サモアにおけるミード
Margaret Mead in American Samoa*
1901.12.16 ミード、ペンシルバニア州フィラデルフィアに生まれる。
1920 秋 デ・ポウ大学からバーナード・カレッジに転学
1922-23 バーナード・カレッジ最終学年にボアズ(ベネディクト助手)の人類学の授業 を受講する。
1923.03.20 ミード、ボアズに博士課程に進学について相談する。
1923.09.13 ルーサー・クレスマンと結婚
1924.08.06-13 トロントでの英国科学進歩協会の92回大会で「ポリネシアにお ける位階」について発表。エドワード・サピアと出会う。
1925.04.30 国立研究会議(National Reserach Council)より1925-1926の奨学生(National Research Fellowship in the in the Biological Science)に合格。
1925.05.08 コロンビア大学の博士号試験に合格(学位授与は1929年)
1925.05.12 ボアズ、ミードの国立研究会議の奨学生としてのサモアの調査における 指導教官として同意する。
1925.05.21 ミード、ハワイのビショップ博物館の民族学の研究員 (associate)となる。
1925.08.01 国立研究会議奨学生の給付がはじまる。
1925.08.11 マトソニア号でハワイ・ホノルルに到着。
1925.08 ビショップ博物館上級民族学者エドワード・クレイグヒル・ハンディ(『マル ケサス諸島の先住民文化』の著者)によるレクチャーを受ける。
1925.08.24 太平洋蒸気船会社のソノマ号でホノルルを発つ。
1925.08.25 ツツイラ島パゴパゴ港に到着
1925.10.11 ミード、ボアズに手紙を書き、タウ島でのフィールドワークを決定 したことを伝える。
1925.10.19-29 ツツイラ島南西のヴァイトギ(Vitogi)に滞在。
1925.11.09 ホルト夫人とタウ島に移動。ミードは、これ以降アメリカ海軍派出 所(U.S.Naval Dispensary)でホルト家に寄寓する。
1925.12.23 ニューヨークでは、ミードを、アメリカ自然史博物館の民族学キュ レータ助手(assistant curator)に任命することが決定する。
1926.01.01 タウ島にハリケーン到来、被害甚大。
1926.02.18 ビショップ博物館より探検隊がタウ島に到着。ミードは、探検隊の メンバーとともに、フィティウタ村を訪問、10日間民族学調査をおこなう。
1926.03.08-18 フィティウタ出身のファアプアとフォフォアの2名の女性とともに、ビショップ博物館のための民族学調査をオフ島なrびにオロセガ島でおこなう。
1926.03.13 オフ島で、ファアプアとフォフォアはサモアの少女が性的に放逸で あるという「冗談」で、ミードをかつぐ。
1926.03.14 オフ島からミードはボアズに調査報告をおこなう。
1926.03.19 タウ島から帰りボアズへの手紙の中で、予定より1ヶ月早く調査が 終わったことを報告。
1926.04.16 ミードは、タウ島のファエアサオ、ルーマ、スィファガの3村での 思春期の少女の調査を完成させることなく、タウ島を離れツツイラ島パゴパゴに帰還。
1926.04.19 ヴァイトギ村を再訪する。
1926.05.10 ソノマ号にてパゴパゴを出港し、シドニーへ向かう。
1926.05.19 チトラル(S.S.Chitral)号にてシドニーからマルセイユに 向かう。
1926.06.25 マルセイユ到着、9月下旬までフランスと英国に滞在。ベネディクトと 共にローマでの第22回アメリカニスト会議に出席(1926.09.23-30)。
1926.11.11 ベネディクトとミード、ニューヨークに帰還。
■ 参考文献
この年表をつくるのに参照した文献は以下のものです。もし、論文作成や授業資料作成などでこ のページを参照される際には、必ずオリジナル文献を参照してください。このページの著者は、他人が引用される際には、内容保証しませんので、ご注意くださ い。
ミード、マーガレット『女として人類学者として』和智やす子訳、平凡社、1975年
Freeman, Derek. 1999. The Fateful Hoaxing of Margaret Mead: A historical analysis of her Samoan Research. Bouder, Co: Westview.