シコツアイノ頌歌
Anthem for Sikotuaino
池田光穂
更科源蔵と吉田豊翻訳になる、松浦武四郎『近世蝦夷 人物誌』――書名は『アイヌ人物誌』平凡社、2002年――がある。その参は、弐ともに安政9年(1826)に箱館奉行に献上されたが、出版相成らず、子 孫の手によって、武四郎の死後に出版された(浜口 2007:91)。同書の「参編 巻の下」に「小仙シコツアイノ」という、幕府の同化政策に抵抗したのか、山中に引きこもり、仙人のような生活をしている 男に、武四郎が邂逅して、話を聞く話がある。
更科と吉田の翻訳は以下のようなものである (Pp.337-339)。支配民族からの抑圧に対して、自分の同胞を見届けた いと、自らの長命を願い仙人と化してしまったシコツアイノの思いを武四郎は 採集している。
「穀類を食べなくなってから二十年余、塩もまた、 ずっとなめたことがないというので、米塩、糸、針などを与え、各地の話を聞いてから「おまえはもともと十勝アイヌなのに、どうしてシコツアイノと名乗るの か」と尋ねた。
彼は「土地の名を名乗れば長生きしますので」と言う ので「そのように穀物も塩も食べずに長生きをして、なにか楽しいことがあるのか」と問うた
するとシコツアイノは答えた。
※「わしは四十七、八になりますが、これまでにも世 の中がいろいろと変わるのを見てきました。あと四十年、五十年と生きていれば、さだめしいろいろなことを見聞できると思って長生きを願っているのです。衣 食住の望みはなにもありませぬ。ただ、この蝦夷地の行く末を見届けたいだ けであります。そう思っているうちに松前藩の支配は終わり、蝦夷地は江戸のご領分となりました。そうなれば、こんどはアイヌの面倒をよくみてくださるかと 思い、山を降りて里で話を聞いてみたところ、下々の者を痛めつけるやり方は、松前藩のころとさして変わってはおりませぬ。このようなことでは、昔あったよ うに、ロシア人やその他の外国人どもがやってきて、アイヌを手なずげたならば、この 蝦夷地はどうなってしまうことやらと、それを見届けたいがために、こうして長命を願っているのであります。また、このたびは、アイヌに月代 (さかやき)を剃らせて髪を和人のようにせよとのことではありますが、当地のアイヌたちは、だれも剃ろうとはいたしません。それならばどのような姿に変え られるのじゃろうかと、それが心配であります」と涙を流し、ではおさらばと別れをつげて山に入ろうとするのであった。
そこで古い襦袢一枚を与え、鍋は持っているかと尋ね
ると、破れ鍋一枚を持っていたが今は半分になってしまったとのことゆえ、それならば、箱館に帰ってから必ず鍋を一枚やるからと約束したところ、さらばさら
ばと、後も振り返えず、足早に山中へと去って行った」
(Pp.337-339)。
※からの「シコツアイノの発言」――は語り手である 武四郎がシコツアイノの口ぶりをそのまま物語るという意味でロシア文学理論の《スカース》に他ならないが――の原文は以下のとおりである。
「我は四十七八歳になりけるが、その間にも世のさま
いろいろ変じたるに、今、四拾五十年も生なば定而(さだめて)いろいろのまた事を見聞すべしと思ふが故に此の如く長命を望む也。只衣食住の三つに有て望な
し、只我ら齢(よはひ)を保て此蝦夷地の成行を見んと思ふ也。左
(さ)思ひ居る間に松前の領分もやみ、江戸の御料と成りしが、此江戸の御料と成りしかば定而土人の御世話も能(よ)く成下さるべしと思ひ、山を追々下り来
りて里の話を聞に、其下を戒懲なし給ふことはさして私領にも異なる事なし。此分にて其昔しも来りし赤狄〔ロシア人〕、または色々遠き人等来りて昔も土人を
撫(なづ)け給ひしと聞が、其如くなし給ふ事有なば此島如何成行やらんと、夫(そ
れ)のみ行衛(ゆくへ)を見とどけたく思ふまま只長寿を望む也。此度は土人の髪を和人風に月代(さかやき)を剃れとは仰らるれど、此土人月
代を皆剃らぬ間に如何様成(いかそうなる)風俗に致されねばなるまじきかと案じらる(『近世蝦夷人物誌』1857――『松浦武四郎紀行集 下』
Pp.205-206:ただし引用は[香西 2009:95])。
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