非西洋医療モデルとしての体液 理論、熱/冷理論
Humoral Theory of the body
【解説】
体液理論ないしは体液病理学(humoral theory, humoral pathology)の基本(→「四体液学説」)
広義には(1)身体の健康や病気の状態を、体液あるいは(身体の)構成要素の均衡や不調和 によって説明する理論である。身体を構成する諸要素は抽象化された実体でもあるが、必ずしも液状のものである必要はない。さまざまな民族 (民俗)医学のなかにこの種の病因論が見られる場合、体液理論という用語が使われる。これが文化人類学における一般的な用法である。
他方、体液理論や体液病理学には、語源につながる狭義の定義がある。それは(2)紀元前5-4世紀の古代ギリシャのヒポクラテス派の医学に起源を発し、紀元 2世紀のガレノス(Galenos)により集大成された医学理論をさす場合である[Smith 1979]。したがってこの医学は総称としてヒポクラテス・ガレノス学派と呼ばれることもある。古代ギリシャ・ローマの伝統によると、人間の身体は血液、 粘液、胆汁、黒胆汁の4つの液体的要素から成り立ち、人間の健康状態や気質は各人がもつ4つの要素のバランスと風土との関係のなかで決定すると考えられ た。それゆえにこの理論は、四体液学説と呼ばれることもある。
これら上記の(1)と(2)の2つの定義がもし仮に別個に無関係であれば話は簡単なのだ が、実は前者である民族(民俗)医学上の概念を説明するのに、後者のガレノス流医学をプロトタイプとして用いたところから、この医学理論上の概念が混乱す るという不幸が始まる。
もともと医学史では、科学の進歩思想の影響を受けて、過去の医学理論である体液理論を古代な いしは中世の遺物ないしは未開な前科学的思考の産物であると 考えてきた。世界の各地で発展した古代医学を見渡せば古代ギリシャ・ローマの体液理論から多少洗練度の劣った医学を発見することは医学史家にとり困難では なかった。中国医学における陰陽五行説や、古代インドのアーユルベーダ医学における3つのドーシャ(風、熱、冷)と同様、身体を有限の構成要素からなるも のとして、それらの要素間の動態的関係から疾病と健康をみようとした医学体系がいたるところに見られる。医学史家の依拠した資料はテキストを中心とするも ので、その医学の実態に関する知識が圧倒的に不足しており、また研究者の思い込みを検証する手だても限られていた。これらの医学体系の研究において、民族 誌上の関心をもって再考されるには、医学史家のE・アッカークネヒト(Erwin H. Ackerknecht)やW・H・R・リヴァース(W.H.R. Rivers)の出現を待つしかなかった。
人類学においては、アジアの医学の諸体系を比較検討したC・レスリーらが、1970年代に 入って初めてこの医学の特徴を全体論と体液説に求めたことで、 その理論的研究が始まる。他方、同じ時期に開発人類学の調査において、M・ローガン(Michael H. Logan)が、中央アメリカにあるグアテマラのマヤ系先住民の中に、古代ギリシャ・ローマの体液理論によく似た現象を見つけた。それが熱/冷理論 (hot-cold theory)にもとづく身体観や病気・健康観であり、マヤ人のみならず広くメソアメリカと呼ばれる地帯に分布していた[Logan 1973,1977]。この場合の熱と冷という要素は温度による分類ではなく、抽象的に概念化されたものであり、個々の食物や薬物、体質のみならず病気あ るいは風土などの環境要因にもこの二元分類(dichotomy)を用いて説明するというものである[池田 2004:194-7]。ローガン[1973]は、この事実の報告を通して、保健プロジェクトにおける住民独自の健康概念の把握することの重要性を説いて いた。人びとの身体への関心や理解ぬきに、近代的な衛生概念を導入することは不可能だと考えたからである。
しかしながらこのユニークな現象への関心は、それを応用することよりも、この理論の起源がど こに由来するのかということに向かっていった。15世紀末以 降メソアメリカを含む新大陸はスペイン植民地となったが、宣教師たちによってもたらされた医学は、ヒポクラテス・ガレノス学派のそれであった。この事実が 後にしてG・フォスターをして様々な民族誌の比較や植民地時代における医学理論の伝播の検証を行わしめることになる。その結果、新大陸における熱/冷理論 が、もともと受け入れる素地のあった先住民の伝統の上に融合されたという考え[e.g. Madosen 1968]をフォスターは放棄し、新大陸の体液理論は、実は旧大陸由来の医学的伝統に他ならないと結論づけるようになる[Foster 1994]。
新大陸の民俗医学を調査すれば、熱/冷理論のほかにも邪視(evil eye)など、フォスターの医学的伝統の伝播説を支持できるような類似の文化事象を発見することができる。だが彼の研究成果は、それほど多くの共感者を作 り出さなかった。彼の歴史的伝播論は、現地社会の文化を反映する体液理論[e.g. Lopez Austin 1974]という当時の多数派に支持されていた文化主義の命題にそぐわなかったからだ。その意味において、体液理論は非西洋医学の特性を担う表象として当 時すでにその硬直した学術的意義を担わされていたことになる。それゆえ研究者の関心は、社会的文脈に即した民族誌上の細かい検討よりも、医学理論が伝播し た結果であるのか、あるいは土地固有であるのかという二者択一の議論に限局されるようになっていった。
しかしながら人類学において体液理論が脚光を浴びるようになる半世紀以上前に、近代医学は体 液理論という発想自体に再び光を投げかけようとしていた。そ の試みは生理学者のW・キャノン(Walter Cannon)によるホメオスタシス理論やH・セリエ(Hans Selye)のストレス学説などにみることができる。彼らは、身体を循環する体液のシステムの安定性維持のメカニズムや、体の一部分の損傷や心理的影響に よって生理学システムの崩壊の神経化学的根拠を明らかにすることを通して、細菌という要素還元的な理論展開によりすでに成功を収めていた細菌病理学の後塵 を拝していた生理学の知的復権に成功した。これらの研究はブードゥー・デス(呪術による殺害)研究やレヴィ=ストロースの「呪術師とその呪術」や「象徴的 効果」論文(原著はともに1949年。『構造人類学』に所収)などの人類学的実証研究に刺激を与え、医学と文化人類学の架橋する知的貢献をもたらした。こ れらの先駆的研究は文化表象と生理的心理的実体の間にある社会的な媒介の問題を取り扱っていたのである。
体液理論は、近代医学において過去の遺物ではなかった。近代医学はガレノスの時代とは異なっ た体液理論をもっている。近代社会における代替医療運動の多 くは体液理論に見られる全体論を特徴とし、近代医療と補完ないしは対抗しようとしている。このことが忘れられ、人びとが体液理論を過度に独立した実体であ ると捉え、非西洋医療のプロトタイプとしてロマンチックな対象化に向かった時に、医療人類学の体液理論はその分析的批判力を失うことになる。医療人類学に おいて、体液理論が常にトピカルなテーマとして読者に喚起するためだけに使われ、理論的推進力にならなかった理由はここにある。
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