素朴な反帝国主義運動
Naive Anti-Imperialists in 1971: An Inquisition
垂水源之介
ここに あげるのは1969年(同年9月2日に塩見孝也らにより神奈川で発足)に赤軍派が発した「世界革命戦 争」宣言である(→「反帝国主義」はこちら)。
赤軍派は、活動を海外拠点に移し
た者たちは、この後によど号ハイジャック事件、1971年に日本赤軍を結成
した。国内では、1971年、京浜安保共闘(→「日本共産党(革命左派)神奈川県委員
会」)と合流し、連合赤軍を結成し、あさま山荘事件(Asama-Sansō
incident, February 19 to February 28, 1972)へと(ある程度の規模を伴った大衆運動としては)終焉
を迎える。
The Asama-Sansō
lodge surrounded by police during the incident
あらゆる革命運動、反体制運動の動機に は倫理的な主張がある。また、未来の行動理念を述べた宣言には、運動 家 が抱いたユートピアがある。
■ 審問 ■
「暴力 的パラノイア」「狂気に満ちた夢想家」などという前に、多くの人々が赤軍派に貼りつけたステレオタイプ から自由になり、彼/彼女らが、そこに何を見ようとしたのか、考えなさい。
また、 赤軍派が起こしたさまざまな過ちや問題、ひいては組織の解体が、これらの宣言の中に[すでに]見られる のかについて議論しなさい。
戦争宣言 共産主義者同盟赤軍派軍事革命委員会
(1969年9月3日) ________________________________________________ |
世界革命戦争宣言
________________________________________________ 共産主義者同盟赤軍派 日本委員会 上野勝輝 |
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ブルジョワジー諸君!
我々は君たちを世界中で革命戦争の場に叩き込んで一掃するために、ここに公然と宣戦を布告するものである。
ブルジョワジー諸君!
君たちがたとえ、アメリカ軍、NATO軍、安保軍、ベトナム連合軍など等全世界の警察を総動員しようとも、君たちが骨抜きにし変質させたソ連、ワルシャワ
軍までをも動員したとしても、我々は全世界のプロレタリア人民の力を世界党 世界赤軍 世界革命戦線の下に結集し、必ずや叩きのめしてしまう事を通告する
君たちの歴史的罪状は、もう分かりすぎている。君達の歴史は血塗られた歴史である。 第一 次、第二次世界大戦、君たち同士の仲間をだまして動員し、互いに殺し合わせ、あげくのはてにはがっぽりと儲けているのだ。 君たちは植民地を略奪するために我々の仲間を殺した。 仲間をそそのかし、植民地を略奪したら分け前をやると言って、後進国の仲間を、君たちがそそのかした仲間を使って殺させたのだ。 それだけではない。そうやって略奪した植民地を君達同士で奪い合う強盗戦争にも、同じように仲間をそそのかして殺し合わせた。 我が日本のブルジョワジー諸君! 君たちにもウソとは言わせない。「富国強兵」のスローガンのもと、日清 日露 第一次 第二次の強盗戦争をやったではないか 我々はもう、そそのかされ、だまされたりはしない。否、そそのかされ、だまされるだ けで はない。我々は過去の恨みを持って呪うと共に、またまた君たちのやろうとする事に対して、今度は我々の側には用意がある。 君達にベトナムの仲間を好き勝手に殺す権利があるのならば 我々にも君達を好き勝手に殺す権利がある。 君たちにブラック・パンサーの同志を殺し、ゲットーを戦車で押しつぶす権利があるの な ら、我々にも、ニクソン、佐藤、キッシンジャー、ド・ゴールを殺し、ペンタゴン、防衛庁、警視庁、君達の家々を爆弾で爆破する権利がある 君たちに、沖縄の同志を銃剣で突き刺す権利があるのなら、我々にも君達を銃剣で突き 刺す 権利がある。 君達が朝鮮で再び戦争をやるために、自衛隊を増やし、フォーカス・レチナや三矢作戦(註:1)をやり、朴独裁3選のためにそれに反対する任君を逮捕し、死 刑にする 権利があるのならば、我々にも赤軍を建軍し、革命戦線を作り、君たちを逮捕し、死刑にする権利がある。 アメリカのブルジョワジー諸君! 君たちは第二次世界大戦後、朝鮮で、コンゴで、ベトナムで、普段に仲間を殺し続けてきた。 日本のブルジョワジー諸君! 君達は、自衛隊、機動隊を増やし、今ベトナムに協力し、将来朝鮮に派兵しようとしている。 西ドイツのブルジョワジー諸君! 国防軍を強化しフランスをけん制し、チェコや東欧や中近東に目を光らせて何をしようというのだ ブルジョワジー諸君! いつまでも君達の思い通りになると思ったら大間違いだ 我々は過去、封建領主のもとでは家畜のように領土のおりの中に縛り付けられた農奴であった。君たちには、この身分の枠を破り、我々を君たちの自由にするた めに、「自由 平等 博愛」のスローガンの下、領主達と戦った だが今や、我々を君たちの好き勝手にされることを公然と拒否する事を宣言する。 君達の時代は終わりなのだ 我々は地球上から階級戦争を無くすための最後の戦争のために、即ち世界革命戦争の勝 利の ために、最後まで戦い抜く 我々は、自衛隊、機動隊、アメリカ軍諸君に公然と銃を向ける。 君たちは殺されるのがイヤなら、その銃を後ろに向けたまえ! 君たちをそそのかし、操っているブルジョワジーに向けて 我々、世界のプロレタリアートの解放の事業を邪魔するやつは、だれでも、容赦なく革 命戦 争の只中で抹殺するだろう 万国のプロレタリアートよ 団結せよ! 世界革命戦争宣言をここに発する |
ブルジョワジー諸君
我々は世界中で君達を革命戦争の場に叩き込んで一掃するために、ここに公然と宣戦を 布告 するものである 君達の歴史的は、もはやわかりすぎている。 君達の歴史は血塗られた歴史じゃないか 君達の間での世界強奪戦争の為に我々をだまし 互いに殺あわせてきた 嘘だとは言わせない 我々はもうそそのかされだまされはしない 君達にベトナムの民を好き勝手に殺す権利があるなら 我々にも君達を好き勝手に殺す権利がある 君達にブラックパンサーを殺し ゲットーを戦車で押しつぶす権利があるなら 我々にも ニクソン・佐藤・キージンガー(註:2)・ドゴールを殺し ペンタゴン、防衛庁、警視庁、君達の家々を爆弾で爆破する権利がある 君達に沖縄の民を銃剣でさし殺す権利があるなら 我々にも君達をナイフで突き殺す権利がある いつまでも君達の思い通りになると思ったら大間違いだ 君達の時代はすでに終わった 我々は最後の戦争の為に 世界革命戦争の勝利の為に 君達をこの世から抹殺する為に 最後まで戦い抜く 我々は自衛隊、機動隊、米軍諸君に公然と銃を向ける 殺されるのがいやならその銃を後に向けろ 君達をそそのかし うしろであやつる豚ども(註:3)に向けて 我々を邪魔する奴は 容赦なく抹殺する 世界革命戦争宣言をここに発する
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註:1)三矢(みつや)作戦とは自衛隊を周辺有事(emergency)の際に使う軍事行動のための法的整備、いわゆる有事法制のための自衛隊内での秘密(といっても後 によく知られることとなる)の研究会のことである。昭和38年度の符牒として使われた説が有力に思われる。「三矢研究(みつやけんきゅう)とは1963年 (昭和38年)に自衛隊統合幕僚会議が作戦研究で極秘に行っていた机上作戦演習(シミュレーション)である。正式名称は昭和三十八年度総合防衛図上研 究。……概略としては、まず朝鮮半島で武力紛争(第二次朝鮮戦争)が発生し、これが日本に波及する場合を想定し、これを例題として非常事態に対する日本防 衛のための自衛隊の運用並びにこれに関連する諸般の措置及び手続きを統合の立場から研究することを目的とした」ウィキ「三矢研究」 2)頭脳警察「世界革命戦争宣言」YouTube |
註:2)キッシンジャーの誤りであるが、歌の中ではパンタは実際にこのように発話している。
また日本のメディアが当時ヘンリー・キッシンジャー(Henry Alfred
Kissinger, 1923- )を紹介した時には、キージンガーと呼ばれていたらしい。
註:3)原文はブルジョアジーであるがこのよ うに なっている。ブルジョアは誹謗の対象として豚と表現されるので、文意は不自然ではな い。 出典:頭脳警察『頭脳警察1』ZKC-001, 2001 |
頭脳警察は、新左翼・全共闘・全学連など
によ
る政治運動が激化した時期の最後、1972年にレコード・デビューした[1]。タブーに挑戦する政治的に過激な歌詞とラディカルなライブパフォーマンスに
よって、発禁や放送禁止、コンサート会場への出入り禁止などのエピソードを持つ。 赤軍派の拠点校であった関東学院大学にて音楽活動に取り組んでいたPANTAが上野勝輝の『世界革命戦争宣言』を読んでインスピレーションを受け、翌日の コンサートにアジテーション調のシャウトを取り入れたことから、「左翼のアイドル」として祭り上げられた[2]。 ロックやフォークなど多彩な日本語ロックを演奏していた。TOSHIが離脱していた時期の音楽性や、PANTAによる文学的・知的な歌詞と説得力ある歌唱 は、一部のロック・ファンから熱心に支持された。 |
ZunoKeisatu (The Thought
Controle Police) made their record debut in 1972, at the end of the
period of intensified political movements by the New Left, Zenkyoto,
Zengakuren, and others. Their politically radical lyrics that
challenged taboos and radical live performances resulted in episodes of
bans, broadcast bans, and bans from concert venues. PANTA, who was
engaged in musical activities at Kanto Gakuin University, a stronghold
of the Red Army faction, was inspired by reading Katsuteru Ueno's
"Declaration of World Revolutionary War," and incorporated
agitation-style shouts into their concert the next day, which led to
their being feted as "idols of the left. The band played a variety of
Japanese rock music, including rock and folk, and during the period of
Toshi's departure, their musical style and PANTA's literary and
intellectual lyrics and persuasive singing were enthusiastically
supported by some rock fans. |
1969年〜1999年 1969年 - 12月でPANTA(中村治雄)、TOSHI(石塚俊明)、左右栄一、粟野仁で結成。[3]「ダサくてもいいからオリジナリティに満ち、自信をもって人前 で演奏できる」ことを目指す。 名前はフランク・ザッパが率いるザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの「頭脳警察ってのはどいつらなんだよ? (原題:Who Are The Brain Police?)」(『フリーク・アウト!』収録)という曲の題名からとられた。 政治的に過激な歌詞により、1972年発表の1stアルバム『頭脳警察1』は発売中止(ジャケットは3億円事件犯人のモンタージュ)、『頭脳警察セカン ド』の中の3曲は放送禁止になった。 ライブでマスターベーションをしたことも話題になった[4]。 1971年 - 三里塚闘争が行われていた成田市三里塚で開催された日本幻野祭に出演する。 1975年 - 解散[5]。PANTAはソロを経てPANTA & HAL、TOSHIは奇矯やトシ・ライブ・バンド・シノラマなどで活動。 1990年 - 1年間だけ再結成[5]。復活作『頭脳警察7』にはマルコシアス・バンプやザ・グルーヴァーズなどがゲストで参加。1991年発表の『歓喜の歌』にもコー ラスで荻野目洋子などの名前がクレジットされている。旧作『セカンド』から『悪たれ小僧』までがCDで再発された。 |
パンタ(PANTA、本名:中村治雄[1](なかむら
はるお)、1950年2月5日[2] -
2023年7月7日)は、日本のロックヴォーカリスト、作曲家、作詞家、俳優。頭脳警察のボーカル。PANTA & HALとしても活動。 荻野目洋子のプロデュースや制服向上委員会、チェッカーズ、沢田研二ら多くのアーティストの作品も手掛けている[1][3]。 左利きである。 |
2000年代以降 2001年 再々結成。『頭脳警察1』が発売30年を経てCDリリース。現在はPANTA、TOSHIに藤井一彦(ギター / ザ・グルーヴァーズ)、ジゲン(ベース / ソウル・フラワー・ユニオン、桃梨)が加わり4人編成で活動する。 2008年 5月18日 - 日比谷野外音楽堂にて開催された「Japan Rock Band Fes. 2008」に参加。(出演:クリエイション、頭脳警察、紫、めんたんぴん) 6月1日 - シングル「時代はサーカスの象にのって」発売[6]。 2009年 7月26日 - 「FUJI ROCK FESTIVAL'09」出演。 11月 - 「『俺たちに明日はない』CD発売記念全国ツアー」開催。 11月6日 - 18年ぶりのオリジナル・アルバム『俺たちに明日はない』発売。 11月7日 - 5時間14分に及ぶドキュメンタリー映画『ドキュメンタリー 頭脳警察』が公開。 12月28日 - 「COUNTDOWN JAPAN 09/10」出演。 2010年 3月30日 - 4枚組DVD『頭脳警察 from 全曲LIVE 〜反逆の天使〜』発売。 11月24日 - 9枚組(7CD+2DVD)BOX『無冠の帝王 -40周年記念BOX-』発売。 2011年 11月 - 「頭脳警察 VS 外道 ROCK LEGENDツアー」開催。 12月29日 - 「COUNTDOWN JAPAN 11/12」出演。 2012年 7月25日 - アルバム『俺たちに明日はない 〜SPECIAL EDITION〜』発売。アルバム『俺たちに明日はない』にシングル「時代はサーカスの象にのって」やライブ音源等を追加したもの。 2019年 1月1日 - 46th NEW YEAR WORLD ROCK FES 頭脳警察 (PANTA&TOSHI)銀座博品館劇場 2月1日 - 「TBSラジオアフター6ジャンクション」頭脳警察スタジオライブ(PANTA TOSHI おおくぼけい)TBSスタジオ 2月3日 - PANTA & TOSHI 69歳=ROCK YEAR 生誕祭 頭腦警察(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助)渋谷 La.mama 2月17日 - 頭脳警察 アコースティックライブ PANTA暴走対談 (PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助)渋谷 LOFT9 4月7日 - 結成50周年 頭脳警察1st「搖れる大地に」(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助 おおくぼけい)新宿 花園神社 水族館劇場野外天幕 4月21日 - Earth Day Tokyo 2019 頭脳警察(PANTA TOSHI おおくぼけい)代々木公園野外音楽堂 4月28日 - 頭脳警察 “50th” & B.Y.G “50th” presents #1(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助)渋谷 B.Y.G 5月6日 - REVOLUTION FOR LOVE 頭脳警察(PANTA&TOSHI)浜松 窓枠 5月11日 - 頭脳警察 “50th” & B.Y.G “50th” presents #2(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助)渋谷 B.Y.G 5月25日 - 頭腦警察x亜無亜危異 亜無亜危異 presents SHOWDOWN 2019(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助)京都 磔磔 5月26日 - 四日市CLUB ROOTS 1周年 × 頭脳警察50周年ANNIVERSARY(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助)四日市CLUB ROOTS 6月8日 - 頭脳警察 “50th” & B.Y.G “50th” presents #3(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助)渋谷B.Y.G 6月29日 - 渋谷歌の日コンサート頭脳警察(PANTA&TOSHI)/大槻ケンヂ/ROLLY Mt.RAINIER HALL SHIBUYA PLEASURE PLEASURE 7月6日 -「50×30 絆」頭脳警察50周年vsフラワーカンパニーズ30周年 2マンライブ(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助)渋谷 La.mama 7月16 - 8月3日「乱破」レコーディング 7月28日 - 頭脳警察×Rama Amoeba 69 Paradise(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助)吉祥寺 ROCKJOINT GB 9月21日 - 頭腦警察 結成50周年 2ndライブ(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助 石垣秀基)Mt.RAINIER HALL SHIBUYA PLEASURE PLEASURE 9月29日 - 中津川THE SOLAR BUDOKAN 2019 頭腦警察(PANTA TOSHI 澤竜次 樋口素之助 おおくぼけい) 11月25日 - 頭腦警察 結成50周年3rd Right Left the Light〜ど真ん中から叫んでやる〜(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助 おおくぼけい)/戸川純avecおおくぼけい/玲里/岳竜 /石垣秀基/ASUKA/水族館劇場/難波弘之 渋谷duo MUSIC EXCHANGE 11月30日 - 頭脳警察 LIVE IN長野(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助 おおくぼけい)長野 NEON HALL 12月22日 - UNTI X’mas 2019 頭脳警察×金属恵比須 METAL POLICE (PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助 おおくぼけい)渋谷 La.mama 12月31日 - 頭脳警察 47th NEW YEAR WORLD ROCK FES (PANTA 澤竜次 宮田岳 樋口素之助 おおくぼけい 石川ミナ子)銀座博品館劇場 2020年 1月27日 -「LIGHTNING STRUCK Phase1〜渋谷大決戦〜」頭腦警察(PANTA TOSHI 澤竜次 樋口素之助 おおくぼけい ジュリエッタ霧島)渋谷O-WEST 2月2日 - PANTA & TOSHI 70歳=古希生誕祭 頭腦警察(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助 おおくぼけい)/La★basugaides /金属恵比須/アップアップガールズ(仮)/難波弘之 玲里/keme/武藤昭平/高嶋政宏/アキマツネオ/菊池琢己 JIGEN 森下寿一 小柳"cherry"昌法/鈴木慶一/石坂秀基/ASUKA 渋谷 La.mama 3月27日 - 頭腦警察「絶景かな」レコーディング 渋谷 La.mama 7月18日 - 頭腦警察結成50周年記念ドキュメンタリー「zk/頭腦警察50 未来への鼓動」新宿k'シネマより全国ロードショー開始 9月5日 - 「無気質な狂気 第11夜」赤いくらげ/汝、我が民に非ズ/戸川純/頭脳警察(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助 おおくぼけい 中村ルビイ)渋谷クアトロ 11月1日 - 頭脳警察(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助)二子玉川ジェミニシアター 11月30日 - 夕刊フジロック「頭腦警察7コンプリートwith BRAINPOLICE UNION」(PANTA TOSHI 澤竜次 宮田岳 樋口素之助 おおくぼけい)素岳/FAIRY BRENDA/おおくぼけいと建築 渋谷 CLUB QUATTRO 2021年 11月1 日 - 夕刊フジロック「頭脳警察vsシーナ&ザ・ロケッツ対バンライブ」[7]が渋谷duo MUSIC EXCHANGEで予定されていたが、PANTAの体調不良による療養期間が必要となったため無期限延期[8]が決定。その後、PANTAの体調は回復し たが、2022年6月に、同年内は長時間の演奏をこなすまでの体力が十分ではないという理由でその振替公演を一度断念し、2023年春[9]に行うと発表 した(のちに2023年2月6日開催の日取りも決まった[10])。 2023年 2月6日 - 夕刊フジロック「頭脳警察 x シーナ&ロケッツ対バンライブ」渋谷duo MUSIC EXCHANGE代替公演開催予定だったが、シーナ&ロケッツの鮎川誠が病気療養中であることから、シーナ&ロケッツの出演を断念し、公 演中止とはせずに頭脳警察ワンマンコンサートとして行うことが発表される。PANTAは「公演延期のために鮎川には無理させたくない。治療に専念してもら いたい」とする願いを込めたもので、今回のセットリストは公演中止になると演奏できない可能性があるため、あえて頭脳警察が楽曲を増やし「魂の演奏」を行 い、鮎川の回復を待って対バンライブを実現させると発表した(のちに鮎川は1月29日没)[11]。しかし、2月1日にPANTAが再び病状悪化となり緊 急入院し、診断の結果、重度の肺炎と分かった。PANTAはこのライブの決行を望んでいたが、「15、6年前ぐらいから前立腺癌の疑いがもたれ、その当時 は摘出手術を受けて再発されなかったが、その後も肺炎を起こし、たばこの値上げなどもあってヘビースモーカーだったPANTAはそこで禁煙を行った。 PANTAは「『2022年12月に肺炎が収まっていなかったら肺の一部を切除する』と医師から指示されたが、その段階ではリアルな脅しも効いたのでしょ うか、きれいに炎症は収まりましたが、少し前に肺がんのようなものが見つかり、その流れで2度ほど高熱を伴う肺炎を起こし、こともあろうに、鮎川を失った 後に自らの誕生日(2月5日)に鮎川の旅立ち(ロック葬)を見送らなければならないところで、重度の肺炎を患ってしまいました。発熱の中ですでに予約して いた5回目のワクチン接種を、這うようにして行きつけのクリニックに行ったところ『ワクチン(の接種)どころではない』と、救急車を呼ばれ、緊急病棟に強 制入院。コロナは陰性だが、絶対安静を強制されて今日に至っています」とドクターストップにより再び公演開催自体を中止にすると発表した[12]。渋谷 duo MUSIC EXCHANGEは、「ライブは一昨年11月に行う予定が長期間延期されていたこともあり、再度の延期ではなく中止と決定しました」としており、今回の代 替公演でも有効とした本来の2021年11月1日の公演チケットを含め、すべての入場券・配信観覧チケットを一度払い戻すと発表したが、PANTAは「実 現しなかったシナロケとのデュオですが、ちょっと弔いライブを延期させてもらいます」と、完全中止ではなく延期を示唆するコメントを残した[13]。 7月7日、PANTA死去。享年73。4月に退院後、療養にあたり、6月に講演活動を再開したばかりだったが、同月14日のそれが最期となった[14]。 |
来歴・人物 埼玉県所沢市出身[1]。 1960年代には、短期間グループサウンズの「モージョ」に参加したことがある。関東学院大在学中の1972年に頭脳警察を結成してデビュー[1][2] [4]。バンド名は、フランク・ザッパが率いるザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのファースト・アルバム「フリーク・アウト!」(1966年)の収録 曲「フー・アー・ザ・ブレイン・ポリス?」[5]から取ったものである。ステージ上で自慰行為をするなどの過激なパフォーマンスを展開。ジャケットに3億 円強奪事件の容疑者の手配写真を使用したりもした。1975年に頭脳警察を解散後、ソロ活動を経て、1977年にPANTA&HALを結成した [1]。1981年にPANTA&HALを解散し、再びソロ活動を行う[1]。ソロ転向後は、他のアーティストへの楽曲の提供や、ジャンルを超え たアイドルのプロデュースなども手がける。特に、1989年には荻野目洋子、チェッカーズ、沢田研二などに楽曲を提供した[1]。提供曲に「ムーンライ ト・サーファー」(石川セリ、高樹澪、渡辺美里、かとうれいこ)「スノー・キャンドル」「パール・スター(真珠星)」「Fairy Tales」(以上3曲は石川セリのみ)「Vacance」(岩崎良美)などがある。 反戦平和・反原発のアイドルグループ、制服向上委員会が上演したロックミュージカル『ドン・ジョヴァンニ』の音楽監督もつとめた。その一方で、サザンオー ルスターズの桑田佳祐が監督した映画『稲村ジェーン』に役者として初出演してから[1]、俳優業へも活動の舞台を広げている[注釈 1]。 また『新世紀エヴァンゲリオン』『攻殻機動隊』シリーズなどのアニメ作品や恋愛シミュレーションゲームのファンであると公言、サバイバルゲームに熱中する などオタク文化への造詣も深い。1978年に出版されたワンボードマイコンTK-80のゲームプログラム集『マイコンゲーム21』(岸田孝一編)では、当 時のバックバンドHALのテーマ曲「HALのテーマ」を掲載したいという編著者の申し出を快諾し、非力であったTK-80で演奏できるよう譜面を書き直し て提供した。 解散した日本赤軍の元最高幹部であった重信房子と交友関係があったため、共作の曲を中心としたアルバムも発表している(後述)。 2021年、PANTAと親交のあった鮎川誠率いるロックバンド・シーナ&ロケッツとの対バン(ジョイント)コンサートが企画されていたが、肺疾 患を患っていたことがわかる[6]。このため上記ジョイントコンサートを含め、治療専念のため公演活動を一時停止・延期することが発表された。その後肺が んと診断されるが、病名を伏せて療養を行い、2022年に病状も安定したため、部分的なステージ活動の再開をしていた[7]。 2023年2月、上記のシーナ&ロケッツとの対バンコンサートの延期公演の開催が決定し、今回休養以来初めてとなるフルバンド体制で出演する予定 になっていた[7]。ところが、鮎川が2022年12月に病気のため療養に専念せざるを得なくなり、シーナ&ロケッツの出演をやむを得ず断念。 PANTAの病気による休養で延期された公演を、今回用意したセットリストが演奏できない可能性があることや「公演延期のために鮎川に無理をさせたくな い。治療に専念してもらいたい」というPANTAのたっての希望もあり、公演を頭脳警察単独ライブに変更し、「魂の演奏」を披露することと、鮎川の回復次 第で演奏活動を再開した際は「必ず対バンライブを行う」ことを約束していた[8]。 しかし、鮎川は2023年1月29日に死去した。PANTAも2月1日に体調が急変し緊急入院をせざるを得なくなり、延期公演自体を再び中止にすることに なった。主催者のduo MUSIC EXCHANGEは、「ライブは一昨年11月に行う予定が長期間延期されていたこともあり、再度の延期ではなく中止と決定しました」としたが、PANTA は「発熱の中で(新型コロナウィルスの)ワクチン接種に、這うようにしてクリニックに行ったところ、『ワクチン(の接種)どころではない』と救急車を呼ば れ、緊急病棟に強制入院。コロナは陰性だが、絶対安静を強制されています。担当医に『2月6日のライブだけは、何とかやらせてくれ』と頼み込みましたが、 それも叶わず。死と引き換えにはできないと言い返されるほどの重症の肺炎を引き起こしてしまったらしく、絶対安静を命じられてしまいました(中略)。実現 しなかったシナロケとのデュオですが、ちょっと弔いライブを延期させてもらいます。鮎川と異次元同士のジョイントも、〝やらなけりゃロックやなか〟と言い 返したい自分が待ってる…」と、追悼公演の形での将来的な対バンライブの延期開催も示唆している[7]。 同年4月15日自身のYouTubeチャンネルにて生還報告の動画を出した[9]。 同年7月7日午前10時44分[10]、肺がんによる呼吸不全と心不全のため死去[11]。73歳没。 |
https://x.gd/VlFKS |
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共産
主義
者同盟赤軍派(きょうさんしゅぎしゃどうめい
せきぐんは、略称:赤軍派)は、1969年に結成された共産同系の日本の新左翼党派の一つ。武装蜂起を主張して大阪戦争や東京戦争、よど号ハイジャック事
件や銀行強盗・郵便局襲撃等を起こし、後の連合赤軍や日本赤軍などの母体ともなった。 |
The Communist League Red Army
faction (共産主義者同盟赤軍派, Kyōsannshugisha dōmei Sekigun-ha) is one of
Japan's new left-wing factions affiliated with the Communist Party of
Japan, formed in 1969. Claiming armed uprising, it launched the Osaka
and Tokyo wars, the Yodo-go hijackings, bank robberies, post office
raids, etc., and became the mother body of the later United Red Army
and the Japanese Red Army. |
組織 政治局議長:塩見孝也 軍事委員長:田宮高麿 組織委員長:堂山道生 政治局員:塩見孝也、田宮高麿、上野勝輝、堂山道生、高原浩之、花園紀男、八木健彦 拠点校:同志社大学、関東学院大学等 |
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概要 共産主義者同盟赤軍派は、1970年安保闘争を目前に、第二次共産 主義 者同盟(共産同、ブント)の最左翼の分派(フラクション)として結成された。中心となったのは一時期は共産同の全国指導権を掌握した関西地方の「関西派」 または「関西ブント」で、結成当初の人数は400名程であった。革命には軍事が不可欠であり、革命は「革命戦争」により勝ち取られると主張 した。最盛期には本部を同志社大学におき、他に関東学院大学などに拠点があった。同じく武装闘争を主張し、軍事部門として共産主義突撃隊の形成を主張する 共産主義者同盟主流派の戦旗派と対立し、さらに赤軍派の軍事主義を批判する共産主義者同盟の最右翼の叛旗派や情況派とも対立した。 主な主張は前段階武装蜂起論や世界革命戦争論で、大菩薩峠事件の後には国際根拠地論が加わり、よど号ハイジャック事件や後の日本赤軍結成にも繋がった。 |
Overview The Red Army Faction of the Communist League was formed in 1970 as the most left-wing fraction of the Second Communist League (Communist League, Bundt) in the run-up to the 1970 Security Treaty struggle. The core of the group was the "Kansai Faction" or "Kansai Bundt" in the Kansai region, which at one time had seized the leadership of the Communist Party nationwide, and had about 400 members at the time of its formation. The group claimed that the military was indispensable to the revolution and that the revolution would be won through a "revolutionary war. At its peak, the group was headquartered at Doshisha University, with other bases at Kanto Gakuin University and elsewhere. It was in conflict with the Senkata faction of the mainstream Communist League, which also advocated armed struggle and the formation of the Communist Assault Corps as the military wing, as well as with the right-wing Rebellion Banner faction and the Situation faction of the Communist League, which criticized the militarism of the Red Army faction. The main arguments were the theory of the preliminary stage of armed uprising and the theory of world revolutionary war, and after the Daibosatsu Touge Incident, the theory of international grounds was added, which led to the Yodo-go hijacking incident and the later formation of the Japanese Red Army. |
1966年に再結成された共産主義者同盟(第二次ブント)は、
1963
年のマル戦派離脱により、塩見孝也らの「関西派」が主導権を握り「過渡期世界論 -
世界同時革命論」を打ち出し、1968年6月頃から「赤軍派」フラクション(分派)を名乗るようになった。 1969年7月6日、「赤軍派」はブント合同会議(地区代表・学生細胞代表)が開かれる予定だった明大和泉校舎を襲撃し、会議の場を制圧した上で共産同執 行部さらぎ徳二議長を椅子に縛って監禁し、暴行を加える事実上のクーデターを起こした。この混乱の結果、破防法で指名手配されていたさらぎは逮捕された。 翌日には報復として叛旗派中央大学学生グループが赤軍派を襲撃、塩見らを拉致し、中大学館に2週間ほど監禁した。塩見らは脱出に成功したが、この時に脱出 を図った同志社大生の望月上史が3階から転落し、数週間後に死亡するという新左翼運動初の内ゲバによる死者を出し、ここで分裂が決定的なものとなった。こ れを受けて1969年8月、共産同執行部は赤軍派幹部を除名した。 なお、後の連合赤軍最高幹部で当時赤軍派メンバーであった森恒夫は7月6日の襲撃を前に敵前逃亡しており、その後しばらく赤軍派に姿を見せなくなった。 1969年9月2日、塩見孝也ら30名のメンバーにより神奈川県・城ヶ島で「赤軍派」を結成。9月3日、関東学院大学金沢キャンパスに集結。9月4日に葛 飾公会堂で初の決起大会を開いた。9月5日の日比谷野外音楽堂で開催された、全国全共闘結成集会に「蜂起貫徹、戦争勝利」のときの声とともに公然と大衆の 前に姿を現し、「秋の前段階蜂起」、「世界革命戦争」、「世界赤軍建設と革命戦争」などを主張した[1]。 国内武装闘争の開始 赤軍派の主要理論は、日本における革命により、世界革命の司令部としての党と軍隊を形成し、「世界革命の最高司令部である革命日本」と、革命の敵の総本山 である帝国アメリカとの間で、「環太平洋革命戦争」を遂行するというもので、石原莞爾の「世界最終戦論」をマルクス主義化したような思想となった[2]。 その実現のためにPBM作戦が練られた。 1969年9月21日、22日、京都大学の封鎖解除に抵抗して立てこもった全共闘に呼応し、同大学周辺で火炎瓶によるゲリラ戦を展開。合わせて大阪府内で 交番3カ所火炎瓶を投げ込む(大阪戦争)などの街頭活動を開始し、同年9月30日には日大奪還闘争に呼応して本富士警察署に火炎瓶を投げ込んだ(東京戦 争)[3]。続いて官公庁や首相官邸襲撃を行う予定であったが大菩薩峠での訓練を急襲され未遂に終わる。また、1970年2月22日の千葉県市原市辰巳台 郵便局を皮切りに7件の「M作戦」を実行し始めていた。 |
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大菩薩峠事件による大打撃からよど号ハイジャック事件へ 上記のように、革命に先行する武装蜂起と一時的な政権掌握という「赤軍版二・二六事件」とも形容出来る「前段階武装蜂起」の理論に基づく大菩薩峠方面での 軍事訓練を警察に察知され、予定されていた「第三中隊」「第七中隊」その他の決起部隊が一網打尽となる(大菩薩峠事件)。逮捕劇の舞台となった「福ちゃん 荘」はハイカーに人気の大菩薩嶺の登山道の分岐にあり便もよく、後に皇太子(現:今上天皇陛下)が利用するなど比較的知られた山荘であり、基地として不適 なため詰めの甘い選定であった。 大菩薩峠事件の後、国内での非合法闘争の後方基地としての海外のベースが必要であるとする海外亡命抗戦論とでも言うべき「国際根拠地論」が登場し、「B作 戦」の一環として田宮高麿のグループ(後のよど号グループ)は1970年によど号ハイジャック事件を起こす。北朝鮮へ向かったのは北朝鮮を支持していたわ けではなく、単に「敵の敵の味方」であり「最寄の反米国家」、「指導者をオルグすべき労働者国家」だったからにすぎないといわれる。一連の事件により、結 成以来の議長の塩見孝也、上野勝輝、花園紀夫(早大)、高原浩之(京大)ら赤軍派幹部は一網打尽となり、組織は壊滅に近い状態になった。この後も、200 名を越えるメンバーやシンパが微罪逮捕で検挙され「赤軍罪」という言葉まで生まれた。 |
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日本赤軍の誕生 詳細は「日本赤軍」を参照 やはり国際根拠地論に基づき、1971年にパレスチナに向かった重信房子のグループは、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)への義勇兵として1972年の テルアビブ空港乱射事件(ロッド空港事件、リッダ闘争)に参加し、以後は赤軍派アラブ委員会(アラブ赤軍)等と称し、1974年に日本赤軍と称するように なった。 国内獄外グループによる連合赤軍結成 詳細は「連合赤軍」を参照 一方、国内に残った赤軍派の獄外メンバーは、それまでの指導部がすべて獄中にあるため独自の動きが困難になっていたが、大菩薩峠事件以降の大量逮捕などの 事情から塩見の呼びかけで復帰して「M作戦」(活動資金獲得のための金融機関襲撃)の指揮をとっていた中堅の森恒夫が獄外メンバーの指導的地位を掌握す る。 1970年末、森を獄外最高指導者とする赤軍派は日本共産党(革命左派)神奈川県委員会との提携を始めた。赤軍派と革命左派は本来、基本的にイデオロギー 上にかなり違いがあり、革命左派は「銃のみが政権を生み出す」をスローガンに武装闘争を行っていた毛沢東主義の小党派であった。当初は、革命左派が以前に 武器奪取を目的とした上赤塚交番襲撃事件で射殺された柴野春彦の追悼集会を合同で開いたり、革命左派が真岡銃砲店襲撃事件で強奪した武器を赤軍派に「援 助」し、赤軍派がM作戦で得た資金を革命左派に「援助」するといった、あくまで別の組織としての提携活動であった。1971年7月、両党派の軍事部門を統 合した「連合赤軍」を結成、同年12月、遂に両組織主流派幹部は統合し、連合赤軍中央委員会を名のった。 前身が共に追われる身の武闘派から成る連合赤軍は、活動拠点を山中のキャンプに移していった。しかし、12人の同志を殺害する山岳ベース事件で組織が弱体 化し、あさま山荘事件(1972年)で抵抗を試みるも、主力部隊は逮捕され壊滅した。なお、キャンプに参加しなかった者や獄中に在った者の一部は国外に逃 れ、日本赤軍に参加する。 国内再建グループの分裂 連合赤軍の解体以後、事態の総括をめぐって赤軍派の内部で激しい論争が生じ、赤軍派はいくつかの党派へと分裂する。主流となったのは獄中にあった塩見孝也 らを中心とする共産主義者同盟赤軍派(プロレタリア革命派)である。同派は塩見の独善的な組織運営などに反発する島根大学のグループが主導権を掌握し、寄 せ場などでの労働運動に力を入れ活動を行っていたが、1990年代に入り活動が停滞し、自然消滅した。かつてのメンバーは現在でも山谷でNPOを結成して 活動しているとされる。 |
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