The meaning of having Worldliness
『オリエンタリズム』(1978)というモニュメン タルな思想書を書いた文芸批評家のエドワード・サイード(Edward Wadie Said, 1935-2003)は、テキストを読む我々には世界性(worldliness)があり、またその世界の中で生きている存在(世界内存在)でもあるとい う(Said 1983:34, 178)。そして、さまざまな批判を耐えて生き残ってきたテキストにも空間的な場としての世界性があるという。テキストに書かれた内容は、そこに 固定的な本質、 解釈されるべき真理というものはなく、テキストは読み手が生きる世界との相互作用のなかで意味をもつことを、生涯を通して語って(=書いて)きた思想家で もある。
大学での勉強というのは、テキストの読解を通して、 そこに書かれている真理を学ぶ技法と知識を提供する場所と言われてきた。それは理科系や応用科学系においても同様で、(自然的)「世界という書物」(デカ ルト)のから真理を引き出すことを旨としていると言われる。従って、図書館や実験室が、その真理の生産の現場として位置づけられている。インターネットに 代表されれるコンピューターネットワークや効率のよりコンピューター技術により、真理生産のイメージはずいぶん様変わりしているが、真理に使えるという大 学人の役割はそれほどぶれているようには思えない。サイードのいう世界性を大学人がもつことは、その真理を「ただしく使うこと」であり、真理を濫用した り、誤用したりすることを防ぐ目的をもつだろう。もちろん、そのことを通して「なにが真理に照らして正しいことなのか」ということを究明することにも繋が る。
文科省の上掲の「大学院の教育現場に要求する(3つ の)トレンド」も、このような真理や「ただしさ」が担保されていて、はじめて意味をもつだろう——大局的立場に立つ文科省の官僚たちは当然、私のこの主張 と同じ趣旨を持っているはずであると私は確信するものだ。しかし、それはどこかに正しいことがあり、それが究明されれば終わりというものではなく、それを 常に吟味し、多角的態度で見つめ、少しでも疑問を感じたら、再度見直すということを通して、私たちにとって意味のある「生きた真理」「生きた正しさ」を提 供するだろう。
サイードは、そのような活動を「人文主義(ヒューマ ニズム)」に託して次のように言う。私は、その言葉が指し示す実践こそが「高度教養教育」の内実であることを信じるものである。
「わたくしが思う人文主義とは、わたくしたち自身
の沈黙や死すべき運命と闘いながら、テキストから流用や抵抗といった現実化された場へ、伝達へ、読むことと解釈へ、プライヴェートからパブリックへ、沈黙
から解説や発言へ、またその逆へと移動するための、そしてことばの空間と、身体空間や社会空間におけるそのさまざまな起源や戦略的展開とのあいだで、最終
的に二律背反的で対抗的な分析をおこなうための手段であり、おそらくわたくしたちがそのためにもつ自覚のことである——こうしたことは世界中でおこってい
る。日々の生活や歴史や希望を足場にして、そして知識と正義を、おそらくは解放をも求めることを足場にして」(サイード 2006104)
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これまで「高度教養教育のデザインは可能か?」という問いを立てて、高度教養教育という言葉のうち の「教養の理念」や能動的「教育の手法」、そして、それをおこなう大学・大学院の「制度的思惑(Speculum Mentis)」について考えてきた。
しかしここでは、今日においてもし「教養」という高 邁な理想が残っている、あるいは継承すべき点があるとしたら、それはいったいいかなるものか、そして、従来の教養とは、どのような点で異なるものであるべ きか、その独自性とは何かについて考えてみたい。
そこで重要になることは、自然学(自然科学)、人文 科学、社会科学、そしてそこから派生する応用学、そしてそれらに関わるあらゆる学知の中心にある「人間にかかわる学問」に持たされている使命のことについ てである。これは、大学における学問的真理を探究する人たちが押さえておくという意味で、重要な「教養」の根幹に位置するものと思われる。
【テレンティウスの公理】
Publius Terentius Afer (ca.195 B.C. - 159 B.C.)の公理と言われるものに、Homo sum, humani nil a me alienum puto(私は人間である、人間に関わるもので無縁なものは私にはなにもない)というものがある。この公理(maxim)は、人間に関わるものにおいて、 歴史的にも地理的にいかなる隔たりがあろうが、関心をもち敬意を払うという大学人の態度を表現するといってもよい。
このテレンティウスの主張は——そのオリジナルの文 脈がどのようなものであれ——教養教育の公理として採用してもよいように思われる。人間に関わるものであれば、どのようなものも高度教養教育に成り得るの だ。それは、人間の世界への関わりに興味を持ち続けるだけでなく、その世界を共に生き、関わろうとする姿勢を、どのような時でも失わないことである。
【公的領域と私的領域の理想的峻別と現実的相互浸 透】
文科省当局が、競争的資金公募等を通して大学院改革 へのさまざまな注文をつけてくる時に、彼らが大学院の教育現場に要求することの、最近のトレンドは次の3つに僕はまとめられると思う;(1)世界のトップ レベルあるいは日本でも有数の「学術水準」に達したものであるか?、(2)成果が出るまでのロードマップを書いた上で、社会(=納税者)に対して、どのよ うな社会的効果をもたらすものであるのかを具体的に示すこと、(3)プログラムの内容を受講者のみならず、社会にも「見える化」して、正確な広報に努め、 速やかな社会への「還元」をめざすこと。
我が国では(高等)教育とは、いったん学校の外に出 れば、それを受ける側(=児童・生徒・学生)と保護者(=納税者)の私的な領域の事柄、家庭における子弟の資質の向上や、さらには「教育投資」条の問題と して取り扱われる。しかし、学校のなかでは——とりわけ国公立の学校や教諭や教員の間——では、国家的事業の一つとしてとらえられ、公なるものとして取り 扱われる。その両方の領域において「良識ある判断力をもつ市民へと育む」という発想をみることが稀である。前者では、教育は資質を高めるだけでなく教育投 資にみあった社会的地位や職業を得ることが、その「便益(benefit)」と考えられ、後者では「公的資金」の投入と、その社会的な有益性が、同様の 「便益」と考えることができるわけだ。
このように公的領域と私的領域あるいは国家的領域と
市民的領域は、今日では見事に棲み分けをおこなっているように思える。このような領域の峻別は、今日ではなんの驚きではなかったが、1840年代のドイツ
では大きな問題としてヘーゲル左派——ヘーゲル『法の哲学』の思想を推し進める——と呼ばれる無神論者と初期のマルクスやエンゲルスの間では、非常にクリ
ティカルな論争の素材になっていた。つまりキリスト教徒による君主制が続いていたドイツでは、ユダヤ教徒という宗教の「問題」——フランスは(ひと足先
に)18世紀末期によりユダヤ人の解放を通して信教の自由を実現していた——を私的領域の問題としてすべきであり、ユダヤ人の信仰放棄やキリスト教を公的
な国家領域が取り扱う問題ではない——国家が大切にしなければならないのは公的精神だ——という主張をブルーノ・バウアーを代表にするヘーゲル左派の人た
ちは主張していた。それを批判したのは、若きマルクスだった(当時26歳)。宗教が公的精神の問題にされないイギリスやフランスでは、市民社会そのものが
持つ者(資本家)と持たざるもの(プロレタリアート)に分裂し、持つ者の利益獲得のために彼らの私的領域が社会の公的領域を蝕んでゆくからである。(ドイ
ツにおいても将来)資本主義の発達が、市民社会の分裂をさらに推し進め、国家が公的な領域を管理するという事態も危ぶまれるだろうと警鐘を鳴らしたのだっ
た。
【押しつけられるナショナル・アイデンティティへの 抵抗】
そして——第三帝国、ロシア革命、第三世界の革命運 動と独立、そして冷戦構造の終焉を経て——2世紀ちかくたった現在、もはや市民社会における公的/私的領域の区分は全く単純な問題ではなくなった(→伝統 的な政治思想における公的領域と私的領域についての議論はハンナ・アーレント(1994)を参照)[→公的領域と私的領域に関する議論]。
「私的領域と公的領域は、一方が他方に浸透して変
質してしまうような、新たなかたちで慌(あわただ)しく往来するようになって、その基盤をほとんど完全に変化させてしまった。アルジュン・アパデュライの
『さまよえる近代』(Appadurai, Arjun. 1996, Modernity at large : cultural
dimensions of globalization.University of Minnesota
Press)が論じるように、人口移動や電子媒体といった力が、現代文化の生産や教育の場において、形成力を獲得したのだ。そういった場においては、彼が
分析している大きな変化のいくつかをあげれば、ディアスポラ的な共同体が定住共同体に取って代わり、新しい神話やファンタジーが精神を活気づけると同時に
鈍らせ、新たな規模での消費が、地球上のすべての市場を息づかせる。人文作品の受容、つまり誰が、いつ、なんのために読むのか——こうした問いが、美的集
中というけがれなきエクスタシー状態の周りに群がって、その状態を追い散らしてしまうのである」(サイード 2006:54)。
このような状況のなかで、先のような、文科省の要求 は、公的な国家領域が市民社会に求める要求としては「日本はいつも優等生であるべきだ」という劣等根性を除けば、いかにも納税者(=市民)にも納得のでき る「公的=国家的なるものが」その国民の育成の理念に訴える主張ではある。しかし、日本の敗戦、日本国憲法の制定、周辺国家での戦争とそれへの特需を契機 とする高度経済成長の始まり、輸出経済の堅調な成長、諸外国からのエコノミックアニマル批判、バブル経済の崩壊、金融工学導入を契機とする経済活動の高度 な洗練化、そしてその洗練さゆえに今日のアベノミクスの日本がかかえる「国債の暴落」危惧をへた、今日の我々が1世紀たらずのうちに経験してきたことから みれば、それらの「国民の育成の理念に訴える主張」は、あまりにも、時代錯誤の——すくなくともサイードが指摘したような状況認識に比べると——私的領域 に公的領域という名の国家が存続するためだけの理由を押しつける狭量なナショナル・アイデンティティの押しつけのように感じる。ちょうどマルクスやエンゲ ルスたちが、バウアーを批判したように、その領域(=日本国内)を批判するためには、批判的精神を洗練化させて、より広い文脈のなか(=東アジアや第三世 界を含めた世界的なトレンド)に我々が直面している問題を置いてみることが必要になるのである。僕は、それこそが、高度な「教養」がもつ批判力であると思 う。
——閑話休題——
L・シュタイン(1842)のプロレタリアートの定
義は面白い。それは財貨も教養もないが、人格に初めて価値を付与するような財貨(と知性)をもたないでいることは不可能だと感じている人びとのことだとい
うことだ。だからこそ、プロレタリアートのプログラムは、財貨や知性の自分自身での獲得の課題を立てたり、国家はそれを保証せよという政治的要求にも収斂
しない。適切な(シュタインによれば「理念上」の)財貨や知性を、現在与えられていないひとに「再配分」することなのだ(シュタイン
1990:18-19)。
【日本のポスドク問題と「高度教養教育】
「納得のいくことだが、多くの若い人々、とくに職が
見つからず、健康保険も終身在職権も昇進の見込みのなしで、助手や非常勤講師としていくつもの学校をかけもちして補習授業を教え続けるしかないことに深く
失望している大学院生からも、泣けき節は聞こえてくる。……大学それ自体も、この社会におけるユートピア的な場として、やはり非難を受けることになる」
(サイード 2006:17)
【いま何が大学に必要なのか?】
(現在、建設中)
【永劫回帰のジレンマ】Dilennma of Ewig Wiederkehren (Eternal Recurrence)
我々は永遠の命が欲しい、永遠の思惟が可能になれば、誰しもが考えるはずだ。そのような唯脳あるいは唯意識論の代表がシンギュラリティ論者のレイ・カーツワイルである。彼は、運動をし、多種のサプリメントを摂るが、それは、自分の脳のデータをブレインマシンインターフェイスの完成をもって「アップロード」したいがためなのだ。哲学的 に言うと主知主義。でも無意識もアップロードされることを、カーツワイル先生はご存知ない。だからカーツワイル先生は主知主義のバカ決定と言わざるをえない。さらに、思考実 験としてのシンギュラリティがもし「成功」だとしても、電脳世界で不死の思考能力を得たカーツワイル先生は、永劫回帰——「存在の耐えられぬ軽さ」——を 未来永劫に経験することになる。つまり、シンギュラリティの時代の辞書に自己嫌悪の文字はニャイ! あるいは、シンギュラリティ帝国の時代は、ナルシストどもがうじゃうじゃいる?! 難儀さを抱えることになる。
永劫回帰(Ewig Wiederkehren)とは、フリードリヒ・ニーチェの思想で、超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確 立するという行為実践のことであるが、一般には、一回限りの経験がなんどもなんども繰り返されるという意味にとってもよい。そうしてきたときに、人間はそ のような退屈さとこっぱずかしさに耐えることができうるだろうか?その人の人生は、永久に続くのである。意図的に死ぬこともできず、永劫回帰に耐えることができるのか?そこで、ニーチェは、それを耐えうるためには、人間には「超人的な意思」備わっていなければならないと、論理的かつ弁証法的にはニーチェの思想に繋がるのである。
「優秀な外科医トマーシュは女性にもてもて。しかし 最初の妻と別れて以来、女性に対して恐怖と欲望という相反する感情を抱いている。彼は二つの感情と折り合いをつけ、複数の愛人とうまく付き合うための方法 を編み出し、愛人たちとの関係をエロス的友情と呼んで楽しんでいた。そんな彼のもとにある日、たまたま田舎町で知り合った娘テレザが訪ねてくる。『アン ナ・カレーニナ』の分厚い本を手にして。その時から彼は、人生の大きな選択を迫られることとなる—「プラハの春」賛同者への残忍な粛正、追放、迫害、「正 常化」という名の大弾圧の時代を背景にした4人の男女の愛と受難の物語は、フランス亡命中に発表されるや全世界に大きな衝撃を与えた」存在の耐えられない軽さ(L'insoutenable légèreté de l'être) / ミラン・クンデラ)。
結論:【骨太の教養教育の「復権」?あるいは「新た
なる創造」について】
このように考えると、日本の大学にとって必要なのは 「高度教養教育」なのではなく、「高度」のかわりに「骨太の」の教養の精神を復権することではないかと思われるのだ。
文献