看護人類学から人類学的看護へ!講義
Prolegomena to Anthropological Nursing
解説:池田光穂
看護にとって理論とは何か?:看護人類学から人類学的看護へ(基礎資料集)02
看護学生なら今の状況を、そして現場の看護師の方ならかつての学生時代を思い出してほしい。それは理念や一般化ばかりで退屈だった看護理論に ついてである。洋の東西を問わず、そして近代看護学の黎明期から今日にいたるまで、「よい看護とはいったいどのような臨床実践なのか?」ということは重要 な課題であり続けている。言い方を変えると、看護の実践者はこのような疑問を常に抱き続け、具体的な看護の現場で働いている。また、このように自問自答し つづけることが看護者の実践の質を維持したり、向上したりすることに貢献しているのだと言えるかもしれない。しかしながら、看護理論の流れを追いかけてみ ると、どうも「よい看護実践」がめざす目的は、その時代や社会の変化に応じて変化しているようだ。これは、看護が人類にとって普遍的かつ恒久的な価値であ る/そうでなければならないと信じたい人たちにとっては、極めて居心地の悪い指摘である。しかし、医療が変化するのに、看護は変化しないというのも変な話 である。
近代看護の黎明期には、ナイチンゲール(Florence Nightingale, 1820-1910)の著書『看護覚え書』(6.附論を参照)にみられるように、さまざまな具体的なケアの技法を実践するこ との究極の意義は、患者への細心の気遣い、忍耐力を伴った公平無私の実践を通した専門職性の確立にあった。なぜなら、それ以前にはそのような実践と理念を 結びつけることがまったくなかったからである。
第二次世界大戦前後からは、看護職が近代病院制度のなかで効率的かつ組織的に働くことが期待されたために、科学として看護実践を正当化するこ とが重要な課題になった。看護学は科学でなければならないという使命が生まれたのではないかと私は考える。その流れは第二次世界大戦後も続く。たとえば、 治療の現場における対人プロセスの記録(=プロセスレコード)をとることが、看護現場における患者の本復(=回復のこと)への穏やかな航海のために必要な 海図(チャート)の役割を果たした。
プロセスレコードとはなにか?(http://www.cscd.osaka- u.ac.jp/user/rosaldo/061121geNba.html)
そして、第二次世界大戦後の行動科学や対人コミュニケーション理論の発達が、看護学にも大きな影響を与えるようになる。患者と医療者の人間的 成長や発達、あるいは要求(ニーズ)の充足などの重要性が指摘された。その結果、看護実践を人間中心的(=ヒューマニズム)モデルや心理的モデルのなかで 理想の基とするための議論が熱心に交わされるようなった。1970年代以降は、患者の病気からの本復を自律という観点から支援する援助モデルへとその関心 はシフトする。このことは、関係者が考える看護実践の焦点が臨床現場でケアすることから、患者の社会生活への復帰について移行した時期であることがよくわ かる。つまり、患者が社会生活に復帰することも看護の大きな役割だと認識されはじめたために、社会生活における患者の多様な生活様式についてよく知ること が、看護教育のなかでも強調されるようになったのである。患者の思考や行動にはきわめてダイナミックな多様性がある。患者を理解することは、従来の〈援助 を必要とする患者〉という観点からだけでとらえるのではなく、生活者という観点から捉えなおさねばならなくなった。これを前者と対比してダイナミックな 〈生活者としての患者〉モデルと呼んでおこう。患者に必要なものは、治療のための自律すなわちセルフケアであり、看護者はそのための伴走者あるいは同僚で あるべきだといういわゆる民主主義的な人間観をもつ視点も登場する。
他方で自然科学的分類に基準をおく医療診断学の発達は、同時に看護診断分類という技法が開発され、患者の疾患や治療に必要な看護ニーズに応じ たものでなければならないとまで言われるようになる。つまり患者の病態というタイプにあわせることがよい看護の基本であり、それゆえに看護者は客観的な観 察者でなければならないという主張が登場するのである。医学診断学の発達は、看護者もまた科学者でなければならないという自画像をもつべきだという意識の 変更をもたらした。そこでの患者像は〈科学の対象としての患者〉モデルほかならない。
先に述べた〈生活者としての患者〉モデルと、ここで言う客観的な医学的・看護学的なまなざしの対象である〈科学の対象としての患者〉モデル に、完全に分裂していた。このことは言うまでもなく、現場における大きな混乱の反映かもしれない。その反動として、患者像を統一した人間観の基で捉えなお そうという動きが生まれる。これには患者の権利概念の登場が大きな役割を果たすわけだ。
患者の権利やプライバシーの尊重、あるいは個性的人間像への回帰は、患者を健常な生活スタイルに復帰させるということに看護の使命がシフトす る機運を生むことになる。先の〈生活者としての患者〉モデルをより拡張して、患者も看護者も人間のみならず物理的環境をも含めたエコロジカルな環境の中で 生きているのだという主張が登場する。患者から健常者に復帰することは、人間の環境に対する適応そのものであるという、エコロジー的な観点が生まれた。
エコロジー的な観点で患者を捉えることは重要である。しかし、そのうちに患者や看護者が環境のなかで、あたかもモノのように動くのだという見 方が過ぎているのではないかという批判が登場する。それゆえ経験的な知識や身体的な知識にもとづく看護実践の「技(わざ)」に着目することが求められるよ うになるのはこの揺り戻しの結果であるとみることができる。ここでの患者像は、看護者の心や身体の動きに合わせながら回復しようとする〈パートナーとして の患者〉モデルに他ならない。
昨今の看護理論研究における「語り」や「質的調査法」あるいは「現象学的解釈」が重要視される背景には、合理的システム論や数量化では把握で きない部分に〈看護の本質〉が潜んでいるのではないかという、看護の全体性への回帰(あるいはその願望)と言えなくはない。学問としての看護学の強みは、 これらの理論がお互いに切磋琢磨しながらも共存していることで、「よい看護実践とはなにか」という現場からの問いかけに対して複数の答を用意できることに ある。すべてを自然科学で説明しようとする臨床医学には決して真似のできない看護学の学問的な強みが、ここにある。
写真:チョコ・スプレーとその素材
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