アーサー・フランクの「死に行く人とその人の権利」テーゼ
On Arthur Frank's Thesis of "Dying Person and his/her Patient Rights"
池田光穂
自らも心筋梗塞と睾丸がんの罹患経験のあるアー サー・フランクのエッセイ集『からだの知恵に聴く(原題:身体の意思において)』(1996[1991])は、彼の病いの語りについての分析的な後の著作 『傷ついた物語の語り手』(2002[1995])よりも、自分の病い経験と、彼の義母のガンの終末期への看病経験が赤裸々に語られている点で、とても興 味深い本である。パーソンズの医療社会学の研究者として出発して、自分が病人となることを通して、より病いと自分の身体に関して内省的になりつつある、フ ランクの心の内面がかいま見られるからである。
他方で、医療人類学という観点からみると、文化や社 会構造に埋め込まれている「はず」の、病い経験や語りというものの、文化相対主義的な距離がとられておらず、彼自身がどのような立場をとるのか、あるいは 自分のバックグラウンドの文化や社会的経験をどのように位置づけるかについての考察が甘いように思われる。
もちろん、病い経験の主観性の理解こそが重要で、そ の経験や語りがどのように文化の文脈に位置づけられているのかなど「糞くらえ!」という立場でもよいが、そのような過激な批判もない。
そのために、以下の文章を教材にして検討を加えてみ よう。
「病人の権利の問題は、いくつかのありふれた問いに まとめることができる。すなわち、我々を人間として結びつける体験の核とはなにか? その答えが苦しみであるなら、我々は個人としてその苦しみのなかに自 分の居場所を見つけられるのか? もし居場所を見つけられるなら、どうやってそれに価値を与えればいいのか?そこから次の質問、が生まれる。我々の税金は ヘルスケアに第一に使われるべきではないのか? 死につつある愛する者といっしょにすごすことが必要なら、それ以外に我々にはどんな時のすごし方があるの か? そしてもっとも現実的な疑問とは、我々はどうしたら「人間として」生産的になれるのかということである。私は病いの苦しみを直視し、共有することに よって、我々になにができるかを考えることから始めたい」(フランク 1996:173-174)。
分析用に、各センテンスにインデックスをつけてみよ う。
「(a)病人の権利の問題は、いくつかのありふれた問いにまとめることができる。(b)すなわち、我々を人間として結びつける体験の核とはなにか? (c)その答えが苦しみ であるなら、我々は個人としてその苦しみのなかに自分の居場所を見つけられるのか? (d)もし居場所を見つけられるなら、どうやってそれに価値を与えればいい のか? (e)そこから次の質問、が生まれる。(f)我々の税金はヘ ルスケアに第一に使われるべきではないのか? (g)死につつある愛 する者といっしょにすごすことが必要な ら、それ以外に我々にはどんな時のすごし方があるのか? (h)そし てもっとも現実的な疑問とは、我々はどうしたら「人間として」生産的になれるのかと いうこと である。(i)私は病いの苦しみを直視し、共有することによって、我々になにができ るかを考えることから始めたい」(フランク 1996:173-174)。
じつは、このパラグラフに先行する前のパラグラフは 次のようなものである。それぞれのセンテンスを検討する前に、その前のパラグラフにおけるセンテンスも、――時系列は逆転するが――アルファベットによる インデックス化を施しておこう。
「(j)義母は乳がん、肝臓がん、骨がんで動けなく なり、病院で命が尽きるのを待つしかなかった。(k)彼女は、私が与えることができ るあらゆるつながりをもつ権利をもっていた。(l)だが、私も自分の 時間に対する権利をもっていた。(m)あの頃、義母のベッドサイドに いて、最後の言葉を聞き、彼女のからだの最後の闘いを目撃することで、私は生について多くのことを学んだように思う。(n)彼女が生涯を閉じ、我々の看病が終わったとき、満天の星の下に出て、外の空気を吸った。(o)そし て我々が遠い星座からどのように見えるのかを知った」(フランク 1996:173)。
ではここからが、アーサー・フランクの審問の検討に 移る。■以下はコメントである
(a)病人の権利の問題は、いくつかのありふれた問いにまとめることができる。■(死にゆく)病者はさまざまな権利をもっている。それを問いを通して明らかにする。
(b)我々を人間として結びつける体験の核とはなにか?■死にゆく病者と生き残る生者(=私)はともにかけがえのない体験という権利を保有する者どうしである(M・ モースの贈与交換を想定されたし)
(c)その答えが苦しみ であるなら、我々は個人としてその苦しみのなかに自分の居場所を見つけられるのか?■個人のもつ苦しみ(受苦)の経験は重要であり、それは「居場所」を探す行為と関連する(類似である)
(d)もし居場所を見つけられるなら、どうやってそれに価値を与えればいい のか?■死や受苦は価値であるが、その人間的意味は十分に評価されているわけではな い。
(f)我々の税金はヘルスケアに第一に使われるべきではないのか?■些か脱線気味であるが、ターミナルケアや終末期の受苦に対するヘルスケアの重要性ついての税金をより「豊か に」投下しようとする人はすくない(=間違っている)というフランクによる抗議表明と捉えることができる。
(h)もっとも現実的な疑問とは、我々はどうしたら「人間として」生産的になれるのか■死や受苦の経験は、どんな回路(=語 りの記録と共有か?)を通して、死に行く人/生き残る人に「生産的」意味=価値をもちえるか?
(i)私は病いの苦しみを直視し、共有することによって、我々になにができるか?■「病いの苦しみを直視し、共有するこ と」その意義をフランクはうすうす理解しているが、まだ、十分に言説化していない?
権利の問題の延長として、(k)彼女は、私が与えることができるあらゆるつながりをもつ権利■死に行く義母に、私が提供できる権利要求の価値と権利を認めたフランク。
(l)私も自分の時間に対する権利■死に行く義母と、「対等」で「相対(あいたい)」する権利を、私(=フランク)にも認めている。
(g)死につつある愛する者といっしょにすごすことが必要な ら、それ以外に我々にはどんな時のすごし方があるのか?■反語的疑問文して考えると、「死につつある愛する者といっしょにすごすこと」に大きな価値をもたせている。 あるいは、生き残る人間たちの責務は「死につつある愛する者といっしょにすごすこ と」と何らかの形で交錯することが求められていると言えよう。
リンク
文献
■死と臓器(角膜)の贈与交換=一つの財を交換する ために同時に2つのことを実現できない事例(→「互酬性」)
鈴原研一郎「小夜子はいつまでも」1964年の、別 冊マーガレット(春休みおたのしみ号(通巻2号 季刊))
Les Très Riches Heures du duc de Berry
その他の情報
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