Colonial history of Afghanistan
《アフガニスタン前史》:「サーサーン朝の支配下にあったヘ ラートとザランジには、7世紀半ばにイスラム教徒がイスラム教をもたらし、9世紀から12世紀にかけて、サッファール朝、サマニー朝、ガズナ朝、ゴール朝 の時代に本格的なイスラム化が進んだ[7]。その後、クワーラズミアン朝、ハルジー朝、ティムール朝、ローディー朝、スール朝、ムガル帝国、サファヴィー 朝などに支配された地域もある。現代のアフガニスタンの政治史は、1709年にアフガニスタン南部の独立を宣言したミルワイス・ホタックを始祖とするホー タキー朝に始まる。1747年、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがカンダハールに首都を置くドゥッラーニー帝国を建国した。1776年、ドゥラーニー帝 国の首都はカブールに移され、ペシャーワルが冬の首都となった[8]が、1823年、ペシャワールはシーク教徒に奪われた。19世紀後半、アフガニスタン はイギリス帝国とロシア帝国の「グレート・ゲーム」の緩衝国となった」ウィキペディア「アフガニスタン」)※このページの情報のほとんどは「ウィキペディア」によるものである。
「グレート・ゲーム(The Great Game)
とは、中央アジアの覇権を巡るイギリス帝国とロシア帝国の敵対関係・戦略的抗争を
指す、中央アジアをめぐる情報戦をチェスになぞらえてつけられた名称[1]。イギリス東インド会社の一員であったアーサー・コノリー(Arthur Conolly)
が1840年にヘンリー・ローリンソン少佐にあてた手紙の中ではじめて命名したといわれる。後に『ジャングル・ブック』で知られるイギリスの作家ラドヤー
ド・キップリングの小説『少年キム(Kim)』(1901年)により広く使われるようになり、なかば歴史
用語として定着」
1839-1842 第一次アングロ・アフガン戦争では、インド から来たイギリス軍がアフガニスタンを制圧したが、その後大敗
1919 第三次アングロ・アフガン戦争の後、アフガニスタンは外国の影響から独立することができた。アマーヌッラー・ハーン(1892-1960)のもとでの君主制(1919- 1929)
1929
「イギリスは、タジク人の反乱指導者ハビー ブッラー・カラカーニーに資金と武器を手渡してアマーヌッラーの打倒に乗り出した。ハビーブッラー・カラカーニーの部隊がカーブルを占領すると、 1929年1月14日、兄のイナーヤトゥッラーに王位を譲り、イタリアに亡命」。「1929年1月14日、反乱に敗れた弟アマーヌッラー・ハーンから権力 をイナーヤトゥッラーに委譲されたが、1月16日に退位し、1月18日に反乱軍によって捕らえられた。その後イギリスの外交官と共に追放され、イランのテ ヘランで余生を過ごした」。
1933 ザーヒル・シャーが即位。
1969 Frederik Barth が『民族諸集団と諸境界:文化的差異の社会組織』"Ethnic Groups and Boundaries: The social organization of cultural differences." Bostton: Little Brown, 1969. を編集する
1973 ザーヒル・シャー(1914-2007)が倒され、共
和制が確立。
ザーヒル・シャーは「1973年7月18日から病気療養のた めにイタリアのローマに滞在している最中、ダーウード元首相によるクーデターが発生、8月24日に廃位となり、そのまま帰国することなくイタリアに亡命」
1978 2度目のクーデターにより、アフガニスタンは初めて社会主義国家として出発する(アフガニスタン人民民主党)
1979-1989 アフガニスタン紛争(Soviet–Afghan War)ソ連側の戦死者、14,000人、アフガンはその倍の死者を出したといわれる。
1979年にソビエトはムジャーヒディーンの人民民主党に対する蜂起に出兵、軍事介入をする。米国中央情報局(CIA)やチャールズ・ウィルソンらは、ムジャーヒディーンに極秘の武器供給などを開始。
パレスチナの宗教学者アブドラー・アッザーム(Abdullah Yusuf Azzam, 1941-1989)はヨルダン西岸ジェニン生まれ.イスラム同胞団パレスチナ支部,1979年当時ジッダのキング・アブドゥルアジィズ大学でイスラム法 の講義をおこなっていた(オサマ・ビン・ラーディンは彼の教え子の一人).1979年ムジャヒディーンの支援をえて「ムスリムの地を異教徒の侵略者から守 る(DEFENCE OF THE MUSLIM LANDS)」という法学者見解(ファトワー)の見解を出す。スンニ派の世界聖戦は正しい学術的手続きにより(ソビエトの軍事介入に)アフガニスタンから発せられたのだ。
1980年代 はムジャーヒディーンの反乱軍とのソ連・アフガン戦争が勃発(=ソ連がアフガニスタンの社会主義政権の崩壊を防ぐために軍事介入 した)
「ムジャーヒディーン(アラビア語:
مجاهدين、mujāhidīn)は、アラビア語で「ジハードを遂行する者」を意味するムジャーヒド(アラビア語:
مجاهد、mujāhidn)の複数形。一般的には、イスラム教の大義にのっとったジハードに参加する戦士たちのことを指す。イスラム教による連携
した民兵を指すことが多い」
1994 アフガン内戦の有力な派閥の一つとしてターリバーンが登場する
1996
国の大部分がイスラム原理主義者のターリバーンに取り込ま れ、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟[注 釈 3](マスード派とドスタム派)となる。この時期、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率い るアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近した。
「1996年から2001年まで、ターリバーンはアフガニス タンのおよそ4分の3の地域で権力を持ち、シャリーア(イスラム法)の厳格 な解釈を施行していた。……ターリバーンのイデオロギーは、デオバンド派原理主義に基づく「革新的な」シャリーア・イスラム法[48]と、ターリバーンのほとんどがパシュトゥーンの部族民[49]であることから「パ シュトゥーンワーリー」と呼ばれるパシュトゥーンの社会的・文化的規範を組み合わせた過激派イスラム主義[50]を融合させたものであると言われている [51]。」
1997 第一次マザーリシャリーフの戦い(Battles of Mazar-i-Sharif , 1997-98)でターリバーンが敗北。
1998
第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利、ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発
生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された
[17]。また、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件にともなうアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したため、アメリカとの関係が緊
張化する。
1999 ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267(United Nations Security Council Resolution 1267)が採択される。
2000 ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333(United
Nations Security Council Resolution 1333)が採択される。
2001
3月2日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人 ジャーナリスト2名による自爆テロで死亡した。9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹 底抗戦姿勢を示す。9月25日、サウジアラビア、ターリバーンとの断交を決定。9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃 される。
9月11日 アメリカ同時多発テロ事件; ︎︎9.11
2001年10月2日、アメリカ同時多発テロ事件を受けてNATOがアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。10 月7日、アメリカ軍が不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これよりアフガニスタン紛争 (2001年-)が開始される。11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。2001年のアメリカの侵攻後、 彼らは権力から排除された。12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人のハーミド・カルザイを据え、 暫定政権協定の調印が実現した(ボン合意)。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。国際連合安全保障理事会決議1386 にもとづき国際治安支援部隊(ISAF)創設、カーブルの治安維持にあたる。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッ ション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。2001年12月22日、カーブルで暫定政権発 足の記念式典が挙行(アフガニスタン•イスラム共和国・新共和国)。
2002 ザーヒル・シャー(1914-2007)の帰国。
2003-2011 イラク戦争︎(2003-2011)
2004 ハーミド・カルザイ(1957- )が、大統領(〜
2014年まで)に就任。
2010-2012 アラブの春︎(2010-2012)
2014 大統領選挙でアシュラフ・ガニー大統領が就任。
2019 カルザイの再選阻止運動にもかかわらず、アシュラフ・ガニー大統領が再選。
2021
8月15日ターリバーンはアフガニスタン大統領府を占領し、アシュラフ・ガニー大統領は国外へ亡命したため、アフガニスタン・イスラム共和 国政府は事実上崩壊し、ターリバーンへ政権移譲された。アムルッラー・サーレハが暫定大統領を務めている。
タリバーンの第3代 最高指導者ハイバトゥラー・アクンザダ(1961-
) Hibatullah
Akhundzada が最高権力者と目されている。
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