はじめに よんでください

化学兵器とノーベル賞

Fritz Haber and Reseach Ethics

COデザインセンター梟さん

池田光穂

「1912年、フリッツは新たに作られたカイザー・ ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所に所長として就任した。……毒ガスの開発は、フリッツの前にヴァルター・ネルンストが担当していた。ネルンストは、 砲弾に「くしゃみ粉」を入れて発射する計画を立てたが上手くいかず、すでに開発からは撤退していた。フリッツもはじめは砲弾に催涙ガスを入れて発射させる 計画を試みたが、実現が難しかったため、ボンベから直接ガスを散布する方式に切り替えた。/フリッツは毒ガスの開発に熱心に取り組み、軍もフリッツを信頼 して毒ガスに関する全権を与えた。フリッツはアンモニア合成などの際につかみとった企業とのつながりを利用し、毒ガスの材料を確保した。さらに、物理化 学・電気化学研究所のほぼ全体を、毒ガスの研究に利用した。当時研究所にいたオットー・ハーンOtto Hahn, 1879-1968)に、毒ガスの使用はハーグ陸戦条約(Hague Conventions of 1899 and 1907)に違反するのではないかと問われたフリッツは、毒ガスを最初に使用したのはフランス軍(→「ヴィクトル・グリニャール」)だと述べ、さらに、毒ガスを使って戦争を早く終わらせることは、多くの人命を救うことにつながると語ったフリッツ・ハーバー(ウィキペディア)。

問い:

01:オットー・ハーンの問いかけに、答えたフリッツ・ハーバーの答えは正当化されるか? もうし、正当化されるのであれば、それはどのような理由からか? 正当化されないのであれば、それは、いかなる理由においてであろうか?

■このような答え方に、ジェンダー的歪みがあるという主張が、ローレンス・コールバーグによるジレンマのジェンダー差であり、それに抗したのが、キャロル・ギリガンである(→「ケアの倫理ケアのジェンダー」)。

「1918年11月に戦争は終結した。フリッツは、 毒ガス開発のかどで戦争犯罪人のリストに載せられたといううわさが流れており、国際法廷において死刑の判決が下るだろうともいわれていた。そのためフリッ ツは肉体的にも精神的にも疲れ切った状態にあった。フリッツは妻子を連れてスイスへと逃亡した。/自らの逮捕の可能性がないと分かったフリッツはドイツに帰国し、研究所の再編に取り掛かった。そのさなか、ハーバー・ボッシュ法(Haber process, Haber–Bosch process) の業績に対するノーベル化学賞受賞[1918]の知らせを聞いた。ただし当時、ドイツの科学界に対する国外からの反感は大きく、この受賞に対しても各国か らの批判があった。竹内敬人は自著の中で、1912年にノーベル化学賞を受賞した後に、毒ガス作戦の指導者を務めたフランスの化学者ヴィクトル・グリニャールの例があったことも受賞に影響を与えたとしている」フリッツ・ハーバー(ウィキペディア)。

問い:

02:ハーバーは、戦犯になる可能性がないことがわ かり、母国にもどり、研究所を再建することを決意するが、それが、最終的にはナチスの戦争のテクノロジーに対する盲目的な信仰を形作ったと言われている。 このような責任を、ハーバーは歴史的負うべきだろうか?っそれとも、一科学者は、そのようなことから免責されるだろうか?(→オルドリッジ『核先制攻撃症候群』参照)

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