高度教養教育のデザインは可能か?
Can we develop to design for liberal arts education for adults or super-liberal arts curriculum for university graduate students?
連続講義
1. 高度教養教育のデザインは可能か?【このページ】 |
2. 2つのリベラルアーツ教育:その共通点と相違点 |
3. 日本における教養教育の2つの源流、ビルトゥングとリベラルアーツの共通点と相違点 |
4. 教育方法としてのアクティブラーニング |
5. アクティブ・ラーニング |
6. 大学の社会化について |
7. 「世界性」をもつことの意味 |
高度教養教育のデザインは可能か?ということについ て考える。
およそ5つのウェブページを通して、この問題を探究
する。しかしながら、イラチ=せっかちな人は、このページの最後の文章を読んで欲しい。「高
度教養教育のデザインは可能か?」について暫定的な解答を記述している。私にとって大切なのは、問う事を通して、その探究の過程の中で、自学自習すること
(=「問題にもとづく学習」を実践すること)である。
さて、ここでは、大学の学部高学年(3年次以上)と
大学院
生(一般社会人を含む)の人たち(=大人)を対象とした「教養」をつけること、すなわち自己陶冶(じこ・とうや:self-training,
self-education, self-cultivation)としての「高
度教養教育(liberal arts education
for adults, ilberal arts
education as
andragogy)」について考える。陶冶(とうや)とは、陶器を焼き上げたり、鋳物をつくること(ともに他動詞)であるが、そこから
転じて、人の能力や資質をつけてあげることを、育成=陶器をつくりあげることに模して、陶冶(training, education,
cultivation)あるいは「陶冶する」という。
さて、教養教育(liberal arts
education)の由緒正しい語義とは、自由人(市民)に対して、その市民生活を陶冶するために、必要不可欠な古典教育を授けることであった(→ウィ
キペディア[英語:liberal
arts education])。
時代は過ぎ、また、その教養(リベラルアーツ)教育 の中心地である西欧の伝統ある大学から、遠く離れた、極東の日本の大学で教養教育、とりわけ「大学院生に対する教養教育」いわゆる「高度教養教育」——現 時点では直訳風になるが super-liberal arts としか言いようがない——を実施する部局で働く私は、職場で言われている情報をもとに、自らその概念と中身の構築をしていかざるを得ない。
【大阪大学における高度教養(学部生向け)教育 の定義】
大阪大学では、平成23(2011)年4月から、 「一定の専門知識を身につけ、(職業 人あるいは研究者として)社会にまもなく出て行く学生に対して、専門 教育以外に必要とされる知識や能力を与える教育」として、全学3年次以上の学部学生及び大学院学生を対象とした、「知のジムナスティックス(高度教養プロ グラム)」を提供しています。
出典(西暦を加筆しています):http:
//www.osaka-
u.ac.jp/ja/research/education_refine/gymnastics (2013年11月10日)
ここでの学生とは、「一定の専門知識を身につけ、 (職業人あるいは研究者として)社会にまもなく出て行く(=卒業して社会で働く)」者として位置づけられており、その学生が社会において期待されている役 割とは「専門教育以外に必要とされる知識や能力」をもっているということになります。
知のジムナスティックス科目は、(A)知識習得を中心としたものと(B)多様なスキルの習得を含むものとがあり、それぞれの科目には、その特色や狙いに
応じて、次の4種類のキーワードが付してあります。:1)「世界を舞台に活動する」、2)「異分野の融合を社会に演出する」、3)「成熟した市民社会を創
る」、4)「タフな知性で社会を輝かせる」。(出典:同上、ただし記号や数字を加筆してあります)
その授業形式としては、知識の習得と、技術の取得と
2分化されており、また、その目的(=教育後の機能や効能)は4つあるが、そこには、論理的な峻別は強く意識されておらず、社会のなかで烏有機的に機能で
きる知識人を想定しているようだ(→「有機的知識人」)。
またその受講の選択や目的の構築は、受講者の自発性 に基づくものであることが謳われている。
これらのキーワードを参考に、学生が一人ひとりの希望や計画にしたがって自由に科目を選択し、独自のプログラムを設計するこ
とになっています(出典:同上)
以上は、学部生に対する、高度教養プログラムの趣旨
である。それとは理念を共通し、受講する目的をより明確化したモデルがあり、履修終了時における個々のプログラムを修了したことを証す資格を付与すること
を履修要件に求めている教育が「高度副プログラム」「副専攻」そして「博士課程教育リーディングプログラム」
がある。
ここでは、私の職場で関わっている、「高度副プログ ラム」と「副専攻」、とりわけ「高度副プログラム」のコミュニケーション・デザイン科目について焦点をあてて、高度教養教育のデザインは可能であるのかに ついて、以下4点にわたって検討したい。以下は、それぞれのページにリンクする。
■この冒頭の問い:「高度教養教育のデザインは可能か?」への解答 は……
条件つきで「可能」というものだ、して、その条件と は?……
1)「高度教養教育」というものが、きちんと「予 め」定義されておく必要があり、
2)その「目的」が実現可能なものであり、
3)大学や文部科学省当局以外の人にも、理解可能で、かつ社会的合意を得られるかぎりにおいて、である。
■この「高度教養教育のデザイン」は考えられる限り、さ
ま
ざまな形態や経路を辿って変化するものであり、そのデザインの方法に
完成という形態も、単一の答えもないだろう。そして、このシリーズの最終章「「世界性」をもつことの意味」において、僕は次のように結論する予定だ:「日
本の大学にとって必要なのは 「高度教養教育」なのではなく、「高度」のかわりに「骨太の」の教養の精神を復権することではないかと思われる」
■高度教 養教育のデザインは可能か?(このページです)——サイト内「高度教養教育」に関する情報
リンク(サイト外)
リンク(サイト内)
文献
その他の情報