コンタクトゾーンとしての病=気(dis-Ease)
Prolegomena to Anthropological Nursing
解説:池田光穂
コンタクトゾーンとしての病=気(dis-Ease):看護人類学から人類学的看護へ(基礎資料集)05
看護(ケア)を表現することばとして「苦悩する存在」に寄り添う実践というほど的確なものはない。苦悩する存在とは病む人のことを指す。生き るうえで人間は苦悩することを避けることはできない。したがって、苦悩する存在とは人間存在そのものを指す(ホモ・パティエンス)。苦悩の代表格にあげら れるのが病気であり、病気を抱えることのいたるところに〈痛み〉があることは、ほとんど必然とも言える随伴現象である。この痛み表現を我々はしばしば拡張 して使われる。身体の痛みだけでなく〈心の痛み〉と表現され、痛みは苦悩の同義語としても語られる。
医療人類学の教科書には、ふつうの人たちが理解し、感じている病気の概念や経験を「病い・やまい」(illness)とよび、医療の専門家 ――とくに医師ないしは彼/彼女らが依拠する生物医学(biomedicine)――が定義する病者への診断のことを「疾病・しっぺい」 (disease)と呼ぶと書いてある。このように病気(sickness)に関する全体的な経験を、病いと疾病(時に疾患と訳すこともある)に分けるこ とは、きわめて重要である。とりわけ、医療の専門家は、病人やその家族の経験や理解を片時も忘れてはいけないからである。
この二分法は、医学哲学者(現在はバイオエシスト)であるH・トリストラム・エンゲルハート, Jr.(1974)が、医療を説明モデル(Explanatory models)という解釈図式で説明しようとしたときに論理的に引き出されるものとして、提唱した。しかし、この二分法分類が医療人類学民族誌的理解に貢 献できることを、実例で効果的に示したのはアーサー・クラインマン(1980) の功績である。さらに、クラインマンは、クリニカル・リアリティというある種の現象学的な概念を編み出して、病者とその家族が形成する意味世界を、臨床家 や人類学者が十分に理解することの重要性を常に訴え続けている。(→ クラインマン、アーサー『臨床人類学』大橋英寿ほか訳、弘文堂、1992年(原著は1980年刊行))
ただし、このような二分法には、病いと疾病ははたして本当に相互排除するものかという難問(アポリア)を投げ掛けるもととなった。我々はビュ リダンのロバ ではないので、あれかこれかで悩むことはない。そのような常識的批判ではあるが、極めて明確な形でこの問題の克服を試みたのがアラン・ヤング(1982) である。
【ビュリダンのロバ 】→ 2つの飼い葉桶から等距離に置かれたロバはどちらから食べてよいか解らないので、最後は餓死してしまう中世哲学の思考実践に登場するロバ。二者択一のジレ ンマや現代では「究極の選択」という語彙で表現されるものに類似する。 ヤングは人間が経験する病気経験の総体を病気(sickness)と名付け、そこに、病いと疾病の2つのバンドのような領域があると仮定した。また、そ れぞれの領域(=経験の幅)に対応する技法をそれぞれ、病いに対処する「癒し」(healing)と疾病に対処する「治療」(curing)と名付けてい る。ヤングの図式では、病いと疾病は、病気という長い領域をもつバンド(光学の隠喩で表現するとスペクトルの領域)で、病いと疾病はカバーする領域に重複 があるが、相互に共有しない部分があることを指摘し、それぞれ、病いではあるが「対応する疾病の領域がないもの」(no disease counterpart)、疾病ではあるが「対応する病いの領域がないもの」(no illness counterpart)と呼んでいる。
このような対比がありながら、クラインマンもヤングも、人類学の研究対象は病いにあることを信じていることは間違いがない。なぜなら当時の医 療人類学は、民族医学に焦点化した病者の行動や理解や解釈の問題を重視していたからである。そこで、その次に焦点化されるのは、患者やその家族にみられる アイデンティティの問題や苦悩理解における人類学の可能性についてであった。 このような疾病と病いの対比は、医学哲学や医療人類学という分野だけの特異でユニークなものでは決していない。自然と文化、野蛮と文明、男と女のよう に、自分の身の回りにある構成物を二元的な秩序に分類して、世界を整理してみようとする人間の基本的な思考法のパターンの一種だからである。ただし、医療 人類学が使う疾病と病いの二分法は、西洋近代科学の2つの伝統的区分である「自然科学と人文社会科学」(C.P.スノー)の二項対立、啓蒙主義思想に起源 をもち人間を自然から袂を分かった「自然と社会」あるいは「自然と文化」の二項対立の発想の延長上にある。現在はヤングの提唱から30年近くなるわけだ が、今日の医療人類学者――私のことだが――においても、このような二分法にどうしても安住しがちである。しかし10数年ぐらい前から、その図式を批判す る、病気に関する新しい意味把握の方法が浮上してきた。それが病=気(dis-ease)という奇妙な書記法なのである。
病=気(dis-ease)とは、医療人類学における illness/disease の二分法的な理解を批判し、生物医学的な診断である疾患(disease)においてもなお、社会的な苦悩のもとにあることを示唆する言葉遊び、ないしは言 語学的分解に由来する、病気の新しい概念である。つまり、病=気(dis-ease)とは、ディス(否定-の接頭辞)+イーズ(楽ちん)の合成である「容 易ならざる状態」のことであり、病者の存在様式の全体の雰囲気を指し示す用語である。端的に言うと、人は病=気になるのであり、病=気は、疾病と病いに分 けられるものでもない。
→フランク、アーサー『傷ついた物語の語り手』鈴木智之訳、p.196、ゆみる出版、2002年。
この用語を使い始めた一人にカレン=スー・タウシグ(Karen-Sue Taussig)がいる。従来、病いは 病気の民俗的概念であり、人々の生活世界を映し出すものであり、生物医学的な疾病とは区別されるという概念的整理がなされてきた。しかしながら、疾病を取 り扱う医療者・保健従事者の文化社会的研究から、疾患概念においても時代や社会的価値観が投影されたものであるという指摘がなされており、久しく病いと疾 病を対立的に描くことの限界については多くの研究者が気づいていた。
また、文化主義にもとづく素朴な病いに焦点を当てる研究アプローチも、社会生活そのものの医療化現象 のために、疾病のことを考慮するようになってきていた。もちろん、このような認識論的区分は、用語法にまつわる政治的問題――認識論区分は病者の存在様式 にかかわる政治性とは何ら関係がない――が浮上してきたため、早くからその限界性が指摘されていた。そのことなどについて疑問をもったので、オーストラリ アのタウシグさんと2003年頃、2,3メールのやりとりをして、以下のようなことを教えてもらった。
→医療化(medicalization)とは、病気の治療以外の健康管理や身体の未来予測(例:発症前診断)などを含む日常生活の領域に、医 療技術とその思想が踏み込んできて、日常生活そのものが医療的管理の元に置かれることをさす。日本語では「病院化社会」という標語で呼ばれたことがある が、この言葉の英語の対応と思われるhospitalization には「入院」という価値中立な意味があるので、使わないほうがよい。
【私の質問】
私は、英語ネイティヴスピーカーの一般的な学術用語において、Dis-Easeがどのように使われているかを知りたいと思います。ご存じの よ うに疾病と病いの二分法のように、あなたは、Dis-Easeを「社会化した疾病 (socialized disease)」というふうに[疾病概念を]拡大したかたちで使っています。つまりそれ[=Dis-Ease]を疾病あるいは人間の苦悩の社会的意味で ある、というふうにお考えなのでしょうか。
【Karen-Sue Taussig さんの答】
私は、病気=安易ならざるもの("dis-ease")概念というふうに[disとeaseを]節合させたあなたの理解――少なくとも私は そ う考えますが――は、まったく正しいと思います。私は、この用語を第一に次のことを想起させる、あるいは発見的な手段としてとらえています。つまり、個人 の「疾病(disease)」から、社会の疾病へと移行させることです。それは、「障害」[という言葉]のように、規範の外にある存在として見なされかつ 理解がなされているような、具体的な状態が容易に引き起こしている、社会的落胆、不快、不安、安楽の欠如[そのものである]というふうに、疾病をとらえる ことです。
もちろん、医療人類学の研究者として、私たちはdis-ease[という言葉]を「疾病(disease)」の理念がどのように理解され てい るかと仮想的に定義していると考えたいのですが、しかしながら「病気=安易ならざるもの("dis-ease")」という言葉を使用することによって、我 々自身(=医療人類学者)と人類学の他の下位領域とそれらの幅広い関連領域における我々の同僚の双方に対して、[この病気=容易ならざるものの存在を]常 に思い起こさせてくれるものとして考えたいのです。
このやり取りから、私が得た結論は次のとおりである。それは現代では大文字の"Disease"概念の解体がはじまっていることではないか。 大文字の Disease とは本来、生物医学の領域で取り扱われ、その診断と治療は生物医学を基調とする臨床医学者たちがおこなうものとされてきた。しかし、患者やその家族、ある いは一般の人達が近代医学の病名を理解する際の小文字の"disease"――生物医学由来で語彙そのものは同じなので"illness"と呼ぶことはで きない――に、当の生物医学者たちもまた注目する必要があるのだ。他方、患者やその家族は、大文字の Disease がもつ限界を自らの身体と情動経験を通して、さらにそれを解体し、さらにそれを推し進めて"disease"概念の解体、つまり"dis-ease"(病 =気)の新しい意味の獲得にもつき進んでいるのだ、と。リンダ・ガロが報告する慢性痛に悩む女性ゲイルは、病人のみが病気のみならず健康の意味を知りえる と言う。「私は、病人だけが健康とは何か知るのだと思っている。しかし、病人たちはまさにそれを失うことによってそれを知るのである」 。
この病=気[概念]の誕生は、先の医療人類学における病いと疾病の意味論における位相の差異――表現型の遺伝現象にも連なるウィトゲンシュタ インの家族的類似性を示唆する――を、「人々が生きる文化」の領域と「看護者が生きる文化」の領域という2つの世界の差異として考えることを私たちに要求 する。今を去ること30年以上前に、まだ私が大学院生であった頃、日本保健医療行動科学会の研究大会において病いと疾病の二分法について講演したところ、 「患者が使う生物医学的病名レッテル(例:自律神経失調症)は、イルネスではなく、それは用語法から言ってもディジーズではありませんか?」とフロアから 質問があり、私はしどろもどろで「ディジーズのイルネス的用法だと思います」と返答した。しかし、30年後の私は、不定愁訴ゆえにドクターショッピングを 重ねるそのような自律神経失調症の患者は、まさに病=気(dis-Ease)の世界を生きており、この位相とは近代医療者と患者が出会うコンタクトゾーン に他ならないことに気付いた。ようやく私は自分なりに納得出来る文化概念を用いた説明に到達したわけである。
→コンタクトゾーン(contact zone)とは、文学/社会言語学研究者であるメアリー・ルイーズ・プラット(Mary Louise Pratt, 1948- )になる専門用語で、異種の 言語使用者が接触するチャンス――商業や交易の他に植民地化、軍事的占領や戦争なども含まれる――が生起する2 つの言語や文化が交わっていく空間概念のことをさす。この空間概念はしばしば意味領域にも拡張されて、言語や思考の異種混交が起 こる特殊な領域であると言 われている。それらの混交のプロセスは平等かつランダムに起こる のではなく、力の強度のあるものからないものへ、そして不均質におこるとされている。遺伝 カウンセリングの現場は言うまでもなくコンタクトゾーンのひとつである。Pratt, Mary L., Imperial Eyes: Travel Writing and Transculturation. London: Routledge,1992. (→コンタクトゾーン)
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