池田光穂
概要
- 1. 歴史的な人種カテゴリーのダイナミズムに関する
基本的知識の整理と研究会のメンバーに対する情報提供、ならびに、
- 2. 政治的分類というテーマが従来のラテンアメリカ
の文化研究者に対して反省を促す観点(=反・客体化の可能性)という理論的可能性
「政治的分類」に関する学問的前提(9つのテーゼ)
1. 人種と民族 (エスニシティ)という諸概念は、自然(=普遍的現象)を分類したものでは ない。
2. したがって「人種と民族(エスニシティ)という諸概念は、(a)境 界が不明瞭であり、(b)科学的に根拠がなく、(c)分類として無意味
である」という議論に留まるのは不毛である。
3. それに代替する有益な議論と疑問の与えかたは、まず「人種と民族(エスニシティ)という諸概念は、(a')境界が不明瞭であるにもかかわ
らず、なぜ、それらが長く本質化されてきたのか?」という問いであ る。
4. 次に「人種と民族(エスニシティ)という諸概念は、(b')科学的 に根拠がないにもかかわらず、科学=普遍的なものとして、未だ理解され
ているのか?」という、次なる問いである。
5. 「人種と民族(エスニシティ)という諸概念は、(c)分類として無意味である」どころか、それが本質化してさまざまな問題を生み出すとい
う点で「(c')分類として社会的機能しており、意味を派生しているその効果とはな にか?」という点である。
6. これらの事柄は社会構成的アプローチに他ならない。「政治的アイデンティティ」の議論において、「人種と民族(エスニシティ)という 諸概
念は、政治的権力の産物であり効果である」ということが証明されている。
7. そこから踏み込む議論とは、人種と民族(エスニ シティ)を前にした時に、その歴史性について、考えることである。
8. 人種と民族(エスニシティ)という分類について、その政治性を通しての反省のなかに、研究者が、どのように歴史性を織り込んでいくのか
が、重要になる。
9. また、人種と民族(エスニシティ)という(政治的)分類という歴史に直面したときに、研究者にもとめられる態度の変容や反省において、ど
のようなものが考えられるのか?、について私たちは考える必要がある。
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「政治的分
類」に関する学問的前提(9つのテーゼ)《再掲》
- 人種と民族
(エスニシティ)という諸概念は、自然(=普遍的現象)を分類したものでは
ない。
- したがって「人種と民族(エスニシティ)という諸概念は、(a)境
界が不明瞭であり、(b)科学的に根拠がなく、(c)分類として無意味
である」という議論に留まるのは不毛である。
- それに代替する有益な議論と疑問の与えかたは、まず「人種と民族(エスニシティ)という諸概念は、(a')境界が不明瞭である
にもかかわ
らず、なぜ、それらが長く本質化されてきたのか?」という問いであ
る。
- 次に「人種と民族(エスニシティ)という諸概念は、(b')科学的
に根拠がないにもかかわらず、科学=普遍的なものとして、未だ理解され
ているのか?」という、次なる問いである。
- 「人種と民族(エスニシティ)という諸概念は、(c)分類として無意味である」どころか、それが本質化してさまざまな問題を生み出すとい
う点で「(c')分類として社会的機能しており、意味を派生しているその効果とはな
にか?」という点である。
- これらの事柄は社会構成的アプローチに他ならない。「政治的アイデンティティ」の議論において、「人種と民族(エスニシ
ティ)という
諸概
念は、政治的権力の産物であり効果である」ということが証明されている。
- そこから踏み込む議論とは、人種と民
族(エスニ
シティ)を前にした時に、その歴史性について、考えることである。
- 人種と民族(エスニシティ)という分類について、その政治性を通しての反省のなかに、研究者が、どのように歴史性を織り込んで
いくのか
が、重要になる。
- また、人種と民族(エスニシティ)という(政治的)分類という歴史に直面したときに、研究者にもとめられる態度の変容や反省に
おいて、ど
のようなものが考えられるのか?、について私たちは考える必要がある。
学問的前提に対する反論
- 先住民という諸概念を、自然化するもの:言語は後天的に学べ得るにもかかわらず、(各民族や文化に帰属するとされる)先住民言
語の存在が
あり、それは歴史的に本質化されている。
- 先住民の作家や知識人の激しい抗議にもかかわらず、先住民は(国民)国家の問題ではない。その反対に(国民)国家が先住民とっ
ての主要問
題なのである。現状では、先住民は国家が定義するとおりの存在である——先住民は、国家の定義によってのみ自分自身を知るのである。
学問的前提を踏まえて留意すべきこと
(「カッコ」内
は太田好信による指摘、以下同様)
- 「他者化する眼差しの中に潜む(人類学者の)特権」を自覚すること(=無視できる特権の放棄)→「他者化する眼差しを問い直す
という反省
的作業」が盛り込まれていること
- 研究対象としての「客体化」しない、こと→「他者化する視線を疑問視する方向性に踏み出す」→「対象との距離により担保されて
きた確定性
を失
い、自らを不安にする感覚と向き合う」
- 「人びとは何を考え、わたしたちはそれらの人びとの考えについて、どう考えているのか?」について考えること
グアテマラの先住民族関する私の論文・資
料集等
■「「支配的存在」を名指し、
可視化する試みについて:中央アメリカにおける人種=民族構成の近
代を再考する」の文献リスト
- Denzin, N. (1978). The research act: A theoretical
introduction
to sociological methods. New York: McGraw-Hill.
- Clifford, James(1986). Introduction: Partial Truth, in
"Writing
Culture," J. Cliford and G. Macus, eds., Pp.1-26., University of
California Press.
- 池田光穂(2000)Ethos, Community, and Violence: a Guatemalan
highland
community and global economy. ラテンアメリカ学会研究年報(Anales de Estudios
Latinoamericanos),第20号,pp.89-119,2000年6月
- 池田光穂(2002)政治的暴力と人類学を考える——グアテマラの現在——,『社会人類学年報』,第28
巻,Pp.27-54,2002年8月 【AnnSociAnthro28-p22-57_2002.pdf】
- 太田好信(2016)「ポストコロニアルになるとは?」『民博通信』154:10-11.2016
- 太田好信(2016)太田好信「文化人類学と『菊と刀』のアフターライフ」『日本はどのように語られたか』桑山敬己編、
Pp.31-
56、昭和堂、2016、査読有
- 太田好信(2016)「見返され,名指される経験から生まれる反省」『民博通信』149:14-15, 2015、査読無
増殖用ファイル:16-post-colonial.html
クレジット:池田光穂「インディオ・メスティソ・ラ
サ:ラテンアメリカにおける人種的カテゴリー再考」国立民族学博物館発表、2015年10月31日(レジュメ:パスワードなし)mikedas151031.pdf
●国立民族学博物館・共同研究会
(2014-
2018)「政
治的分類——被支配者の視点からエスニシティと人種を再考する」
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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099