「教育される」ということが大嫌いだった僕(=あなた)との対話
Why
do you hate yourself to be "educated"? Let us talk about it!
皆さんは、勉強を強制されることの経験について「嫌悪感」をもったことがありませんか? 「勉強は自分でするものだと!」と言うのが、その嫌 悪感を説明する論理です。
でも、その嫌悪感をもつ前に、私たちが勉強は自分でするものだという意識を獲得したのは、「勉強を強制される環境」の中においてであり、それは 所謂《魔 が刺した瞬間》ではないでしょうか。つまりこの新たなる意識は、こういうものです。「本当は勉強というものは面白いんじゃないか?勉強は強制されるのでは なく自発的にやるものではないか?」実際に勉強は面白いもので、本当は何をやってもよいものに違いありません。にも関わらず、本当に好きなはずの勉強も、 論文の締切が近づくと、それ自身が重みになり、「書けない、アイディアが枯渇した、他のことがしたくなる」という別の《魔が刺します》。
公教育における勉強は、子供たちになにかを教えるものではなく、ただ現代社会の公共性への参加のための儀式(=儀礼)にすぎないと主張するの
が、イヴァ
ン・イリッチ(イバン・イリイチ,Iván Illich, 1926-2002)
です。彼の主張を、論集の冒頭で適格にまとめたケイリーの解説から、かつて「教育される」ということが大嫌いだった僕
(=あなた)との対話をしたいと思います。
【テキスト】ディヴィッド・ケイリー
「イリイチはその(=プエルトリコの大学の副学長としての経験[引用者])後15年にわたって、学校教育に関するみずからの分析をよりいっそう
練り上げるとともに、その領域を拡大していった。1960年代の終わりに、かれは「ラテン・アメリカにおける学校教育の不毛性」を発表し、その後、
1971年には『脱学校の社会』を出版している。プエルトリコにおける調査を開始した頃からかれが気づいていたのは、学校は大多数の人間にとって手の届か
ない高価なものとすることによって、機会の平等というそれが表向き目指している目的そのものの達成を阻んでいるということであった。かれは『脱学校の社
会』にて、学校教育を消費者社会に不可欠な儀礼と位置づけている。われわれが用いる学校ということばの起源であるギリシア語「スコーレ
schole」は閑暇(かんか=暇なこと)を意味するが、イリイチによれば、真の学習とは自由な人びとによって、閑暇のうちにのみ追求されるものである。それゆえ、自由な社会
は義務的で強制的な儀礼〔学校制度〕の上に築かれうるという主張は逆説的である。学校は、知識を一定のしかたで配列しパッケージ化することによって、知識
というものは段階的に決められた順序で獲得されなければならないという信念を生みだしている。このように教育の定義そのものを学校が独占することは教育の
それ以外のありようを排除するばかりでなく、人びとが教育サービスの提供を独占するその他の機関に生涯依存しなければならなくなる事態をもたらしている
と、イリイチは論じた。
イリイチは学校教育を一つの儀礼とみなし、その非公立化を主張することによって、学校と、西洋社会における原初的な「母なる魂 alma
mater」である教会との間のアナロジーを認識した。(のちに生まれた、サービスを提供するすべての官僚的諸制度の原型としての教会と、われわれの技術
に対する無比の信頼の起源としての秘蹟の神学は、イリイチの思索の主要なテーマであり続けている)。かれは次のように書いている。「こんにちの学校システ
ムは、歴史的にその勢力が強大であった頃の教会が果たしていたのと同じ、三重の機能を果たしている。それは、(1)社会の神話の保管庫であるとともに、その(2)神話
が抱える諸矛盾の制度化であり、なおかつ、(3)神話と現実の間の不一致を再生産しつつそれを覆い隠す儀礼がおこなわれる場所なのである」。換言すれば、学校は
限りない向上への信念を育みつつその目標が達成不可能なことを示したうえで、わたしたちが目標を達成しえなかったのはわたしたち自身のせいであると説明す
るのである。
教育の非公立化を要求することで、イリイチは学校教育
そのものがおこなわれることに反対したのではなく、この儀礼への参加を他の形態の社会参加
のための
前提条件とすることに反対したのであった。ある仕事をする能力をもつ人間が、学歴がないことを理由にその仕事から排除されることは、その人
間を何か別の理
由で差別することと同様、憲法に違反している、とイリイチは述べている。教会の非国教化はキリスト教に好ましい効果をもたらしたが、学校の非公立化もま
た、教育に対して同じように有益な効果をもたらすであろうと、彼は結論づけたのである」。
ディヴィッド・ケイリー(編者)による序文より(イバン・イリイチ『生きる意味』ディヴィッド・ケイリー編、高島和哉訳(訳文は一部変えた)、Pp.28-29、藤原書店、
2005年)
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