はじめによんでください

エンボディメント・身体化・具体化

embodiment


Introducing Stretch, by https://www.bostondynamics.com/stretch

解説:池田光穂

エンボディメント・身体化・具体化 (embodiment)とは、抽象的な概念が〈具体化される to be emdodied〉ことである。具体化される〈もの〉は、実体をもつものであり、その実体の比喩として身体や体躯(共にボディ body を意味する)として、生み出されるものが、エンボディメントの語彙のニュアンスに近いものである。エンボディメント化能力は、単純でわかりやく理解し行動 する人間がもつ〈普遍的能力〉であると思われる。しかし、ここでは、その人間の能力が災いして、その概念の語用法(pragmatics)を複雑で困難な ものにしている。例えば、私はある研究者が日本語で「エンボディメントは、身体化のことであり、具体化というふうに捉えてはならない」と衒学風に発言する のを聞いて苦笑したことがある。なぜなら、英語の embodiment の語義は、文脈により身体化と訳してもいいし、具体化と訳することがふさわしい場合もあるからだ。つまり、状況によりエンボディメントを具体化だというふ うに「捉えてもいい」のである。エンボディ( embody = em + body = 与える + 身体[からだ])は、その双方を意味を持ちうるのであり、その他に、精神に〈かたち〉を与える、また逆に、心(霊性)を奪う(なぜなら器として身体を与え る代わりに〈心を奪う〉ので)、思想の具体的表現、体現すること、組織化すること、包含すること、行動に表すこと、(ギリシャ神話のように思想や理念に) 人間の姿を持たせること、などのエンボディメントの多様な意味を派生させるからである。

現在、エンボディメントには多様な使い方がある。身 体化された認識(Embodied cognition)や具体化した想像力(Embodied Imagination)は、認識・心(精神・マインド)・夢・記憶などが、具体的な形として表象されることや、身体の中に埋め込まれかたちで認識される (=具体化される)などの意味で使われる。身体化したかたちで埋め込まれた認識(Embodied Embedded Cognition)、具体化したエージェント(Embodied agent)などは、コンピュータ科学や認知科学あるいはロボット科学などで使われる理論用語であるが、そこでは心身の二元論の関係や、心身合一の「具体 的な」様相に関する表現、何かを認識するときに主知主義(=知性 という認識を中心にして考える方針)ではなく、周囲にある事物などの具体的な手がかりや、環境認識そのものを考慮して、知的な存在の認識(=知識)の形態 を全体的に捉える志向性(intentionality)などが示唆される。また、資源経済学などでは、数式などで表現される理論上の抽象 を virtual なものとして扱い、経済指標や統計などで実際に具体的な数値として表現されるものを embodied なものとして扱う。これらは、どちらが重要かなどということに力点が置かれるのではなく、適切な議論をするために、どちらの表現(=表象)を扱えばよいの か、また、 virtual なものと embodied なものの関係はどのように解釈すればよいのかということを検討する。
 主知主義が「身体」よりも知性という「認識の光(lumen naturae)」 を優先することは、見方を変えるとエンボディメント(身体化・具体化)という作用を低くみること、あるいは知性的な分析の対象としてみることであり、その 分析の前段階の目的としてみることである。このような見方は、近代科学が登場して、事物(=ある自然の秩序がその中に具体化されている状態にあるもの)を 取り扱い、そこから抽象化する専門家の作業が確立した以降も、哲学の伝統――これは形而上学を批判しながらも自ら形而上学化してしまったフッサール流の現 象学の知的伝統に如実に現れている――として生き残っている。

しかしながら、この伝統にどっぷりと漬かりながら も、その志向性において全く異なったエンボディメントの哲学=人類学の可能性を切り開いたのが、モーリ ス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)である。

感覚するとは 実は性質にひとつの生命的な価値を授与することであり、性質をまず何よ りもわれわれにとってのその意味、われわれの身体というこのどっしりした塊にとってのその意味のなかで捉えることであって、そこから感覚することがいつも 身体への照合を伴うということもできるわけである。……感覚するとは、世界とのこうした生活的な交流のことであって、この交流によって世界がわれわれに とって、われわれの生活のなじみ深い場としてあらわれくるわけである。知覚対象と知覚主体とがその厚みもち得るのは、感覚のおかげである。感覚は指向的な 織物であって、認識の努力がこれをかえって解体させてしまうのである」(『知覚の現象学(1)』竹内芳郎ほか訳、104ページ)。

メルロ=ポンティのこの種の〈救済〉――彼の主著 『知覚の現象学』(1945)には他にも驚くべきアイディアが満載している!――により、エンボディメ ントの沃野とその具体的な探究の人類学的根拠が提示されたのである。

〈エンボディメ ントとボディの人類学を学ぶ人のために〉

Mascia-Lees, Frances E.(PhD, SUNY-Albany, 1983; Prof and Dean of Social and Behavioral Sciences, http://bit.ly/N9ItvQ)によって編集された過去の「身体とエンボディメント」に関する医療人類学の論文集" A Companion to the Anthropology of the Body and Embodiment"(Blackwell Companions to Anthropologyシリーズ叢書のひとつ), 出版社:Wiley-Blackwell, 2011年には、次のような論文が収載されている。これらの論文の出典はグーグルなどで検索することでオリジナルの出典を知ることができるし、また、この 論集も大部のもので、専門研究者・この分野の研究をはじめるすべての人たちにとって「良好な教科書=読本(リーディングス)」であることは言うまでもな い。

リンク

文献

その他の情報

志向性オールスター球団

(The Intentionality All-Stars, by John HaugelandReviewed. Philosophical Perspectives, Vol. 4, pp.383-427, 1990.;という論文の中で提唱され、中畑正志『魂の変容』岩波書店、p.181、2011年が、作図した図中のものを日本語にしたもの。作図の都合で 若干変形しているが、ほぼ中畑のアイディアによるもの)


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