四体液学説
Greek Humoral Theory of the body
A Nahua man from the Florentine Codex, a 16th century ethnography.
The speech scrolls indicate speech or song. (Photo from Wikimedia.)
体液理論ないしは体液病理学(humoral theory, humoral pathology)
広義には(1)身体の健康や病気の状態を、体液あるいは(身体の)構成要素の均衡や不調和 によって説明する理論である。身体を構成する諸要素は抽象化された実体でもあるが、必ずしも液状のものである必要はない。さまざまな民族 (民俗)医学のなかにこの種の病因論が見られる場合、体液理論という用語が使われる。これが文化人類学における一般的な用法である。
他方、体液理論や体液病理学には、語源につながる狭義の定義がある。それは(2)紀元前5-4世紀の古代ギリシャのヒポクラテス派の医学に起源を発し、紀元 2世紀のガレノス(Galenos)により集大成された医学理論をさす場合である[Smith 1979]。したがってこの医学は総称としてヒポクラテス・ガレノス学派と呼ばれることもある。古代ギリシャ・ローマの伝統によると、人間の身体は血液、 粘液、胆汁、黒胆汁の4つの液体的要素から成り立ち、人間の健康状態や気質は各人がもつ4つの要素のバランスと風土との関係のなかで決定すると考えられ た。それゆえにこの理論は、四体液学説と呼ばれることもある。
(→この続きの理論的に重要な議論は、小松和彦・田中雅一・谷泰・原毅彦・渡辺公三編、『文 化人類学文献事典』弘文堂、の「トピック:非西洋医療モデルとしての体液理論、熱/冷理論」pp.819-20)、2004年12月(池田光穂が執筆)を ご覧ください)
これら上記の(1)と(2)の2つの定義がもし仮に別個に無関係であれば話は簡単なのだ が、実は前者である民族(民俗)医学上の概念を説明するのに、後者のガレノス流医学をプロトタイプとして用いたところから、この医学理論上の概念が混乱す るという不幸が始まる。
もともと医学史では、科学の進歩思想の影響を受けて、過去の医学理論である体液理論を古代な いしは中世の遺物ないしは未開な前科学的思考の産物であると 考えてきた。世界の各地で発展した古代医学を見渡せば古代ギリシャ・ローマの体液理論から多少洗練度の劣った医学を発見することは医学史家にとり困難では なかった。中国医学における陰陽五行説や、古代インドのアーユルベーダ医学における3つのドーシャ(風、熱、冷)と同様、身体を有限の構成要素からなるも のとして、それらの要素間の動態的関係から疾病と健康をみようとした医学体系がいたるところに見られる。医学史家の依拠した資料はテキストを中心とするも ので、その医学の実態に関する知識が圧倒的に不足しており、また研究者の思い込みを検証する手だても限られていた。これらの医学体系の研究において、民族 誌上の関心をもって再考されるには、医学史家のE・アッカークネヒト(Erwin H. Ackerknecht)やW・H・R・リヴァース(W.H.R. Rivers)の出現を待つしかなかった。
人類学においては、アジアの医学の諸体系を比較検討したC・レスリーらが、1970年代に
入って初めてこの医学の特徴を全体論と体液説に求めたことで、
その理論的研究が始まる。他方、同じ時期に開発人類学の調査において、M・ローガン(Michael H.
Logan)が、中央アメリカにあるグアテマラのマヤ系先住民の中に、古代ギリシャ・ローマの体液理論によく似た現象を見つけた。それが熱/冷理論
(hot-cold
theory)にもとづく身体観や病気・健康観であり、マヤ人のみならず広くメソアメリカと呼ばれる地帯に分布していた[Logan
1973,1977]。この場合の熱と冷という要素は温度による分類ではなく、抽象的に概念化されたものであり、個々の食物や薬物、体質のみならず病気あ
るいは風土などの環境要因にもこの二元分類(dichotomy)を用いて説明するというものである[池田
2004:194-7]。ローガン[1973]は、この事実の報告を通して、保健プロジェクトにおける住民独自の健康概念の把握することの重要性を説いて
いた。人びとの身体への関心や理解ぬきに、近代的な衛生概念を導入することは不可能だと考えたからである。
しかしながらこのユニークな現象への関心は、それを応用することよりも、この理論の起源がどこに由来するのかということに向かっていった。15世紀末以
降メソアメリカを含む新大陸はスペイン植民地となったが、宣教師たちによってもたらされた医学は、ヒポクラテス・ガレノス学派のそれであった。この事実が
後にしてG・フォスターをして様々な民族誌の比較や植民地時代における医学理論の伝播の検証を行わしめることになる。その結果、新大陸における熱/冷理論
が、もともと受け入れる素地のあった先住民の伝統の上に融合されたという考え[e.g. Madosen
1968]をフォスターは放棄し、新大陸の体液理論は、実は旧大陸由来の医学的伝統に他ならないと結論づけるようになる[Foster 1994]。
新大陸の民俗医学を調査すれば、熱/冷理論のほかにも邪視(evil eye)など、フォスターの医学的伝統の伝播説を支持できるような類似の文化事象を発見することができる。だが彼の研究成果は、それほど多くの共感者を作 り出さなかった。彼の歴史的伝播論は、現地社会の文化を反映する体液理論[e.g. Lopez Austin 1974]という当時の多数派に支持されていた文化主義の命題にそぐわなかったからだ。その意味において、体液理論は非西洋医学の特性を担う表象として当 時すでにその硬直した学術的意義を担わされていたことになる。それゆえ研究者の関心は、社会的文脈に即した民族誌上の細かい検討よりも、医学理論が伝播し た結果であるのか、あるいは土地固有であるのかという二者択一の議論に限局されるようになっていった。
しかしながら人類学において体液理論が脚光を浴びるようになる半世紀以上前に、近代医学は体 液理論という発想自体に再び光を投げかけようとしていた。そ の試みは生理学者のW・キャノン(Walter Cannon)によるホメオスタシス理論やH・セリエ(Hans Selye)のストレス学説などにみることができる。彼らは、身体を循環する体液のシステムの安定性維持のメカニズムや、体の一部分の損傷や心理的影響に よって生理学システムの崩壊の神経化学的根拠を明らかにすることを通して、細菌という要素還元的な理論展開によりすでに成功を収めていた細菌病理学の後塵 を拝していた生理学の知的復権に成功した。これらの研究はブードゥー・デス(呪術による殺害)研究やレヴィ=ストロースの「呪術師とその呪術」や「象徴的 効果」論文(原著はともに1949年。『構造人類学』に所収)などの人類学的実証研究に刺激を与え、医学と文化人類学の架橋する知的貢献をもたらした。こ れらの先駆的研究は文化表象と生理的心理的実体の間にある社会的な媒介の問題を取り扱っていたのである。
体液理論は、近代医学において過去の遺物ではなかった。近代医学はガレノスの時代とは異なっ た体液理論をもっている。近代社会における代替医療運動の多 くは体液理論に見られる全体論を特徴とし、近代医療と補完ないしは対抗しようとしている。このことが忘れられ、人びとが体液理論を過度に独立した実体であ ると捉え、非西洋医療のプロトタイプとしてロマンチックな対象化に向かった時に、医療人類学の体液理論はその分析的批判力を失うことになる。医療人類学に おいて、体液理論が常にトピカルなテーマとして読者に喚起するためだけに使われ、理論的推進力にならなかった理由はここにある。
なお、グノーシス思想には、体液病理(ないしは四体液説)の考え方や、その思想的構成要素をみることが多い。
●【資料】James Sands Elliott『ギリシャおよびローマ医学の概観』(1914)にみる「体液」記述の抜粋
「ヒポクラテスおよびドグマティスト(教条学派)の信念の中心的な原則は、身体内で地、水、気、 火の四元素および血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の四体液が適当な割合および作用に、健康が依存することであった。これらの正当な結合はクラーシス (crasis)として知られ健康において存在する。もしも病気が有利に進行すると、これらの体液は変化し結合する(coction:調理)。これは病的 な物質排出の準備(crisis:峠)であり臨界日(critical days)として知られる一定の時に起きる。ヒポクラテスはまた異常流出(fluxion)の理論を持ち、これは今は理解できるように鬱血状態である」
「彼(=プラトン)はヒポクラテスの体液病理学を丹念に仕上げた。世界は4元素からなっていて、 火はピラミド型、地は立方形、気は8角形、水は20辺形の原子からなると、彼は思っていた。骨髄は3角形からなり脳は骨髄が仕上げられたものである。心は 骨髄を支配し、2者が分離すると死である。骨と筋の目的は骨髄を温度変化にたいして守ることである。プラトンは「プシケ」を3つに分けた。理性は脳、勇気 は心臓、欲情は肝臓、にある。子宮は過度の欲情を刺激する、と彼は信じた。炎症は胆汁の具合が悪いことにより、発熱は元素の影響によるものであった。感覚 についての彼の意見は興味深い。例えば、臭いは一時的なものである、何故かと言うと外的な形が無いからである。味は味の原子を心臓およびプシケに運ぶ小血 管の結果だからである。(訳注:ふつうプシケ(soul)を心、プネウマ(spirit)を霊と訳す)」
「ヘロピロスは解剖学で多くの発見を行い、彼がつけた名称は今日も使われている。たとえばヘロ フィルスの静脈洞交会、筆尖、十二指腸である。彼は神経と脳のあいだの接続や脳の種々の部分を記載し、彼は運動神経は脳の膜から起き感覚神経は実質の中か ら起きると考えてはいたが、2種の神経の重要な違いを認識していた。彼は第四脳室をプシケ(心)の座であると思っていた。彼は動脈の拍動を心臓によるとし たが、肺静脈を肺から心臓の左側へ空気を送ると考え、そして機能を決定して居なかったが乳糜管を観察していた。ヘロピロスは肝臓および脾臓の解剖を行なっ て、後者は動物の節約行為の結果とみなしていた。彼は産科手術に多くの知識を持っていた。病理学に関する彼の考えは、病気は体液の腐敗によるという信念よ り先には進んでいなかった。麻痺は神経の異常によると教えた時に彼はより科学的であり正確であった」
「ケルスス―彼の生涯と著書 ケルススはアウグストゥス帝およびティベリウス帝の頃の人で、彼の 著書の引用によるとテミソンと同じころかまたは少し後と思われる。彼はヴェロナで生まれたと言っているが、彼の文章のスタイルは彼がかなりのあいだローマ に住んでいて、多分ローマで教育を受けたのであろう。医学史について大プリニウスの言うところによると、ケルススはローマで医術を開業してはいないし、彼 が医術の実行を科学および文学の追求と結びつけていたことは確かであり、彼の医術は一般的に行なっているのではなく、彼の友達および身内に限っていた。彼 の著作は彼がびょうきについて臨床およびかなりの量の医学の経験を持っていることを示している。彼は医学だけでなく歴史、哲学、法律、弁論術、農業、およ び戦術について書いた。彼の医学の大著述「De Medicina」は8冊からなっていた。彼は正しく医学史から始め、ついで学術学派と経験学派の論争の善悪を論ずることに進んだ。最初の2冊は一般原則 および食養生を取り扱い、残りは特定の病気についてであり、3冊目と4冊目は内科病についてで、5冊目と6冊目は外的な病気と薬学であり、最後の2冊はが 科学についてであって、大きく優れた点と重要性についてである。彼の治療法ではプルサのアスクレピアデス影響および自然に反抗するのではなく助けるヒポク ラテスの原則を見分けることができるが、彼の著作のあるものは独創性を示している。ヒポクラテスへの彼の傾倒は彼自身の力を尽くすのを邪魔して、この点 で、後継者たちにとって悪い例となった。/彼はメスを使うのを躊躇しなかったが、同時代の人たちほどではなかった。彼は自由に下剤を使ったり瀉血をするこ とを主張した。彼は先輩たちの正式な体液説から離れることは決して出来なかった。……ケルススは瀉血を行なっていたが、彼は使いすぎにたいし非常に強く反 対した。彼の時代にローマの医師たちは瀉血を非常に極端に行なっていた。ケルススは書いた。「静脈から血液を取り出すのは新しいことではないが、血液を取 り出さない病気が殆ど無いことは新しいことである。以前に医師たちは若い男性および妊娠していない女性から血液を抜いていて、我々の時代まで子供、妊娠婦 人、老人たち、から瀉血することはなかった。」強く、多血質の人たちから血を抜くのは余計に供給される血液が外に出られるようにしたのであり、弱く貧血の 人たちは悪い体液を除くために治療される。従ってどんな病人もこの強烈な治療を逃れることができなかった」
「彼(=ガレノス)は運動神経を実験によって切断し筋の麻痺を起こしてその機能を発見した。広頚 筋、背側骨間筋、膝窩筋を初めて記載した。彼は脈拍についての最高権威者であり、拡張期ヂアストールと収縮期シストールおよび、ヂアストールの後の間隔と シストールの後の間隔からなっていることを理解した。アリストテレスは動脈が空気を含むと考えていたが、ガレノスは血液を含んでいると考えていた。何故か と言うと、動脈を傷つけると血液が噴出するからであった。彼は血液循環の発見からあまり遠くはなかった。彼は心臓の外見が筋であることを記載して、これが 自然の熱の源と考え、激しい感情の座とした。彼は人骨の解剖学をよく知り、学生たちにアレクサンドリアに行って骨を取り扱い正しく研究するように忠告し た。吸気は胸の拡張と関係し空気は篩骨のくし状板を通して頭蓋骨内に入り、同じ道を通って外に出て体液を脳から鼻に運び出すと考えた。しかしこの空気の一 部は残って脳の前室で生気(vital spirit)と結合し、最終的には霊(soul)の座である第4脳室から出されるとした。アリストテレスは心臓が霊の座であり、脳は比較的に重要でない と教えていた。……レノスは四元素の理論を信じ、推測を進めて更に細かい分類を信じた。「火は熱と乾。気は熱と湿、気は蒸気のようなものである。水は冷で 湿、地は冷で乾。」人には3つの素がある、すなわち、精、個体、体液である。そして健康と病気のあいだに生命と関係して8つの気質がある。彼は生気学派の 教えから多くのものを残し、プネウマは霊と異なり霊と身体のあいだの媒体である。気が鼻を通して脳室の成分と作用するという彼の理論からは彼がクシャミ薬 を使用しクシャミが役立つという彼の信念が説明される。ガレノスの炎症分類は彼の病理学は彼の解剖学および生理学ほど正確なものでないことを示している。 彼は(a)血液だけの過剰による単純な炎症、(b)プネウマと血液の過剰による炎症、(c)黄胆汁が介入した丹毒性炎症、(d)粘液が存在したときの硬変 性または癌性炎症、を記載している。彼は病気の原因を近因と遠因に分類し、前者を傾向性と興奮性に細分類することにより、大きな貢献をした。……ヒポクラ テスの場合と同じようにガレノスの場合に、どの著述が真であり、どれが偽物であるか言えないことがしばしばある。彼は自分がヒポクラテスの後継者であると 思っているように見え、「私の前には誰も病気を取り扱う真の方法を与えたものはない。私は告白する、ヒポクラテスは今まで道筋を示してきた、しかし彼は 入ってきた最初のものだったので、希望したように遠くまで行くことができなかった‥‥彼はすべて必要な区別をせず、古代の人たちが簡明にしようとして普通 に起きるように、しばしば曖昧であった。彼は複雑な病気について非常に少ししか話していない。言い換えると、彼は他人が完成するであろうものをスケッチし た。彼は道を開いたが、後継者が広げて平にするために残している。」ガレノスは病理学においてヒポラテスの体液説に厳しく従い、治療学についても彼に大き く従った」。
【プロコピオス(Procopius)の疫病記】「そこから二重の道を通り、東に広がってシリ
ア、ペルシャ、インドを越えて西に入り込み、アフリカ海岸に沿ってヨーロッパ大陸に行く。2年目の春に3、4月のあいだに、コンスタンティノプルは疫病に
襲われる。そしてプロコピオスは病気と症状の進行を、医者の眼で見て、ツキジデス(Thucydides)がアテネの疫病を記載した巧みさと熱意で張り
合った。感染は時には調子の狂った空想で発表され、犠牲者は危機を聴き見えない幽霊の足音を感ずるや否や絶望した。しかし、ベッド内、街路、いつもの仕事
で大多数は、軽い熱で、実際に非常に低く、患者の脈拍も顔色も危険が近づいている感じはなかった。同じ日、次の日、または次の日に、リンパ腺が腫れる。特
に鼠径部、脇の下、および耳の下に腫れる。これらのよこね、すなわち腫れ物を開くとレンズマメの大きさの黒い物質が見つかる。もしも最初にそれが膨れ上が
り膿になると患者は病的な体液の自然排出によって救われる。しかしこれらが固く乾き続けると壊疽が急速に起きて、一般に5日が彼の生命の最後である。熱に
はしばしば昏睡や意識混乱が伴う。病人の身体は黒い膿疱や皮下の化膿で覆われる。発疹が起きるには体調があまりにも弱かったときには血液の嘔吐に続いて腸
管の壊疽が起きる。この疫病は妊婦にとって一般に致死的である。しかし1人の子供が死んだ母親から生きて引っぱり出された。しかし3人の母親は胎児が感染
して失われたのに生き続けた。若者はもっとも危険であった。そして女性は男性よりも感染しにくかった。しかし地位や職業専門とは無関係に攻撃される。そし
てコンスタンチノプルの医師たちは熱心であり巧みであったが、彼らの技はこの病気の種々な症状や頑固な激しさによってまごつかされた。同じ療法が正反対の
効果を産み予期できない事柄が死または回復の予知を判らなくする。葬式の順序や墓場の権利が困らせられた。友達や召使が無くて残されたものは埋葬されない
で街路や寂れた家に残される。そして司法官は死体を手当たり次第に集め、陸上または水上で輸送し、市の領域外の深い穴に埋葬することが許された‥‥この極
端な状況における死者の数についての事実は残っていないし推測さえ無い。私がようやっと見つけたのは3ヶ月のあいだに5,000人であり、そして様々の曲
折を経て毎日10,000人がコンスタンティノプルで死んでいることが見つかった。東部の多くの市は空になり、イタリアの幾つかの地域で作物やワインが萎
びて残った。」
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池田光穂(著者の似顔絵ではなく聖ヒエ ロニムス)