日 (1868年10月23日)、一世一元の制による明治への改元。明治元年[44]9月22日、会津戦争終結。
明治2年(1869) - 5月、箱館戦争により戊辰戦争終結。6月、版籍奉還 - 宮内省・民部省・大蔵省・刑部省・兵部省・外務省を設置。族称・平民の設置。
1871-1875
1872 ファレス急死。レルド大統領就任後にポルフィリオ・ディアス将軍に反乱し5年後に選挙し大統領に就任し、独裁制をしく。
明治4年(1871) - 廃藩置県
明治5年(1872) - 人身売買禁止令、国立銀行条例。12月、太陰太陽暦からグレゴリオ暦へ改暦。
明治6年(1873) - 明治六年政変、敵討禁止令
明治7年(1874) - 民撰議院設立建白書、佐賀の乱、台湾出兵
1876-1880
1877 ディアス大統領に就任し、独裁制をしく
1879年 エミリアーノ・サパタはモレロス州アネネクイルコの小村で生まれる.
明治9年(1876) - 秩禄処分
明治10年(1877)- 西南戦争
明治12年(1879)- 琉球処分
1881-1885
(ディアスは実証主義を信奉するシエンティフィコ(科学主義者)と 呼ばれるエリートを登用し、権威主義体制の下でフアレス政権から続いていた国家の近代化=西欧化を推進する。極的な外国資本の導入が行われ、工業化が進 み、銀、銅、石油の開発を軸に進んだ鉱山の開発、鉄道の敷設、輸出作物用のプランテーションの建設などが外国資本によって行われ、経済は発展した。特に合 衆国資本による鉄道建設は目覚しく、1876年に600kmであった鉄道の総延長は、1910年には約20,000kmに達した)【メキシコの歴史
明治14年(1881)- 国会開設の詔
明治18年(1885) - 太政官制廃止、内閣制度発足。
1886-1890

明治22年(1889)- 大日本帝国憲法発布。
明治23年(1890)-第1回帝国議会
1891-1895
1892年の鉱山法 1894 日英通商航海条約調印(領事裁判権撤廃)
1895 日清講和条約(下関条約)調印
1896-1900

1898 第1次大隈内閣(隈板内閣)成立
1900 立憲政友会結成
1901-1905
【農村の疲弊、科学主義によるインディオやメスティソへの弾圧】(ディアスは経済の発展や治安の回復を実現したが、他方で農村部は大きく疲弊し、労働者は困窮した。特に実 証主義者が信奉した社会ダーウィニズム的な観点からインディオやメスティーソの文化への弾圧が進み、更に外国資本の進出による工業化やプランテーション大 農園の成立によって、その多くは奴隷的零細賃金労働者としての厳しい生活を強いられることになった。このため、インディオの反乱や労働争議が相次いだが、 それらの殆どは軍隊によって弾圧された。また、1892年の鉱山法によって地下資源の国家所有の原則が見直されると外国資本が鉱山開発に殺到し、1910年には国内の鉱山の3/4が外国人の所有となったように、経済の体質が非常に従属的かつ脆弱なものになった)【メキシコの歴史 1901 義和団事変最終議定書締結
1904 日本、ロシアに宣戦布告。日露戦争勃発
1905 日露講和条約(ポーツマス条約)調印
1906-1910
1909年(30歳)村の防衛委員長
1910年5月 農民を率いて大農園(アシエンダ制と言われる)を武力で小農民に奪還解放(開放)する
マデロはディアスの対立候補として立候補。
1910年6月 マデロ叛乱煽動罪で逮捕10月まで拘留その後、米国に亡命。
1910年10月25日 マデロの「サン・ルイス・ポトシ計画」(テキサス州で立案)を発表。武装闘争でディアス政権の打倒をめざす
マデロ運動とは、独裁者ポルフィリオ・ディアス(政権期間1876-1911)打倒を目的とした社会改革プログラム
1910年11月18日 プエブラで武装蜂起準備中のセルダンが警察当局により暗殺。
モレロス州で、エミリアーノ・サパタが武装蜂起(=「アヤラ計画」 文書では11月20日の革命と記載:メキシコ革命のはじまり〜1920年)
北部では、フランシスコ(=パンチョ)・ビリャ、パスクアル・オロスコ、ベヌスティアーノ・カランサ、アルバロ・オブレゴンの蜂起。
1910 大逆事件検挙始まる
1910 韓国併合に関する条約調印
1911-1915


降伏したクエルナバカ市に入るサパタ(中央左の上着の前をはだけた人物、1911年4月)
1911年5月25日 ディアスの辞任によりマデロ大統領就任(〜1913)

サパタは先住民への土地返還をマデロに要求するが、マデロはそれを拒否し、サパタ派の武装解除を要求、会談は物別れに。
1911年11月 マデロと袂を分かち、独自の農地改革案「アヤラ計画 Plan de Ayala」を立案公表する。
1913年1月 マデロ大統領はウェルタを解任するが1か月後に首都警備隊司令官として復帰させる。ウェルタは米大使ヘンリー・ウィルソンと共 謀しクーデタを実行。
1913年2月22日 マデロと副大統領ピノ・スアレスは暗殺される
ウェルタの打倒を目的としてメキシコ(とりわけ北部)は実質的に内戦状態に。北部はカランサ、オブレゴン、ビリャらが護憲革命軍を結成。カ ランサを第一統領とする。
1913年10月 ビリャは、シウダド・ファレス奪還し、チワワ市を占領、チワワ州を制圧
1914年4月 ビリャはトレオンを制圧、6月サカテカス制圧。
サパタは護憲革命軍の大農園主であったカランサと対立。ビリャとは連携関係を維持。ゲリラ戦争に転じる
1914年8月 カランサはオブレゴンとともにメキシコに入城。
1914年10月 アグアスカリエンテス会議にて、全国革命綱領に農地改革を盛り込む。
ビリャ=サパタ派とカランサ=オブレゴン派の対立激化。カランサとビリャの同時退陣で解決を図るが失敗
カランサはベラクルスに出奔し、ビリャ=サパタ派との戦闘がはじまる。

1914年11月〜12月 ビリャ=サパタ派はメキシコに入城。しかし両派はすぐに撤退し、カランサは首都を奪還
1915年4月 カランサとビリャ派がグアナファト州セラヤで激突するが、ビリャ派の軍事的敗北。
1911 日米通商航海条約改正調印(関税自主権確立)
1912 東京で憲政擁護大会開催、以後全国へ広まる(第1次護憲運動)
1914 オーストリアがセルビアに宣戦布告。第1次世界大戦勃発
1914 日本がドイツに宣戦布告
1915 日本が中国にいわゆる21ヵ条の要求を提示
1916-1920
1917年 1917年憲法ではカランサの思惑とは逆に農地改革が 第27条に盛り込まれる
1919年4月10日 ヘスス・グアハルド連邦軍将校により、チチメカ農園で(エミリアーノ・サパタ)殺害される
1920年1月 オブレゴンはソノラ州に逃亡し4月には反カランサを宣言。
1920年5月 カランサ大統領の失脚と逃亡。
1920年6月 大統領選挙でオブレゴン大統領就任。実質的な内戦の終結
1917 ロシアでソビエト政権成立(10月革命)
1918 富山県中新川郡西水橋町で米騒動勃発、全国へ波及
1919 パリ講和会議開催(1月18日~6月28日)
1919 朝鮮で独立運動が全土に拡大(3.1独立運動)
1919 北京で学生によるデモが起こる(5.4運動)
1920 国際連盟発足、日本も加盟国となる
1921-1925
1923年7月23日 ビリャ暗殺 1921 ワシントン会議開催(~大正11年2月6日)
1926-1930

1928 第16回総選挙(初の男子普通選挙)
1928 張作霖爆殺事件
1930 統帥権干犯問題起こる
1931-1935
1934-1940年 カルデナス政権期:実質的な土地分配(農地改革)がおこなわれる 1931 柳条湖事件(満洲事変勃発)
1932 満洲国建国宣言
1932 5.15事件
1933 日本、国際連盟脱退を通告
1936-1940

1936 2.26事件
1941-1945


1945-1999
Casi todos los programas y manifiestos de los grupos revolucionarios contienen alusiones a la cuestión agraria. Pero solamente la Revolución del Sur y su jefe, Emiliano Zapata, plantean con claridad, decisión y simplicidad el problema. No es un azar que Zapata, figura que posee la hermosa y plástica poesía de las imágenes populares, haya servido de modelo una y otra vez, a los pintores mexicanos. Con Morelos y Cuauhtémoc es uno de nuestros héroes legendarios. Realismo y mito se alían en esta melancólica, ardiente y esperanzada figura, que murió como había vivido: abrazado a la tierra. Como ella, está hecho de paciencia y fecundidad, de silencio y esperanza, de muerte y resurrección. Su programa contenía pocas ideas, estrictamente las necesarias para hacer saltar las formas económicas y políticas que nos oprimían. Los artículos sexto y séptimo del Plan de Ayala, que prevén la restitución y el reparto de las tierras, implican una transformación de nuestro régimen de propiedad agraria y abren la puerta al México contemporáneo. En suma, el programa de Zapata consistía en la liquidación del feudalismo y en la institución de una legislación que se ajustara a la realidad mexicana. 革命的なグループのほとんどすべてのプログラムとマニフェストには、農地問題への言及が含まれている。しかし、南方革命とその指導者であるエミリアーノ・ サパタだけは、問題を明確に、断定的に、そして単純に言い表したのである。サパタという人物が、大衆的なイメージの美しさと造形的な詩情を持っていて、メ キシコの画家たちのモデルとして何度も登場したのは偶然ではないだろう。モレロスやクアウテモックとともに、伝説的な英雄の一人である。メランコリックで 熱烈で希望に満ちたこの人物は、大地を抱きしめて生きたように死んでいったのである。大地のように、サパタは忍耐と実り、沈黙と希望、死と復活でできてい る。彼のプログラムには、私たちを抑圧している経済的・政治的形態を覆すために必要な、ほんの少しのアイデアしか含まれていなかった。しかし、土地の返還 と分配を定めた「アヤラ計画」の第6条と第7条は、我々の農地財産制度の変革を意味し、現代のメキシコへの扉を開くものであった。要するに、サパタのプロ グラムは、封建制の清算とメキシコの現実に合った立法の制定にあったのだ。——オクタビオ・パス『孤独の迷宮』1950
2000-
2013 Yescka によるパンク・サパタが登場する。




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