倫敦の狐
Fox in London
池田光穂
課題
次のYou Tube の画像の分析を通して、(i)キツネの「気分」の観点からと、(ii)撮影者の「気分」を想像して、人間がおこなう動物の「擬人化的解釈」について考察し てみよう。まずは、ビデオをみてみよう!
◎London Fox Visiting(2分32秒) http://www.youtube.com/watch?v=QYRqQojcE-Q
――註釈(n)の多い、初稿の課題の文章――
現在、倫敦(1)市内(都市部)には1万から1万2千匹のキツネがいるらしい(2)。上のYou Tube の画像(3)の分析を通して、主に、(i)キツネの「気分」の観点――ウィトゲンシュタインなら「君はキツネではないので、キツネの気分などわからないだ ろう」(4)と諭されるかもしれない――からと、(ii)画像の末尾で何かしらの「言葉」をつぶやく撮影者の「気分」――再びウィトゲンシュタインなら 「君はこの撮影者ではないので、この撮影者の気分などわからないだろう」(5)と再度諭すだろう[か]――を想像して、人間がおこなう動物の「擬人化的解 釈」(6)について考察してみよう。
この課題の出題者:垂水源之介(ガリラヤのイェシューを愛する(7)男
註釈
(1)ロンドン(London)と書くべきところを「倫敦」としたのは、漢字のほうが恰好良いと思ったことと(その作品をまともに読んだことのない)夏目
漱石「倫敦塔」に敬意――なんで?――を表してのことだった。ちなみに「倫敦塔」には動物に関する比喩が冒頭に登場するが、これは(御殿場について知らな
いにも関わらず、その「語感」とファニア・パスカル風に闇雲に憧れるのだが)私の好きなものである。漱石は書きます。「まるで御殿場の兎が急に日本橋の真
中へ抛り出されたような心持ち」。そこで漱石に私は突っ込みを入れるでしょう、「君は御殿場のウサギの気持ちが分かるのかい?」と。
(2)この情報を知ったのは2012年5月31日の朝の某公共放送のニュースだった。他の外国の報道番組やインターネットなどでネタを仕入れ、適当に独自 インタビューを入れた「いい加減」なプチ・エンタメ企画だった(と思う)。しかし、キタキツネと「共生」していたかのような生活経験のあった元札幌市民の 私としては、倫敦の市民が経験していることは、なにか他人事のように思えなかった――だからと言って北摂住民としてのイタチやタヌキとの共存が意識化する ことはなかった――し、おまけに私の最近の研究テーマのひとつに昨今の「人間と動物」の関係についての文化人類学的研究というものがあり、出勤前の一時に ちょっとネットで情報検索して(=ググって)みたのだった。ちなみに、北海道でのキタキツネと人間様の共存の話題で困ったことが、寄生虫エキノコックス (Echinococcus, 条虫)の種間での感染症の問題だったのだ。――以上、西村先生の「現場力と実践知」の課題風の解説。
(3)最初、私は、You Tube ではなくGoogle の画像検索をおこない、その検索語を “fox in london” と入力したところ、狐の他に妙齢の女性の写真が出てきたのである!3秒ほどで、その理由が氷解したが、それはどうも倫敦のナイトクラブに由来するものらし い。キツネにはずる賢いという意味(=文化表象)のほかに、牝狐に表現されるように妖艶だが信用できない、という意味もあることはお分かりのはずだ――だ からといってFirefox はそれほど「悪い」ブラウザーのようにも思えないが?!詳しくはEdmand Learch の論文(1964) “Anthropological aspects of language,” を参照。脱線ついでに漱石「倫敦塔」の終わりあたりには「倫敦にゃだいぶ別嬪がいますよ、少し気をつけないと険呑ですぜ」という台詞がある。
(4)ファニア・パスカルへのお見舞いでは彼は「車に引かれた犬の気持ちなどわからないくせに」と発話したので、「君はキツネではないので」という理由を 述べた条件節は、私の創作である。だから私のウィトゲンシュタインは、その哲学の部分を含めて創作=でっち上げである。
(5)「キツネ」の代わりに「撮影者という人間」を入れ替えたとたんに、我々は違和感を感じなくなるのはなぜであろうか? 私の解答は、ウィトゲンシュタ イン的批判力が、こと他人になれば、犬(あるいはキツネ)よりも鈍るからである。この落差は、ファインダーを覗いて写真を撮る塩銀写真のかつてのキャメラ マンとモニターを見ながら写メをとる現代人の「視座と認知の違い」を指摘した宮本友介氏の指摘(確か2012年5月22日)を思い出す。俺達は、轢かれた 犬の経験など知らないのに、平気で轢かれた犬になってしまう――その「なりきりの気分」はそこそこ人間生活を豊かにする原因にもなっているのだが。
(6)これが、この授業の課題のメイントピックです。つまり、YouTube の映像をみて、キツネのしぐさ(とカメラの動きも含めた人間の側の反応)を「擬人主義的に解説すること」これです!
(7)ガリラヤのイェシューとはケセン語で、イエス・キリストのことです。ケセン語とは、いわゆる日本語の気仙沼地方の方言のことですが、日本のケセン語 の泰斗である山浦玄嗣先生は、(吉里吉里語と同様)独自の文化と構造をもつ言語であるとされています。さて、イエス・キリストを愛する、という問題です ね。これも以前の授業で披瀝しましたが、ファニア・パスカルが覚えているウィトゲンシュタインの言葉「君はイエスを愛することはできないよ。なぜならイエ スを知らないんだから」。鋭いけれど、唐突な話をする点ではイエス・キリストも同じです――もうこの表現じたいが誤謬の固まりですけど。だから――何で? ――ギリシャ語福音書から山浦玄嗣訳でルカ6:27-36 をプレゼントします。これは道徳あるいは哲学上の観点からではなく、日本語の「語感」という観点からの考察するための資料としてです。
「6:27しかし、聞いているあなたがたに言う。敵
を愛し、憎む者に親切にせよ。 6:28のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。
6:29あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。
6:30あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。
6:31人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。
6:32自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。
6:33自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。
6:34また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
6:35しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者
の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。
6:36あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」ルカによる福音書)。
参照情報:ウィトゲンシュタイン『哲学探究』と動 物:http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
25. 人はときに、動物が話さないのは、彼らに精神的な能力が欠如しているからだ、と言う。つまり、「動物は考えない。ゆえに話さない」というわけだ。だが、動 物は [考えないから話さないのではなく] まさに話さないのである。より正確には、動物は ―― 原初的な言語形態を無視すれば ―― 言語を使用しないのである。 ―― 命令する、質問する、数える、雑談するなどの言語行為は、行く、食べる、飲む、遊ぶなどの行為と同様に、私たちの自然史に属しているのである。
495. 明らかなことだが、ある人間(または動物)がある記号に対して私が望むように反応し、他の記号に対してはそうしないということを確認できるのは、経験に よってである。例えばある人が「―→」という記号に対しては右に、「←―」という記号に対しては左に進むが、「o―|」という記号に対しては「―→」とい う記号と同じようには反応しない、等々。/そう、私はどんな事例も考え出す必要は無く、ドイツ語だけを学んだ人間は、ドイツ語を使うことでしか操れないと いう現実を考察すれば足りるのである。(なぜならいま私は、ドイツ語の習得者であるということを、ある種の影響に対するメカニズムの調節と見なしているか らである。だから、他の人がドイツ語を学んだのか、あるいは生まれつきドイツ語の文に対して、普通の人間がドイツ語を習得した場合と同じように反応するの かどうかということは、気にしなくてよいからである。)
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