はじめによんでください

中央アメリカにおける人種=民族構成を再考する

Rethinking rece-ethnic categories in Central America

Giovanni Battista Salvi da Sassoferrato, 1609-1685

解説:池田光穂

【予稿集原稿】オリジナルタイトル:「「支配的存在」を名指し、可 視化する試みについて:中央アメリカにおける人種=民族構成 の近代を再考する」

この研究では、ラテンアメリカ(とりわけ中央アメリ カ)における人種=民族カテゴリーに関するエスノグラフィーやエスノヒストリーを再検討しつつ、私自身がその地を訪れてきた際に参照してきた文献にもとづ く知識が私のフィールド経験とどのように交錯してきたのかについて考察する。その際に必要とされるのが、外在化された他者の文化を叙述するためにフィール ドに赴く知識・情動・実践感覚について多角的な方法を使って確実な間主観的事実(と政治権力関係——後者は私の追記)を明らかにするトリアンギュレーショ ン手法である(Denzin 1989)。

私は中央アメリカにおけるメスティソ(混血)[ラディーノ]や先住 民の研究について調査研究をおこなってきた、またその民族誌記述にもとづく研究論文を作成してきた。On the origine of the word, "ladono".

人々の「文化」という肖像画を描く際に、私は自らの 不可 視なものとして透明化し、なるべく論文から調査者の姿を排除しようと努めてきた。しかしジェームズ・クリフォード(1986)が指摘するように「文化を静 止させるための試みは、つねに単純化と排除、当面の焦点の選択、特別な自己と他者の関係の構築、権力関係の強要や駆け引きという問題を引き起こす」のであ る。このような書記法が成り立たなく経験をもったのは、マムの先住民からグアテマラの内戦期における親族への傷ましい拷問の記憶について聞き取った時以降 である(池田 2000,2002)。政府軍から民族浄化に近い対象になった当時の先住民の姿を日本軍に追われる中国大陸の人たちに重ねる私の感情移入の叙述は、同業者 のリベラルな査読者には受け入れられた。しかし政府軍によって占拠され真空になった共同体の再建後の北米移民労働によるバブルマネーによる経済的熱狂を、 戦後日本の高度経済成長による社会規範の大変動と重ねて見る私の解釈は、異分野と思われる地域研究者の別のリベラルな査読者からは、戦争や政治紛争による 社会破壊こそが経済復興の原動力だと倒錯的な見方をしていると酷く批判された。研究者が自分の知識を動員して自己の社会を参照枠とすることに、許されるこ とと許されない感情があることに私は気付いた。

2014年以降は太田好信氏の呼びかけによる国立民 族学博物館共同研究会「政治的分類」への参加により、これまでの「人種」やエスニシティ研究に欠落する支配的存在(=白人性の存在形態)を可視化する名指 しに関する視座が人類学者の中に欠落してきた事実が披露され、研究会のたびに私は新たな発見をした。

太田氏ならびに研究班員からの示唆とは、これまで人 類学は研究対象(例えば先住民)を描くことに専念してきたが、その対象が調査をおこなっている人類学者やその周辺にいる支配者(農園主や工場長)の人種や 民族をどのように名指し、可視化してきたかという状況について、断片的な知識しかないのである。またそのような他者表象は、静態的な文化の肖像画としての 民族誌の中にはほとんど登場しない。支配的存在は、組織的抵抗や政治的対立、あるいは経済的搾取などを取り扱うテーマのなかで権力や抑圧者として一枚岩的 に描かれてきた。重要なことは、人類学者や支配的存在に対する人々の叙述は、彼/彼女ら自身の有りようや人種=民族間関係のポジショナリティを、他者表象 を通して顕すと同時に、自分たちが何ものであるかということを自ら語っていることに繋がるのである。それは人類学者が調査対象を描いている時に、同時に行 われている行為に他ならない。それらが方法論的認識においても、政治的権力関係においても非対称なものであれ、これらの現象の発見と自覚は人類学の有りよ うに新たな反省の契機をもたらす可能性を有する(太田 2015,2016)。

この研究は、1984年青年海外協力隊々員として中 央アメリカ・ホンジュラスに保健省ボランティアに派遣された時期から2014年11月にメキシコにおける老人表象の観察のために短い現地調査に訪れるまで のおよそ30年間の経験のなかからいくつかの事例を交えて報告する。つまり、メスティソ農民が、農園主をパトロン的白人とみなすなかで自分たちの肌の色を 「浅黒い」ものを認識し、肌の色の違いが人種の違い隠喩のみならず、相対的な権力関係の布置のイメージを形成し黒人や中国人に対する「ほんのわずか」の自 己の優越性を構成する。メソアメリカ先住民の伝統的な民族舞踊や征服の古典劇の中にみられる征服者である白人の「スペイン人」とイベリア半島におけるレコ ンキスタ時代従属関係にあった「モロ(ムーア)人」や、トリックスター的性格をもつ猿や雄牛などの動物表象、(唯一、先住民性を表象する寡黙な)野生鹿が 複雑に絡み合う華麗な衣装のポリフォニーが、定型と即興と創作の複雑な関係のなかで演じられる。以上、これらの文化表象にみられる人種=民族関係は不変で はなく冷戦期の政治状況や移民労働による外貨流入や麻薬取引を資金源にするマフィアによる社会的脅威のなかで微妙に変化する。ポストコロニアルな中央アメ リカの政治状況のなかで流動化する人種=民族関係の動態的把握の途を模索する。

クレジット:池田光穂「「支配的存在」を名指し、可 視化する試みについて:中央アメリカにおける人種=民族構成 の近代を再考する」

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その他の情報 発表原稿《JASCAMikeda170528-1-9.pdf》パスワードは子文 字半角で《cscd123456789》です

【口頭発表の内容】「支配的存在」を名指し、可視化 する試みについて:中央アメリカにおける人種構成の近代を再考する。日本文化人類学会第51回研究大会神戸大学鶴甲第一キャンパス:2017年5月28日 B会場(B16)0900-0920

章立て

本文

1.僕の経験

今からちょうど30年前のことです。1987年暮れ からグアテマラ西部クチュマタン高地のマム系先住民の町に2か月余り過ごしました。当時、町にあったのは2つの旅籠屋としか言いようのないホテルでした。 混血であるラディーノのホテルのホストファミリーの主人は、先住民に対してはマム語を話し 非常にフレンドリーであり、家族のメンバーは穏健派のプロテスタ ントの篤信の一家でもありました。

この町に到達する前に、僕は落合一泰さんの『マ ヤ: 古代から現代へ』(1984)という初学者向けのグラフィクス本を読んでいました。そこでは、メキシコ南部のチアパス高原のツォツィル・マヤとラ ディーノ の間の陰険な民族間関係、より具体的には敵対関係に満ちていることが記述の中にも窺われました。実際にそのような情景を見事に表現する一葉の写真があり、 今でも眼に焼き付いています。しかしながら、この町のラディーノ勢力の弱さと先住民のラディーノに対する寛容的な態度は、僕にとってチアパス高原のマヤ系 先住民とは著しく違うように思えました。両者の関係における宥和な関係は、ゲリラ問題が沈静化した1980年代の終わり以降、ラディーノの多くが、役所の 会計係、電信郵便局員、商店主、教師など、かつてのエスニックな既得権を細々と温存させていることと無関係ではないように思われました。実際、この町を 襲ったゲリラの占拠と、その後のグアテマラ国軍の恐怖による支配のなかで、多くのラディーノがこの町を放棄していったこと。戻ってきた数少ないラディーノ の人たちは、僕のホストファミリーの主人と同様、この土地に強い愛着をもつ人だからということもあったと思われます。

僕の最初のインフォーマントであった小学校教師は、 県庁所在地の都市で師範学校に入学し、下宿生活の経験をしていました。彼によると、師範学校においても、また町の街路においてもラディーノから受ける先住 民差別は過酷であったと、よく述懐していました。グアテマラの各地で1960年代中ごろから1980年頃に師範学校に入学した先住民の人たちは、ラディー ノ教師たちから受けた過酷な人種差別の思い出をよく語っていました。特に、仲間同士での先住民言語の会話、スペイン語の正書法から逸脱したミススペルや文 法的間違いなどでは、教師たちは「インディオ!」という誹謗語を常用していて、体罰などを加えたといいます。そのため、生徒たちは、すくなくとも外面的に はラディーノ化して、卒業後は、自分の出身村での教育に携わることを嫌悪し、別の赴任地を希望したりします。民族衣装が異なるために伝統衣裳を脱いだ先住 民の服装はラディーノ化します。あるいは、別の先住民グループの地域に派遣されても、ラディーノ(マ ム語で男性形はmos、女性形はxnula と称す)として振る舞うようになります。マムの教師たちは他の二大マヤ言語グループであるキチェとカクチケルではkaxlan という語彙であることもよく知っています(ブラウンとマックスウェルの教科書(2006)では「スペイン人、外国人、形容詞の外国の/スペインの」と記 載)。先住民の教師どうしで、スペイン語で「支配的存在」を表象する言葉づかいについて情報を交換する機会もあるのでしょう。ただし、自らの出身地を隠す 者はおらず、その地域の名称から父兄も彼が先住民であることを知っています。もちろん、そのようにラディーノ化した同胞先住民を(言語を失ったことを悲劇 と表現することもありますが)そのこと自体を同胞者どうしで蔑むエートスは見られません。

さて、ラディーノの側ですが、この田舎町で知り合っ た幾ばくかのラディーノの人たちに地元の先住民に対する強い嫌悪感をもつこともついぞ見たことがありません。それは、彼らが付き合う多くの人たちが具体的 な顔をもった先住民たちで、自分たちの生業には不可欠な顧客であり、また時には姻戚関係をもつこともあるからかもしれません。しかし、多数派の先住民の側 には、そのような具体的な関係をもつ機会が少なく、しばしば、カテゴリーとしてのラディーノに対する不信感を表明することはあります。その理由はこの町の 外での被差別経験を味わった人がほとんどだからです。また、バスの中でラディーノの車掌助手などが、混んでいる車内で、高齢者の先住民を、"Veni mamacita/ papacita"(「こっちこい、おっかあ/おっとう!」)と軽口まじりで座席を案内するのは、長幼の礼を重んじる先住民には堪え難い侮蔑表現です。そ のことをよく理解する地元の先住民の人たちは、内戦時代にラディーノが経営していたバス会社のバスが、先住民も含まれたゲリラによって焼き打ちされた後 に、今でも現代遺跡よろしく赤茶けたボディを曝しているバスの事件の来歴を昨日のように思いだします。そして、和平合意後の経済復興のなかで、地元先住民 からもプチブルジョアが誕生し、新しいバス会社を運営するようになると「やはりバスは地元の経営者じゃないとな」と言い、その先住民経営の会社を贔屓にす るようになるのです。

さて、この町の小学校のラディーノ校長はこう述懐し ました。当時、翌年の新小学1年生からはじまる義務教育の登録のために、前年11月末から12月の休暇中に、地元の教師たちはそれぞれの父兄宅を訪問し て、入学を勧めます。しかし、先住民の子供たちの父兄は、遠方に小学校校長の姿を認めると、子供を家屋の目立たないところに隠し「自分の家には小学校に通 う年頃の子供はいない」と嘘をついた、といいます。そして現在、「今では先住民は男女ともに大学まで行かせようとするけど」と隔世の感を隠しません。彼 は、現在、県庁所在地の郊外に自分の小さな農園をもっているのですが、農作業をする時には、先住民スタイルの独特の帽子をかぶり、大柄の彼は、先住民に造 らせた、特注の先住民衣装を羽織ることを躊躇しません。これは多くのラディーノが先住民の民族衣装を僕のような外国人調査者に絶賛することはあれ、彼のよ うに自分で注文してそれを羽織ることはしないのとは好対照です。先住民の人たちは、彼のような振る舞いを、ある種の先住民の善良なパトロンのような眼差し でみているようです。

2.考察

この発表における私の発表予稿集をご覧ください (42ページ:B16)。予稿集は左側のコラムに3つのパラグラフ、右側に2つのパラグラフ、都合5つのパラグラフがあります。それぞれに番号を付し現時 点での私の見解を含めて、それぞれの要約をしましょう。

第1パラグラフ:中央アメリカ・グアテマラ共和国西 部高地における先住民族であるマムの人びとを調査してきた経験から、フィールドワークに おける私という人類学者=エスノグラファーと、調査対象である具体 的な顔をもつマムの人びとと、そして研究のアウトカムの3つの関係を述べるのが、この発表の目的でした。

第2パラグラフ:現地の人と仲良く交流したり、議論 したり、時に無視されたり指弾されたりする社会的経験を通して、私たちは研究報告という成果を出します。そして、その研究成果という報告物もまた、同じ研 究者という同僚からの共感、批判、あるいは無視という過程を通して、社会性というものを持ちます。

第3パラグラフ:本学会会員の太田好信さんが代表の 2014年10月からはじまった民博研究会「政治的分類」への参加は、私にとってこれまでのフィールド経験と、調査対象であるマム先住民の人たちとのさま ざまな政治的関係についての反省と再考をもたらすことになりました。とりわけ「支配的存在」と先住民との間のマクロからミクロにいたる諸関係の政治権力的 位相についてです。

第4パラグラフ:太田さんの指摘を再確認すると、人 類学者や支配的存在に対する人々の叙述は、彼/彼女ら自身のありようや人種・民族間関係のポジショナリティを、他者表象を通して顕すと同時に、自分たちが 何ものであるかということを自ら語っていることに繋がります。「支配的存在」の可視化という手法は、人類学の有りように新たな反省の契機をもたらすはずで す。

最後の第5パラグラフは、今、私が話している内容そ のものです。

3.結論

民族誌における権力(power)と詩学 (poetics)の位相について考えようと提起した、不思議で/そしてさまざまな局面において今なお論争が継続中(contested)であるクリ フォードとマーカス編集の『文化を書く』論集(1986)。そして、それ よりも13年前に発行されたタラル・アサド編の『人類学と植民地的出会い』 (1973)。ジェームズ・クリフォードの『文化の窮状』(1988)。そして太田 好信さんの一連の著作、これらの論者の顰(ひそ)みに倣えば、こう言う ことができます。私たちの調査対象となる人たち自身が、「支配的存在」を名指し、可視化する試みを日々の実践のなかでおこなっているのが事実だとすれば、 そのような感性を人類学者は、一方では{他者}に同一化しつつ{{他者}の他者}に対して、他方では、{{他者}の他者}である自分自身に対しておこなう はずです。このような複雑でかつ多義的、そしてマルチパースペクティブな立場にいるにも拘わらず、人類学者は民族誌記述の中で自己そのものを消去し、そし て自分以外の{{他者}の他者}つまりここで言うところの「支配的存在」を忘却しているのだということを。研究会における太田さんの指摘に気付くまでは私 にはこのことに関して無知蒙昧の状態にありました。

本発表の結論を3つにまとめます。

1.現地の人たちにとっての「支配的存在」を名指 し、可視化する試みにおける、人類学者の位置とはいかなるものでしょうか?:それは、さまざまな社会的カテゴリーの権力関係が交錯する場です。それぞれ固 有の立場から、人類学者がもっとも「使い慣れている」人種・民族・ジェンダーなどで表現される「支配的存在」の他に、雇用—被雇用関係、商業的関係、ある いは警察や軍隊さらにはマフィアなどの犯罪集団などとの関係もあぶり出されるでしょう。民族誌のなかに権力関係の存在を示唆するだけではなく、それらの構 造的な連関を記述することの意義を見出すことが必要です。そして、次に……

2.人類学者は被調査者に対して空気のような関係で はありえません:先住民の人たちが言う「お前は●●のような外国人や、あの嫌な権力者でもなく、心の許せる友人だ」というのが、私たちにとっては最も心地 よいリップサービスでしょう。しかしながら、このような発語や発言は仮にいろいろなところで実際にあったとしても、それ自体が考察対象であるべきでしょ う。「支配的存在」に面と向かって批判を投げかける者はいません——権力が沈黙を要求するからです。それは「被支配的存在」への支配的存在が投げかける侮 蔑や中傷の乱発(あるいはもはや必要のない階級的呪詛)とは好対照となります。

3.どのように観られようとも、また、それに対し て、個々に、どのように応答してもなお、最終的に、どのような関係でありたいのかについて、人類学者各人が調査対象者/集団ととりむすぶ関係を常にモニ ターしておき、維持更新することは重要です:個々の人類学者が抱く良好な関係を、現地社会の理解を通して、どう前向きに構築することができるのかは、研究 者の皆さん各人の課題であると共に、私たち全体の課題でもあります。現地の人たちの未だ解明されていない実践に、人類学者は、今日の流行りの言葉で言えば 「寄り添う」べきなのか? それとも距離をとって私たちは客観的記述者を目指すべきなのでしょうか?_もちろん後者の立場はミッシェル・レーリスの1950年3月7日の科学勤労者協 会(人文科学部門)主催の「植民地主義を前にした民族誌学者」の講演以降、ほとんどありえない非常識な見解になってしまいました。では?「寄り添う」とい うことばを、応用人類学や公共人類学のパラダイムの中で飼いならし、調査倫理項目を遵守しつつ幾ばくかの社会的貢献をすれば事足りるのでしょうか?_どう も、話はそれだけではないように思われます。

私たちの紡ぐ民族誌が、何度も何度も書き直されるよ うな経験の蓄積と反省の産物であれば、それは表象される現地の人たちとの対話を媒介する働きをもつことは明白です。民族誌に本来の意味などないかもしれま せんが、民族誌家の各人がもつ/もっていた理念や夢を、そしてそれに基づく改訂による部分的真実そこで取り戻すことができるのではないでしょうか? その 時にはじめて{他者}のみならず{{他者}の他者}に対しても民族誌は開かれたものになるのだと思います。

ご静聴ありがとうございました。

■口頭発表で割愛した部分

■伝統的宗教について

この町は、伝統的なマヤ信仰が長く支配していまし た。しかし北米のメリノール教会の神父がやってきた1960年頃から、フォークカトリシズム(Folk Catholicism) と深く結びついた宗教=社会的祭礼組織、例えばカルゴ体系やコ フラディーアの制度などが、教会の外に追い出されました。その結果、フォークカトリシズムの信者たちはトウモロコシ畑(ミルパ)のはずれにある小屋を設置 して細々と信仰を守っていました。1970年代には、さらにローマ・カソリック儀典に忠実化するアクション・カトリカ運動の普及が進み、グアテマラ西部高 地のカトリック活動は、ますます、その対抗勢力と同様のプロテスタント化の傾向を強めました。従って、この町では、人類学者が調査したいような伝統的宗教 文化は、政府軍のゲリラ掃討作戦とこれらの「宗教改革」によって完全に衰退していました。あの人類学者フランク・カンシアンが報告した「カルゴ体系」など は存在しませんでした。カルゴ体系とは、教会の組織の中の信徒組織なかで経済的蕩尽をおこないながら政治的威信を上昇させる政治=経済体制です。あるい は、この地域を調査したマウド・オークスの民族誌に見られる、先史古代から現代にまで連綿と続くマヤ伝統的宗教文化も、実質上、地下運動化しており、町の 人は伝統的な宗教職能者である「chiman tnam など、もういないよ」とつれなく答えたのです。

■先住民になる(going native)について

というわけでほとんど先住民から構成された町で調査 をしていた僕は、超マイナーな「民族」であるラディーノの旅籠屋で下宿して、かつ先住民の家族と儀礼的親族関係を結ぶという、絵に書いたような「民族の垣 根を超えた人間的付きあい」の見本みたいな調査をしていました。あるいはそのような自尊心に満足していたのかもしれません。先の落合さんの書物には、彼は 民族衣装を着てフィールドワークをして、地元民から「眼鏡のカルロス」と呼ばれるようになったという記述があります。もちろん僕はそのことに心底敬服しま した。先住民になる(going native)というのは、その当時の僕の憧れだったからです。

ミッシェル・レリスのテーゼ(抄)】https: //goo.gl/SnThrb

・文化保存=文化の化石化にそれほど大きな意味はな い。・彼らが自分たちの文化を利用し使うために文書館をもつことは重要である。・そのためには、被植民地の知識人たちに、成果を普及させなければならな い。・現地の文化の重要性について、再認識させることも責務のひとつ。そして、西洋に対する劣等感を除去すること。・識字を通した、彼らへの能力付与も重 要な課題。

【ラディーノ(ladino) に関する覚書】On the origine of the word, "ladono"

ラディーノとは、先住民と混血したスペイン語の単一 使用者(メスティーソ)のことであるが、グアテマラとメキシコ南部のチアパス地方でしか使われない呼称である。

ただし『ラテンアメリカ歴史文化百科事典』 (2009)では、ラディーノという言葉に2つの意味があるという。つまり、より古い用語として、(a)イベリア半島出身のセファルディムの話していたヘ ブライとスペインの混成語(Ladino)のことである。この語は1942年のイベリア半島のグラナダ陥落であるレコンキスタの完了以降にユダヤ人の間に 急速に普及した。とりわけハコブ・クリ(Jacob Culi, c1685-1732)の旧約聖書であるトーラーの解説本『メアムロエズ(Me–Am Lo'ez)』が著名である。もうひとつは、(b)中央アメリカとりわけ、グアテマラとチアパスにおける、先住民と征服者の混血すなわちメスティーソの呼 称のこと。あるいはそのような子孫の末裔で、先住民文化を共有しながらも言語生活では、スペイン語のモノリンガル(単一言語話者)の人びとのことをさす。 現在では、先住民の生活スタイルや言語を捨てた人を、いささか軽蔑をニュアンスをもって言われるのがこのラディーノである。この後者(b)の用法が、冒頭 にあげた本書に最もふさわしい定義であると言える。/だが、ラディーノという用語には、歴史的にみるともう少し複雑な事情がある。スペイン語辞書の決定版 とも言える『スペイン王立アカデミースペイン語辞書』(2001)によると、ラディーノ/ラディーナ(ladino/ ladina)には、その語源はラテン語のラティーヌス(latīnus)に遡れ、用語法としては、次の8つの意味があると解説されている。すなわち (1)形容詞として、狡猾、抜け目のない、ずる賢いことを示す言葉。それ以下は名詞で(2)中米における混血(mestizo)のこと。(3)中米におけ るスペイン語しか話せない混血。(4)古いロマンス語や古スペイン語の言い回し。(5)普通の言い方でない固有の言い回しを使う人。(6)ローマ帝国のレ ティアで話されていた古語、[ガリア系の?]レティア(Retia)語。(7)言語学の用語で、統語や語彙はヘブライ語であるが、表記法はラテン文字による、イベリア半島のユダヤ人であ るセファルディムが使う[旧約聖書=トーラーを中心とする]宗教言語。そして最後に(8)言語学上の用語で、中世のスペイン東部でユダヤ人が話していたス ペイン語の変種とみなされるもの、の以上8つからなる。ちなみに言語としてのラディーノはすでに話者がいなくなった消滅語である。/ラテンアメリカにおけ る混血の形成は、ヨーロッパの白人の征服者(españoles)、先住民(indios)、奴隷労働者として連れてこられたアフリカ系の黒人たち (negros)からなり、スペイン王室は、そのような人種的混交をカスタ制度という混血の10数種類からなる組み合わせで様々な呼び方をした。このよう な区分は、それぞれのカスタ間の通婚をカトリック教会を通じて規制するのみならず、貢納や税金の区分をして、人種的民族的な集団をそれぞれ政治的にも管理 するという目的のもとで実施された。メスティーソは、最初は、スペイン出身の兵士と先住民の母親から生まれた息子や娘であり、そのようなカスタの中での通 婚が許された。植民初期のメスティーソは、すべて非嫡出子だったので、メスティーソと非嫡出であることは同義語とされ、貢納の義務があった。このステレオ タイプ(=混血の身分の低さ)は植民地時代全般を通じて通用するようになる。しかしながら、メスティーソは聖職、大学、地方政治家など社会的にも進出を果 たすようになり、イベリア半島出身の白人ペニンスラールと植民地で生まれた白人クリオージョとの確執はありながらも、次第に地歩を気づいていく。やがて、 独立期には、メスティーソは、先住民と白人の間から構成される国民国家形成におけるシンボルになってゆく。すなわち、その時点ではメスティーソはもはや人 種ではなく社会階級としての政治的ヘゲモニーを確立してゆくようになる。

つまり、メスティーソは最初、白人と先住民の人種的 混血という意味あいで使われるようになり、白人よりも身分の低い地位に甘んじていたが、貢納や集住などの制約からやがて解放されるようになり、人口比にお いて優勢な社会的クラスに変化し、やがて独立期の国民国家の成立には不可欠な存在にまで発展したグループのことである。ところがなぜ、先住民が多くを占め るメキシコ・チアパスやグアテマラでは、白人植民者の語彙であるメスティーソではなくその代わりにラディーノと呼ばれるようになったのだろうか。/実際 に、これらの地域では、先住民の集住地域にメステイーソ(後のラディーノ)が入ってくるようになったのは19世紀も後半になってからである。グアテマラで は、先住民は18世紀初頭には廃止されるエンコミエンダ制が廃止されても、近代国家が命じる税徴収制度や賦役労働の義務が課された。また貨幣経済の進展に 伴って資本主義生産物が流入するようになってきた。メスティーソは初めは仲買いや卸のブローカーとして活躍するようになり、やがて、小さな商店や食肉店あ るいは大工や縫製などの商工業の担い手として、後には学校の教師や電報や郵便の通信士として、先住民のコミュニティに定着するようになった。メキシコのチ アパスでは、近代化から革命の時代でメスティーソは類似の機能を果たしていた。もちろん双方ともスペイン語のモノリンガルで、先住民の言語も話さず少数の まま定着した。

ラディーノという用語は、スペイン語を語源とする、 先住民からみた異邦出身の外来者(まさにラテン世界から来たユダヤ人)としてのステレオタイプを温存するかたちで、この用語が使われるようになったのでは ないだろうか。先に公的に一般化していたメスティーソよりも自分たちが使うスペイン語の語彙として定着したのではないか。ちなみに、グアテマラの先住民言 語であるカクチケル語やキチェ語では、ラディーノは男女共に「カシュラン」、マム語では男性は「モース」女性は「シヌーラ」と別の用語がある。/ラディー ノという多義的な用語には、人種あるいは民族を標識する用語として複雑な歴史的事情を持つというのは、このような理由からである。

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Giovanni Battista Salvi da Sassoferrato, 1609-1685