他者からの指示を自問自答化する演習
本当に「何をしてもいい」と指示されることは「自分が何をすべきかが問われているのだ?」と、他者 からの指示を、自己の疑問に《転換》することになるのだ。
池田光穂
課題
具材を調理する方法も表現方法も各グルー
プの自由である。なにをどのように話してもよい、あるいは話さなくてもよい——ただし君たちはその沈黙に耐えられる
か? この素材で3,40分皆さんで、ごった煮しながら鍋をつついた半完成品(=中間情況報告)を私たちシェフ(=教員)に見せてほしい。これがこの日の
課題であった——ただしセクハラやそれを偽装した手口を使えば即Red
cardだ(=毒物や工業製品の混入があれば食品衛生法に抵触し「自然食品」と名乗れないように)。
2つの情景(2016年6月7日とDe Docta Ignorantia,1440, 写本)
課題提供者のコメント
何を論じてもよいと指示して(グループ学 習を通して)議論をしていただいたのに、ある受講者からは難しいとの感想をもらった。「何を論じてもよい」わけだから、難しいというのは、課題ではなく、 自分の頭が取り組めないという自体が「難しかった」という究極の自分の無知が証明されたのに(=図らずも自分で証明したのに)、そのことにお気付きでな かったようだ。本当に「何をしてもいい」と指示されることは、そ れが反響(エコー)して自分に返って「自分が何をすべきかが問われているのだ?」と、他者 からの指示を、自己の疑問に《転換》することにほかならないのだ。
ここから得られる、授業運営に関する教訓
クリティカル・シンキングの授業を受けた
受講者が「あなたが得た教訓は?」という主宰者に対して「はい!たくさん議論して、一生懸命回答を求めることを学びました!」と元気よくリプライしたら、
その授業の主宰者は、少なくともその受講者においてはクリティカル・シンキングの《精髄》を完全に外してしまったことに、即時に反応(クリシン的に)修復
を試みなければならない。——「クリシン救命法」より。
この課題のページ
自己との会話、あるいは言説の調理[学]入門(conversation with
myself, or how to cook my own identity)
実際の各グループの発表記録
関連情報