社会的/個人的寛容の涵養について
On
our own tolerance and harm reduction policy
オランダでのヘロイン中毒の治療のメタドン維持療法は(個人差はあるだろうが)利用者も(ハームリダクションに維持している)看護師からも、か なり大量に摂り続けないとならず、副作用もひどく(「大量に摂取したので現在でも視力の調整がきかない」という語りを聞いた)、当事者にもケアする側に も、かならずしも良くない(=中毒者と医療施設をつなぎ止めてケア監視をモニターする意義以外にはとりわけ患者の身体を健康に復帰させるには大きな意義を もたない)という経験を聞いた。ここでいうハームリダクションとは、個人ならびに社会 がもたらす危害(ハーム、harm)を軽減する(リダクション、reduction)ための社会実践のことである。
そういう意見を聞くと、薬物中毒からの回復には、医療モデルによる治療的介入と同時に禁断方向へもっていくほうがよいのか なという気になってしまう。
だからと言って、法的厳罰化は、利用者と薬物利用環境のアンダーグラウンド化と、薬物利用そものを社会的に嫌悪させてしまい《本当は中毒から回 復したい》という一縷の望み回路を切断してしまう。薬物中毒から回復した元利用者の語りのなかには、自己内省的で健全な振り返りがみられる一方で、社会的 偏見により、社会も自らも逸脱者としてネグレクトしている社会的な認知が、薬物利用をエスカレートするという悪循環がみられる。
薬物利用者を道徳的に断罪するのは簡単だが、そのような中毒は、世界各地おこるマネーゲームですってんてんになる人にもみらるような気がして、 より広い遠近法的観点からは、どうしても、犠牲者や「犯罪者」に対する リハビリや社会復帰に関する常人の寛容的態度の涵養がどうしても不可欠になるようだ。
ユダヤ人コミュニティの人たちに怒られるかもしれないが、オランダがナチスドイツに占領されてから寛容政策から収容所送りに協力したことに戦後 ずっと公的な謝罪に関しては論争があったり、インドネシア政府からの歴史的謝罪に対して現在も政府は応答していないということと僕には二重写しになる。ア ムステルダムにおける、アンネの隠れ家の前の観光客に長い長い行列と、元ホームレスや元ヤク中の人たちのガイドツアーの2つの人気は、人びとが、抑圧され た人/差別された人たちに対する(それこそプチブル的な感傷かもしれないが)権利の復権を試みたい儚い希望の行為の顕れかもしれない。
図はイメージです:1)薬物依存に関する保健省の対策のスキーム、2)アンネフランクの肖像(ユダヤ人富豪の運営していた劇場の跡地にある国立ホロコースト 博物館)、3)インドネシア植民地における公教育の状況に関するモデル展示(トローペン博物館)
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「ヘロインを止めたいって?ディーラ摘発に懸賞金を出せ!死か生か?」
Colombian drug cartel put a $70K bounty on this dog - CBS News, July 27,2018. - コロンビアの麻薬カルテルが麻薬探索で摘発に貢献している探知犬に800万円(相当)の殺害懸賞金をかけたという。
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文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099